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日本による朝鮮侵略・植民地支配は、なぜ、どのように行われたのか (立命館大学教授 庵逧 由香)

季刊『社会運動』2019年10月号【436号】特集:「平和の少女像」が示す希望 韓国と日本の歴史を直視する

朝鮮総督府によるアメとムチの支配でつくられていった総動員体制

 

─戦時下では人も物も「資源」としてみなされ、総動員体制が敷かれていました。日本はどのように朝鮮を掌握し、戦争に協力させていったのでしょうか。
 歴史的にいえば、やはりあれだけの大々的な動員ができたのは、朝鮮が植民地だったからというのが一番簡単な答えだと思います。戦争を支える人たちの動員計画を立てるには、農民や工場の数など実態把握が必要です。そういう観点は植民地政策の中に早くから組み込まれていて、例えば日本語教育は併合直後から長いスパンで計画的に考えられており、戦時期に急速に普及します。
 総動員体制というと、1937年の日中戦争全面化以降と思われがちですが、実際は第一次大戦中の、1915年頃からすでに日本では構想されていました。世界戦争に備えて、あらゆる人的・物的・精神的動員に即応できるような画一的動員機構が必要不可欠とされ、ひそかに着々と準備が進められていたのです。
 大量殺戮兵器を作るには、莫大な資源と労力とお金が必要ですが、日本にはその資源が十分にない。そこで中国の資源に注目し、それを安全に運搬するルートとして重要だったのが、朝鮮半島と台湾だったわけです。さらに食糧や、労働力・兵力をどう供給するかといった課題もありました。
 朝鮮総督府が朝鮮の人たちを上手く支配するには、いわばアメとムチが必要です。10年代までは「武断政治」と言って、憲兵や軍隊を使って、専制的に統治していました。刑罰も厳しく、朝鮮人だけに科される「鞭の刑」といった前近代的な刑を復活させ、義兵や独立運動に立ち上がった人たちを虐殺し、見せしめにその死体を晒したりもしました。
 朝鮮民衆の危機感と不満は、1919年3月1日から始まった三・一独立運動(50ページ参照)という全民族的な運動として、延べ200万人ほどの規模で全国に広がっていきました。三・一独立運動の背景には、大韓帝国皇帝の高宗の死もありました。1907年にオランダのハーグで開かれた万国平和会議(注3)に、高宗が密使を送り、日本の侵略を訴えた「ハーグ密使事件」があります。当時の朝鮮統監・伊藤博文は激怒し、高宗は様々な脅しを受けた末に強制退位させられました。その後、すぐに伊藤は、統監が朝鮮の内政を完全に掌握する第三次日韓協約を締結しました。1919年に死亡した高宗には毒殺説も浮上し、それが民衆の抵抗運動に火をつけたとも言われます。
(P.41~P.42記事抜粋)

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