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③緑の党とローカル・パーティー―過去・現在・未来(季刊『社会運動』編集長 白井和宏)

季刊『社会運動』2022年1月発行【445号】特集:代理人運動と生活クラブ―民主主義を終わらせない

1983年 西独緑の党 衝撃的な世界デビュー


最初の代理人が誕生したのは、1979年、東京(練馬区議会議員)でのことだった。神奈川で初の代理人(宮前区選出・川崎市議)が当選したのは1983年で、翌84年7月にローカル・パーティー「神奈川ネットワーク運動」が発足した。
その際、大きなヒントになったのが、同じく1983年に登場した西独の緑の党だった。ジーンズ姿で議会に登場し、議場の机の上に花を置いた彼らの写真は日本でも報道された。そして、彼らは世界の市民に向けて、緑の党の創設を呼びかけたのだった。
緑の党は「エコロジー、非暴力、社会的公正、草の根民主主義」という四つの理念を掲げた。そのなかでも「草の根民主主義」は、緑の党の核心となる強固なイデオロギーであり、「市民参加」を重視する私たちのローカル・パーティーと、海を越えてシンクロナイズしているかのような一体感を覚えた。
「神奈川ネットワーク運動(以下、ネット)」とあえて政治団体らしからぬ名称にしたのも、彼らが「緑の人々(Die Grunen)」と名乗っていたことが影響している(注1)。
その後、ネットが1980年代半ばに2期8年を原則とする議員のローテーション(任期交代)制度を決めたのも、個人主義的でカリスマ的なリーダーを否定する緑の党の制度がヒントだった。その後、「東京・生活者ネットワーク(元、グループ生活者)」をはじめ他の自治体で誕生したローカル・パーティーもローテーション制度を導入していった。

(注1) 一般的には「緑の党」と呼ばれるが、正式名称は「緑の人々(Die Grunen)」。東西ドイツ統一後に、東ドイツの市民グループ「同盟90」と統合したことで、「同盟90/緑の人々(Bundnis 9?0/Die Grunen)」になった。


すでにローテーション制度を廃止していた緑の党


私は1988年秋から1990年までの2年半、イギリスに在住して、生協や労働者協同組合、緑の党などを訪問・調査していた。驚いたのは、オーストリアで開催された欧州緑の党の集会でのことだった。出席者から、「すでにローテーション制度はほとんどの国で廃止された」と聞かされたのだ。それも真っ先に、廃止を主張して議員を続けたのは、ドイツ緑の党の創設者の一人であり、世界の緑の党にとってスター的存在だったペトラ・ケリーだった。
ドイツ連邦議会は小選挙区比例代表併用制を採用しており、比例代表選挙は名簿拘束式なので、緑の党は議員を任期途中の2年で交代するルールを決めていた。議員が辞任すれば、同じ政党の下位の名簿の後継者が繰り上がって議員になる仕組みで、4年間に2人が議員を経験することになる。
ところが1983年の初当選から2年後の1985年、全議員が辞任する中、1人が拒否して議員を続けた。それがペトラ・ケリーだった。結局、1986年の総会で交代制が廃止され、任期は各州レベルの緑の党が判断することになった。もちろん議員が職業化することを危惧して反対するメンバーもいたが、実際には後継者にすべての経験を引き継ぐことはできず、組織が弱体化することは明らかだった。
結局、90年代には、議員だけでなく、1年で交代するはずだった議長や事務局長も継続が認められるようになっていた。

(p.130-P.131 記事抜粋)

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