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岐阜の僧侶たちが語ったあの時代、戦争の罪(ライター 室田元美)

季刊『社会運動』2020年1月号【437号】特集:「もうテレビは見ない~メディアの変質とつきあい方」

二度にわたる反戦発言で 有罪判決、宗門からの処分


 大垣と関ヶ原の中ほどに位置する垂井町は、山の裾野にひろがる旧中山道沿いの宿場町だったところだ。
 かつては岩手村と呼ばれたこの小さな町の真宗大谷派「明泉寺」に、1867年に生まれたのが「彰元さん」こと竹中彰元師である。1945年10月に77歳で亡くなっている。その晩年は波乱に満ちていた。
 明泉寺は、民家の間を縫うような細く曲がりくねった路地の突き当たりにあった。近くには竹中半兵衛の陣屋跡も残っていて、明泉寺も半兵衛の親戚が興したという400年以上の歴史があるお寺だ。山門前の石柱に「戦争は罪悪である 竹中彰元師之寺」と刻まれている。青いあじさいが咲く境内を抜けて、どっしりと構える本堂へ。現在は17代目の竹中真昭さんが住職を務めている。
 竹中彰元とは、どんな人だったのだろうか。明治から昭和の太平洋戦争にまたがるその生涯は、日本の軍国主義の歩みとも重なる。
 1931年、日本軍は中国の奉天郊外で南満州鉄道を爆破し(柳条湖事件)、中国の仕業だとして侵攻を開始した。満州事変である。その翌年には「満州国」を建国し、日本の傀儡国家とした。1937年7月7日には、盧溝橋事件が起こり、本格的な日中戦争へと突き進んでいった。明泉寺のある岩手村からも、若者たちが次々と出征していった。
 当時の彰元さんがたどった道を明泉寺現住職の竹中真昭さんと、養老町の祐泉寺住職の佐竹 哲さんが案内してくれた。
「村の若者は朝、この小学校に集まって、出征して行きました。70歳になる彰元さんも村人とともに、若者たちを約4キロ離れた垂井駅まで見送りに行ったものです」と竹中さん。
 出征兵士たちが集合した岩手小学校は、彰元さんも通っていた学校だ。いまも同じ場所にある。そこから出征旗や日の丸を手にみんなで歩いて行ったのだろうか。映画でよく見かける出征のシーンを思い浮かべてみる。
 問題の「発言」があった1937年9月15日の早朝には、5人の出征兵士を見送るために、400人ほどの村人が集まった。集落を抜けてしばらく進み、「灯明台」で一行は小休止を取った。田園風景が左右に広がる中に、ひときわ目立つ石灯籠が建ち、脇の石碑には「入営出征者たちが村民たちと別れを惜しんだ」と刻まれている。ここは村はずれのひとつの区切りの場だったのだろうか。送る者、送られる者の間で、どんな言葉が交わされていたのだろう。その言葉が永遠の別れの挨拶になった人たちもいただろう。西濃地区出身の兵士たちが所属した第9師団の敦賀連隊では、中国軍の激しい抵抗によって戦死した若者も少なくなかったという。
 灯明台を過ぎたあたりで彰元さんは突然、大きな声で「戦争は罪悪であると同時に人類に対する敵であるから、止めたがよい」と前をゆく在郷軍人に話しかけた。ときの政府の言うままに聖戦だと信じて疑わなかった村の人たちは、さぞ驚いたことだろう。国家の批判をしたり戦争に異議を唱える社会主義者や宗教者などが捕らえられた時代である。
 二度目の発言があった場所にも連れて行ってもらった。古い民家が軒を連ねる集落の、「不退寺」という小さな寺だった。同年10月10日、ここに集まった6人の地元僧侶の前で彰元さんはこう述べた。
 「此の度の事変に就て他人は如何に考へるか知らぬが自分は侵略の様に考へる。徒らに彼我の生命を奪ひ莫大な予算を使ひ人馬の命を奪うことは大乗的な立場から見ても宜しくない。戦争は最大の罪悪だ。保定や天津(いずれも中国の地名)を取ってどれだけの利益があるか。もう此処らで戦争は止めたがよかろう」(『特高外事月報』昭和12年12月分 内務省警保局編より)。
 それを聞いた僧侶たちは反発した。仏教界が戦争に進んで協力していたからである。真宗大谷派も日清戦争の開戦時から戦争協力体制を作り上げ、海の向こうの中国や朝鮮へも布教していった。
(P.151~P.154記事抜粋)

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