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『社会運動』 296号

2004年11月15日

目次

目次

非営利セクターの新しい役割 福祉政策による労働支援とジェンダー平等
 ワーカーズ・コレクティブの意義 宮本太郎…… 2
この一枚 ワーカーズ・コレクティブにんじん設立総会……14
第17回社会経済セミナー報告 食料自給率をどうあげるか 篠原 孝……15
 生協産直の偽装はなぜ起きたのか 上林裕子……25
小泉・構造改革のオールタナティブを求めて 市民事業による循環型社会づくり
  滋賀環境生協・藤井絢子さんに聞く 終夜卓司……31
ヒバクシャを見守って58年 チェルノブイリと日本の乳癌 肥田舜太郎……39
<食>の焦点C――牛乳と日本農業 今野 聰……46
事例研究 このNPOが成功した理由A 眞 淳平……47
正義と快楽の「人間抹殺」A ハンセン病・元患者の宿泊拒否事件に見る

 日本社会の病理 葉上太郎……54
イネ戦争 遺伝子組み換えイネをめぐる企業の特許権と民衆の闘い
 メイ・ワン・ホー/リム・リ・チェン……60
ミニフォーラム――<千葉> 小林 文……65
<状況風景論>新たな協同組合設立議論、新しい働き方&ICA’95原則の意義……67
雑記帖 米倉克良……68

非営利セクターの新しい役割

福祉政策による労働支援とジェンダー平等

ワーカーズ・コレクティブの意義

 

北海道大学法学部教授

 

宮本 太郎

 今、これまでになく「福祉」が政治の争点として浮上しています。と同時に政治家がいかにこの問題について能力がないかということが次々に露呈してきており、地域を支える福祉政策は市民の力で作らざるを得ないということが明らかになってきています。生活クラブ生協を初めとして、多くの市民的イニシアティブが、地域で、介護福祉等の無償労働を束ねて事業としていく活動を展開してきました。同時にその事を通して既存の労働市場のあり方を変えていくことが目指されてきたと思います。今日の話は、こうした市民的イニシアティブの意味を、世界の福祉をめぐる動向のなかで位置づけて、その意義を考えていきたいと思います。とくにその場合、こうした市民的イニシアティブにおいては女性のコミットメントが決定的な役割を果たしてきたことから、ジェンダー平等を一つの切り口にして考えていきたいと思います。

 

1.ジェンダー平等と多様な福祉政策

 

 福祉政策のあり方で、ジェンダー平等のあり方が大きく変わってくる、このことがよく知られるようになってきました。その事実の確認に留まらず、いかなる福祉政策を展開してどのようなジェンダー平等のあり方がめざされるべきなのかということを含めて考えていきたいと思います。

その場合、ナンシー・フレイザーというアメリカの政治学者の議論が一番説得的ではないかと思うのですが、彼女は3つのジェンダー平等のあり方をあげています。1つは「両性稼得者モデル」、つまり女性が男性並みに働いて平等になっていくというあり方です。2番目には「ケア労働同等評価モデル」、すなわち主には女性が担うことを余儀なくされてきた介護や育児などのケア労働の評価を行ってその価値を上げるという形で、これまでは男の仕事、女の仕事ということでつけられていた格差を是正していこうという方向です。.フレイザーはこのどちらもが限界があり、最終的には「両性ケア労働提供者モデル」が目指されるべきであるという主張します。それは、男性も女性も就労し、その一方でこれまでのアンペイドワークを見下すのではなく、無償労働にも共に関わっていくという平等観になります。いかにこの第3のモデルに到達していくのかというフレイザーの問題意識を一つ念頭に置いておきたいと思います。そして後から、この第3のジェンダー平等にたどりつくルートとしては、今のところワーカーズ・コレクティブはもっとも有効な手段の一つなのではないかと論じていきたいと考えています。

さて、議論を展開していく前提として、福祉政策の変容とジェンダー平等の連関を考える枠組みを示しておきたいと思います。一般に「進んだ福祉、遅れた福祉」という区別をしてしまうのですが、世界の福祉国家、福祉政策のあり方は実に多様であって、特に無償労働と有償労働を、国や自治体の政策がどのように支えるかということでは、非常に多くのバリエーションがあったということに注意を促したいと思います。

いかなる福祉政策がどのようなジェンダー平等と連関するかという考察は、おそらくワーカーズ・コレクティブのような運動が国や自治体にどのような福祉政策を求めていくかということを考える材料を与えると思います。そのような材料を、世界の様々の経験から抽出したいと思います。と同時に、福祉国家、福祉政策というのは日本に限らず、どんどん大きな変化を遂げています。単に多様な福祉政策と多様なジェンダー平等の関係を考えるだけではなく、変化の中でどのようなオプションが浮上しているのかを考えてみたいと思います。 ‥‥続く

<第17回社会経済セミナー報告@

食料自給率をどう上げるか

篠原 孝

衆議院議員・民主党

●40%の食料自給率の問題

 『日本農業新聞』を見ていましたら、日本の自給率が何パーセントかを知っている人は14%しかいなかったと出ていました。日本人はこれほど食べ物には関心がないということです。私は、食料自給率を上げるという問題は生産のほうにはそれほど問題はないと思っております。すべて、ノー天気な消費形態に問題があるのです。
 食料がなくて困るのはだれか。当然ですが、圧倒的に都会の消費者なのです。それを日本人は忘れている。さすがに最近は言われなくなりましたが、10年ほど前までは「都会の税金で農村を食わしてやっている」と言っていた。都会側は物理的に何も作らないで、そんな発言は不謹慎です。
 ドイツでは自給率が高まっています。農村にお金を回してもいいと考えているからです。第二次世界大戦でさんざん困ったことをちゃんと覚えているということです。日本では、BSEだ、雪印だ、鳥インフルエンザだと、何か起こると急にみんなであれこれ騒ぐ。しかし、1年経ち、2年経つとすぐ忘れてしまう。
 まず、40%の自給率ですが、言うまでもなく先進国で最低です。他の先進国のようになぜ上げないのか。「食料・農業・農村基本計画」が2001年に作られ、2010年までに現在の40%を45%に上げると言っていましたが、農水省はこれを放棄しました。中間見直しの時期を迎えましたが、1%も上がっていない。下がっていないだけまともだが、先延ばしになっている。

 

●食料安全保障は掛け声のみ

 次に食料安全保障ですが、これも掛け声だけで、消費者もまったく関心がない。自給率40%という話を14%の人しか知らないという体たらくですから、当然です。私もGATTウルグアイラウンドで食料安全保障をさかんに言いました。WTOでは「多面的機能」と言い、農業はほかの機能もいろいろ持っていると言ってきましたが、政策にはほとんど反映されていません。
 それで突然、コメ改革が行われ、政府は、米価を国が決めて高く買い取るやり方をやめました。EUも共通農業政策を改革しましたが、価格支持制度を残しつつ価格を下げているわけで、政府がちゃんと責任を持っています。日本はそれを一足飛びにほかの作物と同じにしてしまったので、稲作農家は大混乱です。見通しも立てずにやっているだけで、改革とは言えません。
 私が農林水産政策研究所長をしていたころから、農水省は非常にパワーを持っているから、国内の改革は慎重にして、国際的にはもっと提案していくべきだと言っていましたのに、国内をめちゃくちゃにして、国際的には何も言わずに言いなりになっている。農水省がこんなことをやっているのですから、日本の食料自給などは、とても立ち行かないと思います。


●捨てた作物の潜在的農業生産力
 ここで、民主党の政策をご紹介したいと思います。私は民主党に入ってから「農業再生プラン」を作りまして、民主党が政権を取ったら10年以内に食料自給率を50%に上げると掲げています。食料自給率50%と言った理由を資料「自給率向上試算の概要」で示しております。
 品目としてあげている小麦・雑穀・大豆・飼料作物・菜種は、すべて日本が捨てた作物です。小麦などは「貧乏人は麦を食え」と言って、米国からの援助に頼り、日本では作らなくなりました。当時の池田勇人大蔵大臣が言われたことですが、その後、池田さんは総理になりまして「所得倍増」とか言いだしました。何かというと「お金、お金」と言う、歪んだ日本の風潮をつくった最初の総理ではないかと思います。
 学校給食にパン食を導入し、そば、大豆は作らなくなりました。大豆はまだ食用の半分ぐらい作っているからましですが、小麦は増やしても83万トンです。一時は40万トンを切って過去最高のときと比べて10分の1になりました。菜種はほとんど作っておりません。一時は32万トンも作っていたのです。田舎の集落にはお寺と神社は必ずありますが、そのほかに必ずあるのが精米所と油屋でした。このうち油屋は完全に消失していまい、今の油の大半は遺伝子組換えの大豆油と菜種油で作ったものです。
 こうして捨てた土地利用型作物を選びだしていくと、過去最高の生産量は潜在生産力として持っているはずなので、10%増えるわけです。関東平野以西の田圃は麦を作って米を作るという二毛作ができます。それを復活するだけでも、8%上がるはずです。また、菜種はしぶとい作物で、北海道のような所でも雪解けと同時にパッと黄色い花が咲いて実ります。したがって、菜種の収穫のあと稲作ができる。だから、菜種だと二毛作が完全にできて、30〜40年前には日本中の農村が春先は黄色で埋まったのです。田圃は全面ピンク色のレンゲが咲いて、緑肥で酪農とか畜産を振興できた。ピンク色と黄色で一杯になっていたのが、今ではまったく消えて山の緑と空の青しかありません。‥‥続く

<第17回社会経済セミナー報告A

生協産直の偽装はなぜ起きたのか

〜取材を通して考えたこと〜

フリーライター 上林 裕子

1.はじめに
 私はこの十年ほど、『コープニュース』という生協専門紙の記者として産地や生協の取材を続けてきました。世代的には生協共同購入に子育て時代を助けられてきた世代でもあります。
 仕事柄、産直産地を訪ねることも多いのですが、ずいぶん前から、「産直はこれで良いのか」という危惧を持っていました。後で述べますように、生協産直は構造的な弱点を持っています。その弱点を「顔の見える関係」、あの産地のものは信頼できるから買おう、あの組合員さんに安全でおいしいものを届けたい、という双方の思いが支えていた、と思います。生協産直が始まった当時、農薬を減らして安全なものを作ろう、と考えていた産直産地は、農協を中心とした地域の生産体制の中では少なからず異端だったと思います。
 小さな産地と小さな生協が同じ思いで結ばれて始まった生協産直。
 設立当時「すきま産業」と言われた生協が、今では流通の一角を担う大きな存在となっています。日本生協連は「第9次中期計画」で、「リージョナル連帯による規模のメリットを追求する」としていますが、巨大化する生協システムの中で産直は従来のままでよいのか、生き残る道はあるのか。生協産直の偽装事件は、こうした生協の構造変化の中で起きてきたのではないかと思っています。
 私は学者や専門家ではなく、一介の記者に過ぎませんので、自分が記者としてみてきて考えたことしかお話しできません。そういう意味では、深い話ができるわけではないことをご理解いただき、こうした見方・考え方もあるのだとお聴きいただければと考えております。

 

2.偽装事件はなぜ起こったのか
 食品偽装事件はなぜ起こったのか…最近の簡単な年表を作りましたので、参考にしていただければと思います。ここに全てが網羅されているわけではありません、少し時間が経っていますので、拾えるものを拾ってみたという、かなり主観的な年表です。
 生協にかかわる大きな事件としては96年の全酪連の水増し牛乳事件があります。これは、日本生協連の調査により、全酪連の新潟・長岡工場で2年半に渡り偽装が行われていたことがわかったものです。取引生協もみやぎ生協・市民生協にいがた・エフコープ・日本生協連など多く、影響も大きかったのですが、この時点では単発的な事例と考えられていました。
 この年は岡山で発生した病原性大腸菌O-157による食中毒が全国に拡大、社会的なパニックが起きた年でありました。また、9月には遺伝子組み換え作物7品種の輸入が認められた年でもあります。
 そして、これは食品偽装ではないのですが、99年7月に和歌山の毒カレー事件が発生、その後食品への毒物混入事件が相次ぎました。消費者心理としては、食への不安が増大された事件と言えます。そして2000年の雪印乳業の食中毒事件、大企業の信じられない偽装行為、それも日常的に行われていたことに消費者はあ然とします。‥‥続く

小泉・構造改革のオルターナティブを求めて
市民事業による循環型社会づくり
滋賀・環境生協・藤井絢子さんに聞く―
法政大学経済学部
粕谷ゼミ 3年 終夜 卓司

 私たち粕谷ゼミ生は、いま、「小泉・構造改革のオルターナティブを求めて」という大きなテーマのもとで、

@市場原理主義に基づく「小泉・構造改革」が、社会的にも環境的にも持続不可能な方向へわれわれをいかに追い立てようとしているかをみる日本経済分析班、

Aそのオルターナティブとして、市民事業による循環型社会づくり(生態系的も、社会的にも−排除されたものの共生的再包摂−)を目指す地域活性化の方策を探る班、

Bそれをさらに東及び東南アジア地域社会全体の持続可能な発展に繋げる方策を探る班、と三つの班にわけて研究・討論を重ねてきました。


 しかし、この夏休みには、ゼミ生総がかりで、Aに集中し、それらの事業を起こし、担う人々に触れ、活字や数字だけでは分からないものを自分たちの目や肌で確かめようということで、市民セクター政策機構のお世話になりながら、手分けして各地のフィールドワークを行いました(関西班:釜ケ崎、猪飼野、神戸、安土など。千葉班。山形遊佐班)。今回、その中から、環境の分野で全国に先駆けて取り組んでこられた滋賀県環境生協の理事長の藤井絢子さんにお会いし、本やインターネットでは分からなかった、循環型社会づくりへの熱い思い、地球環境問題へ本気で取り組もうとしない日本の政策決定者達への苛立ち、せっかく築きかけた循環型社会を直ぐに壊そうとする営利企業の抜け目のないやり口に対する怒りを通り越す呆れなどの苦労話を−しかし、楽しみながらやらないとやっていけないとすぐに笑顔を取り戻どされる―伺ったことを、ここに報告する機会を与えられたことに感謝したいと思います。

 私たちが、「菜の花プロジェクトはかなりの広がりを見せていますね。まずは、この菜の花プロジェクトに藤井さんが取り組むに至った背景や、活動していく中での藤井さんのお考えなどをお聞きしたいのですが」、と切り出したところ、「そのまえに…」と、開口一番、藤井さんは、何が一番問題かを、憤りと苛立ちを隠さず、つよく以下のように指摘されました。‥‥続く

ヒバクシャを見守って58年

チェルノブイリと日本の乳癌

医師 肥田 舜太郎

 昨年より各地でドキュメンタリー映画『ヒバクシャ――世界の終わりに』が上映されています。是非見ることをお薦めしたい映画の一つですが、そのメインの登場人物である肥田舜太郎医師にお話をお聞きした。肥田先生は今年87才。埼玉県民医連顧問であり、さいたま医療生協名誉理事長・相談役、被団協中央相談所理事長、埼玉被団協会長を兼務されています。

――映画『ヒバクシャ・世界の終わりに』を拝見いたしました。その中で肥田先生が指摘しておられた、日本海側地域の乳ガン増加の突出とチェルノブイリ原発事故の関連、中国核実験と乳児死亡率増加の関係を、更にお聞きしたくて、本日お伺いしました。
肥田 あれはね、鎌仲さん(映画『ヒバクシャ−世界の終わりに』の監督)が映画を撮りにやって来たときに、あの調査をやってる最中だったんです。
 厚生省の死亡率の人口動態統計の中に病名別の死亡統計があります。日本には疾病統計というのはないんです。胃ガンが何人発生したかという統計はなくて、何人死んだかの数字は発表されるんです。本当は疾病統計が欲しくて、厚生省に行ったんですけどわからないので、死亡統計を調べました。厚生省に毎日、朝早くから通いました。乳ガンだけで一週間くらいでしたか、胃ガンやその他で2月くらいかかりました。
 動機は、米国の白人系婦人の乳ガンが、1945年から1995年の50年間に2倍になっているというのを、米国政府が発表した。その時、米国の婦人達が何故増えたのかと騒ぎ出して調査要求の大運動となった。米国政府はそれに応える形で、どう増えているのかというかなり厚い報告書を出した。
 J・M・グールドという統計学者がそれを分析しました。米国には州の下に郡という行政単位が全米で確か約3070あります。彼は、各郡の50年間のガンの統計を全部コンピュータに入れて解析した。膨大な数値です。結果、増えたところが、1300郡ほど、横這いもしくは下がったところが1700だった。増えた郡の方が少なかったけれど、増えた郡の増加率が高いところは4倍から6倍となっていたので全体としては倍となった。

■米国では原発の周辺で乳癌増加
 グールドは、増加した郡の共通項は何であるのかを調べた。いろいろな因子をふるいに掛けてね。その最後に残ったのが原子炉の有無だった。原子炉から100マイル以内に入っている郡でガンが増加していた。あとの1700郡は100マイル外にある。彼は政府の統計は操作してあり、真実を伝えてないと、厚い本を出しました。
 米国政府によるガン増加の理由の発表は、化学産業とか薬品工業とか大気汚染や水の汚染がやむを得ず進んだ影響による結果であるとしていた。グールドはそれはまったくのウソであると言ったんです。自分の調べたところでは、石油産業、薬品工業の集中しているところでは全然高くなっていない。無関係である。唯一関係しているのが原子炉のあるところの放射線の影響である、と断定しています。たまたま私が手に入れて翻訳いたしました。
 それで日本ではどうなっているのかを調査しに行ったのが、厚生省に乳ガン統計を取りに行った理由なんです。

――先生の訳された『死にすぎた赤ん坊』というご本ですか?
肥田 違います。それはスターングラスの書いた低線量による体内被曝の影響に関する本です。サバンナリバーという原爆工場の爆発による影響について、危険であると言いだした最初の人で、周辺地域の妊婦の避難を提唱した学者です。この種の放射線被害の危険性指摘を米国で初めて行った人ですね。乳癌統計を扱ったグールドの本は、300頁の厚い本で一般書店で売れるようなものではありません。1998年に原本が出版され、2001年に私が訳したのを少しだけコピーして70〜80部お分けしているだけです。

――300頁を先生がお一人で訳されたんですか。
肥田 私みたいな英語が達者でないのが、一人で訳したんです。大変勉強になりましたがね。
 私は広島で被爆して、自分は助かったんですけど、医者だったために被爆者を治療したわけです。私が居たのは戸坂(へさか)村という爆心地から6キロ離れた村でした。そこへみんな逃げてきていた。治療と言っても死んでいくのを看取っただけで、もうほとんど何もすることができなかったんですが、その時非常に不思議なことが起こったんです。
 ピカドンと言いますけど、原爆のあの光ったのを多くの人がまともに浴びて、大やけどして、大怪我して死んでいったのですけど、火傷と怪我のある人もない人も、3、4日して急性の放射能症で死ぬ人が出てきました。こういう症状を今まで見たことがなかった。それが大量に出てきてびっくりしました。何十人何百人と同じような症状が出てきますから、一つの病気の「型」というのが何となく判るわけです。高い熱が出て、出血して、扁桃腺と口の中が壊死を起こして腐っていく。それで紫斑が火傷のないところに出てくる。最後に頭の毛がみんな抜けていく。
 それを原爆病と当時名付けた。こういう症状を診たのは日本の医者が初めてでしょう。
 そういう中で不思議だったのは、全然火傷していない、怪我のない人に、同じ症状が出始めて死んでいった。一週間経ってから広島に入った人とか、原爆にあってない人も同じ死に方をする。すごく不思議でね。一緒にいた軍医達が、伝染病を疑って、亡くなった方の解剖までしました。伝染病ではないことは判ったが何故死ぬのかは判らなかった。
 その内に落とされたのは原爆だったというのが、呉の海軍部隊から伝えられた。原爆だったら放射能が出るというのはなんとなく聞いているわけです。放射能で人間がどうなるのかというのは、誰も知らない。教科書に書いてない。
 直接ピカに会わなかった人にも、同じ症状が出ると言うことの理屈が判ったのは、戦後30年経って『死にすぎた赤ん坊』の翻訳をやって、私は初めて判った。30年間、日本の誰にも私は解らなかったんです。

■放置された被爆者
 被爆者は日本の政府が、被爆後13年目に被爆者健康手帳というものを発行して、被爆者であることを認めるまでの13年間というのは、まったく放置されていた。

――被爆者手帳が発行されたのは戦後直ぐではなかったんですね。
肥田 昭和32年ですね。正味12年間放置されていました。最初の3、4年間は飢え死にした人がずいぶん居ました。配給手帳が貰えない。皆家族が死んじゃって、一人になった子どもなんかは、手帳の出たことも知らないで、飢え死にしました。私はそういうひと達の世話もしたんです。当時は被爆者の世話をすると、MP(ミリタリーポリス)が来て、占領軍に連れて行かれました。占領軍は被爆者の存在が一番困ったものだったんですね。原爆の証拠を持っているから。アメリカは原爆の被害を隠したかったんです。そういう頃を通じて私は被爆者を見てきたんです。
 東京にも被爆者は帰ってきていました。ところが東京に帰ってもみんな飯食えないわけです。東京に日当240円の失業対策事業があってニコヨンと呼ばれていました。そういうのをやってかろうじて生きていたんです。そういう人は、お医者さんにはお金がなくてかかれない。たまに診て貰っても、原爆症の判る医者なんていませんから、火傷も何にもないひとは、悪いところはないと放り出されるわけです。当時の主要な症状はだるいことでした。かったるくて動けないと言うことです。
 広島から戻った医者があると言うことを聞いて、僕のところに来るわけです。皆さん受付では被爆者ということを言わずに隠すんですね。被爆者と判ると、GHQにかまわれるから。広島に米国のABCC(The Atomic Bomb Casualty Commission=原爆傷害調査委員会)というのができたときに、みんなそこに連れてかれて、血液などを取られて検査されるわけですが、治療は一切して貰えない。みんなそれに懲りて行かなくなるんですね。そうするとジープで迎えに来る。3カ月に一回血を採られる。アメリカにとっ捕まるのがいやなんですね。またモルモットにされると思って、被爆者であることを東京に来ても名乗らない。
 やっと僕の前に来て、実はとうち明ける。そう言った状態でした。僕が診ても病気は判らないですね。全然、何の病気だか。
 日本の今の医者は皆そうですが、患者を診て、検査をして病名を決めるんですね。これは胃が悪いとかね。心臓だとか肺炎だとか。病名が決まれば治療方針が教科書に書いてあるから、まあ概ね何をするかが決まるわけです。病名が判らない間は手も足も出ないんです。例えば熱の高い患者を診ても、何の熱だか判らないときは、うっかり解熱剤を使ってはいけないと言うことになっていますから。治療できないんです。
 そういう医学を身につけている医者が、原爆病を診るとまったく判らない、思いつく病名がないんです。全然。教科書にある症状に合わない。
 そんなことでいつの間にか私の廻りに被爆者が沢山集まってきていました。被爆者は共通してかったるくて働けないというのが主症状だというのが頭にこびりついてきました。

■国連シンポでスターングラス博士と
 ちょうど被爆30周年の1975年に原水協(原水爆禁止日本協議会)の人に国連に一緒に連れていって貰った。核実験禁止の請願署名を集めて持っていった。
 僕たちの要求は、世界中の放射線に明るい学者を日本に集めて、被爆者の治療法を一日も早く見つけて欲しい。それを国連に援助して貰いたい、と言うことだった。日本政府は原爆の被爆者にまったく何もしない。米国の核で守って貰っている。その核兵器についてとやかく言えない。それが日本政府の基本姿勢ですから。
 ところが国連の事務総長(当時、ウタント氏)は、その要求は受けられないという。理由は当時から7年前、1968年にアメリカ政府と日本政府の連名で国連に、「広島、長崎の原子爆弾の被害について」という報告書が国連に出ています。原爆投下から23年目にしてはじめて公式に出した報告です。死者が何人とかね。その時の公式報告書には、報告したその年には「広島・長崎に生存している被爆者には病人は一人もいない、死ぬべきものは皆死んだ」と報告していた。死者数は5万数千人と書いてある。後で調べたら、原爆投下の年の11月に広島の警察が、死亡者数を5万数千人と報告している。

――広島、長崎あわせて5万数千人ですか?
肥田 いえ広島だけの数字のはずです。この報告書が現在見つからないんですよ。国連にはあるはずなんですが。
 1945年の9月確か8日だったと思うんですが、ファーレル准将というマンハッタン計画の副部長が日本に来て外人記者を集めて、広島、長崎に行く前に、生存被爆者に病人は一人も居ない、現時点で死ぬべきものは皆死んだと、もうその時に言ってるんです。それを改めて、23年経ってもういっぺん国連に出した。
 さんざん談判して、その報告は事実と違うと言ったら、事務総長はあなたがいくら言っても国連は日本政府の言うことは受け付けても、個人の意見は聞けない、と言う。でもそのまま帰らずにがんばっていたら軍縮局長が出てきて、割と分かりが良くて、それではあなた方の主張が正しいことを国連に証明するために1年間かけて証拠を集めてくれ、たくさんの患者、病人がいると言うこと、治療法が分からないと言うこと、米国の調査資料は貰えているのか等々。それが事実とすれば、あなたの主張するシンポジウムを開くと約束したのです。
 帰ってから1年間資料を集め、その翌年(1976年)、約束通り持って行った。それで約束通り1977年にシンポジウムを開いた。これではじめて世界に正確な報告がされたわけです。‥‥続く

<食>の焦点C

牛乳と日本農業

(財)協同組合経営研究所元研究員

今野 聰

1、生乳と牛乳
 1975年から2年間、「農協牛乳」の現場で働いた。早朝宅配牛乳が紙パックに食われていく時期だった。スーパー目玉商品と生協「牛乳」運動がぶつかった時期だ。この頃、生活クラブは自主管理生乳処理工場を準備していたのだから、驚くべき先駆性だった。
 それから20年後。1996年春、日本農業新聞記者として、全酪連工場の水増し牛乳事件に出合った。今にして800万トン生乳生産を巡る乳業メーカー各社の覇権競争だった。
 その頂点が、2000年6月末、雪印牛乳事件だった。スノーブランドが地に落ちた。翌年9月のBSE牛発見(牛海綿状脳症、乳牛オス肥育牛)が重なる。2002年正月開け、突如雪印食品事件が起きた。再建途上の雪印乳業が解体的出直しとなった。その経過は、最近刊『雪印100株運動〜起業の原点・起業の責任』(創森社、2004.8.5)に詳しい。山崎洋子氏らの「田舎のヒロインわくわくネットワーク」が編集した。雪印再建と女性の関わりが主だが、初乳、生乳、牛乳(市乳)への変化過程が興味深い。ついでにボトル入り水との価格比較だ。


2、いわゆる「おいしい牛乳」
‥‥続く

事例研究

このNPOが成功した理由・2@

〜トレーニング、モチベーション、マーケティング〜

眞 淳平(エコ・パブリッシング)

 294号に続き本号でも、価値ある活動を続け、組織の経営という点でも成功している3つのNPO(2団体はNPO法人、1団体は法人格の取得を検討中)を取り上げてみたい。これらの団体は、医療及び人権保護、環境保護、福祉と、活動分野も様々であるが、代表が優れたリーダーシップを発揮し、スタッフやボランティアのやる気とスキルを高めてきた点では大きな共通点がある。

代表が重要なカギとなるNPOの経営

 今回、取材した3団体は、活動分野、あるいは内部体制、活動資金源といった多くの要素で、非常に異なる特徴があった。しかしながら、期せずして、高いリーダーシップを持つ献身的な女性代表が存在し、ボランティアやスタッフのモチベーションを高め、スキルを向上させるためのトレーニングや話し合いに注力している点では、驚くほどの類似点も見られた。
 例えば、エイズ患者・HIV感染者のサポートや一般の人々への啓発活動を続ける「HIVと人権・情報センター」では、全国規模の事業を継続するため、ボランティアに活動の意義を伝え、活動の質・量を維持・向上させようと、代表が日々、全国8カ所の支部を巡回し、ボランティア関連のセミナー等を開催している。
 全国約300カ所で海岸清掃及び調査を行っている「クリーンアップ全国事務局」でも同様に、全国の運営団体に運営ノウハウを提供し、持続的なクリーンアップ活動が行われるように、代表が恒常的とも言えるほど各地を廻っている。
 また、障害者雇用のためのお菓子屋やレストラン、あるいはグループホーム等を運営する「ぱれっと」は、専門的な技能と経営感覚が必要とされる分野だけに、代表が意欲と能力のあるスタッフをトレーニングし、責任ある立場に抜擢していくという、非常に効果的な人的資源開発の手法を取っていた。
 ドラッカーによれば、無給のスタッフとしてのボランティアを組織にとどまらせるものは、第一に明確な使命であり、第二に訓練、第三に責任であるという。これは、有給の職員であっても同様であり、長期的に意義ある活動を続け、成長していく組織には不可欠の要素である。そして、こうした課題を実現するために重要なのが、代表の「効果的で強力かつ指導的な組織統治」(ドラッカー)だといえるだろう。
 代表が他のスタッフと同様の仕事しかせず、組織の方向性がまとまらない。あるいは、代表は団体のビジョンを語るだけで、スタッフがその実現のために右往左往させられている。こうした、代表に関する問題を抱えるNPOのケースも散見されるが、組織のトップとしての明確な認識を持つ代表の存在は、組織の存続と発展にとってまさに最大のカギでもあるのである。
‥‥続く

このNPOが成功した理由・2A 眞 淳平

トレーニングされたボランティアの力を最大限に活用
【保健、医療又は福祉の増進、人権の擁護、子どもの健全育成】

NPO法人 HIVと人権・情報センター(JHC)
(東京、名古屋、大阪等全国8カ所)

エイズに大きな偏見のあった1988年、患者や感染者をサポートしようと、活動を開始。途中では、活動の中心的役割を担っていた若者が、駅のホームから突き落とされるという大事件も起こるなど、道は決して平坦ではなかった。しかし、徐々に社会の偏見を変えていく流れを作り出し、NPO法人として行政のパートナーにまでなっていった。その背景には、ボランティアの強い支援の力があった。その伝統は、今でも続き、ボランティアが多くの活動の重要な源泉となっている。

患者・感染者の支援、啓発など広範に活動
 1981年の最初の感染者報告以来23年。エイズ患者やHIV感染者たちは、ウィルスだけでなく、社会の様々な偏見とも闘うことを余儀なくされてきた。こうした状況下で1988年、日本で初めて、患者に対するケアとカウンセリングを目的に大阪で発足したのが、「HIVと人権・情報センター(JHC)」である。国内でエイズに対して多くの偏見があった時期から活動を始め、患者・感染者の支援や市民に対する啓発活動を継続してきた。その過程で、活動を全国規模に拡大していった。
 JHCの代表的な活動は、以下である。
・(感染者その他の相談者からの)電話相談 
・患者・感染者へのケアサポートやカウンセリング、 栄養・福祉相談、バディ(話し相手)などの直接的な支援活動
・エイズ・HIVに関する調査・研究
・行政への働きかけ
・市民に対する啓発活動
・VCTサービス(プレ・ポストカウンセリングを通じた自主的迅速HIV抗体検査)
 2003年度における活動では、電話相談20,430件、ケア・カウンセリング等2,570件、啓発活動としての講演・外部研修262回(参加者32,558名以上)という大きな実績を残している。外部研修の中には、JHCが現在、注力するヤング・フォー・ヤング・シェアリング・プログラム(YYSP)と呼ばれる、若いスタッフによる若者に対する啓発活動も含まれ、同年度87回行われて、11,088名の参加者を集めている。
 また、1989年から東京・大阪で始まった薬害HIV訴訟においては、原告団の支援をし、厚生省(当時)に複数回に亘って要望書を提出したり、厚生大臣との会見を実現するなど、司法・行政に対する働き掛けも継続して行っている。現在も、エイズ関連のフォーラムや学会で精力的な出展や研究報告を行い、行政関係者や研究者への情報提供・啓発活動を続けている。
‥‥続く

このNPOが成功した理由・2B 眞 淳平

全国の“キャプテン”を廻ってノウハウを伝え、連帯感を醸成する

【環境保護】
クリーンアップ全国事務局(JEAN)
(東京都国分寺市)

 たった2人の常勤スタッフが全国300カ所以上の海岸クリーンアップをコーディネートして、報告書を発行し、積極的な広報活動・情報発信を行う。この困難な仕事を長期に亘って継続するため、選択したのが、自立した地域団体を育て上げるためのフランチャイズ方式であった。その実現のために代表は、日本中の団体を廻ることで多くの日々を過ごすという、大きな負荷も受け入れている。

海岸のゴミを収集し、分類・記録する
 「ガラス片が35個」「針金が47個です」「フタが39個ありました」……
 ゴミを囲んで車座になった小グループの参加者から、次々と声が上がる。中の一人が、記録用紙に数字を「正」の字で記入していく。
 これは、9月23日(秋分の日)に行われた国際海岸クリーンアップ2004鵠沼会場の1シーンである。当日は、晴天の中、子供たちを含めた約400名の参加者が集まり、海岸に散乱するゴミを拾い集める姿がそこここで見られた。
 国際海岸クリーンアップは、もともと1986年にアメリカで始まった運動であり、2002年9、10月のキャンペーン活動には、100カ国39万人強の人々が参加している。日本では2003年の実績で、302会場、約25,000人がクリーンアップを行った。その特徴は、ゴミを拾い集めるのと同時に、ゴミを分類し、地域ごとの問題点や世界的な傾向を調査していることである。
 この理由を、日本全国の国際海岸クリーンアップをコーディネートする「クリーンアップ全国事務局(JEAN)」の小島あずささんは、
「ボランティアでゴミを拾う力には限界がある。けれども、ゴミを分析し、汚染の原因が突き止められれば、汚染の発生を防ぐために様々な手だてを考えることもできるのです」と語る。
 そのため、クリーンアップでは、参加者を10名前後の小グループに分け、それぞれにゴミのデータカードを渡して、記入してもらう方法を取っている。データカードには、ガラスや陶器の破片、発泡スチロール破片(小)(大)、飲料用ガラスびんといったような63品目が書かれ、その数を記入していく。また、ゴミが原因で死亡/衰弱/負傷したと思われる野生生物や、海外からの漂着物を見つけた場合には、別個にそれらを記録する。このようなクリーンアップを集中して行うキャンペーン期間は、春・秋と年に2回あり、集まったゴミの分析情報は、1年ごとにJEANが「クリーンアップキャンペーン・レポート」にまとめて公開している。さらにJEANは、アメリカのNPO、オーシャン・コンサーバンシー(OC)にデータを送付し、そこで世界的なデータ集積が行われてもいる。 
‥‥続く

このNPOが成功した理由・2C 眞 淳平

障害者と職員がマーケティング努力でクッキーを売る
【福祉】
NPO法人 ぱれっと
(東京都渋谷区)

 自分たちの技能を活かして、仕事を楽しみながら賃金を稼ぎ出す。障害者がよりよい給料を得られる可能性を信じた創設者。彼女が選んだのは、お菓子屋だった。最初の商品はたった3種類。職員と障害者であるスタッフたちが試行錯誤を繰り返しながら店を切り盛りし続けた結果、創業から約20年後の現在、商品アイテム15種類、年商2000万円近くという堂々たるお菓子屋に成長していた。

障害者9名と職員2名でお菓子屋を運営
 障害者にとって、仕事から自分の生活を支えられるだけの収入を得ることは、難しいことでもある。「ぱれっと」の創設者、谷口奈保子さんはこうした現状に風穴を開けたいと、様々な仕組み作りを模索してきた。その大きな試みの一つが、福祉作業所おかし屋ぱれっとである。
 おかし屋ぱれっとのスタッフは、障害者9名、NPO法人ぱれっとの職員2名の合計11名。午前9時から午後5時までが勤務時間である。お中元やお歳暮、秋のバザーの前後は、特に忙しく、7時くらいまで残業をしなければならないこともある。その時には、残業手当が出る。
 訪れた時、厨房には10名ほどのスタッフが総出で働いていた。クッキーに入れるレーズンを、一粒ずつカットする人。クッキーの生地を鉄板に置き、さらしの布で押さえていく人。クッキーをオーブンに入れる人。できたクッキーを袋に詰めていく人もいる。その際に、商品のクッキーが欠けていないか、大きさや焼け具合はどうかといったチェックもする。甘いにおいの中、スタッフが黙々と作業を進めている。
 厨房とガラス窓で隔てられた店舗には、たくさんのクッキーがカゴに入れて飾られ、顧客の購買意欲をそそる。関連団体のスリランカぱれっとで作られた、パッケージ入りのクッキーも、隣にそっと置かれている。取材したのが午前中の開店直後だったためもあるだろうが、そこでは穏やかで静かな時間が流れていた。
‥‥続く

正義と快楽の「人間抹殺」(2)

暗闇からの礫

ハンセン病・元患者の宿泊拒否事件に見る日本社会の病理

地方自治ジャーナリスト・

葉上 太郎

『汚い。人前に出るな』
『人間と同じ行動をとるからホテルに迷惑かけやがったんだ』
『豚の糞以下』
『化け物』
 異様な文章の群れが目の前にある。
 ホテルの宿泊拒否事件以降、ハンセン病の療養者達に送りつけられた文言である。
 人間が人間に対して吐く言葉は、ここまで汚くなれるものだろうか。
 続けざまに読むと、胸が悪くなりそうだ。
「言葉の汚物」
 私がそう表現すると、国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」の太田明・自治会長(60)にたしなめられた。
「品位にかかわるような言葉は、あんまりつかわん方がよかばい」
 確かにそうかもしれない。汚い言葉に、同じレベルの言葉で返せば、収拾はつかなくなる。なにより理性が失われる。だが、そうとでも言わなければ、他に形容することのできない言葉が目の前にある。
 菊池恵楓園は、熊本県合志町にある全国最大のハンセン病療養施設だ。療養所とは言うものの、実はほとんどの「療養者」がとうの昔に完治している。しかし、社会の偏見のために約550人もの入所者が、「外」に出られないでいる。そうした入所者のために、少しでも故郷の雰囲気を味わってもらおう、そして県が過去に行った「患者狩り」とでも言える強制収容の贖罪をしよう、と熊本県が行っている「ふるさと訪問」事業で、ホテルが宿泊拒否をするという差別事件が発生したことは、前回書き記した通りだ。
 偏見が強くて故郷に帰れない。
 園の外に出ることもはばかられる。
 そのために、500人以上の人が息をひそめるようにして暮らしている。
 このようなことが、現代の社会にあるということ自体、驚くべき事実である。
「そんなのは過去のことじゃないの。もう、時代も変わったのだし、思い切って外に出てくれば、誰も偏見なんか持たないよ」
 こんな声をよく聞く。
 一面ではそうかもしれない。だが、そうとばかりはいかないことを、今回のホテルの宿泊拒否事件は如実に物語っている。
 それは、現代においてすら、我々の心の中には、偏見という怪物が棲んでいることを、あからさまに教えてくれたのだ。

◆暗闇からの礫
 熊本県南小国町のアイレディース宮殿黒川温泉ホテルが、「ふるさと訪問事業」の主催者である熊本県に「宿泊拒否」を伝えたのは昨年11月のことだ。県は、人権派を自認する潮谷義子知事が会見で「事実」を明らかにし、熊本地方法務局とともに熊本地方検察庁に旅館業法違反で告発。あわてたホテル側は、総支配人らが恵楓園の自治会を訪れ、一応の謝罪を行った。
 ところが、このときを境に、被害者であるはずの入所者は加害者とされ、逆にホテルが被害者に位置付けられてしまった。
 そうしたのは、当事者ではない。
 第三者である我々の社会だった。
 それには、「報道」が伏線を引いた。
 晩秋の恵楓園。会館に集まった入所者を前に、深々と頭を下げるホテル総支配人の姿があった。
「私の認識不足のため、皆様に不愉快な思いをさせ、心よりお詫びします」
 総支配人がそう口にした時、太田会長ら自治会の面々は首をかしげた。
「『私の認識不足』と言うのか……」
 実は、自治会では、宿泊拒否が明らかになったあと、真意を尋ねるために、ホテルに総支配人を訪ねていた。その時の総支配人は「本社の決定事項」と説明していた。要するに、親会社・アイスター(東京都港区)の意向というのだ。県も宿泊拒否を撤回させるために担当職員を派遣したのは、本社だった。
 それが、謝罪する段になると、総支配人の個人のミスだと言うのである。
「おかしいじゃないですか」
‥‥続く

イネ戦争

遺伝子組み換えイネをめぐる企業の特許権と民衆の闘い

メイ・ワン・ホー(英国・ISIS)

リム・リ・チェン(マレーシア・第3世界ネットワーク)

 コメは、最貧層を含む全世界の半数以上の人々にとって大切な主食である。そのコメが今、遺伝子組み替え技術の標的として狙われている。この動きは、2年前にイネゲノムが発表されてからというもの一層拍車がかかり(”Rice is life”「コメは命である」シリーズ、SiS 15、2002年夏号参照)、バイオテクノロジーの巨大企業はこぞってイネ研究に資本を投入している。同時に一方で、全世界の小規模農家に真に利益をもたらすような農薬・化学肥料を多用しない(ロー・インプットの)耕作方式が広まっている。科学重視の諸機関は、この方式を「科学的でない」と切り捨てるが、ロー・インプットの耕作方式は、近年考え出されたいくつかの革新的耕作方式の一つだ。どの方式も、少ない経費で危険な作業も伴わずに収穫量を増やし病気を防ぐことができるので、農家に広く熱心に取り入れられている。
 今や、大企業と世界中の人々との間で、コメの所有権をめぐる戦いの緊張が高まりつつある。何十億人の食糧安全保障が危機にさらされているのだ。同様に、人々が今日まで創り出してきた、そして将来も創り出すであろう多種多様なイネを育てる権利と、それらを選択する権利もまた危機にさらされているのである。
 メイ・ワン・ホーとリム・リ・チェンが、遺伝子組み換え技術を通してイネの品種を強奪しようとする企業の最近の試みの真相に迫る。

国際条約には農民の権利を守りきれるだけの効力があるだろうか?

 インドとタイでは1998年、米国企業ライステック社がバスマティ米とジャスミン米に対する独占的権利を主張したことに抗議して、怒れる農民たちが大挙して首都の大通りに繰り出した。米国の育種家はフィリピンに本拠を構えるIRRI(国際稲作研究所)からサンプルを入手していた。というのもIRRIは、アジアの農民たちが自家採種してきた品種を預かる大規模な種子銀行を持っているからである。この抗議デモは、企業戦略に対する警鐘の始まりだった。企業は、何千年にもわたって地元の地域社会で開発され、使用されてきたイネの品種を、力づくで奪って支配しようとしていた。
 2004年6月29日に施行された「食料・農業のための植物遺伝資源に関する国際条約」は、「植物育種家への遺伝資源の自由な流れ」を促進するものであり、同様に、農民や調査研究所への遺伝資源の流れも促す。これは「取得の機会と利益配分のための多国間システム」を通してなされるが、この多国間システムの対象となっているのは、35品種の食用作物と29品種の飼料用作物で、その中にはイネも含まれる。 
‥‥続く

<アソシエーション・ミニフォーラム>ちば

「協同組合とマネジメント」

生活クラブ生活協同組合・千葉
小林 文

 先日、生活クラブ連合会の前会長である折戸進彦さんをお招きしてミニフォーラムを開催しました。

 参加メンバーはセンター事務局長と組織部次長あわせて4名という本当にミニサイズの集まりでした。そもそものきかっけは、協同組合について経営会議メンバーで学習する必要があるのではないか、と思ったためです。以前私が連合会研修として受講した「経営マネジメント研修」をもう一度千葉で受けてみたいと思い企画しました。
 ミニフォーラム自体は折戸さんのお話を聞く会に終わりました。本来であれば主催者側の問題意識に基づいて構成を考え、課題報告を行い、別途講師にお話していたただくべきところでした。受身に仕事をする一端をお見せしたようでお恥ずかしい限りですが、これが私(たち)の現状であることも事実です。もしかすると直感的な、それでいいのか、という思いつきがフォーラム開催のきっかけであったのかもしれません。
 テキストに02年の生活クラブ連合会経営マネジメント研修の『協同組合とマネジメント』をいただきました。内容をかいつまんで報告しますと、「協同組合においては『人間にとって最も好ましい結果をもたらす経営管理とは何か』が基本的なテーマであるが、変化に対応するあまり短期的な経営管理の手法がとられているのではないか、改めて協同組合のマネジメントについて考えてみよう」というものでした。「生活クラブの共同購入は思い(運動)を事業化したものであり、運動と経営の矛盾があることを明らかにした上でどうするのか、というマネジメントが必要になる。その解決の糸口を見つけるために『実態構造と機能を分析すること』が重要であり、それによって戦略や戦術がおのずと見えてくるだろう、その先に組織の活性化をどう展望するか」というものです。表出する実態が期待するものと違ったり、違和感があるということは構造なり機能(役割)に何か間違いがあるかもしれない、という仮説が立ちます。また実態の構造を構成する「理念、目的、組織、事業」の4つの要素を分析する必要が言われました。
‥‥続く

‥‥続く

《状況風景論》

新たな協同組合設立議論、新しい働き方&ICA’95原則の意義

●京都、福島のチャレンジ
 京都のエル・コープを母体とした「協同組合運動研究会」からよばれてでかけた。この生協では2000名を単位として分割し「もうひとつの生協」の設立運動を起こすというのに興味をもった。会合では職員・組合員・ワーカーズがいて夢は〈労働〉をめぐる論議に花がひらいた。最新の会報(108号)には佐々木郁子さんの「乙訓地域エル・コープ 趣意書作成にあたって」が載せられている。「生協ってなんだろう 命ってなんだろう 私ってなんだろう」と書き出された文章につづく小見出しに想いがいっぱいだ。「時間をつくりだす生活を/時間の価値はそれぞれ違う/時間に拘束されない働きを/協同の中から人と人とが関係していく/生協での関係はフルネイムの私で/生協は自己実現の場所を確保できる器/時間:「私」=命=生活」とある。論理的にして詩のように柔らかな感性。このような想いの中に生協は芽吹くのがよくわかる。
 郡山で開かれた生活クラブ生協福島設立準備会の学習会。そこには世代を越えた組合員が集まった。講師のフォーラム・アソシエの大嶋朝香さんが「東北における生活クラブづくりは首都圏と違うはず。そのビジョンを聞きたい」と切り出した。
 運営委員長として活動する大津山ひろみさんをはじめ機関紙活動にたずさわるメンバーらの2000名の組合員獲得への苦労が語られる。そこには子どもを二人連れた有機農業をする組合員がいた。文字通り自給型の生産する消費者だ。生活クラブの何がひきつけるのか、それは人と人との場、対話で知らない多くのことが身につくことという。できるなら自分の生産物を含め「地産地消」が夢とも明るく言い放った。
 また三人の子育てした組合員はおもしろくって育児サークルに関わっている。その悩みは気合いの入った生協活動が無償労働で、夫の収入に頼っていること。期限をきって少しでも収入のある仕事に次はつきたいと悩みをさらけ出した。ここには地方でも、ワーカーズコレクティブやNPOのような非営利事業によって有償労働の領域を創り出すテーマが無意識のうちに語られている。
 私の役目はもちろん、鈴木良一さんの『協同組合原則と生活クラブ』のブックレットを紹介することだ。‥‥続く

雑記帖

【米倉 克良】

 10月24、25日と開催された、「代理人運動交流センター全国集会」で、来年6月の都議選にむけ、ネット10名の公認予定候補者の紹介とともに、現職藤田愛子さんと大河原雅子さんの「任期付交替制(ローテーション)」実施が報告された。
 このルールは、直接にはドイツの緑の党に学んだと聞くが、当時ルソーあたりの思想的関連ぐらいまでは視野にあったようだ。しかし、最近の田中浩『ヨーロッパ知の巨人たち』(NHK出版)にもあるが、「法の支配」と権力的癒着の防止のための「任期付交替制」は、「地中海」の都市国家の政治に始まる。するとネットルールは、遡って二千数百年前からの人類の理論的遺産に源を置くことになる。松下圭一さんの話では、その後のローマ帝国、絶対主義国家にせよ、多くをこの都市政治から学んでいるという。今の政治の基本的枠組みは、この地域の「自治・共和」の思想なしには有りえなかったということだ。このあたりは最新のB・クリック『デモクラシー』(岩波書店)が手頃な解説だ。
 最近、この地域の「協同組合」を訪れる機会があった。聞いてみると、政治と同じように、源は「地中海」地域の<仕事>と<仲間>のようだ。ボローニャ市周辺では、普通の家の窓に「虹」の模様に「PACE(平和)」と書かれた旗が掲げられているのを散見した。イラク戦争反対―軍の派遣反対の意思表示を表すという。この旗は、駅前の売店でも、郊外のスーパーでも、さりげなく売られていた。筆者は、ノリにまかせて、この「旗」を藤田さんと大河原さんの都議会のネット控室と、昨年初めてイラク戦争反対のパレードに出た娘に、免税店のチョコとともに土産に持っていった。



*ご注文はメールでもお受けします。 <5〜9冊(送料無料)、 10冊以上割引あり> 
市民セクター政策機構   < civil@prics.net>

 


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