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相模湖の水底で何が起こったか(ライター 室田元美)

季刊『社会運動』 2016年10月【424号】 特集:地域自給で生きる 

日本の国策で連れて来られ、 労働に従事させられた人びと


 首都圏に暮らすたいがいの人が知っている相模湖は、JR中央本線相模湖駅前の通りをまっすぐ行ったところに現れる。
 釣りをしたり、遊覧船に乗ったり、湖畔の公園でくつろぐ人たちの姿は幸せの象徴のようだ。近くの高校のボート部員が規則正しく操るオールが湖面を横切っていく。
 私がこの湖の成り立ちを知ったのは、10年ほど前に東京都内で行われたある集会で、後述する橋本登志子さんという一人の女性の話を聴いたのがきっかけだった。1940年から7年の年月をかけて行われたダム工事で、少なくとも83人の人が命を落としたという。1970年代から知られざる歴史を掘り起こしてきた橋本さんの話からは、それまで知っていた楽しい相模湖とはまったく別の姿が見えた。それ以後、私は何度も相模湖に通うようになる。

 戦争中の相模湖で何があったのか。この問いは、「この湖はどうやって作られたか」に置き換えることもできる。相模湖は日本初の多目的ダムとして作られた人造湖である。相模ダムの建設が始まったのは太平洋戦争の半年前、1941年6月。当時の日本は日中戦争によって軍需産業への依存度が日ましに高くなっていた。同時に国際社会のなかでは孤立を深め、石油を求めて南部仏印(フランス領インドシナ)などへの 進出を決めた時期でもあった。その結果、アメリカ、イギリスなどから経済封鎖され、追い詰められた日本は、半年後に真珠湾攻撃に打って出たのである。
 そんな中で、京浜工業地帯の軍需産業に電気を送るために、ダムは不可欠とされたのだ。ダム工事を始めるにあたって、まず住民がむりやり立ち退かされた。豊かな水田のあった勝瀬(かっせ)の村も、湖の底に沈むこととなった。「先祖代々の土地が消えてしまう」と人びとは抵抗運動をしたが、周囲からは非国民と呼ばれ、また軍から圧力をかけられて泣く泣く土地を手放すほかなかった。
 ダム工事が始まると、東北や北陸地方からの労働者、動員された学徒、朝鮮半島、中国から連れてこられた人びと、のべ360万人が従事した。日本の若い男性たちは、戦場にかり出されていたからである。相模ダムの工事の従事者に朝鮮の人びとが占める割合は、多いときには6割ほどだったという。
 朝鮮や中国の人たちは炭鉱やダム、鉄道、軍需工場、飛行場など、戦争に必要なありとあらゆるインフラ整備のために動員された。企業側からの要請もあった。場所によってはイギリスやアメリカ、オーストラリアなど連合軍の捕虜も連行されていた。
 朝鮮半島からは、すでに1910年の「韓国併合」後に、人びとが仕事を求めて日本に流れてきていた。日本が植民地政策として行った「土地調査事業」によって、多くの農民の土地が取り上げられ、食べるすべをなくした人たちが海を渡ってきたのである。その後、日本の国家総動員法が朝鮮半島でも適用されると、1939年から45年まで、「募集」「官斡旋(かんあっせん)」「徴用」の三段階で朝鮮人労働者が集められた。これが一般的には強制連行と呼ばれ、日本に連行された労務関係者だけで80万人以上を数えると言われる。「募集」というと自由意志で応じたようにも聞こえるが、実際には「面長(村長)が強制的に人数をかりたてる」(日本炭鉱運動史編纂委員会編の資料より)というぐあいに、割り当てがあって誰かが行かざるを得ない状況もあったようだ。業者の「日本に行けば儲かる、仕事がある」などの甘い言葉に騙された人も多かったという(注1)。そして「徴用」となると、もう逃れることはできなかった。
 また同時に、日本政府は1942年11月に「華人労働者内地移入に関する件」を閣議決定し、中国人を労働力として日本に連行した。 中国での戦争で捕虜になった兵士が多かったが、「農民や一般人もつかまえて送った」という元日本兵の証言もある。アジア・太平洋戦争中に約4万人の中国人が送り込まれ、日本各地の事業所で働かされ、合わせて6830人が亡くなっている(注2)。
 こうして連れて来られた朝鮮半島、中国の人たちの一部が、相模湖のダム工事に送られたのだった。


(P.149~P.151 記事から抜粋) 148-149

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