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市民セクター政策機構

市民セクター政策機構 市民セクター政策機構は、生活クラブグループのシンクタンクとして、市民を主体とする社会システムづくりに寄与します。

3.ケアを社会の中心に据える(同志社大学大学院教授 岡野 八代)

季刊『社会運動』2021年4月【442号】特集:自助・共助・公助と生活クラブ

─岡野さんは、ケアの倫理を研究されているフェミ二ストのお立場ですが、菅首相の「自助・共助・公助」発言をどのように受け止めたのでしょうか。

 

 研究者の立場として述べる前に、一般市民としてまず、菅首相の発言には驚愕しました。
菅首相は、「まずは自分でやってみる。自分でできなくなったら家族と地域で支えてもらう。それでもダメであれば、必ず国が責任を持って守ってくれる」と言いました。一番初めに「自助」だと言ったのです。
 考えてみてください。政治家が「自助」を唱えるなら、国家はいりません。「あなたたちは、政府を頼らないでくださいね」と言っているに等しいのですから。私たち市民は、税金を払うのをやめてもいいくらいです。なぜなら、税金の正当性は、国家が行う「公助」にあるからです。コロナ禍で、私たちは一人では太刀打ちできない状況にあるなか、「自助」を唱える首相の言葉は、政治そのものを否定する、極めて深刻で、とんでもない発言だと思います。

 

「自助」は、一番最後にくるべき

 

 菅首相の「自助・共助・公助」は、一人の人間と国家の距離、その遠さを意識させます。自分があって、その周りに家族がおり、地域共同体、そして一番遠いところに国家がある距離感のイメージです。日本の人びとはこのイメージに慣らされていますね。
 しかし、近代国家で生きるということは、良し悪しは置いておくとして、自分のすぐそばに国家がある、自分を支える「公助」があるということです。もっと言えば、自分の一部となっていると言っても過言ではありません。国家・行政の公的な支えがあってこそ、家族や友人関係、地域社会が存在しているのが本来の在り方です。
 もちろん、震災など危機的な状況や国家が壊滅するような場合、人びとは連帯し、助け合うでしょう。しかし、それは危機的な状況から出てくる人間関係であって、平常時の国家と人との関係ではありません。
 近代の人間は、「公助・共助」があって育まれ、やがて「自助」ができる社会人となっていくのです。そのために「公助・共助」があって、一番最後にくるべきなのが「自助」です。にもかかわらず、菅首相が「自助」を最初に国民に投げかけたことを私たちは忘れてはならないと思います。

 

無責任な特権者は、ケアの価値を認めない

 

 実は、「自助」を最初にもってくるような政治家によって、私たちの経験は歪められていると、私は考えます。
 どんな経験を歪められてきたのか。それは一人の人間が様々な人びとにケアされて、生きてきたという経験です。私たちは生まれたときから、誰かのケアを受けます。誰一人自助だけで生きられる人はいません。
 しかし、権力者はケアされた経験を無視しています。いま主に男性が占めている政治家たちには、政治という責任ある仕事をしていることを、まるで自分の力で、自分の力だけで、いまの地位を手に入れたかのような言動が見受けられます。実際には、手をかけ、暇をかけられ、当然のように助けられ、支援されて、いまの地位を築いただけの存在のはずなのに。
 もしも彼らがたくさんの人から与えられたケアを記憶しているなら、最初に「自助」を持ち出してくるような政治家にはならないでしょう。「共助・公助」で育ってきた政治家であるなら、国民が生きていくために必要な多くのケアを用意する責任を自覚するでしょう。つまり、これらの政治家たちは、自分たちをケアしてきた数多くの人びと、営みを顧みず、ケアの価値を認めていないのです。
 それをできない政治家を、無責任な特権者と私は呼びます。無責任な特権者が「自助」を唱えていることに、私たちはもっと怒らないといけない。ケア労働を軽んじる権力者に、もっともっと声をあげなくてはいけないと思います。

 

─ケア労働は、軽んじられ、賃金の面でも冷遇されています。どうしてケアをする人が、貶められるのでしょうか。

 

 誰かがしなければならないケアという仕事は、誰でもできる仕事だと思われているからだと私は考えます。誰でもできる仕事であるがゆえに価値が低いとみなし、人はそこに見下し感をもつのだと思います。だから、自分は大切な仕事をして時間がないので、ケア労働は他の人にやってほしいと思ってしまう。
 人間は、人とは違うこと、これまでなかったことをつくり出すこと、生産、創造、芸術にもつながりますが、そういう仕事に価値をおきます。哲学的にいうと、ケア労働は人間なのか、動物なのかといえば、動物は育児をするので、動物的であり、人間しかできないことが高等というような価値観です。
 また、一般に無償のケア労働より、有償労働に価値を見出す傾向があるのは、権力が付随するからという研究者の報告があります。例えば、会社で評価をされると管理職に昇進し、社会的地位があがります。そこに権力がついてきます。優越感に権力がプラスされると、傲慢な人間文化が生まれるのかもしれません。
 一方で、家事労働はどんなに上手くこなしても、カリスマ主婦として有名人にでもならない限り、人に命令するような社会的な権力を持つことはありません。
そして、なにより忘れてはいけないのは、ケア労働は文化的・伝統的に、女性と結びつけられていました。低賃金のケア労働は、そもそも家事労働で、母親であれば、愛情から無償で担って当然だという意識がいまだ根強いからです。

 

ケア労働を担う人と評価する人の分離

 

 さらに、資本主義がケア労働を評価しないという側面があります。それは、ケアのような価値は、市場で評価がしにくいからです。例えば、育児した3時間が、将来的に30歳になった子どもにどのくらい反映するかは、評価ができません。ケアに労働力を集中させても、そこで得られる成果が目に見えにくいのです。
 でもだから、ケア労働には公的な評価が必要なのです。社会的基盤である、教育、介護、医療、様々な道路整理、清掃等々の不可欠な営みは、社会全体からみて長期的に成果が現れてくるものとして、政治が評価するしかありません。
 しかし日本では、例えば保育士の給与の低さは以前からずっと問題になっています。これは、政治のケア労働に対する評価の低さをあらわしていると思います。

 

─政治がケア労働に価値をおかないのは、なぜでしょうか。

 

 いまの政治の場には、ケアを経験している人が極端に少ないことがあげられます。ケア労働を誰でもできる仕事とみなす人の多くは、ケア労働をしない人という特徴があります。
 ケアの仕事は、どれほど労力が要り、時間がかかり、精神的な負担が重いか。そして責任ある仕事であるか。それは、実践した人しかわからない。このことは、多くのケア倫理の研究者が指摘しています。問題は、ケア労働を担う人と、政策の中枢にいてケアを評価する人たちが完全に分離していることです。
 もう一つの問題は、ケア労働に集中して携わる多くの人が公的な参加を阻まれることです。ケアをする人は、市場では一般に低賃金の労働者であり、家族労働ならば無償労働をする人です。育児や介護に時間を割かなくてはならない人は、文字通り、目や手を離せないために社会的発言ができにくい。声をあげにくい。その結果として、政治的に軽んじられる、聞き流されるのだと思います。
 アメリカの話ですが、「すべてのケア労働者がストライキしよう」という計画があったのですが、失敗に終わりました。その理由は、ケアをする人、主婦ならば夫との関係が、看護師ならば患者が、保育士ならば子どもがいるので、自分がいなければ大変なことになることをわかっているから、集まることができなかったのです。このことはケア労働ゆえの大きな問題点です。

 

欧州では価値観に変化が─ケアは誰もがかかわること

 

 日本でのケアの問題を考えると、とりわけ男性は労働時間が異様に長いことが非常に問題です。その背景に、女性が無償労働を担い、男性を支えてきた歴史があります。年金の第3号被保険者を設けていることもしかりで、いまだに女性が家事を担うことを期待した社会保障制度が税制と共にガッチリ組み込まれています。そこに企業が一体となっていますから、これはケア労働問題に加え、広く労働問題として考え直すべきだと私は思います。

(p.97-P.102 記事抜粋)

 

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