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九条は立憲主義の原理を示す(法政大学教授 杉田 敦)

季刊『社会運動』2017年1月【425号】特集:STOP THE WAR! 護憲派による「新九条」論争

自衛隊の憲法明記は現状の追認に見えるが、

必ず日本の体制を変質させてしまう

 

―しかし、九条では戦力の不保持を規定しているにもかかわらず、現実には自衛隊があるという、現実と憲法が乖離している状態です。「それを解消するために九条を改正しよう」という主張が、従来の改憲派だけでなく、「新九条」論の人たちにもあると思います。

 

 現実と憲法とは、しばしば乖離しています。例えば二五条で「健康で文化的な最低限度の生活が保障される」はずですが、現実はそうなっていません。それなら二五条など削除した方が良いのでしょうか。政府は十分に福祉政策をできないので、憲法二五条は不可能なことを規定しており、そんなものを放置したら、憲法がないがしろにされ、立憲主義が損なわれるので、削除すべきだ、などと言えますか。逆でしょう。憲法に合わせて現状を変えるべきなのです。

 憲法規定というのは、現状と合っていないときに、現状に対して訴えかける力を持っているのであって、現状と憲法条文が異なるからといって憲法の条文を変えてしまえば、憲法を持っている意味がなくなってしまいます。

 九条について言えば、この間、九条の制限の下で積み重ねてきた議論と実践、例えばPKO参加5原則(110ページ)などは、何のためのものだったのかを考えるべきです。多くの「新九条」案は「陸海空の自衛隊を置く」ことを憲法に明記するものですが、そうしてしまったら、この自衛隊は今までの自衛隊とは性格が変わります。憲法に規定された自衛隊だから、「これは軍隊である」と解釈され、軍隊であればアメリカ軍と同様に海外での武力行使ができるのではないか、という解釈が必ず出てきます。軍事的な運用の幅が相当広がることになるので、決して単に現状を追認したとか、文章化しただけにとどまらないと私は言っているのですが、そこがなかなか理解されません。一見現状の追認のように見えて、必ず、日本のこれまでの体制を変質させてしまう。それははっきりしています。

 

―軍隊と、軍隊ではない自衛隊の根本的な違いとは何なのでしょうか。

 

 私は、自衛隊は憲法の言うところの「戦力」ではなく、従って、軍隊とは違うと考えています。これは長谷部恭男さん(早稲田大学法学学術院教授、憲法学)らの解釈でもありますし、従来の政府見解とも一致します。もっとも、軍隊ではないが、かなりの兵器や装備は持っています。そこで例えば井上さんは、「こんなに軍備があるのだから、軍隊と同じだ」と主張しますが、装備の水準は、軍隊であるかどうかの決め手とはなりません。

 軍隊であるかどうかは、どんな装備を持っているのかではなくて、どういう行動ができるかという規定によるのであり、その組織の性格をどのように規定するかが問題になるのです。

 1954年の発足以来、自衛隊の行動は外形的に見ても軍隊のものではありません。自衛隊がアメリカによる様々な戦闘行動の最前線に参加してこなかったのは、自衛隊法において戦闘行為ができないように規定されているからです。自衛隊については、できることだけを法的に個別に規定する、いわゆる「ポジティブリスト」方式がとられています。一方、軍隊というものは、自由に戦闘行動ができるように、行動についての制約は基本的にありません。非戦闘員を狙って攻撃してはいけないとか、非人道的な兵器を使用してはならないなど、やってはいけないことのリスト、つまり「ネガティブリスト」を持つのです。自衛隊と軍隊とのこの違いはとても重要です。

 

九条は傷だらけだが生きている。

その規範性を維持すべき

 

―現状の自衛隊には制約があり、軍隊ではないことは分かります。しかし集団的自衛権の容認や駆け付け警護など新たな任務が付与されることになって、今後、例えば南スーダン政府軍を相手に戦うことがあるかもしれません。安保法制の施行によって自衛隊への制約が大変あいまいになり、より軍隊に近い存在になってしまいました。もはや、九条は力を持っていないとの議論もあります。

 

 なぜ安倍政権や自民党が、依然として憲法九条改正に意欲を持っているのかを考えるべきだと思います。想田和弘さん(映画作家)は「九条は死んだ」とおっしゃいました。「九条はすでに空文になっており、改憲派も形式を整えるために改憲を言っているにすぎない」と井上さんもおっしゃいますが、私は、これはあまり説得力がない議論だととらえています。改憲派は、九条が現に生きているからこそ、それを変えようとしているのです。集団的自衛権まで認めさせた後に、なお、九条を変えようとしているのはなぜか。それは、傷だらけになりながらも九条がまだ生きているからです。それなのに「死んだも同然」だとか、「死んでしまったから新しくするべきだ」というのでは、相手の思うつぼです。

 九条を変えようとしている人たちは、今以上に軍事的な行動を自由にできるようにしたいのです。だから九条は現実に邪魔なのです。「新九条」論の方たちは、軍事的な行動を制約するためにこそ九条を書き換える必要があると言っており、その意味で、自らを護憲派と見なしていることは私も理解できます。しかしそこは非常に微妙で、憲法改正を前提とした上で、その中身で勝負すべきというのは、一見、正論のように見えますが、どちらに転ぶかわからない塀の上を歩くことになります。九条が傷だらけなのは事実です。しかし、軍事力を抑制的に運用することが目的であるなら、今の状況では、依然として残っている九条の規範性を維持した方が良いという判断を私はしています。

 「新九条」論の方々はまた、条文を規定し直せば解釈の余地をなくし、憲法を誰が読んでも分かるものにできるし、それこそが真の立憲主義につながると言いますが、これはなかなか困難です。例えば、「個別的自衛権を認める」と憲法に規定したところで、今度は、「個別的自衛権」とは何かが、解釈問題となるのです。アメリカは「9・11テロ」に対する反撃が個別的自衛権の行使だと主張してアフガニスタンに戦争をしかけました。個別的自衛権と書けば、定義問題が終わるなどというのは幻想です。

(P.95~P.99記事から抜粋)

 

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