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食料危機の到来 飢餓を忘れていた「幸福な時代」も終わりを告げようとしています。(市民セクター政策機構 専務理事 白井和宏)

季刊『社会運動』 2016年7月【423号】 特集:食料消滅!?

飢餓を忘れていた「幸福な時代」も終わりを告げようとしています。

市民セクター政策機構 専務理事 白井 和宏

 

 日本の歴史は、「飢餓」と隣あわせだった。例えば、江戸時代には、甚大な被害をもたらした「四大飢饉」が起きた。 東北地方を襲った「天てんめい 明の大飢饉」(1782〜88年)では30万人以上の犠牲者が出たと言われる。
 詩人で童話作家の宮沢賢治の生家(岩手県花巻市)のすぐ近くにある松庵寺にも、餓死供養塔が建てられている。
「藩内の死者6万人にも達し、人びとは、野山にある草木ことごとく食べ尽くし、犬、猫、鼠にさえ値がつけられ食した」と言い伝えられている。
 飢えに襲われたとき、人びとはどんな行動をとったのだろう。
「山に入って蕨わらびや葛く ずの根を掘る者、身売りされる者、流民となり行き倒れて死ぬ者、親子で無理心中を図る者、盗みをして捕まり殺される者、種籾を抱えたまま死んでいった者、牛馬はては人肉すら口にする者、疫病に罹かかって死んでいく者などなど、強いられたさまざまな生き死に
が、この日本列島にかつて存在した」のである(『飢饉─飢えと食の日本史』菊池勇夫著、集英社新書、2 0 0 0年)。
 明治以降も飢饉がなくなることはなく、開国直後の明治2年(1869年)には米の輸入を始めた。新政府が中国から広東米を輸入して、凶作地に振り向けたのである。明治20年代には朝鮮からも米の輸入を始め、明治30年代以降の日本は完全な米の輸入国になっていた。昭和期にも東北地方は大凶作に見舞われた。
米の輸入はさらに増え、台湾からも輸入した。このように明治以降の日本は、植民地からの輸入に食料を依存してきたのである。

 

再び飢餓の時代に…

 

 明治元年に3400万人だった日本の人口が、1億人を超えたのは1970年頃のことである。これほどの人口増にもかかわらず、飢餓に苦しむことなく、飽食を楽しむことができたのは、世界中から大量の食料を買い集めてきたからだ。
 しかしこの「幸福な時代」も終わりを告げようとしている。日本のみならず世界各国が食料を輸入するようになった結果、食料そのものが不足する時代が到来しつつ
あるのだ。世界的な人口の急増、食料の生産に不可欠な水・エネルギー・耕作地の減少、農家の廃業と都市消費者の増大、世界各地を襲う異常
気象が引き起こす大干ばつと大洪水…… 。こうした非常事態が同時進行しているためだ。
 この状況から人類が脱出する方法を考えるため、まずは、世界と日本でどのような事態が起きているのかを知っていただきたい。

(P.6~P.7 全文)

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