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『社会運動』 297号

2004年12月15日

目次

WNJの出資型非営利法人法 公益法人制度改革を非営利の市民事業推進と
 ワーカーズ・コレクティブ法制定のバネにしよう 藤木千草‥‥2
共同連の『社会的事業所」構想 障害者の労働の未来を切り拓くために 斎藤縣三‥‥6
象徴天皇制の現段階 皇太子・雅子夫妻・愛子さまと戦後天皇制のゆくえ 山口保広‥‥15
この一枚<生き活きまつり>‥‥23
国際コメ年NGO行動 GMイネは食べない!売らない!つくらない! 前川隆文‥‥24
 南インドにおける稲作の現状 ウシャ・ジャヤクマル‥‥26
GM作物最新情報 ドイツ共存法 どのような条文なのか たかおまゆみ‥‥28
ヒバクシャを見守って58年 低線量ヒバク、体内ヒバクの恐しさ 肥田舜太郎‥‥35
どうなる介護保険(中) サービス体系の再編成 長谷憲明‥‥41
“色”で読み解く『戦後詩』の風景@ 「遺言執行人」と祖国を失った者たちの声 添田 馨‥‥50
<追悼> 生活クラブ長野・理事長 百瀬博通さんを悼む
 加藤貴弘/伊東道雄/村上賢一/伊東弘美‥‥55
<アソシエーション・ミニフォーラム>開催報告 後藤慶介/斎藤美恵子/矢島和香子‥‥60
<状況風景論>トリエステの発想転換‥&福井の子ども夕食調査‥‥63
雑記帖 宮崎 徹‥‥64

WNJの出資型非営利法人法

公益法人改革を非営利の市民事業推進とワーカーズ・コレクティブ法制定のバネにしよう

ワーカーズ・コレクティブ ネットワーク ジャパン(WNJ)
代表 藤木 千草

 今年、「労働」をめぐって2つの特筆すべき運動があった。一つは、ワーカーズ・コレクティブ ネットワーク ジャパン(WNJ)が、公益法人改革の最終局面の中で、出資型の、準則主義にもとづいて法人格のとれる「出資型非営利(協同)法人法」を求めたことであり、もう一つは、共同連が今の障害者の「福祉的就労」から一般的就労をすすめるために福祉工場を改変した「社会的事業所」構想を打ち出したことである。この2つの市民立法運動は、21世紀の市民社会を形づくる具体的な法制化と制度改革運動で、それぞれの当事者からレポートしてもらった。(編集部)

◆非営利法人制度が焦点
 公益法人制度の改革は2002年3月29日に閣議決定され、内閣官房行政改革推進事務局のもとで議論がすすめられています。
 具体的な改革の内容については2003年11月28日より開催されている有識者会議で検討され、2004年10月12日に「非営利法人制度の創設に関する試案」が発表されました。
 法人の成立は民法の33条「法人は本法其の他の法律の規定によるに非されば成立することを得ず」と規定され、34条で「公益法人」35条で「営利法人」が位置づけられています。この改革は100年以上見直されてこなかった民法34条の改正であり、35条の「営利法人」に対してまず「非営利法人」を整理しようというものです。現在の34条は「祭祀、宗教、慈善、学術、技芸その他公益に関する社団又は財団にして営利を目的とせさるものは主務官庁の許可を得て之を法人と為すことを得」となっています。「営利を目的としない」ということははっきりしていますが、社団・財団に限っている点や主務官庁の許可を得るという点が問題であり、また例示されているものも現在活発化している市民活動や市民事業に比べ大変範囲が狭いものでしかありません。また、時代が進むにつれ営利法人でも公益法人でもない様々な法人が誕生し、それぞれが250以上の特別法により規定されています。各種の協同組合もその中の一つですが、具体的に耳慣れたものをあげると次のような法人があります。
 地方公共団体・非営利活動法人・中間法人・宗教法人・学校法人・医療法人・社会福祉法人・労働組合・職員団体・国家公務員共済組合・地方公務員共済組合・健康保険組合・国民健康保険組合・厚生年金基金・中小企業等協同組合・消費生活協同組合・農業協同組合・水産業協同組合・信用金庫・商工組合・農業共済団体・日本銀行・証券取引所・金融先物取引所・商品取引所・商工会議所・都道府県農業会議・全国農業会議所・弁護士会・弁理士会・税理士会など‥‥続く

共同連の「社会的事業所」構想

障害者の労働の未来を切り拓くために
賃金補填制度とより人間的な働き方へ転換必要

共同連 事務局長

斎藤 縣三

1.障害者の労働政策と福祉政策を結ぶ新たな取り組み
 私は、7月30日、国会前の星陵会館を埋めた「障害者就労の未来を拓く全国会議」で、次のように基調提案しました。
 厚生労働省ができた時、厚生と労働がひとつになって福祉と労働を結び新しい政策転換ができると言われました。しかしながら、それははっきりした形でみられることはなかったのです。でも、この2月から始まった就労検討会議は、まさに厚生労働省という名にふさわしい取り組みであると、おおいなる期待をもってみています。
 今、全国に就労援助の運動、一般企業に就労させていこうという運動の高まりは、大阪、神奈川、東京各地に色々な形の運動を作り上げ広がっています。そして、また従来の作業所や授産施設(作業所は自治体助成、授産施設は国の認可による。授産施設の方が規模が大)ではない働く場としての展開をしなくてはいけないという運動が、全国に拡がってきています。
 この会議のため、九州・四国・東北と巡り話をしてきました。その各地の内容、状況の話は、20年前とは全く違うのです。このところ急速に高まる熱気を感じています。例えば、10年前に久留米で共同連全国大会を開きました。そのときに参加していた障害ある人達に、10年ぶりにお会いした。すると、その時大会に関わって頂いた人達がNPO法人をつくり、そこで10数名の働く場をつくり、障害者全員に最低賃金を保障する場を作っていました。驚きましたが、そんな事が各地で起きていると感じさせられたのです。
 この間、厚労省は2月から就労検討会議を設けて、精力的に取り組んでいます。しかし、それに対して民間の側は、本当に精力的に取り組んでいるかと言うと、私は足りないのではないかと思っています。各地に様々な熱気が起こって様々な活動が行われているのにも関わらず、その民間どおしの議論や政策的な提言といったものが非常に弱い気がします。今日僣越ながら提起させていただいたのは、まさにそういう思いからであり、一つの力になりたいとこの‥‥続く

皇太子・雅子夫妻・愛子さまと戦後天皇制のゆくえ

“無名性の会”代表

山口 保広

 今年は、徳仁皇太子が雅子妃の病気について、宮内庁に対し「人格否定する動き」と、異例の記者会見をされた。また明仁天皇は「(日の丸、君が代の)強制となるということではないことが望ましい」などと注目すべき発言をされた。それらのもつ意味を深く問うことをマスコミではタブーとされ、今また紀宮ご婚約内定報道へと流れている。戦後、日本国憲法の第一条と第二条に規定された象徴天皇制は、今、どのような状況にあるのか、生活者のまなざしから山口保弘氏に戦後天皇制を素描してもらった。(編集部)

 長命で波乱にみちていた昭和天皇のあとの平成も16年を過ぎようとしており、平成・明仁天皇は昭和天皇から「国民統合の象徴」としての天皇像をひき継ぎ、坦々と公務をまっとうされているようにみうけられる。しかし、明仁天皇が「象徴」天皇像をきまじめに踏襲したことによって、昭和天皇の崩御後天皇家がかかえていた問題や矛盾を一身に背負ってしまったのが徳仁・皇太子(夫妻)である。今年5月の皇太子の会見での発言は、昭和天皇の崩御によって戦後の象徴天皇制の核が喪失し、大きく転回・転換したことを、宮内庁も政府もマスコミ・ジャーナリズムも気づいていないことの告発であった、と私は考えている。
 昭和天皇の崩御後、明仁天皇及び天皇家が「国民統合の象徴」としての天皇像を主体的に、積極的にひき継ぐべき理由や根拠はなかったのではないかと、私は考えてきた。戦後憲法一条には、確かに「国民統合の象徴」としての天皇像が明記されている。しかしそれは、昭和天皇にとってのみ必要不可欠であったのであり、どうしても引き受けなければならない天皇像であった。戦後60年の歴史のなかで日本社会は激的に変貌した。戦後に婚姻された明仁天皇と美智子妃は、皇居のなかで天皇制史上はじめて“家族”を営まれ、二男・一娘を育まれている。天皇家を戦後“家族”としてながめたとき、皇居のなかでの際立って孤独な“すがた”が浮かびあがってくる。憲法九条の空疎な論議ばかりが盛んであるが、戦後の象徴天皇制についてこそ真剣に考えるべき時期ではないかと思われるので、戦後象徴天皇制の変遷を概観しながら考えてみたい。‥‥続く

国際コメ年NGO行動 報告
GMイネは食べない!売らない!つくらない!

大地を守る会 運動局

前川 隆文

 国連及び国連食糧農業機関(FAO)は、2004年を国際コメ年と定め、日本で11月に「国際コメ研究会議」が開催された。その主要な議題は遺伝子組み換えイネである。現在、アジア各国では遺伝子組み換え作物(GMO)の栽培が目論まれている。農民の圧倒的多くは、その恩恵を受けないどころか、さらなる所得格差の助長など、逆に被害をこうむっている。
 市民の側の意見も明確に表明しようと、反GMの活動を展開している農薬行動ネットワーク―アジア太平洋(PAN AP)からの要請があった。遺伝子組み換え食品いらない!キャンペーンが呼びかけて、「国際コメ年NGO行動実行委員会」を発足、11月4・5日に連続企画を持った。(11月3日には「脱WTO草の根行動ネットワーク」主催による関連企画が持たれた。)
 11月4日、東京青山にあるウイメンズプラザで、「GMイネは食べない!売らない!つくらない!」の集いには各地から約250人が参加した。
 海外からは、インド最大の英字新聞「インディアン・エクスプレス」の主筆であったデビンダ・シャルマさん、インドの環境運動団体「タナル」のウシャ・ジャヤクマルさん、PAN AP(マレーシア)のカーステン・ウルフさん、インドネシアの環境団体「GITA PERTWI」の研究者であるロサナ・デウィさんが参加した。飛び入りでグリーンピースインターナショナルのブルーノ・ハインツァさんもアピール。
●アジアでのGMイネの状況
 最初に日本側から、農民作家の山下惣一さん。現在の農業は、経済活動としての“業”のほうばかりに農民が縛られてしまって、自然環境や里山の動物・昆虫などと共存して活動する“農”が置き去りにされている。仕事としての感動は“農”にあり、そこを忘れ去れば、あとは国際的安売り競争としての“業”しか残らない。GMOは、“業”の手段でしかありえず、“農”をさらに分離してしまうだろう、と語った。‥‥続く

国際コメ年NGO行動 南インドからの報告

南インドでも序々に失われつつある伝統的な農業 コメ年を機会に有機栽培法に意欲

ウシャ・ジャヤクマル

 イネはインド南部のアンドラプラデシュ、タミルナドゥ、カルナタカおよびケララ州でもっとも重要な作物である。760万ヘクタールの農耕地で、2100万トンが収穫される。各州では大規模な灌漑プロジェクトが組まれ、水田用の灌漑は確保されている。
 1965年からの30年間で、南インドにおけるコメの収穫高は1190万トンから2100万トンに上昇した。この期間に南インドの公営農業施設は110品種のハイブリッド米を生産した。しかし同時に農民は、耐病性、耐乾燥性、薬理効果、耐洪水性などの特質をもった先祖代々受け継がれてきた品種を失うこととなった。それらの多くは各地域固有の品種だった。
 過去10年間に南インドの農村部では自殺者の増加が見られる。これは旱魃、害虫の大発生、洪水による被害に加え、農産物の売価が低く押さえられたことによるもので、これまでにはなかったことである。皮肉なことに南インドのほとんどの人々は1日に少なくとも2回はコメを食べるため、コメの値上がりに不満の声が上がる一方で、稲作農民は苦しみ続けている。これは誤った貿易政策がなされているためである。コメの高騰により農村部の貧しい人々はコメを買うことができない。政府の力が弱くなるとともに作物の生産はだめになってしまった。
 先祖伝来の種子を失い、土地の生産力は落ち、地下水位が低下し、農薬や化学肥料によって水域が汚染され、害虫は大発生し、農民の健康が失われるなど、これらすべては農村に苦悩をもたらしている。農作業の機械化によって女性が農地を追い出され、女性の社会的地位にも影響が及んでいる。彼女たちは新たな仕事を探すため移住を強いられるが、その仕事は短期のものであり、概して劣悪な条件であることが多い。
 過去30から40年の間に農民は、資源、知識、職業、そしてさらに日常生活ですら主導権を奪われている。主導権は政府になく、国内の企業や多国籍企業に奪われている。これは農村社会の文化、経済‥‥続く

GM作物最新事情
ドイツ共存法 どのような条文なのか?

ドイツ語翻訳

たかお まゆみ

 本誌296号(04年10月)で、ドイツの「共存法」についてとてもよくまとまった概要が紹介された。今日は、その法律の具体的条文を取り上げよう。「新潟地震の話しを聞く」のと、「現場にいって被災状況を見聞する」のでは、受け取るインパクトがずいぶん違うのは自然なことだろう。「法律もある意味で現場ではないだろうか?」、今回、法律条文を読みながらわたしはそんなことを妙に感じていた。日本で“GMいらない運動”をすすめている方々が、ご自分の地域の実情にあわせて、この“現場”から“自分風の具体的インスピレーション”を得てくださればと思う。

混乱の末、ドイツ共存法成立確実に
 GMOの法規制が出揃ってきた欧州で残るのは、有機・慣行・遺伝子組み換え作物(GM)の三農業の共存問題と種子のGM汚染規制に関する部分だ(※1)。これについて欧州委員会は、03年7月と9月にガイドラインを公表し、中でも共存の問題は「各国対応事項」とした。フィシュラー農業担当欧州委員(※2)の持論、「共存問題=コスト問題」に則れば、意図せざる交雑が起きた時の補償が本質なのだから各国の民事損害賠償関連法をブラッシュアップすればいいというわけだ。
 しかし各国の共存法制定(※3)は一筋縄ではいかず、10月18日の農相理事会でイタリアとデンマークから、EU域内の共存をみそなわす統一機関が必要ではないか?という提案もあり、これに13カ国が支持を表明した。広域共存体制を否定した欧州委員会が、この提案を前向きに検討するかわからない。現時点ではっきりしているのは、実際に共存を実施しようと思うと難問にぶつかり続けるという現実と、種子のGM汚染問題にEUレベルの厳格な規則が必要だということだ。
 通称「ドイツ共存法」は混乱の末に04年11月下旬に成立する運びになった。夏の成立を目指していたが晩秋にもつれ込んだ。ドイツの喧喧諤諤はいつものことだが、“遺伝子組み換えいらないニュースレター”を発行している「GM情報センター」(※4)の事務局スタッフ Nina Loffelbeinが「やっとホッとした」と嘆息していたので、現地の様子が偲ばれる。
 ドイツ共存法はEU規則「GMOの環境放出に関する指令の改正」(2001/18/EC)および「GMOの追跡・表示及びGMOから製造された食品・資料の追跡に関する規則」(No.1830/2003)、「GM食品及び飼料に関する規則」(No.1829/2003)に基づいて作られ、すでに同国に存在していた「遺伝子技術権法 Gentechnikrecht Gesetz」(※5)という法律を大幅改正して整えられた。‥‥続く

ヒバクシャを見守って58年

低線量ヒバク 体内ヒバクの恐しさ

ヒバクシャ・医師 肥田舜太郎さんに聞く―後編

 前号(296号)の肥田舜太郎先生へのインタビュー記事中で、紙数の都合で載せきれなかった部分を今回掲載いたします。一部重複はありますが、肥田先生の語る広島でのヒバクの実相の一端を是非お読みください。インタビュー中の時系列上の後半ではありません。

●前夜の往診で偶然の命拾い
 私は当時、爆心地から600メートルの所にあった陸軍病院にいました。8月6日にそこにいれば当然死んでいたのですが、たまたま前夜に戸坂村へ往診に来ていました。そこに泊まって、朝8時頃に目を覚まし、注射を準備しているところでした。そこへ爆弾(原爆)が爆発した。私のいた大きな農家は屋根が飛び、崩れた。私は飛ばされました。
 私はすぐ病院へ戻ろうと、そこから広島へ向かって太田川という大きな川の土手上の県道を自転車で走って帰ったわけです。
 ちょうど広島までの道のりの真ん中辺りで、広島から逃げてきた最初のヒバクシャに会った。目の前でその人はばったり倒れたんですが、倒れて初めて私はその人が生きた人間だということが分かった。それで駆け寄って脈を取ろうとしました。脈を取ろうとして手を持っていった時に、さわる皮膚がない。脈が取れない。私はその人がボロを着てるとばっかり思ってたんですが、そうではなくて素っ裸の生皮が剥がれてぶら下がって、ちょうどマントのように体に引っ掛かってる。
 どうすることもできずにいるうちに、その人はうつぶせになったまま痙攣を起こして動かなくなりました。その内に、ヒバクした人がいっぱい来て道を歩けなくなった。それで、川の中を広島へ向かって自分の病院へ行こうとしたんですが、広島の入り口辺りで火と煙といろんなものに妨げられてそれ以上進めなかった。
 戸坂村は広島から北へ向かって行って、初めてある村です。逃げてきた人は、そこへみんな入ったんですね。村の空き地の乾いた土の上に、みんな裸で横たわっているんですね。村の家はみんな屋根が壊れましたから、家の中へは入れない。乾いた土の上に、人が倒れこんで、もう足の踏み場もない。みんな焼けていて人間らしい顔をした人は誰もいない。私はそこに約3カ月いました。3万人ぐらいの人が逃げてきました。そのうち何人死んだか記録はありません。‥‥続く

どうなる介護保険(中)

新・介護保険制度
サービス体系の再編成

長谷 憲明

(関西国際大学教授)

 前回は、介護保険制度改正の方向について、主に制度面から概括した。その内容が介護保険法改正と言うよりも、新・介護保険制度とでもいえる内容であったため、あえて新介護保険制度とタイトルをつけ説明をした。
 新介護保険制度の見直しの理念に「量」から「質」の追求がある。介護保険制度の実施を至上命題として実施し、この4年間を総括した制度の再整理のキーワードである質の改善は、歓迎すべきことであるが、それは同時に提供側の絞り見込みにつながるという側面をもっている。今回は、前回と比較してより明確になった新制度について再度説明をするとともに、サービスの質の改善を追求する新サービス等について述べたい。

1 新介護保険制度下の新しいサービス体系

 18年度施行予定の新介護保険制度は、これまでとサービス体系・内容が大きく変更される見込みである。現在公表されている資料からサービス体系を図示すると図−1のようになる。

2 新たに創設されるサービス等について(地域包括支援センター関連)

 新たに創設されるサービス等について、そのポイントを列挙してみる。
(1) 相談機関としての「地域包括支援センター(仮称)」
要介護高齢者やその家族の相談に応じる在宅介護支援センターを廃止し、新たに地域における包括的に相談・マネジメントを担う中核機関として、順次準備の整った市(区)町村から整備される見込みである。
◇ 設置の理由
 厚生労働省の説明では、「現行の在宅介護支援センターは、高齢者の生活全体を地域に置いて包括的・継続的に支えるためマネジメントの役割を充分果たしているとはいえない状況」(16.9.14全国会議資料P86)にあるために、在宅介護支援センターを廃止して、新たに「地域包括支援センター」を設置するとのことである。‥‥続く

“色”で読み解く「戦後詩」の風景(1)

「遺言執行人」と祖国を失った者たちの声
―鮎川信夫と田村隆一の詩

添田 馨

■詩の“色”について
 絵画や音楽には、どれも色がある。例えばモノトーンの墨絵だって無彩色という立派な“色”を誇っているし、また音楽にも音色(ねいろ)という“色”がちゃんと備わっている。ならば詩には、このような“色”がどこかに見出せるのだろうか。
 こんな疑問に対して私が、詩にも“色”があるのだと言ったら、読者の多くは一瞬戸惑うに違いない。詩とは言葉だけでできた芸術作品であり、それの一体どこにそんな“色”が隠れているのだろうか、と。
 だが詩にもちゃんと“色”はあるのだ。例えば一篇の詩を前にして、虚心にその言葉の響きを味わってみていただきたい。最初はそれほどはっきりとは分からないかもしれないが、書かれてある言葉が喚起するイメージを丁寧に追っていくと、やがて皆さんの心にはかつて見た記憶の中のおぼろげな世界の情景らしきものが、必ずや浮かびあがってくるはずだ。その景色のイメージから皆さんが感じ取れる“色”―それを捉えることができたら、それこそが詩というものが持つまぎれもない“色”なのである。

■「戦後詩」というジャンル
 ところで「戦後詩」という詩のジャンルがあることを、読者の皆さんはご存知だろうか。その名の通り「戦後詩」は戦争後つまり第二次大戦後に、わが国が敗れたという動かしがたい経験を母胎にして生まれでた詩群だということができよう。
 すでに戦後60年を数えようとしている現在にあって、それら「戦後詩」がかつて描き出した風景とは、確かに私たちにとってあまりにも縁遠い存在になってしまった感がある。だがそう感じる一方で、文学としての詩がどこかに人間経験の普遍性を宿す芸術であってみれば、すでに時の彼方に没しさってしまったかに見えるそれら「戦後詩」が、現在の私たちに今もって訴えかけてくる何かも、きっとそこには脈打っているはずだ。
 この連載のテーマは「“色”で読み解く「戦後詩」の風景」というものである。おそらく読者のなかには、何でいまさら「戦後詩」なのか、という疑問を抱く人も多いのではないだろうか。しかもなぜそこに詩の“色”などという不可解なものが関わってくるのか、という分からなさばかりが先に立つにちがいない。たしかにそれは至極まっとうな疑問だろう。
 そうした読者のために、私は是非ふたつのことをここでお話ししておきたい。‥‥続く

追 悼
生活クラブ長野・理事長 百瀬博通さんを悼む

生活クラブ生活協同組合(長野)

専務理事 加藤 貴弘

 さる10月4日、生活クラブ長野・理事長 百瀬博通さんが逝去されました。百瀬さんを追悼し、11日の葬儀で読み上げられた弔辞を掲載するとともに、生活クラブ長野の創生時代ゆかりの3人の方々に話をお聞きし、編集部の責任で構成しました。(編集部)

○ 弔 辞
 謹んでここに、百瀬博通理事長のご霊前にお別れの言葉をささげます。
 それは日ごと秋の気配が深まる十月四日の朝のことでした。病状が急変したとの知らせに驚いて、伊東弘美さんと病院に駆けつけたところ、すでに理事長は、酸素マスクをつけ、荒い呼吸の危篤状態でした。追って、加藤副理事長も長野市からかけつけたところ、ご家族から今夜が山と主治医の先生からお話があったとお聞きしました。
 私たちが「なぜこれほどに早くなのか…」…と、驚きと強い悲しみのもと病室を離れたわずかな時間の間に、理事長は忽然と私たちのもとから遠くに逝ってしまわれました。本当にあまりにも突然でありました。
 病状が悪化する中で、担当医師やご家族の懸命の看護も…、そしてひたすら祈るしかない私たちの思いもむなしく、社会の矛盾に、そして最後には病魔と戦い続けた百瀬理事長が逝ってしまわれました。生活クラブ長野を生み、育ててきた百瀬理事長…あなたの、去り様は、あまりに急すぎました。ご家族はもとより、組合員、職員、そして多くのあなたを知る人々が悲しみに打ちひしがれて、哀惜の情極まって言葉も出ないほどです。
 百瀬理事長は病状が明らかになった七月上旬、本部事務所で私に病状を説明した後、「なんだか全力疾走で走り抜けてきたような人生だったなあ」とポツリと言われました。私にとってあまりにも衝撃的な話しであったとともに、この言葉にいかに百瀬理事長が生活クラブ運動と真剣に向き合い、ひたむきに取り組んでこられてきたかが凝縮されていると感じ、胸が一杯になり言葉を返すことができませんでした。今思い返せばさぞ無念の思いであったはずと私も天を仰ぎ慟哭したい心情です。
 百瀬理事長は一九七五年、若干三十歳という若さで、同世代の仲間五人とともに、首都圏にある女性が自立して活動する生活クラブ生協を長野県にも創ろうと一念発起しました。「諏訪湖をきれいにしよう」と石けん運動で諏訪地方の主婦達に生活クラブづくりを呼びかけ、賛同した二十一人の発起人とともに生活クラブを発足させました。当時、六人の青年たちはそれまで働いていた企業を退職し、そのときの退職金を出し合って、説明会用の映写機と印刷機、そして中古のトラック等を購入し、連日説明会にでかけて組合員を拡大していきました。その創世期を知る組合員、職員も少なくなりましたが、この時のわずか六人の青年たちと二十一人の発起人の熱意は着実に地域に広がっていきました。
 そして幾多の問題を組合員とともに解決しながら約三十年の間、百瀬理事長の卓越したリーダーシップによって役職員とともに県内の三十の市町村に一万五千人の組合員を擁する現在の組織につくりあげました。
 発足当時は高度経済成長時代の円熟期であり、企業の論理が優先される厳しい流通業界の情勢のなかにおいて、まったく新しい市場外流通の共同購入運動・事業を提案し、実践することは本当に大変なことでありました。
 しかし、若き時より自分の生き方に生活クラブ運動を重ね、適当な妥協は一切せず、強い信念で敢然と問題に立ち向かい、様々な困難を克服してきた姿は多くの組合員と職員の記憶に残っています。また、自らの実践に基づいた組織運営や活動の取り組み、専従事務局のあり方や業務に対する姿勢等において数多くのことを学ばせていただきました。
 混迷の度合いを深め先行き不透明な社会状況のなか、生活クラブが協同組合組織として果たさなければならない役割とその重要性はより一層その度を増してきています。組合員、職員にとってはこれからも多くのことを百瀬理事長からご指導・ご教示を頂きたかったのに、今となってはそれも叶わぬこととなってしまいました。
 理事長自身はまだ五十九歳、これからも活躍なさるはずでしたのに、生活クラブ運動と決別しなければならなくなってしまったことは本当に無念であったことでしょう。
 常に社会の流れの十歩も二十歩も先を見通し、新しい運動を提案されてきた百瀬理事長を失ってしまったことは私たちにとって大きな痛手であり、痛恨の極みであります。
 しかし、百瀬理事長は組合員、職員とともに築き上げ、歩んできた三十年にわたる歴史と成果という大きな財産を私たちに残してくださいました。私たちは百瀬理事長の遺志をしっかりと受け継ぎ、価値ある、百瀬理事長の長年の労をねぎらい、ここに謹んで感謝と哀悼の意を表すとともに、生活クラブ運動をさらに推進していくことを組合員と職員を代表しここに決意します。
 ありがとうございました。そしてさようなら百瀬理事長。

2004年10月11日

追 悼
生活クラブ長野・理事長 百瀬博通さんを悼む

○ 百瀬さんの地域運動と生活クラブ長野の始まり

友人 伊東道雄

 「生活クラブ長野」がどのようにして始まったかというこの話に、若干の違和感を持たれる方もあるかもしれませんが、百瀬さんの遺志を正しく伝えるためお話ししようと思います。70年安保が闘われた当時、彼は20代中半、長野3区選出の衆議院議員 原 茂氏(社会党)の地元秘書を勤めていましたが、同時に地域の労働者たちと共に社会主義青年同盟(社青同)の運動もおこなっており、私もそのひとりでした。若者たちの一途な気持ちは「働く者の生活と権利・平和と民主主義」のためにと連日の厳しい活動や学習をものともしませんでした。そうした運動の経過のなかでは、数々の難問に直面しましたが、彼の指導力と活躍ぶりは仲間たちからも高く評価されていました。そして運動の推移と高揚と共に諏訪地方全体の中で、主要メンバー数人によるフラクションが持たれるようになり、今にして思えば大いに背伸びしたものであり気恥ずかしい思いもしますが「君は産業別労働組合で、君は諏訪地方の地域労働運動に専念、君は政治の場で」などと運動の前進のために夫々が任務分担をし合ったのです。私も職場を離脱しプロの専従役員としてその時から20年間にわたり地域労働運動に身を投じることになったのですが、その中で「消費者運動をとおして地域の主婦の意識変革」という大きな任務を負ったのが彼でした。
 彼に生活クラブへのきっかけを作ってくれたのは原代議士の国会秘書をしていた河西芳郎さんです。河西さんが彼を岩根邦雄さんのもとに連れて行き、そこで生活クラブの運動が彼の目指していた事と合致し、全金原電気支部から伊東克洋、原乙生、利根川重雄の3名(20代前半)、全金岡谷光学支部から村上賢一、西出栄の2名(20代後半、30代前半)の仲間が行動を共にすることになり、6人でスタ−トしたのです。百瀬さん27歳の時です。そして生活クラブを創ろうと決意してから旅立ったあの日までの長い間、当初の目的を果たすための彼の基本的スタンスは変わっていなかったと思います。
 我々仲間内では「モモちゃん」と親しまれていた彼は、短気で、喧嘩っ早く、好き嫌いがはっきりしていたために、あちこちでいろいろな火種となったエピソードはつきませんが、反面、非常に繊細で情が深く、面倒見が良く、酒の飲み方がきれいでした。多くの人に知らせずに忽然と消えていく様もいかにも彼らしかったと思います。
 先日の葬儀の折にはフラクションの仲間も集まり、当時の彼を懐かしがりながら振り返るとともに彼の早逝を心から悼みました。
 また最後にどうしてもお伝えしておきたいのは、彼が自らの病の告知を受け、闘病が始まった頃に病室で私に話した中で、「生活クラブが運動体であり続けること」を痛いほど強く願っていたということです。

追 悼
生活クラブ長野・理事長 百瀬博通さんを悼む

○ 生活クラブづくりの始まり

元常務理事 村上賢一

 地域の活動等にかかわりながらも、何か運動としてあきたらない悶々とした思いを持っていた頃です。社青同の運動や労働運動の仲間が、女性が主体的に生き生きと活動する生活クラブの話を聞き、それなら上京して学んでこようという話になり、1973年の夏、6人で岩根さんに会いにいったのが始まりです。まず互いの退職金(といっても皆若くて小額のため)と親と労金からの借り入れを含む280万円を用意し、配達用の中古のトラック、中古の印刷機、新品の16ミリのフィルムと映写機をそろえました。事務所はそれまでの仲間が無償で提供してくれ、当時皆お金がないことを知っていた仲間たちからも協力者がいて、皆で必要な経費は少しずつ出し合ってくれました。村上、伊東、利根川の独身の3人は生活クラブ東京の配慮で世田谷、調布、砧支部に研修として配属され共同購入の実践を学び、妻帯者3人が地域でまず身内と地域の労働運動の仲間の奥さん中心に発起人を組織し2市1町での組織化が始まりました。
 当時諏訪湖が汚染され、新聞等に原因は家庭からの生活雑排水と報道されていたので、岩根さんのアドバイスでの石けん運動による組織化は格好のテーマでした。
 東京の職員から「長野からの職員はまるで孫悟空の 斗雲に乗っているようだ」といわれたほどで、3人の研修組は配達を終えると毎週必ず土曜日の夜に地元に戻り日曜に組織作りを検討しては再び東京に戻るということを2年余り続けました。スタートから2年ほどは3人の東京での一時金を6人で分けあい、各労働組合から印刷の仕事を廻してもらったりしながら、家族をかかえた百瀬さんら3人の生活費はそれぞれアルバイトをしてかき集めるという極貧生活が始まりました。1976年12月には賛同者が1023人となり設立総会にこぎつけました。
 一方、諏訪地方の地域労働運動推進の任に当たっていた伊東さんがこの「石けん運動」を地域労働運動の運動方針に盛り込み、さらにそれの具体化として地域の婦人組織や民主団体を含めて「合成洗剤追放諏訪地方郡市民会議」を結成するなど、生活クラブづくりへのバックアップがあり私たちの運動は勢いを得ました。ですから三重大学の三上教授監修の16ミリの「中性洗剤追放」の映画が、昼間は各地域の主婦たちの説明会で、そして夜は労働組合の各職場での学習にとフル回転で活用されました。東京での研修組も、組合員の拡大が進むにつれて1人づつ戻り、1979年の5月、私が最後に戻っています。私も1992年百瀬さんと同じ病に倒れ1994年に生活クラブを離れましたが、療養の甲斐あって現在快復していますので、百瀬さんの病気の発見の遅れがとても残念でなりません。

追 悼
生活クラブ長野・理事長 百瀬博通さんを悼む

○ 生活クラブ運動をともにして

元常務理事 伊東弘美

 百瀬さんは秘書をしていた原茂代議士の妹が私の姑という関係で、代議士とともに何かにつけよく我が家にきていました。また夫も所属する全金原電気支部の労働者を中心につくる若者の学習サ−クル「すくらむ」の仲間としても我が家に集まっては皆で熱心に議論をしていました。当時20代半ばの百瀬さんは他の若者たちとは異色の存在で、無口で、いつもじっと何かを秘めているように厳しい表情をしていたという印象があります。
 夫から「百瀬君が生協を創るから協力してくれ」と言われたとき、百瀬さんをお気に入りの姑からも「子供は見てあげるからモモちゃんを応援しなさい」といわれました。ですから私の発起人の動機は理念に感動したとか、使命感に燃えてとかではありませんでした。しかし、その後の百瀬さんたちとの1000人の賛同者獲得に向けての活動のなかで、熱情込めて社会の矛盾や改革への思いを議論しあう彼らの懸命な姿に突き動かされて、積極的な私へと変わっていきました。発起人として1年4ヶ月後、拡大と説明会に明け暮れた甲斐あって設立総会となりました。その後理事となったのですが、設立総会も終わってほっと一段落していた私の家に、百瀬さんが「職員として経理をしてほしい」と頼みに来ました。私は経理のイロハも知りませんので断りますと、百瀬さんから「今まで友人が格安でやってくれたが、もうお金がないから誰かがやるしかない。東京の石川さんに指導してもらうから」と言われ引き受けたのですが、その直後、肝心の石川さんは長期の入院となり来られなくなりました。
 百瀬さんは「東京に月々報告するので、なんとか石川さんが作成してった決算資料をみて経理の仕方を導き出して出してほしい」と無茶をいいます。引かない百瀬さんに折れたことで必死に経理のしくみをなんとか解き明かし、以後10数年経理に携わることとなりました。「生活クラブの運動は、できるかどうかじゃなく挑戦していくしかないんだ!」この時の百瀬さんの言葉は32年間の百瀬さんとの付き合いを象徴しています。
 百瀬さんは多弁でないので組合員ととことん話し合う事は苦手でした。そこで豚の一頭買いや、代理人運動など新しい提案の際は、組合員に既成の概念からの脱却を求めますから組合員が理解するまでには反発やら拒否がありました。百瀬さんはよく大爆発を起こし「既成概念を打ち破れ!」と叫んでいました。しかし、豚のブロック肉の取り組み、冷凍魚の取り組みなどは実にきめ細やかで、必ず自らも包丁の研ぎ方、調理のしたかたをプロから学び、まず班へ出向き実践の手本を示し「現場(組合員の班)に出向いて語れ!」が口癖でした。
 今、30余年を振り返ると、百瀬さんは強い個性ではっきり自分を表現しつくしてきた人だと思います。次々生じるさまざまな問題には先頭に立って範を示し、ひるまず、生半可な妥協をせず、屈せず、弁解も決してありませんでした。社会通念や常識も自分なりのモノサシで計りなおして納得した内容で行動し、社会的な不条理に対しいつも真剣に怒っていました。長年、百瀬さんと激論を交わしてきた一人として、今は再びその機会がないことを思い寂寥感で一杯です。百瀬さん長い間本当にお疲れ様でした。

ミニフォーラム千葉

「生活クラブで働くということ」

生活クラブ千葉 職員評議会

後藤 慶介

 生活クラブ千葉職員評議会、市民セクター政策機構の共催という形で、今野聰氏(市民セクター政策機構監事)を講師に開催しました。(参加者は職員9名)
 当日のテーマは「生活クラブで働くということ―日本の生協の中での生活クラブの価値」とし、全農に勤務されていた時から以来40年、生活クラブをはじめ日本の各生協の事情に詳しい今野氏から、(1)日本の生協―業態の歴史と現状(2)民間スーパー業態の歴史と現状(3)戦後労働の歴史(4)生協専従労働への影響(5)これからの希望、というレジュメに沿って話を伺い、その上で各参加者との意見交換を行いました。
 ミニフォーラムの最後で今野氏は「今回は私がいくつかの材料を使って料理のメニューを紹介したが、次回ミニフォーラムが開催され、再び私が呼ばれるようなことがあれば、次回はぜひ皆さんが料理したメニューを出してみて欲しい」と語られました。ここでの「料理」とは、今野氏の問題提起として「班から個配、そしてSCM個配へ」であり、「この20年の間のダイエー、ヨーカドー、西友それぞれの栄枯盛衰について」であり、「主体的に働くのか、客体的に働かされるのか」であり、‥‥続く

ミニフォーラム長野

「市民自治から考える三位一体改革と自治体合併」

信州・生活者ネットワーク岡谷市議

斎藤 美恵子

 私達は2年あまり平成の大合併の渦の中に巻き込まれていました。諏訪湖周にある岡谷市・諏訪市・茅野市・下諏訪町・富士見町・原村の6市町村で21万都市を目指していました。
 しかし、富士見町・原村・茅野市が住民投票などにより任意合併協を離脱。残る3市町(諏訪市・岡谷市・下諏訪町)による法定合併協議会が設置されましたが、これも9月末、諏訪市が18才以上全市民アンケートで合併反対が上回り、法定協議会を離脱しました。これにより、我が岡谷市と下諏訪町は法定協議会を廃止し、合併の議論は終了しました。
 私は昨年4月に岡谷市の議員になり、当初より一貫して合併の是非を住民に選択させてほしいと言い続けてきましたが、合併推進派からすると合併反対慎重派(少数派)に対して時代を見透していないと、半ば変わり者扱いされていました。
 合併が成立しなかった事は、他市町村が合併是非を住民にさせたことにあり、選択をあやまったと推進派議員は言い切ります。
 行政側はこんな有利な起債(特例債→講演の中でもこれは、借金ですよ、と言われていましたが)を使わない手はないと公言します。何の為の合併なのか、特例債だのみの合併としか言いようがないのではないでしょうか。
 今回の合併の議論の中で欠けていたのは自分たちの街をどのような街にしたいかの議論がなかった事。それが住民が合併を選択しなかった大きな要因だと思われます。合併論議は終結された訳ですが、これから三位一体の‥‥続く

ミニフォーラム長野

自治体も問われる 財源移譲

信州・生活者ネットワークながの代表

矢島 和香子

 「平成の大合併」と騒がれる中、長野市でも吸収合併という形で、周りの町村との合併話が進んでいます。この話を聞くにつけ、ただ財政が厳しいからと言って簡単に長野市と合併していいのかな…と常々思っていました。
 今回の学習会でその思いは、強くなりました。
 真剣に協議すればする程、合併をあきらめる例が出てきていること。合併は、地域の独自の立案ができなくなること。つまり、その地域がなくなることに等しい。地域の生死の問題と言ってもよいわけです。ただ踏みとどまるには、それなりの住民パワーが必要です。戸隠村や鬼無里村、それぞれの住民たちは本当に合併してしまっていいのでしょうか。
 1997年の機関委任事務の廃止、さらに2000年の地方分権一括法の施行で長い間続いて来た国の下請け機関という地位の自治体は終わりを告げました。国と対等な関係になったとは言え、「まず国の言う通りに」と考える自治体職員はまだまだ多いと感じます。‥‥続く

《状況風景論》
トリエステの発想転換、統合教育&福井の子ども夕食調査

(K)

●細い舌のように食い込んだ地
 バザーリア医師のいたトリエステ。それは低い耳鳴りにも似て、長い間私をとらえた地名だ。京都の叔父から送られてきた須賀敦子の『トリエステの坂道』を読んで「ユーゴスラヴィア[クロアチア]の内部に、細い舌のように食い込んだ盲腸のようなイタリア領土の、そのまた先端に位置するトリエステ」の表現に胸ふるえた。遠くは欧州と地中海沿岸を結び、ウイーンとフィレンツェの文化がせめぎ合い、近くは旧ユーゴ内乱を肌で感じた街。1978年の精神病院の解体につながるバザーリア医師の運動がここで始まったのだ。彼は患者を閉じこめるのではなく地域社会に帰し、人と一緒に就労することが一番とする運動を拓いた。
 東京の生活クラブ運動グループ福祉協議会が主催した「福祉ツアー2004イタリア研修」に、阪神淡路大震災10年目を間近にするNPO・都市生活コミュニティセンターの前川さんと京都の協同組合運動研究会の境さんを誘っての17名が参加した。
 今その解体された病院跡には、野いちごの名をもつレストランがB型社会協同組合として運営され、3日間昼食に通ったが街の人々が車で乗りつけて繁わっていた。別棟にさまざまなB型社会協同組合があり、そこでバザーリアの名を残した合同労働者B型社会協同組合のロベルト・コラピエートロ理事長がその理念と実践を語った。日本の労働慣習とは違うヨーロッパの技能別横断賃金は障害者にも労働権として確立していて企業別賃金の日本と‥‥続く

雑記帖

【宮崎 徹】

 NPOをめぐる論議は東京ではある程度成熟化しているやにみえる。ありていにいえば、議論より実践上の壁をどうこえるかが焦点なのであろう。もっとも、理屈を好む悪癖のある私からは、必ずしもそうは思えないのであるが。それはともかく、最近では地方大学でも社会人向けのNPO講座が開設され始めている。むしろ地方のほうが地域社会の活性化という課題は深刻なので、NPOへの期待は強いものがあるのかもしれない。
 たまたま私もそうした大学の一講座を担当して地方のエネルギーに接する機会を得た。だいたい高い受講料を払ってまでNPOを理論的に研究してみようという人がけっこういることに驚く。まちづくり担当の地方公務員、市民事業を育てたい金融機関の人、市民活動の経験を自分なりに総括してみたい人などの熱心な討論からは学ぶべきことが多かった。なかでも印象的だったのは、役所内の無理解とわがままな「市民」に挟撃されている公務員の苦労だ。そういう立場に追い込まれながらもがんばっている先駆的職員は全国に多くいるだろう。「疲れたら、松下圭一先生の本を読んだら」というほかなかったのであります。
 地方にはNPOを担うに足る人材と基盤がけっこうある。しかし、東京に比べてまだまだ少ないのも事実だ。それだけに音頭をとる人の真剣さはむしろ大都市に比べて強いようだ。中央への依存を最終的に脱却しなければならないとき、地域=地方のNPOが力強く成長していくことを願ってやまない。空理空論ではなく、そのような人たちの刺激と励ましになる論稿が本誌にも期待されるところだ。そのためには現場に学ぶしかない。「ミネルバの梟は黄昏時に飛び立つ」あるいは「研究者は運動の書記係にすぎない」という箴言も思い出される。 



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