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『社会運動』 302号

2005年5月15日

目次

300号記念フォーラム・特別講演 社会的経済と生活クラブ―アソシエーション論の視点から 佐藤慶幸‥‥2
生活クラブ生協牛乳キャンペーン これからの牛乳のこと 加藤好一/今野聰‥‥13
“GM牛乳”裁判から見えたこと 消費者は食品情報を手にすべきだ たかおまゆみ‥‥19
この一枚<生活クラブが牛乳工場をもった>‥‥25
国際情勢 東アジア経済共同体の可能性と問題点 成島道官‥‥26
イタリアB型社会協同組合 「バザーリア合同労働者」の人権と労働権 池田敦子‥‥33
GM作物最新情報 未承認の遺伝子組み換え作物が日本の市場に?! 清水亮子‥‥39
世界社会フォーラム2005 祝祭の力が生み出す「もうひとつの世界」 下郷さとみ‥‥42
この論文・あの図書A
 「日本社会を考える」3点 高野恵亮‥‥46
 「生活クラブ生協」を考える3点 道場親信‥‥48
 新しい政治の可能性を探る3冊 丸山 仁‥‥49
 生活クラブの活動の原点となっている3点 坪井照子‥‥50
 「協同組合」をめぐる3点 岩垂 弘‥‥51
 ワーカーズコレクティブを知るための3冊 金忠紘子‥‥53
“色”で読み解く『戦後詩』の風景D 「青空の覚醒」―茨木のり子と谷川俊太郎の詩― 添田 馨‥‥54
アソシエーション・ミニフォーラム 翻訳グループの英語でおしゃべり 十河温子‥‥59
雑記帖 大河原雅子‥‥60
表紙からのメッセージ
写真家・桑原 史成
 この3月18日にJR大久保駅から近いホテル海洋で、本誌『社会運動』の300号刊行の記念に際して祝いのシンポジウムが開かれた。
表紙の写真は、その時の会場を記録したものである。
 記念すべき300号の表紙は編集部の意向で1968年10月18日に撮影した生活クラブ生活協同組合の設立総会の壇上の写真を掲載した。
設立の総会から12年後の1980年に『社会運動』が創刊され、四半世紀を経て300号に至った。創刊以来、25年の歳月は組織にとって、
またそれに関わった個人にとっても長い歴史であったと言える。私は写真家として本誌の表紙を290点の写真で飾ったのではないかと考える。
多くの読者の方にとっては不満な写真であったのではないかと思うが、私にとっては幸せな表現の場であった、と吐露したい。
 編集部の社会運動センターから名称は市民セクター政策機構に変ったが、本誌は静かな市民運動をリードする理論のバイブル的な
存在であったのではないかと自負してやまない。永遠に継続の刊行を願う次第である。

<300号記念フォーラム・特別講演>
社会的経済と生活クラブ
−アソシエーション論の視点から−
佐藤 慶幸
(早稲田大学名誉教授)

 3月18日、月刊『社会運動』300号を記念して「フォーラム」を開催したところ、110名を越える参加があった。佐藤慶幸早大名誉教授に記念講演「社会的経済と生活クラブ」をお願いした。この間私たちは、世界的な意味で、協同組合運動が、その社会的目的の追求について比重を高める意味で、それが属する仲間を、共済などとともに「社会的経済」としてきた。その意味と生活クラブの関係をアソシェーション論に位置付けた講演録を掲載する(編集部)
(1)生活クラブ運動の理念と発展
 生活改善運動として生活クラブが形成された1965年は、高度経済成長の代償として公害・環境問題、食の安全性問題、そして物価問題などが、人々の生活に深刻な影響をおよぼしている時代であった。1968年に生活クラブは運動の持続的発展のために生協を設立し、班別予約共同購入システムを導入して、それを基盤に生活クラブ運動は発展し拡大してきた。ここに生活クラブにおける運動と事業との相互反映関係における発展をみることができる。生協組織は生活クラブ運動のための道具であり、その道具を創意工夫によって使いこなすことで、高度経済成長のもたらした社会的諸問題に先駆的な仕方で取り組んできた。人々の日常的な身近な生活のあり方を変える生活者運動のネットワークを拡大し、既存の社会の仕組みを変革することが、生活クラブ運動の理念あるいは使命(ミッション)として掲げられてきた。
 生活クラブ運動は、<生活者主権>の確立をとおして社会の仕組みを変える生活者運動である。それはまた「日常生活の権利」を実践する運動であるといえよう。日常生活での生活者主権の確立とは、自分の生活は生活者自身の意思によって決めるのであって、他の意思によって、たとえば市場や国家や特定のイデオロギーなどによって決められるのではないという「生活の当事者主権」の確立を意味する。
 「台所から世界が見える」「共同購入から全生活へ」「つくる手たべる手その手はひとつ」「生き方を変えよう」「加害者になるのはやめよう」などの生活クラブからのメッセージは、生活者主権の確立をめざそう、という意思を伝達している。
 また班別予約共同購入、消費材、生活者、参加民主主義、代理人運動、石けん運動、オルタナティブ、ワーカーズ・コレクティブ、デポ、コミュニティ・オプティマムなどの生活クラブ用語で語られる生活クラブ運動は、「新しい生協運動」としての先駆性を示してきた。それは生活者主権の確立をめざして社会の仕組みをつくり変える運動であるといえよう。
 いまや1965年に東京の世田谷で数人の青年活動家によって形成された「生活クラブ」運動は、北は北海道から南は愛知県までの15都道県にまで広がり、25の単協を基盤に活動を展開している。これらの25の生活クラブ単協を会員として、生活クラブ事業連合生活協同組合連合会(生活クラブ連合会)が形成されている。
 このような生活クラブ生協の拡大発展の主体的な担い手は組合員であるが、そのほとんどが女性である。生活クラブ運動は、女性による生活者運動である。
 生活クラブの創設者たちは、高度経済成長がもたらしてきたリスク、とりわけ食のリスク問題を中心に、地域の専業主婦層の生活感覚に訴えながら班別予約共同購入システムを基盤に、彼女たちの自発性・主体性をひきだし、彼女たちを生活者運動の主体として組織してきたのである。
 結婚して専業主婦になった女性たちはきっかけさえ与えられれば、自発的に生活者運動を行いうる潜在的能力を持っている中産階層の女性たちであった。そのきっかけを与えられた主婦たちは、私的な日常生活から一歩踏みでて社会のあり様に目を向け、食の安全性問題や環境問題、そして福祉の問題などに取り組みながら、グローバルな視点から地域に根づいた生活者市民の運動を経済・政治・文化・社会などの多様な領域で持続的に展開し、人間関係のネットワークの輪を広げ、市場経済や国家行政だけに依存しない自立的市民として、<市民社会>の形成・発展に大きな役割を果たしてきたのである。
(2)生活クラブ運動の3つの柱
 3つの柱とは、共同購入を基盤とした生活クラブ生協と、各地域で多業種の事業を自己資本、自主管理、自己労働で運営している「有償・非営利の市民による協同事業体」としてのWorker's Collective(W.Co)、そして生活者の代理人を地方議会に送る代理人運動の基盤となる各地域の「生活者ネットワーク」である。神奈川ではもうひとつの柱として福祉クラブ生協がある。
 生活クラブ生協は、消費材の共同購入を生協運動の下部構造として、それを基盤にさまざまな社会運動や社会活動を展開している。その運動や活動のなかで事業化できるものはW.Co化するのである。介護や育児、医療、食部門、リサイクル、編集や出版、カルチャー部門、そして生協の事業部門の一部などがW.Coによって運営されている。かくして、生活クラブ生協は共同購入を基盤としながら、その内部に多くのW.CoやNPOなど多様なアソシエーションが形成され、生協活動を基盤に多様な生活者運動が多元化し、地域コミュニティの復権をめざしているのである。
 注目すべきことは、本来民主的に運営されるアソシエーションとしての協同組合も、組織規模が拡大するにしたがって脱アソシエーション化して官僚制化や営利企業化の方向が強まり、民主主義の理念を忘却し、寡頭制支配(ボス支配)になりやすい。この傾向を避け組織民主主義を守り、生活者運動を発展させる方向は、組織の分権化であり、ネットワーク化である。その必要要件を満たすために、東京と神奈川の生活クラブ生協は、大きくなった単協を複数の地域生協へと分権化した。
 ひとつの生協を複数の生協に分権化することは、より強い組合員民主主義を発展させ、組合員による要求や意見を対話と討議をとおして直接民主主義的に決定することで、組合員の自立を高め、組合員の多様な生活欲求にできるかぎり速やかに対応することをめざしたものであった。
 それでもなお、組合員5万人の生協が分権化されて1万人の生協が5つできたとしても全員参加の対話と討議の参加民主主義は不可能である。それではどうするのか。その方法が、課題ごとのアソシエーションを多数形成して、そのネットワークをつくって生協活動を維持し発展させるのである。つまりアソシエーティブ・デモクラシーによる協同組合の運営が可能なためには、分権化が必須の要件である。
 とりわけ注目すべきことは、生活クラブ生協神奈川で「デポ」(店舗形式の共同購入の場)の運営に導入したワーカーズ・コレクティブ(W.Co)が全国的に多様な領域で形成され、活動していることである。そしていまや、生活クラブではW.Coはなくてはならないパートナーとしての機能を果たしているのである。
 もうひとつの柱は、地方議会に生活クラブ運動グループを基盤に生活者市民の「代理人」を議員として送る運動体「生活者ネットワーク」である。この代理人運動は、石けん運動やゴミ・環境問題への取り組みのなかから生まれてきた。この運動をとおして議員として当選した代理人は、全国で141人(2003年)いる。代理人はすべて女性である。
 これら3つの柱は、それぞれが自律しながら、相互に多重的なネットワークを形成することで連帯し、生活クラブ運動グループを形成している。‥‥続く

生活クラブ生協牛乳キャンペーン

これからの牛乳のこと

生活クラブ連合会専務理事 加藤 好一

聞き手 元全農大消費地販売促進部部長 今野 聰

 生活クラブ生協グループは2005年度、グループ統一で牛乳利用促進キャンペーンを進めている。連合消費委員会主催の「牛乳キャンペーンスタート集会」(4/13東京大手町JAビル国際会議場)の翌日、生活クラブ連合会専務理事の加藤好一さんにお話をお聞きした。聞き手は当機構監事であり、全農事業に様々に関わってこられた今野聰さんにお願いした。
● 乳業メーカーを巡る状況
今野 今年の年末にはWTOの農業部門のいわゆる非関税障壁の撤廃問題がある程度の決着を迎えそうな状況ですね。それがどのようなレベルになるかは予断しにくいところもありますが、いずれにしろ海外農産物、当然乳製品も含めての輸入は依然増加することが予想されます。一方国内では、雪印、全農、全酪連が連携して日本ミルクコミュニティー、ブランド名メグミルクとなりましたが、その苦戦も伝えられているところですが。
加藤 私はつい先日、長野県の安曇野にある横内新生ミルク鰍フ代表取締役として、ある大手乳業メーカーのトップと懇談する機会を得ました。交流の席でその方が、生活クラブさんは生協だから無農薬のお茶の生産者と取引をお持ちでしょう。横内新生ミルクの工場には、安曇野の良い水があるということ。そのお茶と水で、安曇野のお茶、北アルプスのお茶とかの名前で是非売り出したらどうですか、と言うんです。
 つまり、お茶やら水やらで利益を出して、経営の穴埋めをするぐらいのことを考えないと、牛乳工場は日本では残していけませんよ、と仰るわけです。牛乳だけではたち行かない、と。
 まあ半分冗談のような四方山話でのやりとりでしたが、あながち全部冗談という話しでもない。乳業業界が抱えている現実に対する本音の部分だと思いました。
 今日、牛乳単体だけで経営をうまく廻すというのは、こんなに難儀なことはない、というのが素直な感想です。スーパー他の小売業界は、買う側の「言い値で持って来い」の世界ですし、それを受けて店頭では、よく言われるように牛乳より水の方が高かったりします。工場側は稼働率を維持すること欲しさに、そうした無理難題に応えざるを得ない状況にある。牛乳単体だけで経営を成立させるのは土台相当無理で、メグミルクさんも、国産酪農事情のうちの一番困難な部分を抱えてしまったという印象を拭えません。
 WTOの農業部門交渉ですが、その結果、生乳そのものが輸入されるのかどうかは判りませんが、いずれにしろコスト第一で見れば、乳製品輸入の障壁は下げられてしまう流れは変わらないだろう。他の分野も同様ですが、国内酪農業はさらに苦しくなる。
 今年度提起している生活クラブグループ全体で牛乳の利用を増やそうというキャンペーンは、そのことも意識したものです。これだけの規模でグループ横断的な活動というのは初めての試みです。食の国内生産基盤問題が根っこの所にある運動です。統一した利用推進期間は短いのですが、その点では一過性の活動というわけではないと思っています。
 話が少し飛びますが、カルフールが撤退すると言うことです。ウォルマートもあまりうまく行っていないという話も聞いたりします。ただ安かろうという路線では国際的な流通資本といえども苦戦する。そういう側面があるのは確かですから、楽観はできませんがそう悲観ばかりしたものでもない、とは考えています。食べ物がこれほどいい加減になっている文明などというのは続くものではない、という基本の認識を据えないといけないと感じています。
● トップオルガナイザーだった牛乳
今野 まず生活クラブの牛乳運動についてです。既に伝説のように語られていますが、生活クラブは牛乳からスタートしました。かつて昭和30年頃のことですが、神奈川県内でも10円牛乳の運動があった。まだ生活クラブの高津センター辺りにも酪農家がいました。その頃のことです。
加藤 私の入職した当時(1970年代後半)、車の窓からあの辺りに牛が放牧されているのを見た記憶があります。
 その頃も生活クラブでは、牛乳配達は他とは違った配達でした。早朝配達で配達効率が格段に良い。利用率が高く、週2回届ける。印刷物=情報を届けるには打って付けだった訳です。牛乳という基幹的な消費材の位置付けだけでなく牛乳配達そのものが、生協業務の中核だった面があります。その部分をワーカーズや外部化含め、職員労働から離していった経過があるわけですが、外部化はその点を薄めてきた面もあるような気もします。
今野 一般の牛乳屋さんの宅配は、当時そうした機能を持っていなかったのに比べ、生活クラブでは運ぶこと自体が多面的な性格があったわけですね。
加藤 その後、牛乳の殺菌温度を変えたこと、申込用紙と集計がOCR化したこと、時期は少しずれていますが、その頃から牛乳配達を巡る位置が少しずつ変わったと言えるかも知れませんね。
今野 スーパーマーケットが牛乳を冷蔵ケースに置き出す時期が、1970年前後。生活クラブがその直前に牛乳を配り始めた。これは実はすごいタイミングですね。その後コンビニが置くようになった頃(1974年にセブンイレブン一号店開店)、私は全農直販の牛乳部隊にいたのですが、コンビニでの販売量は1日2〜3本くらいでした。
 当時、生活クラブはスーパーよりも、コンビニよりも牛乳について何歩も前を行っていた。その点、現在はどうかということですね。
 生協、共同購入運動では運動商品としての牛乳の存在だった。一方、スーパー、量販店は運動しない牛乳。今、運動しない方が多数派となってきている。消費拡大があれば良いと言うことになる。
加藤 生協などの大統合時代の中で「低価格」がすべての中心を占めていますよね。それは今始まったわけではなくて80年代から一貫した方向性だった訳ですが、低価格が中心課題となれば、牛乳は運動課題から離れざるを得ないです。
今野 スーパーマーケットが問屋を経由せずに、メーカー直販で牛乳をやるようになった。そこが農協牛乳を取り扱った。生活クラブは全酪連に提案して、同意が得られず結果は直接生産者へ行ったわけですね。一方、灘神戸生協は昭和52年、北海道からLL(ロングライフ)牛乳を持ってくるということをやった。
 このころ第一次の「本物の牛乳論争」がありましたね。北海道の牛乳こそが本物、という主張だった。四つ葉牛乳、つまりクローバーを食べ、青空の下で育っている牛乳こそ本物だと。皆さんの都市近郊牛乳は本物ではないと言う論理です。背景には北海道が加工乳だけでは、もはや立ち行かなくなって飲用乳になぐり込みを掛けてきた、ということがあったわけです。紙パック形態でフェリーを利用してトラックごと東京に持ってくる。
 当時生活クラブは、都市近郊酪農が良いという主張だった。その点で動揺はなかったことは驚きでしたね。
加藤 クローバーと言っても北海道の牛だけがクローバーを食べている訳でも、北海道の牛だってクローバーだけ食べていられる訳でもないと思いますが、クローバーよりも短距離輸送が可能な都市近郊酪農を選んだというのが生活クラブの選択だったということでしょう。
今野 当時、マンションが建ちだした頃、ベランダの洗濯物を見ておしめがあれば生協への加入勧誘に行った、と聞いています。
加藤 それは当時の拡大活動の常識だったんじゃないでしょうか。生協への加入を勧める際のテーマのかなりの部分は牛乳でした。当時私は生活クラブ神奈川に在籍していました。その頃の活動では、食品公害その他の社会的な事件を訴えるチラシを全戸配布します。翌日、洗濯物を見ながら戸別に訪問して、興味のある話題から始める。おしめの干してある家では、やはり牛乳がオルガナイザーでした。
今野 そういう意味で運動品目のトップ足り得たわけですね、牛乳は。
 スーパーマーケットでも昭和51〜2年の頃から目玉商品化していきました。同時に東急ストアなどでプライベートブランド、PBの牛乳が登場する。全国的に販売されるナショナルブランドに対する言い方です。スーパーの店名を冠した牛乳は当時では冒険でした。
加藤 牛乳工場設立の1978年から少なくも5年程は、牛乳は先ほど述べたような加入の目玉テーマでした。殺菌方法を120℃2秒から現行の72℃15秒に変更したのは88年でしたが、この前段の頃は第2次の「本物の牛乳」論争というか、超高温殺菌のUHT牛乳は牛乳ではない、と言うような主張に押される時代となります。と言ってそれほどの顕著な状況変化があったというわけではありませんでしたが。
今野 高温殺菌以下の温度帯の牛乳ならば家庭でもヨーグルトを作れるが、超高温殺菌牛乳ではヨーグルトになりにくいという、家庭で実感できる事実が背景がありますね。
 その頃に外国に行けば牛乳の殺菌温度帯が低い、ということを言い出した人達が出始めた。私も当時、杉並の小寺ときさんという方のお宅に古沢広祐さんと一緒に話を聞きに行った。外国暮らしの経験をもとにした低温殺菌牛乳礼賛のお話をずーっと聞いた記憶があります。
加藤 第2次本物論争が始まった頃からすると生活クラブの変更は遅い部類にはいると思いますが、それなり長い時間を掛けて論議をし、殺菌温度変更をやった。
今野 随分慎重だった訳ですね。
加藤 それはリスクは高まりますから。
 当初、現生活クラブ連合会会長の河野さん達が牛乳を200本ほどの規模で配達し始めて、すぐにインチキ牛乳の評判を立てられた。そのことで逆に牛乳について学んだという経過があった。殺菌温度変更の過程は、第2次の学ぶ過程であったと言えるでしょう。
今野 その次に出てきたのがビンですか。
加藤 いやその前に色々ありました。連合会ができた直後の頃に牛乳で事故が起こりました。配達後に大腸菌数が基準値以上になってしまった。部分的には操業を止めたくらいの事故を起こしてしまった。パスチャライズド牛乳をやっているということを否応なく再自覚させられた大きな事故が一点目です。
 それからもう一つが乳牛のエサ、飼料の問題です。経過で言えば1990年の頭にはポストハーベストフリー(収穫後農薬未使用)トウモロコシへの取り組みが始まっていた。全農さんに協力いただいてですが。そのプラグラムに乗っける形で非遺伝子組み換えのトウモロコシを取り組むことができた。
今野 この点では生活クラブは、群を抜いたとりくみでしたね。
 米国からトウモロコシを運ぶ3万から5万トンクラスの穀物運搬船に、3千トンを区分して運んでくれと頼んだのは驚きだった。
加藤 ベニヤ板で仕切って貰ったりして、随分と苦労していただいた。
今野 パイオニアでしたね。
加藤 そのように自画自賛もしております。
今野 あの時、全農広報室にいた私の所にも全農飼料部で米国に駐在していた近藤康男さんから電話がかかってきました。今オルタトレードジャパンにいる近藤さんです。今野さん、一体生活クラブとは何者だい、この取引はものになると思っているのか、と言うような内容でした。確かミシシッピかどこかからの電話だった。
 私はものになるかどうかは判らないけれど、大切に扱って欲しい旨を答えた記憶があります。生協はいろいろあれど、中でも生活クラブは、接待などはしなくていいから(笑)とにかく丁寧に扱ってくれ、とお願いした。
加藤 非GMコーンの区分輸入は、今野さんの脅し(笑)があって実現していたわけですか。
―― 「本物の牛乳」論争が、生活クラブの内でも外でも幾度かあったと言うことですが、乳脂肪分については生活クラブ内ではどのような論議があったのでしょうか。
● 乳牛の「種」と飼い方
加藤 大論争という記憶はありませんが、常々論議される課題の一つです。
 かつては高脂肪が高品質の証のような風潮がありましたが、昨今の組合員からの要望としては逆に低脂肪分、ローファット牛乳の要望が折に触れて出て来ています。連合消費委員会でも議論になります。
 ただ生活クラブのコンセプトは成分無調整こそが牛乳ということで、またその先頭を走って世の中の牛乳を変えてきた自負もあるわけです。
 低脂肪分牛乳となれば、どういう形にせよ成分調整をすることになるわけですから、当然大いなる議論になる。ただ、今後ともずっと成分無調整だけでやり続けていくのかどうかについては、今後議論になるような場面もあるかもしれませんけどね。
 ところで、成分調整の是非もさることながら、生活クラブは以前から種の問題を取り上げてきています。鶏でいえばハリマの取り組みがありますし、野菜の種子なども、今野さんにも協力いただいてデータを集めたりもしています。遺伝子組み換え食品の登場以降、さらにそのことは強く意識せざるを得なくなっています。
 乳牛の問題で言えば現在のような、あれだけカロリーの高いえさを食べさせながら、高い乳脂肪率を維持する飼い方、あるいはホルスタインの在り様が良いのかどうかということもある。どちらかと言えばそちらの問題意識で乳脂肪分について考えていきたいと言うことだろうと思います。牛乳の規格要件が乳脂肪分でも設定されていますから、その制度改訂の問題も存在しますが、年間1万キロリットルも絞ることを、良くも悪くも目標とせざるを得ないような酪農のあり方は、やはり考えていかなければならない。BSEや肉骨粉の問題に現れた現在の酪農事情の問題だと言うことだと思います。
 論理のすり替えじゃないかという声も聞こえてきそうですが、乳脂肪分を考えるに当たっては、そうした飼い方を改める方が、生活クラブらしい議論ではないかと思います。
今野 それが今後の牛乳の未来を語る上で一つの課題と言うことですね。
加藤 年間1万キロも絞る生産実態は、さし当たっていろいろな無駄がそこには掛かっている可能性が高いわけです。牛の健康を損ない、かえって寿命を短くして採算性を悪化させる可能性だってある。そのことの見直しは、いずれと言うよりも、かなりの緊急性を持った課題という印象を持っています。
今野 野原由香利さんという人が、講談社から出した『牛乳の未来』という本がありますね。
加藤 昨年出ましたね。
今野 北海道の旭川で酪農を50年やっている斉藤晶さんという酪農家から聞き書きした本です。
 野原さんは酪農については全くの素人ですが、斉藤牧場をたまたま訪れるうちに強い興味を抱いて、牧場主の斉藤さんに話を聞く。山地酪農と言って、牛を山に放牧してその蹄で原野を牧草地としていく。30年40年かけて誰が見ても桁違いに良質な牧草地を築き上げた、ということを記録した本ですね。
加藤 牛自身に牧草地を作らせて行くという、いわゆる「蹄耕法」の話しですね。
 大変興味深いのですが、中でもその斉藤さんが大がかりな造成や、施設への投資などほとんどしないと言うところですね。少しは熊笹を刈って、原生林に牛が通れるくらいの道を付けて、野焼きもし、牧草の種を撒いたりはするようですが、後は牛が熊笹の芽をはみ、蹄で牧草の種を埋め込んで3〜5年で牧草地へと変えて行くという。まるで魔法のような酪農経営ですね。
 草を食べ、雪のない時期に限られるけれど毎日斜面を上り下りしながら暮らす牛ですから、乳量も年間4千キロを越す程度のようですが、元手が掛かっていないから採算性は、かえって良いくらいのようですね。もちろんそれでも飼料を一切飼わなくて済むという話しでもないようですが…。
 写真を見ただけですが、斜面にはいい具合に木が繁り、小川や湧き水もあって、大変見事な景観ができあがっている。石ころだらけの斜面が、牛によってあんな風に変わるというのは、俄には信じられないくらいです。またその斉藤さんという人が、その牧場を市民に開放していると聞きます。牛が作った牧場だから自分だけの財産ではないというんですよね。
今野 戦後に入植をして大変な苦労をされた果ての、まことに見事な酪農経営だと思いますが、130haに130頭の牛、1haに1頭の牛という、北海道ならではの酪農ですね。
 一方で今の日本の酪農経営に、その手法がすぐさまどこにでも導入できるという話しでもないことも確かだと思います。ただ、酪農の次のステップとしては、その山地酪農などの知恵を活かす方法はどう言ったものかということは大いにあると思いますね。つらいところもある議論だと思いますが・・。
加藤 山地酪農については河野会長も常々言及していますが、この斉藤牧場以外にも各地で、細々ではありますが続けられているようです。
 GMO以降、河野会長の言葉で言えば「種子と農法」と言うことになりますが、この場合で言えばホルスタインという「種」で良いのかと言うことと、あと明らかに飼い方の問題です。そのことにもう一段突っ込んでいかないと本質的には乗り越えられない課題があると感じています。そのことがローファット要望という現実とも噛み合うと良いのですが。
今野 相当な準備が必要なテーマですね。
加藤 というか河野会長が既にホルスタイン見直しの声を上げて、生産者にお願いしていますから、栃木で実験が始まります。
今野 ジャージー種とになるんですか?
加藤 多面的な試みになると思います。ですから議論の段階から踏み出して、実験的に飼ってみようということが近々始まります。
今野 そのことは乳肉複合というデッサンにもなっているんですか。
加藤 うちの会長のことですから、それが実現できれば一番望ましいというところです。
● 食べる牛乳について
今野 もう一つは飲む牛乳と食べる牛乳のことです。飲む方はまさに生活クラブ歴史のような議論が積み重なっているわけですが、一方で食べる方、チーズ、ヨーグルトの類ですが、海外からも押し寄せてきている部分です。皆さんの運動論的な議論がこの部分では不足気味のような気がするんですがね。
加藤 生活クラブの経過としてはどうしても牛乳そのものを中心においての議論でした。結果として加工乳製品は相対的に弱いというのが偽らざる現状です。
 しかし、仰られるとおり多様に丸ごと乳製品を食べていくということは不可欠なわけです。生活クラブとしては、素材中心、主要品目重視は継続しますが、同時にそれを多様に食べるという努力なしには、素材を素材だけで食べるというのには無理がある、目的意識的に対処しなければ利用水準を維持することは相当困難になってきてはいます。
今野 素材主義と皆さんの自己工場というのとは一体のものですが、チーズとヨーグルトも素材ですね。生協でも自己工場という方法ではなく、いくつもの産地、数社を天秤購買して、土日には特売をかけて、というのが一般的だと思います。土日だけでなく、夏と冬の需給ギャップなどを生活クラブではどのように対処していく方針なのですか。
加藤 生活クラブは特売をかけるというわけには行きませんけれど、そのアンバランスを座視しているわけにも生きません。その点でも多様に食べるというのが重要になると思います。一方で加工度を上げるほど、嗜好性も出れば、あきられると言うことも出てくる。
 牛乳の利用人員率は、かつては8割を超えていました。それが現在は6割を下回りました。さらに戸別配送では5割以下になっています。
日曜問題はデポーでの供給で緩和できても、季節による需給ギャップ解消はなかなか困難です。それ以上の手段が必要とされます。
 組合員で多様に食べるということ、それと生協の外へも広げていきます。昨年設立した生活クラブ・スピリッツ鰍ヘ、生活クラブの材の価値を、生協とは違うチャンネルで社会に広めて行くことを使命としています。既に新生酪農のアイスクリームは、コンビニチェーンのギフト商材で好評を博しています。またチーズも、ALL Japanナチュラルチーズコンテストで前回、前々回と連続して最優秀賞をとっているんです。
今野 今年3月来、さがみ生活クラブ生協で牛乳、米、豚肉の利用強化活動のいくつかの場面に参加させていただいた。これまで5万人の神奈川ユニオンでしかやってこなかったことを、さがみという組合員9500人の規模でもやれるんだと言うことで目が輝いている。そういう点で少し光を感じることができた。自前で絵にしてみる、と言うことが問われる段階だという感想も持ちました。
 いろいろな点で、今回の牛乳キャンペーンに期待しています。本日はご苦労様でした。

“GM牛乳”裁判から見えたこと

「GM牛乳」呼称は合法!!
〜消費者は食品情報を手にすべきだ〜
ドイツ語翻訳工房 

たかお まゆみ

ドイツで「GM牛乳裁判」騒ぎが広がっている。中欧周辺国も呼応している。「シュマイザー裁判」ならぬこの「GM牛乳裁判」。以下の記事では、このGM牛乳裁判が第二審で市民団体・消費者が優位に立ったところまでを04年11月の時点で記している。この裁判を追いかけていてもっとも感じたことは、日本の消費者は食品情報をもっと保障されるべきだということだった。食品情報の入手を保障する最も効果的な方法は、「食品表示規則」を充分かつ、分かりやすくしていくことにある。「日本の食品安全行政は消費者本位に転換した」と国がいうのであれば、穴だらけのGM食品表示も、消費者本位に改正していかなければならない。「消費者に情報を!」と呼びかけるための元気を海の向こうからもらった。
1.GM牛乳騒動―あるクライマックス
 「牛乳からGMO飼料の痕跡が見つかった!」――このショッキングなニュースをグリンピース本部(ハンブルク)が報じたのは2004年の6月21日だった。バイエルン州にあるバイエンステファン牛乳・食品研究センターの牛乳検体検査でみつかったもので、「担当の研究者自身も驚いた」と報じられた。検出されたのはラウンドアップ耐性大豆とBt176コーン。牛たちはこれらのGMO飼料を与えられていた。このニュースは農業関連のWEBサイトでも直ちに流され、中には「もし真実であれば、世界で初めての例だ」(Agrar.deアクチャルニュース04年6月21日)と報じたところもあった。
2.GM牛乳騒動の経緯
 実はこれは、牛にGMO飼料を与えている大手乳業会社ミュラー社とグリンピースの争いに関係がある報道だった。
 04年4月18日、EU域内に厳格な新GM表示法が施行された。新法はGMOを拒否するEU市民から好意的に受け取られているものの、残すところの大問題が一つある。それは、使用した家畜飼料の内容について表示義務がないということだ。そのため新表示法歓迎ムードの中で同時スタートしたのが、有機農業団体、環境団体、消費者団体などによる家畜GMO飼料表示義務化のキャンペーンだった。これを加速したのが同時期に予定されていたEUのGMモラトリアム解除であったことはいうまでもない。
 そのような背景の中で起きたこのGM牛乳騒動。時系列でふりかえってみよう。
・03年末:グリンピース、“GMなしの食事を!”キャンペーン開始
・04年新春:グリンピース、大手食品企業に対して、「GMO飼料を使用しているか?」「今後GMO飼料をどうするつもりか?」などのアンケートをとる
・これに対してTheo Mueller GmbH u.KG(以下「ミュラー社」と略)は無回答
・04年4月:ミュラー社は「今後はGMO飼料を使用しない意向」と回答
・グリンピース、その後、四つの港からミュラー行きのGM大豆を発見
・ミュラー社、グリンピースの問い合わせに対し、GMO飼料の使用を否定せず
・グリンピース、ミュラー社が、アルペン地方で搾乳されていない牛乳を「アルペン牛乳」と称しているのにも反発
・グリンピース、ミュラー社の牛乳および乳製品を「GM牛乳」と称して、キャンペーンを開始。
・5月中旬:主要50都市で「GM牛乳・・それとも?」「ミュラー牛乳=GM牛乳・・それとも?」「GM牛乳。買い物かごにいれないで」などのスローガンで反ミュラー牛乳運動。
・6月8日:ミュラー社、ケルン地方裁判所に「グリンピースが自社の製品をGM牛乳と称するのは根拠がない」として訴えを起こす
・6月21日:グリンピース、「牛乳にGMO!」という前記の研究データを報道
3.6月23日の仮判決
 ケルン地方裁判所はこの争いに対して、6月23日に仮判決を出した。「グリンピースはミュラー社の牛乳を『GM牛乳』と呼称してはならない。飼料として与えたGMOが牛乳の中から検出されたというのは誤った科学的データだ。ミュラー社の牛乳はGM牛乳ではない」というものだった。そして、店舗でのGM牛乳ステッカー貼り付けの禁止、電子ハガキを用いて消費者がミュラー社に抗議する取り組みを先導することを禁止、WEBサイトでミュラー社のキャラクターをGM牛乳と関連させて揶揄してはならない、など具体的な禁止事項を指示した。
 これに対してグリンピースは「GM牛乳という表現がまずいのならそれはそれでよい。我々が問題にしているのは表現ではなく、ミュラー社がGM大豆契約農家との専属契約を見直し、GMO飼料を拒否する市民らの願いに耳を傾けるようになることだ。GM牛乳という表現は使わなくてもキャンペーン内容は続けていく。ミュラー社はわれわれの口を塞ぐことはできない」と述べ、すぐに上告した。
4.バイエンステファンの検査結果はいったい何だったのか?
 冒頭の検査データはバイエンステファン牛乳・食品研究センター刊行の専門誌に3年前に取り上げられていたものだった。これに陽の目をあてたグリンピース報道の中身に誤りはなかった。しかしグリンピースは、雑誌記事の一部を省くという過ちを犯したらしい。なぜなら同研究所側は、「検体の抜き取り時の情報が不足していた点、抜き取りから検査までの衛生管理が十分でなかった点があり、風により飼料が検体に紛れ込んだ可能性がある」とコメントしていたからだ。改めてインタビューに応じた同研究所のH.マイヤー博士も、「不十分な検体だった可能性が高い」としてグリンピース報道を批判した。
 翌日以降、研究者団体から「GMOを食べている牛から搾乳した牛乳に、飼料中のGMO痕跡が検出されることは学術的にあり得ない」という批判が相次いだ。二日後に出た仮判決も「公開データに信憑性なし」とした。判決後には、DBV、ドイツ女性農業者同盟(div)からグリンピースへの厳しい批判が寄せられた。反GM派であるカソリック協議会からもだ。「十分でない情報を流して正しいリスク・コミュニケーションを阻害した」「現在緊急に必要とされている農業上のバイテク使用に関する論議をかえって妨げた」とか、「意図的な情報操作はグリンピースの評判を落とすのでやめるべき」等々。
 つまりグリンピースは、自らが有利になるように勇み足を踏んだというわけだ。しかし‥‥続く

1.味‥‥続く


5.現‥‥続く



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