●バイテク特別部会に参加した印象
倉形 まず、コーデックスバイテク特別部会の印象をざっくばらんにお聞かせ下さい。
山浦 今回バイテク特別部会は第三回目で、私も三回目の参加です。私は今回、テクニカルアドバイザーというたいそうな肩書きで、日本政府の枠で参加しました。今回は、傍聴を申し込んだ一般の方が同じフロアーで会議の様子を目にすることができて、去年より少しはオープンな感じがしました。ところが、実際傍聴していた人がどれだけ議事進行、書類など、会議の内容を理解できたかというと、これは疑問です。やはり、事前に政府代表なり、NGOがいろいろ準備して初めて、内容にふれることができたのではないかと思います。
今回参加して、NGOの参加という意味ではWTOなどよりは進んでいる感じがしました。しかし、議事進行を含めて考えますと、特に今回は、遺伝子組み換え推進側の国々や、NGOとして入っていた推進側の企業が、積極的に議事を進めている印象を受けました。
倉形 今回初めて傍聴しました。これまでコーデックスバイテク特別部会の中身は、いくら報告を聞いてもよくわからないなという印象をもっていましたが、傍聴してみてもやはりわからなかったですね。決して、英語とか、専門用語の理解云々といった問題ではないんだ、という印象を持ちました。
近藤 私も、一・二回目は抽選で傍聴券が当たったのですが、びっくりしたのは、会場すら別で、テレビのモニターで会議を見ることです。あれなら誰が傍聴してもいいのに、わざわざ抽選をすること自体がとても不思議でした。今回、オープンになったのは、働きかけをされた結果だと思いますが、良かったと思いました。やはりモニターを通して見るのと会議場で見るのとでは、見える範囲が全然違います。モニターだとほとんど議長の顔が映っているものですから、会議全体の様子は、よくわかりませんでした。
今回はICA(国際協同組合同盟)の枠でオブザーバー参加させていただきました。では、中身はどうであったかというと、大変なことを決める場で、いろんな賛成反対の意見があるわりには、あら、合意しちゃったの? さっき反対の意見を言った国は今の説明で納得したの? というような感じでどんどん進んでいく。「ああ、そうね、私も疑問だわ」と思っていると、もう次に行っている。合意の水準というのでしょうか、それがどうなっているのか、率直なところ疑問です。もしあれで合意しているのであれば、よっぽど裏で何かしているんだろうなという感じですね。当初、例えばEUが求めている、ある程度厳しいものに決まらないのなら決裂すればいいのに、と素人判断で考えていましたが、会全体の雰囲気は、どちらの考えを持っている国も、なんとかゴールに行くんだ、結論を出すんだというところで一致していたのが、とても不思議でした。
真下 今回急遽、日消連(日本消費者連盟)から、CI(国際消費者機構)としての参加要請を受けて、1カ月ほどしか時間がなかったのですが、にわか勉強で参加しました。資料の量が膨大で、すべて英文だったものですから、相当大変で、かなり苦労しました。
充分に理解したうえでオブザーバー参加できたわけではなかったのですが、第一印象としては、むしろポジティブな感じを持ちました。地球温暖化会議などよりは、はるかにNGOの参加の機会が開かれている。NGOの発言も、各国の代表の発言と同じレベルで扱ってくれる点は、非常に民主的だなという印象を持ちました。これは議長の采配によるのか、あるいは制度的に確立されているのか、よくわからないですけども。
もう一つは、こんなふうに決まっていいの、というくらい重要な案件がどんどん決められていく。それが各国に降りていって、その国の国内法として施行されていくわけです。我われの生活に直接影響のあることが、国際会議の場でどんどん決められていく。国際会議で決められることがいかに重要か、それを非常に強く感じました。
日本の国内で、コーデックス委員会のような市民参加を達成するのは、ほとんど無理です。そういう意味では、NGOの参加が許されているのは良いことだと思います。ただ、NGOも参加したうえで決めたんですよ、とお墨付を与えることになってしまう、逆の危険性もある。今回決められたものも、今後順次見直されていくはずですから、その点で不充分な面を変えていくことができるかなと、全体としてはかなりポジティブな印象を持ちました。
温暖化会議は、ビデオに撮ってインターネットで誰でもが見られる状況です。それに比べると、同じ部屋であれ、参加者を抽選して厳選したのは、ちょっと矛盾かなという感じがします。
倉形 前回まで一般傍聴は別室でモニターでしたが、これをインターネット上に流せば、誰でも見られる。
近藤 そうそう。わざわざ出向くまでもなかったという感じでした。
倉形 現に、国会などはそういうサービスを委員会ごとにやっていますよね。
清水さんはどうですか?
清水 私は前回、今回とICAの一員として参加しました。前回は初めてだったので、運営のあり方などに驚いたのと、せっかくNGOの代表として中に入れるのだから、きちんと意見を言えれば、と痛感しました。にもかかわからず、1年間ほとんど準備できないまま今回会議に臨んだのが一番の反省点です。この一年間、きちんと内容を検討していれば良かったのにと、すごく反省しています。
一方、コーデックスの会議に乗っかってしまうことで、遺伝子組み換え食品のグローバルな貿易を後押しすることつながるのかと思うと、これでいいのかという気持ちもあります。自分がこの会議にどのように関われば一番いいのか、未だに見えないところです。
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●各国の思惑と発言力の差
倉形 外から会議を見ているときには、会議ではさぞかし中身の論議がされていると思っていましたが、今回傍聴してみて、中に入っても見えないというのが正直なところです。みなさんの印象もそのようですが。
真下 私はちょっと印象が違っていて、よく勉強していればかなりわかると思います。ただ、内容そのものが複雑で専門化しているものだから、我われのようなNGOが対応しようと思ったら、ものすごいエネルギーを割かなければいけない。我われのようにお金の無いなかで、専門的なところまで突っ込んでいかないと対等な議論ができないというのは、事象そのものが複雑だから、しかたないと言えばしかたない。
だけど、先ほど対等な扱いをされていると言ったけれども、それは会場だけの話で、各国の代表団はそれ専門に一年中コーデックスばかりやっている。給料もらって、そればかりやっている。そういう人たちが原案を作って、同じような立場の他の国の人がコメントする。それに我われが同じだけコミットしようとすれば、力の差がありすぎる。毎回、世界のあちこちで開かれるコーデックスの委員会に参加するといったら、ものすごく旅費がかかる。これをNGOが出来るかと言ったら、それは出来ないわけですよね。そういうレベル、基本的なキャパシティビルディングの部分では、はるかに格差がある。政府代表団にしても、途上国には不利ですよね。
倉形 そうですね、一回ごとの参加国が30数カ国、40いっていないコーデックス加盟国全体は165カ国ですが。
山浦 ええ。絶対数から見ると発展途上国の参加は非常に少ないですよね。代表団の人数にしても、大国は二桁ですが、小さい国は一人とか二人しか来られませんので、会議における発言力も相当違ってきます。
倉形 今まで、米国はしゃかりきになって自国の利益確保を発言しているのだろうと思っていたら、今回、発言の回数は多いけれども、非常に悠然としていて、節目節目で「それも、よろしいんじゃございませんか」のような、おおような態度、コメントで進めていく。
真下 たぶんアメリカは、コーデックス基準をできるだけ早く作りたいというのが前提にある。そのためには多少の譲歩はしかたないと思っている。
倉形 一方で、日本政府が無言でしたね。
山浦 私は日本政府代表団のグループのテーブルに居りましたので、その点が非常に印象深かったのですが、日本政府代表団は、重要な議論についていっさい参加しない。それは初めから決めていたようで、トレーサビリティをめぐる議論においても、一言も発言はありませんでした。その点について政府の人に質問したり、注文をつけたりしましたが、言い訳ばかりで、議長国という立場から、積極的にどちらかの側に味方するのではなく中立的な立場をとるんだ、というふうな主張でした。
ところが、事前に各国から出されたコメントペーパーには、日本政府も積極的に書いています。トレーサビリティをめぐっては、フランスのペーパーに全面的に賛成というわけではありませんが、ある程度理解を示すような、コメントを示しているわけです。
それから、事前に国内で開かれた意見交換会におきましても、消費者団体からの意見として、トレーサビリティはフランス提案を尊重すべきではないかなど、私もコメントしましたが、それが会議にはまったく反映されていないことに非常に憤りを覚えました。
倉形 そもそも「日本の意見」というのが誰の意見なのか、大変疑問なわけですが。
天笠 去年はテクニカル・アドバイザーとして参加していた京都大学の宮城島一明助教授の発言が非常に問題になりました。日本政府が表に出て悪い方に引っ張っていくという流れがありましたが、それが批判されたので、今年は引っ込んだと考えていいのですか。
山浦 そうですね。宮城島氏の発言は、形式的なものが一回か二回あっただけです。
真下 全体としてはNGOのオブサーバー参加があって、一応市民の声が反映されるようになっている。でも、各国政府の代表団は国民の代表ですから、国民の声を反映しなければいけないわけですよね。正式には、どういう経路で国民の声を反映するシステムになっているんですか?
山浦 コーデックス委員会のルールがありまして、各国で国内コーデックス委員会を開いて、そこでそれぞれの政府の意見をまとめてくるべきだ、という考え方があります。多くの先進国におきましては、国内コーデックス委員会という、一種のコミュニケーションの場が設けられている。例えば北欧諸国ですと、こういったテーマについてどう思うかと関係団体に聞き、そこからの意見をまとめてさらに議論をして、最終的に政府の見解をまとめる、となっています。
日本においては、国内コーデックス委員会自体存在しない。形だけの意見交換会、懇談会がありますが、これはたんに政府の側から経過報告をする形式だけの場です。例えば、消費者団体がこういうふうにしてほしいと注文しても、それが政府の意見に反映される保障はまったくない。
真下 一般的に、市民の意見がどう反映されるのか、その経路はまったく不明ですね。向こうの胸先三寸で取捨選択が勝手にできてしまう。それは非常にまずい。コーデックス委員会は、市民の意見が多少入っていますが、意見を切り捨てるのなら何故切り捨てるのかをきちんと言わないといけないだろうし、できるだけそれを取り入れる努力をすべきなんですけどね。そこのところが聞きっぱなし、あとは向こうの好き勝手というのはおかしいと思います。
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●議論にはめられた「枠」
倉形 市民がどう関わるのかについては、あとで集中的にご意見をお伺いしたいと思いますが、まずは合意形成の仕方について。
GMをめぐる諸事件が世界で起きていて、プシュタイさんの発表だとか、オオカバマダラ蝶が死んでしまったとか、そういうことが会議でさぞかし話されているんだろうなと思っていたのですが、その種の話はなく、条文を一字一句推敲している。私の素朴な実感としては、そこに最大の違和感がありました。コーデックスは一応科学的ということがその基盤とされています。しかし論議の中身が科学的であるかどうか、私には疑問です。
山浦 議論の素材がFAO/WHO合同専門家会議で作ったペーパーで、それを条文化してガイドラインにする作業が、主要な中身になっています。今、倉形さんがおっしゃったような、世界で実際に科学者が問題提起している事柄が、少数意見であるとなかなか盛り込まれない。
真下 言ってみれば、専門家会議のペーパーが日本の官僚が作る法案みたいな物で、コーデックス会議は審議会、という感じですよね。本当のところを決めているのは、FAO/WHO合同専門家会議で、その中にはNGO側の学者は参加を拒否されている。そこが原案、全体の枠組みを作って、その枠の中でコーデックス会議は議論している。枠からはみ出るような議論はそもそも議論の対象になっていない。そこがコーデックス会議の一番大きな問題ですよね。
オブザーバ参加しているNGOのひとつ「49thパラレル」(49th
Parallel Biotechnology Consortium)など非常によく勉強していて、あそこが出す意見は採り入れられていましたが、コミットしているNGOは、全体の枠をはみ出すような議論はしないところが多い。そもそも、コーデックス委員会が依って立つ原理を問い直すことはやってこなかったのではないか。会議に参加しているかぎり、そういう枠からはずれるようなことをブチあげても、当然それは採り入れられないことがわかりきっているから、誰もそれをやらない。
山浦 第1回の会議のときには、予防原則(precautionary
principle)とか、トレーサビリティとか、いろいろ多様なキーワードがありましたが、会議を経るにしたがって、だんだんとGM推進派の要望が重要視されるようになって、今回のペーパーを見ますと、そういう流れが明らかになっています。
真下 何なんだろう、それは。議長の采配なのかな。
天笠 予防原則について言えば、コーデックスのなかで原則的に否定されたと言われています。会議の文書を読んでいて一番印象的なのは、「科学的」という表現がよく使われていることです。遺伝子組み換えの問題は、不明というか予期せぬことが起きていることが科学的に問題なわけです。そうした意味なのに、科学的という言葉を他の論理を排除するために使っている。遺伝子組み換えのような予期せぬ問題を、議論しないような態勢ができてしまっているのがやはり問題だな、という気がします。
倉形 吉倉 廣
議長は高い評価を受けているようですが、今回の運営では、ちょっと投げやりだったような気がします。「これはみなさんが決めることです」みたいな表現で放り投げる。そもそも科学的、論理的に決めるのだったら、「みなさんが決めること」ではいけない。争点はここです、ではこれを明らかにしよう、という積極運営こそが科学的、論理的議事運営だと思いますが、とてもそういうものではなかった。その点、吉倉さんも科学者でありますから、ここで決まるわけではないからというのが、あの議事運営に表れていたと穿った見方を個人的にはしていました。
天笠 先ほど、お膳立てがあったみたいだと近藤さんが言われましたが、お膳立てがあるというのは、論理的科学的ではなくて政治的ですよね。ですから初めに前提があって、それに、ややみなさんの意見を聞いたような形で修正を加えていくというのが、全体的な流れという感じですね。
倉形 とにかくゴールに行かなくてはならないという話が先ほど出ましたが、やはりそんな感じでしたよね。
清水 昨年の会合なんか「これをステップ5に進めるんですか、進めないと今やっていることが全部ムダになります」って、おどすんですよ、議長が。
真下 それは裏表、二面性があると思うんです。推進したい側は、今後晴れてきちんとしたルールの下で遺伝子組み換え食品を取引したい、という強い願望がある。もう一つ、規制する側から見ると、これまできちんとしたルールがなくて各国バラバラにやってきたけれど、規制の網をかけなくてはいけない。だから、合意できるところで現実的な規制を、という考え方は当然あるわけですよね。
どちらも既存のGM食品が流通できなくなるような規則は作らない、という暗黙の前提がある。それから遺伝子組み換え、バイオビジネスが成り立たなくなるような、これから成長できなくなるような規則を作ることもなしにしようね、という暗黙の前提がある。
倉形 市民運動の側でも、とにかく成果がある、何か文書が決まることを評価するきらいがある。
ともかく何か決めなくてはいけないという傾向が強くて、大枠として進むものは何かということに対する評価が希薄になっている、そんなことを思いました。そもそも食品規格とは何か、国際的に一つのスタンダードを決めるのはどういうことを意味しているのか。まさにコーデックスの存立基盤の話ですが‥‥。
真下 結局、コマーシャリズムのうえに乗っかった議論で食品の安全性を考えるのか、それとも人間、環境への影響・被害をくい止めるために何をしなければいけないのかというレベルで考えるのか、その違いだと思います。要するにコーデックスの議論は、いわゆる近代経済学でいう均衡理論ですよね。安全性の追究と遺伝子組み換え食品の流通によって得られる便益。その釣り合いを計ってこれをやりましょう、そういう発想ですよ。実際にそれで被害が出るかもしれないけれど、それは最適レベルの被害だということになる。
天笠 食品規格を決める必要があるのかないのか、という議論がありますよね。食品規格を世界で、グローバルに決めようという発想自体が必要なのかどうかが最初に問われなくてはいけない。例えば有機農産物の食品規格などにしても、各国によって状況が全然違うわけですから、それを一律に国際規格として決める意味があるのか。遺伝子組み換え食品規格の場合、国際統一規格を作って一番喜ぶのはどこかって話ですよね。一番利益を上げるのは、モンサント社に決まっている。
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●安全性審査のまやかし
倉形 いわゆる実質的同等性は、従来食品は安全だから、その上に差異が生じたところだけ審査する構図ですが、その差異ということも問題ですが、従来食品がすでに安全である/安全でないと明確に線を引く認識のしかたが、まず疑問です。食生活の中身は各国で、あるいは一つの国の中でも各地方でまるっきり違う。日本人は大豆をたくさん食べるので、大豆の女性ホルモン作用を考えると外国人から不思議がられるほどですが、そんな違いがあるのを、一律にこれは安全性が確立されている分野/されていない分野とする、その線引きそのものが非科学的な感じを受けるんですけどね。
山浦 しかも、コーデックスではヨーロッパの食生活が議論の所在になっていて、日本の食生活における大豆やお米についての関心はあまりないのではないか。ヨーロッパ規格が世界基準となってしまう、そういう感じも受けますね。実際に参加した政府、NGOもヨーロッパ・アメリカが中心で、アジアの発言力は非常に少ない。そういう意味で、グローバリズムの中身はヨーロッパ・アメリカ、特に多国籍企業に代表されるような声がこの場にも反映されている。
真下 アレルギー性では小麦についてばかり議論されて、その他の食品についての言及は一行くらい。
山浦 日本政府はそばとか大豆とか、いろいろな日本食のことを積極的に提案すべきなんですが、一言もありませんでしたね。
真下 非常に限定されたリスク分析ですね。リスク分析というのは、言葉の概念そのものはリスク全体を解析してその対策をとることです。今回合意された文章の中で述べられているリスク分析の中身は、どんどんせばめられて、結局は、今できることをリスク分析にしようというやり方です。
先ほどの実質的同等性の議論にしても、もともと合同専門家会議の報告書からきているのですが、そのなかで言っているのは、例えば、食品添加物や残留農薬の動物実験は、食品全体の場合には不可能である。なぜかというと、食品全体を実際に摂る量の数十倍、数百倍を実験マウスに与えて実験することはできない。だから従来やってきたような安全性の試験はできない。だから実質的同等性という概念でやるしか仕方ない、という言い方をしている。だけど、それで安全が守られるかといったら、全然そうではない。わからないことがたくさんあって、実質的同等性でカバーできない部分がたくさんある。そのことについては何の言及もなく、実際には実質的同等性を基盤にした安全対策しか取られていない。
最後にフォローとして、リスク管理のところで、もし何かあった場合にはトレーサビリティで元をたどって原因を究明しようという。実際に何か起きたら元をたどることぐらいはやっておきましょう、と。
ここで扱われたリスク分析以外の部分で何か必要だという人がいたら、その必要を科学的に証明しなければ取り入れられません。つまり、実際にわからないことがいっぱいある遺伝子組換え食品を市場に出して、まったく何も知らない人が食べて、それでいい、というのがコーデックスの基本的な立場です。
山浦 コーデックス委員会のペーパーでは、組換えDNA植物由来の食品の安全性評価のためのガイドラインの第3章に「実質的同等性の考え方は出発点で最終目的ではない」と書かれているものの、今真下さんが言われたように、その中にいろいろな制約をどんどん入れて、実際には実質的同等でいくとある。例えば、「9 品種改良」では、動物実験は行なわれてこなかったではないか、「11」では動物実験は技術的にふさわしくない、といった言い方で、だんだんせばめていって、安全性評価のやり方を限定していく。ですから、実質的同等性が出発点だというものの、それしかないという論理構成が各所、出てくる。
真下 出発点と言っても、結局はエンドポイント。
山浦 そういう論理矛盾がありまして、見た目には何か科学的に精緻化されているようですが、実質的にはまったく科学的ではない。
倉形 日本政府に対して、安全性に関するコーデックス内の論議の決めつけについて、具体的な反論をこちらはすべきだと思うんです。例えばプシュタイさんの研究で言えば、動物実験はできるということですよね。
天笠 プシュタイさんが何度も主張していたのは、遺伝子組み換え食品そのものを食べさせる動物実験の方法がある、やろうとしないだけだ、というものです。実際にプシュタイさんがジャガイモで行なった方法は、かなり科学的だと思います。あの方法が他の人たちは何故できないのか、そこが問題だという気がします。
真下 コーデックスのガイドラインをみなさんで読んでいて、常にその話が出てきましたよね。何故、エンドポイントとして動物に食べさせる実験をやらないのかというのが。遺伝子組み換えのせいかどうかはわからないかもしれない、他の原因かもしれないけど、何か異常が出た場合には、そこで最終的なチェックはできる。何故やらないのか。
倉形 そこが疑問ですね。
真下 ガイドラインでは、そもそもそれはやる必要はない。場合によってはそういうこともできる、やってもいい、という言い方しかしていない。だけど、素人が考えてもわかるように、最終的に人間が食べるものを動物にまず食わせておいて、異常が起きるかどうか実験してみたっていいのではないか。彼らは、それは遺伝子組み換えが要因ではないかもしれないから、やってはいけない、やる必要はないだろう、と言う。
倉形 そういう論陣をはっている文書を用意した日本政府、あるいは米国政府が、現実にスターリンク事件が起きたときに何をやったかといえば、「鶏に食べさせました、牛に食べさせました、異常ありません」。
天笠 鶏に遺伝子組み換えトウモロコシを食べさせて、スターリンクのDNAやタンパク質が鶏肉の中に移行するかどうかという実験ですから、スターリンクコーンが、動物にどういう影響を与えたかという実験ではない。そこが科学的とはとても言えない。
もうひとつ、モンサントの大豆について言えば、タンパク質を使った実験と言いながら、そのタンパク質自体が大豆に作らせたタンパク質ではなくて、バクテリアに作らせたタンパク質を使っている。これはどう見ても科学的ではない。それから研究の精度があがってくると、問題点が次から次へと浮かび上がってくる。DNAの断片が見つかったとか、DNAの読み終わりの部分に欠陥があって読みつづけてしまう可能性があるとかがわかってきても、結果として問題がないからラウンドアップレディ大豆をそのまま認めて、取り消すことはしない。ひどく非科学的ですよね。
科学的、論理的と言いながら、日本政府も、国際的社会を見ても、取り消そうという動きはない。こんなコーデックスであれば、論理的とか科学的とか、言わないほうがいいのではないか。
倉形 バイテク特別部会の議論でも、非意図的効果、しかも予期せぬ非意図的効果を論議しているようでありながら、現実に起きている問題、モンサントの非意図的な、次々と暴露されることについての議論は一言もない。
真下 カテゴリーとして最初に、意図的効果、非意図的効果、それから予測不可能な効果の三つが出てきますが、予期されない効果についての評価はまったく書いていない。
天笠 コーデックスの文書を読んで感じたのは、日本政府と同じように、審議会など最初にお膳立てがあって、字句をなおして最終結論に持っていく、お膳立てが最初のポイントになっている。そこから私たちが議論をすると、相手の土俵で議論することになる。この座談会のメンバーで文書を読んでいたときにも、字句が気になって、どういう意味だろうという議論をしましたが、それよりも重要なのは、遺伝子組み換え食品の安全性を評価して規制するのはどういうことなのか、その出発点から始めないとダメだという印象を持ちました。
最初に遺伝子組み換え実験が成功したときに、これは問題だよ、と言った科学者たちはたくさんいたわけです。いつの間にか流れが変わってきました。それがいつなのか調べてみましたが、1977年のファルマスの会議で流れが変わった。遺伝子組み換え技術には予測できないような変な事は起きません、という科学者の声がその頃ワッと出てくる。ところが実験はほとんど始まっていない。76年に最初の実験指針が出て、ようやく実験ができる段階になったその翌年に、もうそういう声が出始めた。その声が科学者のなかでコンセンサスを得ていくわけです。
これがOECDの議論のなかに入ってくる。OECDで遺伝子組み換え作物をどう評価したらいいのかという議論が80年代初めに始まります。そのなかで、遺伝子組み換え技術による品種の改良は従来の品種の改良の延長線上にある、という結論がでました。その結論が後に、OECDの、遺伝子組み換え食品は従来の品種の改良の延長線上だから従来の食品と実質的に同じという判断でいい、という考え方になる。
ですから、私たち一般市民の、遺伝子組み換え技術は予期せぬ問題が起きるのでは? という疑問に対して、実験をやりたいために、たえまなく科学者の側から「そうじゃない、そうじゃない」という流れがつくられてきた。その延長線上に国際会議がある。考えてみると、一般消費者が食べてどうなのか、作付けしてどうなのか、実際に環境にどういう影響があるのか、という議論ではない。そういう現実を全然ふまえていない。初めに結論ありきなんです。遺伝子組み換え技術ではたいした問題は起きない、というところからスタートしている。今回の文書を見ても、そういう意味合いがかなり色濃く出ている。一般消費者が懸念することは、最初から眼中にない。お膳立てが作られていて、字句の調整だけでやっていて、我われの日常生活の感覚からずれたところでこの文書はできあがっているな、という感じがしました。
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●途上国の視点
倉形 時間も限られていますので、コーデックスのあり方を考えてみたいのですが。先ほど、参加国の問題、欧米基準になっているという話がありました。トレーサビリティについて、アジアから反対がありましたね。
近藤 不勉強ですが、私には意外でした。インドネシアやタイの「トレーサビリティ」を削除すべきという発言に、おや?なぜ?と思ったんです。が、技術的・経済的な面から途上国では実行が難しいという意見を聞き、すべての国の食の安全を確保するために手段が一様でいいのだろうか、と考えてしまいました。
以前、表示の学習会に参加したとき、講師の農水省の方が、消費者が表示を望むのはかまわないが、コストがかかりますよと。そのとき、高いものでも食べましょうとは言えないと、複雑な気持ちになりました。
それに、世界基準を作るということは、制限するのではなくて、ここまではいいよ、とお墨付きを与えることになりますよね。
倉形 国際基準があったほうが良いという意見と、一方で何故基準を作らなくてはいけないのか、と言う意見があります。
山浦 コーデックスの目標には二つあると思います。一つは公正な食品貿易を世界的に発展させる、自由貿易推進の論理です。その点でも基準の明確化、統一化の必要がある。もう一つ、安全な食品の確保という意味での基準の設定。この両方の目的のなかで世界標準を作るとき、例えばトレーサビリティのシステムを作ろうというときに、資本力がある先進国や大企業が有利なシステムになりがちですね。先ほどのアジアの発言も、大きな力をもっている国に対して自分たちは対応できないので、そういう基準が国際規格になってしまうと自分たちの生産が成り立たなくなってしまう。そういう点からの反対ではないかと思います。ハセップ(HACCP)にしても、雪印のような大企業が推進していて、資本力がないところは太刀打ちできない。
ですから、トレーサビリティも一種、資本の論理の側からの選別に使われてしまいかねない怖さがあると思います。日本の消費者も、トレーサビリティを語るときには、常に、経済的格差の問題が背後にあることを考えなければいけない。日本の消費者の場合は特に、自給率40%で大半が輸入食品ですから、海外からの食品をどう考えるのかという問題が常にある。理想は自給率を上げて、国産で毎日の食生活を送れるようにすること。そのなかでトレーサビリティを考えていく。
真下 「コストがかかりますよ」というのは脅しであって、やりたくないから言ってるだけです。単にやる気の問題で、たとえば温暖化対策のように、やらざるを得なくなった場合は、相当なコストがかかろうとやっている。途上国が「カネがないから」と渋れば、「クリーン開発メカニズム」のような援助まで用意してやって進めているわけです。温暖化では何も言わないで政府自身が進めていながら、トレーサビリティのように、やりたくないものは「コスト」で脅して、途上国にも不利な立場に立たせて反対させる。トレーサビリティについても援助をすべきであって、それはやる気さえあれば十分できる。
近藤 そこまでふくめて考えないと、資本力のあるところが、基準やそれを守った食品を押し付けることによって、途上国は生産自体ができなくなってしまう。
天笠 もともとWTOは自由貿易を前提としていて、そこが前提となってコーデックスがあるから、こういう問題が出てくる。公正な貿易とはあくまで保護貿易が前提でなくてはいけない。ところが自由貿易が前提になっているものですから、トレーサビリティについても、第三世界から見ると非常に差別的な問題が出てくる。コーデックスのあり方の前提に対して、第三世界の不満は大きいと思います。
倉形 何故GM食品をトレースしなければいけないかと言えば、GM食品が発生したからです。本来は開発企業が費用を負担すべきだと思います。でも、コーデックスのなかではそんな論議は許されない。真下さんは、必要なものならコストがかかるものにはかけなくてはいけない、例えば遠距離の移動には価格に反映されていないコストも反映させるべきだ、とおっしゃっていましたよね。
次に、NGO、市民団体のコーデックスへの関わり方、あるいはコーデックス規格をどうとらえるのか、というところでは、大きな捉え方と、実際にどうかかわるのかといった現実的な問題があると思いますが。
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●国内「食品安全委員会」は消費者排除
山浦 これからの日本の食品安全性の確立のために、どうコーデックスを考えたらいいか。今回まがりなりにも、リスク分析の原則をステップ8に進めて、来年にはガイドラインとして成立します。ということは、リスク分析ができる組織がなければいけない。
この度、日本政府は食品安全委員会をたちあげることを決定して、来年の通常国会以降、具体化する予定です(P-21以下参照)。この委員会は、リスク評価をする独立した機関であると位置付けられています。これが日本国内において、これまでできなかった部分をやる場になり得ると思います。今回バイオ特別部会でまとまったガイドラインのなかで、消費者にとって非常に有効だと思われる箇所を、ぜひ日本国内において実現していくべきではないかと思います。
しかし問題なのは、食糧庁が解体されるため、食品安全委員会が食糧庁職員の再就職先として考えられていることです。従来型の審議会と同じで、政府から独立したものではない、という点も含めて日消連として抗議声明を出しました。
天笠 今度の食品安全委員会の構想を見ていると、消費者排除ですよね。
山浦 そうです。
天笠 かなり期待は薄いなというのが、率直な印象としてあるんですよ。やはりオルタナティブな運動、行政側の食品安全委員会ではない、市民の側の食品安全委員会を作っていかなくてはいけない。そして、たえまなく提言とか勧告を出しながら、政府の食品安全委員会を牽制していく。そうやっていかないと、ダメだなという感じがしてきました。
真下 コーデックス基準のなかに、リスク分析の体制は応答可能な形でなければならない、つまり双方向的なものでなくてはいけない、とあるんです。リスク分析に関連するあらゆるデータは、政府・科学者だけではなく、消費者も含めたあらゆる利害関係者の間で、双方向的に交換されなくてはならない、と書いてあります。不十分ではあっても、現在の日本国内の安全体制のレベルよりはずっと高いことが書いてある。ですから、コーデックス基準を足がかりにして、「こう書いてあるのに、日本はやっていないじゃないか」と言う余地はある。そのチェックをきちんとやる必要があります。
山浦 食品安全委員会の方向性に関して6月13日に出した日消連の抗議声明では、問題点をいくつかあげています。まず政府は、食品安全委員会を、国会行政組織法第八条の審議会と同じ位置付けにしていまして、しかも大臣に国家公安委員長を兼務させるとしています。
全員 公安委員長?!
山浦 ということは、独立性を保障しなければいけない機関が、内閣の一機関に成り下がって、独立性とは無縁のものとなっている。
それから委員の数について。「科学者数名」と、原子力安全委員会のようなイメージで発表しています。これにいたる自民党の委員会では、5名から10名という幅のある言い方をしていましたし、消団連(全国消費者団体連絡会)などでは10名前後、日消連は13名と、消費者の声が反映されるようにと提案をしました。委員長をはじめ委員の力が発揮されるような委員会でなくてはいけないのですが、委員会の上に大臣がおりますので、内閣の審議会のようなものとなっていて、これは問題です。
事務局スタッフは、実際にリスク評価の作業に協力をしていく人たちですから、意欲に燃えた人が集まってほしい。ところが、今回の案を見ていると、解体される食糧庁の再就職先として事務局が考えられている。そういう失業対策として考えられているありさまですから、まったく実質的でないものを作る可能性があります。日消連としては、省内からの応募制、あるいは民間からの公募制をとって、民間からの意欲のある消費者を採用してはどうかと申しました。
それから、独立を担保するために国家行政組織法の三条委員会を主張しています。これですと、この食品安全委員会の委員長が、事務局長および事務局員の人事権を握れるんです。そうしないと、国家行政組織法第八条の場合は、全部政府にお伺いを立てて決めることになるので、独立性がぜんぜん違ってきます。委員長が事務局スタッフを選ぶことが必要ですし、委員長自体にも消費者の声を反映させたい。さらに事務局長も、民間の食品の安全性に関心のある人がポストに就いて、実質的にリスク評価をするリーダーシップをとってもらいたい。民間だけではなく省内にも適任者がいるかもしれませんが、実際の食品の安全性の仕事に意欲のある人がこういうところにいなければいけない。しかし、実際には今申しましたように、全部、省庁の縄張り争いのなれの果てになりかねません。
研究機関については、専門評価チームを委員会の下におくことが定められようとしています。これは専門家、あるいは有識者ということになると思いますが、リスク評価の際のハザード(危害要因)をどう評価するかが主題になります。消費者が不安に感じていることが、ここで議論されなければならない。世界的に見れば非常にマイナーかもしれないが、消費者のことを考えて動物実験を行ない、データを提供している人が、実質的には無視されている状況にあります。そういう声をここに反映させる、そういう評価チームでなければいけない。評価チームだけではなく、民間の研究機関、外国の研究者とのコミュニケーションをはかりながら、今ある最新のデータに基づいたハザードを基にリスクを考えていく。やはりコミュニケーションが必要だなと感じていますが、なかなかそうならないようで、不安です。
天笠 僕から見ると、あれが本質だなと思いますけどね。最初から期待薄だな。今の委員会を変えていくのか、それともオルタナティブなものを作っていくのか、どちらかといったときに、オルタナティブなものを作ったほうがいいのではないかと思う。
倉形 先ほど天笠さんが言っていた市民団体の役割・関わり方という意味では、やはり現実から出発しないとならない。このブックレットは、コーデックスの条文をいかに市民が共有するかという問題意識で始めているのですが、市民団体が現実におきた食品の事例から関心を高めていくなかで、必ず突き当たるのがコーデックスやWTOです。今マスコミは一生懸命隠していると思うのですが、現実のなかで体験していくことでコーデックスに関心が向いて、機運が盛り上がる気がします。食品安全委員会の市民版など、中央集権的なものが一つできるというではなくて、各地で行なわれているものが、連絡を取り合うなどして輪を広げた形でやっていく。そんなことがコーデックスの関わりにも効果的になっていくだろうと思います。
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●コーデックス規格は上限基準か
真下 ごく一部のリスク分析しかしていないコーデックス基準の、カバーしていないものを明らかにしていくのが我われの運動の役割だと思います。コーデックスがカバーできないことがこんなにあるじゃないか、と実例をどんどん出していく。これはかなりインパクトを持つと思います。そういう実例が出てくれば、基準そのものがおかしいのではないかという話になりますから、カバーするために基準の改正作業も必要になってくるだろうと思います。
だからといって、コーデックス会議をすべてボイコットしていいのかというと、ちょっともったいない気がする。前提は向こうの土俵だけれども、その中でできることはないわけではない。それを足がかりにして運動にフィードバックできる条文がありますから、使わない手はない。運動をしていくうえで、二本立てじゃないといけないと思う。ブレザーにネクタイしめて会議に出ていくのと、どろんこで相手ととっくみあいして鼻血出して喧嘩する、両方あっていいと思うんです。運動を相乗的に作っていくことができると思う。
向こうの土俵の枠内でできることは、コーデックス基準をミニマムな基準にする。つまり、国際貿易をするうえで最低限のものとし、各国がその各国の事情において条例をさらに付け加えていく。日本でいえば、国内法があって各地の条例があってという、そういうことがゆるされるような条文を明示的に入れるべきだと思いますね。WTOから反論がきたときに、これはミニマムな基準であって、さらにその上に各国の国内法を作ってもかまわないということを保障する条文を付け加えるのを目標に――これは難しいですが――、あるいは実質的にマキシマムな基準であることを破壊していくような条文を付け加えさせる。
例えばトレーサビリティはそうなりかけているような感じもある。とりあえず、トレーシングという緩和された形のものが主流になりつつあるけれど、それが確実にすべての国に適用されるわけではない。各国の実状に応じたトレーサビリティの仕組みを作ることはできるとペーパーに書いてある。そう書いてある限りは、WTOに提訴されても根拠があるわけです。そういう文言をそこかしこに突っ込んで、内部から骨抜きにしていく。今は曖昧な「トレーシング」しか出てきていないけれど、マキシマムな基準であるように捉えかねないようなところは骨抜きにできるのではないか。
それからもう一つ、コーデックスの前提としている部分以外の部分については、今は反証をこちらが証明しなくてはならない。本来の予防原則からいうと、はずれるわけです。だから予防原則を確立させる。市場化したいと思っている人が安全であることを科学的に証明できないかぎり、市場化してはいけない。そういう原則をうち立てる。
倉形 コーデックス基準は最低基準であるという判例はあります。ウシ成長ホルモンをめぐる欧州とアメリカの紛争で、アメリカはWTOの紛争処理パネルに提訴しました。パネルが下した判断は、コーデックス基準は最低基準であり、各国がそれに付け足すことは可能である。けれども、それは科学的でないといけない、と言っています。ウシ成長ホルモンについて言えば、欧州の主張には科学的根拠がないと、そこではコーデックスの「危険性の証明」の立場で判断している。一勝一敗だ、と鹿児島大の岡本教授がホームページで発表しています。
ところが、日本国内では、WTOといえば泣く子も黙る、あそこに「提訴する」と言われただけで従わなければいけないと思ってしまう。自由貿易ですよ、と言ってすべてを切り崩すようなところが国内の雰囲気にはあって、だから官僚も、国内論議がいかにあろうとも、WTO、コーデックスで決まったからこれはもう変えようがないと言ってくるだろうと思うんですね。市民側からは、そうではない、としっかり言っていかなくてはいけない。コーデックスとかWTOのインチキ構造については、多くの議員を含めてあまり知られていないので、意識的に広めていかないといけないなと思います。
真下 議員が一番やらなくてはいけないのは、日本政府の代表団に自分たちの意見を反映させることですよね。今、そのつながりがまったく切れていますから。議員の意見がまったく反映されないまま、日本政府の意見が出されている。
倉形 WTO体制を前提とした上での理想論ですけれども、私はコーデックス規格については、「ダブルスタンダード」でいいのではないかと思っています。
市民の側の評価として、何か国際的な規制があったほうがいいという捉え方と、一方で無制限に危険なものが合意され、その下で全体が進むことは困るという否定的な捉え方が出ています。
重金属や危険物質などの最低限の国際的基準は必要なので、それは作る。ただし各国のそれ以上厳しい基準を妨げるものではない。WTOの貿易基準としての実質上の上限基準は、批准案件として加盟各国の議会の承認を不可欠とする。そういう意味で、ダブルスタンダードの必要があるのではないかと思います。
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●多方面からの運動展開を
天笠 基準は、各国主義が一番いい。例えば、特許制度は各国主義ですから各国で決めていいのに、事実上そうなっていない。どうしてかというと、アメリカで特許をとれないとどうしようもない。結局アメリカの基準が世界の基準になっているのが、特許の常識です。それとまったく似たような状態です。
食品の場合はコーデックスが国際規格を決めるわけですから、特許とはまた違うわけです。特許の場合は建て前としては各国主義、食品の場合は建て前も各国主義ではなくなっている。事実上、今でも各国主義ではないけれど、さらにコーデックスがお墨付きを与える形になっている。そこが問題だと思う。
どうやって各国主義にしていくのか。それは、コーデックス規格をなるべく弱めるような、各国の市民なり、消費者の運動しかない、と考えます。政府は、上にWTOをみていますから、国際的ハーモナイゼーションで、コーデックス規格でいこうということになります。ですから、私たちがコーデックスの力を弱めていくのには、先ほど真下さんが言われた二通りの方法があると思います。コーデックスの内部で問題を突っ込んでいくことと、同時にオルタナティブなものを提起していく。その両面作戦がこれから求められていくと思います。
清水 6月10日から13日まで、ローマで食糧サミットが開催され、食糧主権の問題をNGOが主張しています。コーデックスの問題と同時にそこら辺の運動もきちんとやっていく、食べ物を得る権利は人権なんだという視点が必要だと思います。
倉形 コーデックスは貿易基準ではなくて、あくまで安全基準。
清水 そうなんですよ。WTOの枠内で議論していることに対する違和感は、すごくあります。
倉形 当面、コーデックスに対しては、その効力をいかに弱めるか、ですね。
天笠 そうですね。内部に入って弱めることも重要だし、外から弱めることも重要だし。
近藤 コーデックス会議のまわりでデモをやっていてすごく虚しいのは、コーデックス自体が変わるわけではない。同じデモをやるのでも、半分は日本政府に向けてやりたい。コーデックス基準のレベルの高い部分を、きちっと日本で実現できるようにするべきだ、と思います。
あと、消費者の漠然とした不安、こういった運動に関わっていない大多数の消費者は不安が漠然としているので、それをわかりやすい言葉にして発信する、より専門的な市民が必要だなって思うんです。
真下 普通の人が持っている漠然とした不安というのは、コーデックスでカバーされていない部分ですね。それにはちゃんとした根拠があるわけで、それを表現、翻訳して議論の俎上に乗るような形にしないと‥‥。
それは一般市民にできることではなくて、仲介する人、本来なら学者がやらないといけない。学者は、中立的な立場、というよりむしろ市民の立場で行動するのが本来の役割のはずです。
近藤 消費者の漠然とした言葉にならないものを、ちゃんと討議に乗る言葉にしてもらいたい。一般市民には「実質的同等性」と言われても、何のことなのかまったくわからない。
生協のリーダーの組合員は学習してわかっているつもりになっていても、もっとわからない組合員に話した途端に、自分がいかに話せないかと言うことがわかるんですね。それだとなかなか広がっていかない。
真下 これは一般的な大きな問題ですけど、民主主義の基本はコミュニケーション、相手がわかる、納得することです。それがなかなか難しいですね、今は。あまりにも個別の事象が複雑で、それを理解するのに時間がかかって。問題は遺伝子組み換えだけではないのだから。さまざまな問題を把握して、理解して、行動し、判断するのは、非常に難しい。そこのところを仲介することが直接民主主義を補強することになるけれども、それを今できるのは、NGOくらいしかないでしょう。
山浦 コーデックス委員会の他の部会、動物飼料特別部会、食品表示部会などでも、遺伝子組み換え作物・食品の問題が係わってきます。日本政府は市民には分からないだろうとたかをくくり対応をしていませんが、私たちはそうした国際的動向にも気を配り、日本政府をつき上げていく運動を続けることも必要だと思います。国際会議で政府代表が消費者無視の態度を続けるなら、消費者・市民が直接、声を上げていきましょう。
倉形 本日はどうもありがとうございました。
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