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徴用工―80万人の強制労働の歴史を捉えなおす (近代史研究者 竹内 康人)

季刊『社会運動』2019年10月号【436号】特集:「平和の少女像」が示す希望 韓国と日本の歴史を直視する

狭い部屋には格子窓 逃げる話をして半殺しに

─日本製鉄、三菱重工業での労働の実態はどうですか。
 
 韓国の徴用工裁判で大法院判決が出された日本製鉄、三菱重工業での労働の実態をみてみましょう。
 日本製鉄へは8000人以上の朝鮮人が動員されています。裁判の原告4人は八幡、釜石、大阪の工場で労働を強いられた人たちです。1943年9月に呂運澤さんは技術者資格が取れると募集に応じ、大阪へ動員されました。しかし、「格子窓の狭い一室に4人が入れられ、だまされたと感じた。朝鮮人は日本人指導員からよく殴られた。給料は小遣い程度に2、3円が渡され、残りは強制貯金させられた。空襲や事故で亡くなった同胞もいた。帰国後も貯金通帳は渡されず、賃金は支払われなかった」と証言しています。同じ工場に動員された申千沫さんは、「逃げる話をしたら密告され殴られて半殺しの目にあった」と証言しています。
 三菱重工業名古屋航空機では、朝鮮半島の全羅南道や忠清南道などから十代前半の少女たち約300人が朝鮮女子勤労挺身隊として動員されました。原告の梁錦徳さんは、13歳だった1944年5月、「日本へ行けば女学校に通える。お金儲けもできる」とだまされ、全羅南道の羅州から動員されました。朝8時から午後5時まで立ったまま労働させられ、6時まで残業することもありました。「飛行機の部品のサビを取る溶剤で頭痛になった。食事量は少なく、約束の女学校へは行かせてもらえなかった」と証言しています。44年12月には東南海地震にあい、動員された6人の朝鮮人の少女が亡くなっています。梁さんは戦後、祖国に帰りましたが、挺身隊を「慰安婦」と誤解され、結婚しても真実を伝えることができなかったと言います。これらのことがらは裁判の訴状に書かれていますし、日本の裁判でも強制労働として認定されています。
 にもかかわらず、日本で歴史を歪曲する人びとは、強制労働の事実を認めようとしません。例えば、東洋工業に動員された鄭忠海さんの『朝鮮人徴用工の手記』の記述から、鄭さんは徴用されたが高給であり、衣食住もよく、逢引きもできたとして、強制連行や奴隷労働はなかったと言うのです。しかし鄭さんの手記には「(原爆投下後)多くの不幸な人びとの中には、強制的に連れてこられて彼らの手足になって血の汗を流し、苦役をして不幸にも死んでいく、凄惨な負傷を負った我々の同胞たちがどれほどいるのだろうか」という記述があります。そのような強制性を示す記述は各所に見られるのですが、それらを無視し、都合のよいところだけを抜き出しているのです。韓国にも日本の植民地支配を肯定する人たちがいて、数字や写真の誤用を理由に強制労働の事実を否定しています。
 けれども、戦時の朝鮮人の強制労働については、1999年に国際労働機関(ILO)がILO29号条約に違反するものと認めています。
(P.101~P.102記事抜粋)

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