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日韓の市民が伝え残す負の戦争遺跡・柳本飛行場(ライター 室田元美)

季刊『社会運動』2020年4月【438号】特集:子どもの命を守る社会をつくる

4本の滑走路を持つ本格的な飛行場


 奈良から天理、桜井へ。奈良盆地を南北に走る鉄道路線がある。「万葉まほろば線」と呼ばれるJR桜井線だ。
 万葉まほろば線の東側を並行して通っているのが、日本最古の道とも言われる「山の辺の道」。3世紀後半ごろからの古墳や遺跡がこの道に沿って集中している。古代史ファンなら一度は歩いてみたいところだろう。
 そんな奈良盆地の一画を占める天理市は、宗教都市としての顔も持つ。興味深い都市なのだが、今回は戦時中に天理の飛行場とその周辺で起きた史実について触れてみたい。
 柳本飛行場、正式名称を「大和海軍航空隊大和基地」という。万葉まほろば線の長柄駅と柳本駅の間に、戦争に合わせて造られた。現地を案内してくれたのは、「奈良県での朝鮮人強制連行等に関わる資料を発掘する会」(奈良・発掘する会)の高野眞幸さんと川瀬俊治さんである。高野さんは教員、川瀬さんはジャーナリストとして、長年、奈良県の戦跡の保存や戦時中の出来事の真相究明に携わってきた。戦後75年経っても、日韓の間に横たわる「慰安婦」や徴用工の問題が一向に解決しないことが示すように、とくに近年、日本の側でかつての植民地主義を肯定する動きや歴史修正主義が勢いを増している。柳本飛行場をめぐっても伝え残そうとする市民に対し、史実をなきものにしたい人びとの妨害が著しい。
 私が最初に柳本飛行場を訪れたのは、2016年の晩秋だった。「あれが三輪山で、あっちの遠くに大和三山がありますよ」と、車でだだっ広い田園風景のザ・奈良盆地の中を走りながら説明してもらった。なるほどなあ、こんな場所に飛行場はぴったりだ。私たちの車が走っている道路がなんと戦時中は滑走路だったという。
 「敷地は300ヘクタール。滑走路は全部で4本ありました。この主要滑走路は幅50メートル、長さは1500メートルあったんです。決して小さな飛行場ではなかった」と、地元に住んでいる高野さんが説明してくれた。
 高野さんは、やはり教員で天理市史の執筆者でもあった父親が戦時中に書き残した日記をもとに、独自の調査なども加えて飛行場の歴史を明らかにしてきた。
 「日記によると、柳本飛行場の工事は1943年秋頃から始まったようです。山の向こうの大阪に陸軍の八尾飛行場、奈良に海軍の柳本飛行場、その間には陸軍航空部隊・航空総軍戦闘司令所の『どんづる峯』(地下防空壕)も計画されました。最初は単なる飛行場のつもりだったかもしれないが、戦争末期にこの一帯では、本土決戦に向けた拠点作りが行われていたんです」
 この飛行場で大和海軍航空隊が開隊したのは、1945年2月11日。日本の敗戦の半年前である。つまり柳本飛行場は、大勢の汗と涙で造られながらたった半年しか使われなかったことになる。
 「もう戦況は悪化の一途をたどっていたにもかかわらず、6月には兵員や兵器が増備されていました。敗戦時には、兵員1700人、ゼロ戦49機、練習機71機、爆弾も大小あわせて1500発配備されていたそうです。
 当時の写真がありますが、ゼロ戦はずらっと若草山の方向を向いて並べられていたようですね」
 のどかな晩秋の盆地で、本土決戦の拠点などと言われてもすぐにはピンとこないものだが、その根拠がある。2001年に天理市北部の山中で、天皇や皇室の居室である「御座所」にあてる予定だったと見られるトンネルが見つかり、また海軍によって大本営の準備まで進められていたこともわかったからだ。長野県の松代大本営跡はよく知られるが、ここは天皇家にかかわりが深いとされる大和の地でもあり、候補にあがっていたと考えるのは不思議ではないだろう。

(P.143~P.145記事抜粋)

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