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近代の繁栄を支えた炭鉱、鉱山その光と影を訪ねて(ライター 室田元美)

季刊『社会運動』2019年1月【433号】特集:0円生活を楽しむ―シェアする社会

役割を終えた炭鉱の語られなかった歴史

 

 福島県いわき市で人気の温泉宿泊施設「スパリゾートハワイアンズ」。炭鉱が閉鎖されたあと、フラダンスと温泉で町おこしを図った話は、映画『フラガール』で広く知られるようになった。炭鉱時代には煩わしかった地熱を逆手に取って、ならば南国をつくってしまおうとの発想はユニークだ。2011年の東日本大震災のあと、原発事故の影響でしばらく客足が遠のいていた時期もあったが。
 「この温泉も藤原坑という炭鉱の跡地です。常磐炭田にはかつて大小合わせて100以上の炭鉱があり、40度もの地熱と多い水量のため、坑内での労働は非常に過酷でした。暑い中、採炭夫は塩をなめなめ働いていたそうです」と話すのは、常磐炭田を案内してくれた龍田光司さん。
 1856年(安政3年)、笠間藩に出入りしていた材木商、片寄平蔵が白水村にて地表に現れた石炭を発見したのが常磐炭田の始まりだ。片寄は江戸に滞在していた際、黒船を見物し、石炭を動力としていることに衝撃を受け、大規模な採炭を始めた。その後、日本の近代化にともなって急速にエネルギーの需要が首都を中心に増したため、そう遠くはない常磐炭田は供給源として期待されるようになった。
 龍田さんの車で、常磐炭田で最大のヤマと言われる「常磐炭鉱」へ。ここは戦争中の1944年に二大炭鉱だった「磐城炭鉱」と「入山炭鉱」が合併してできたもので、戦後も85年にヤマの灯が消えるまで、日本の高度成長を支え続けた。湯本から内郷、そして磐崎へと向かう道すがら、すすけてしまったコンクリートの選炭工場や、よどんだ坑内に新鮮な空気を送るための扇風機上屋、巻き揚げ機など、炭鉱時代の産業遺跡をいくつも目にすることができた。もう使われることのない炭鉱の設備がそのままの形で残されていた。

 

いまも遺骨が眠る、いわきのお寺

 

 戦争中、動力として石炭の需要が大幅に増えたにもかかわらず、若い男性たちは戦場へとかり出され、炭鉱の働き手はいなくなった。その代わりに鉱山労働を担うことになったのが、朝鮮人や中国人、連合国軍の捕虜などであった。1938年、日中戦争のさなかに国家総動員法が出され、当時植民地だった朝鮮半島からも多くの若者が動員され、日本の戦時体制に協力させられた。常磐炭田でも、日本人に混じって一時期は多くの朝鮮人が働いていた。国家総動員法の翌年に始まった企業による「募集」「官斡旋」、そして「徴用」の時期には、2万人余りの朝鮮人が常磐炭田に連れて来られた(注)。朝鮮人労働者が占める割合は、常磐炭田全体で約19%、常磐炭鉱では約30%になり、なかでも危険な採炭労働では50%以上が朝鮮人だったという。
 「落盤事故や病気で亡くなった人たちのほか、変死、自殺した人もいました。戦後は朝連(在日本朝鮮人連盟)や地域の日本人が、お寺の過去帳や会社の災害原簿、地元の新聞記事などを調べて、私の知るところでは303人の朝鮮人犠牲者の身元がわかっています」と龍田さん。
 いまも遺骨は複数のお寺に眠っているという。

(P.170-P.172記事抜粋)

 

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