月刊『社会運動』 No.303 2005.6.15


目次

<協同組合研究> 生協運動の現段階と新しい生協像の模索 田中秀樹‥‥2
現代アソシエーション研究会報告 松下政治理論と『大衆社会とデモクラシー』 山田竜作‥‥24
<食の焦点>番外編 『イチ子の遺言』―産直事業における女性と家族 今野 聰‥‥43
まちづくりフォーラム 福祉のまち鷹巣。今、これから 岩川 徹‥‥46
非営利セクターと第三世界の社会的企業を支援 パドヴァの倫理銀行を訪ねて 三上政子‥‥52
遺伝子組み換え食品の表示をめぐって 日本では「組み換え原料不使用」でも、ヨーロッパではGM食品 リンジー・キーナン‥‥57
あの図書、この論文B 市民のための政治学3点 栗原利美‥‥61
<状況風景論> 非営利組織概念の再検討&『パッチギ!』のぬくもり 柏井宏之‥‥63
雑記帖 宮崎 徹‥‥64


表紙からのメッセージ 写真家・桑原 史成
 来日中の中国の呉儀副首相が小泉首相との会談を突然に中止して、5月23日に離日して行った。当初の説明が「緊急な公務」と伝えられたが、小泉首相の靖国神社への参拝問題があることが分かった。
 4月から中国の大都市に波及した反日デモが最近になって終息したかに見えるが、それは、沈静化しただけで日中の関係は薄氷の上にある。日本の歴史教科書や安保理、台湾など問題の課題は山積みだ。それに巨大な大国には政局の地殻変動すら起すマグマが存在しているように思えてならない。表紙の写真は2003年に上海で撮影した休日の市民の表情である。


<協同組合研究>生協運動の現段階と新しい生協像の模索
田中 秀樹 (広島大学生物生産学部教授)


 本年、10月の生協総研の全国研究集会は、「生協の事業連帯と事業連合のあり方」がテーマになるという。ここに来て、生協の未来をどう構想するか厳しい議論が問われている。しかし、一方、私たちの議論では、協同組合運動の基本的な視点について「前提省略」が多くなっていないだろうか。生活クラブ連合会の政策討論集会での田中秀樹教授の講演は、この点を顧みる点で多くの共感を呼んだ。その講演録を掲載する。(編集部)

 私の所属する広島生物大学生産学部というのは農学部で、私は農業経済学分野の中で、食生活論や食料流通学を専門としております。また、学生時代から生協運動にかかわってきて、生協運動に実践的にも理論的にも関心を持ち、現在も、広島大学生協の常務理事を務めています。
 きょうは、「生協運動の現段階と新しい生協像の模索」という題を付けさせていただきましたが、私は、生協とは何か、あるいは協同組合とは何か、ということが問われているのが現段階ではないかと思います。そうした生協のあり方が問われる現段階において、新しい生協像をどのように描いたらよいのかということについて、私が考えていることをお話しさせていただきます。

1.協同組合観が問われる時代:改めて、協同組合とは?
(1)協同組合の変容

 いま協同組合の変容が世界的に進行しています。キーワードはdemutualization、翻訳すると「協同組合の『会社化』」といってよいと思います。mutualは相互扶助という意味合いですから、広い意味で協同組合も含まれますが、de-が付いておりますので「脱」協同組合化という意味で、欧米では協同組合研究者の間で流行っている言葉のようです。昨年広島で協同組合学会が開かれた時に、皆さんもご存知のI.マクファーソン教授が、カナダでもdemutualizationが進んでいるとおっしゃっていました。
 ポイントは、協同組合の事業がどんどん肥大化して組合員組織、すなわち協同組織から分離自立し、協同が衰退する。私はこれがdemutualization(「会社化」)だと思っています。図1の@に示したように、協同組合というのは組合員組織、すなわち協同組織associationと事業enterpriseの統一体です。事業が拡大する中で、この2つが乖離し、協同が衰退するのが「会社化」です。そして、図1は協同組合の「会社化」の形態を3つに分類しています。
 まず、AのPLC(株式会社Public Limited Company)化形態をみますと、アイルランドの農協がその典型です。組合員がいて農協は存在しますが、事業部門はすべて農協から離れて設立された株式会社に移行し株式会社となっていますので、農協の実態は組合員組織のみです。同時に、株式会社化された事業部門は、株式会社ですから農家だけでなく銀行などの外部投資家が入ってきますが、農協がPLCの株式を51%以上所有しコントロールできること、という条件が付いていました。しかし、この51%以上ルールも、今では農協所有率31%となった農協PLCもあり、いったんPLC化されると株式配当の論理が支配的になりますので、行き着くところまで行くと思われます。
 次に、B子会社化形態というのがあります。これは、協同組合事業がどんどん大きくなるなかでそれを子会社化する。実際に、デンマークやスウェーデンなど、EUの農協は子会社をたくさん抱えていて、事業の半分以上を子会社が担っているものがあります。あるいは、子会社ではなく、いま流行りの外部委託・アウトソーシングという形態も同様です。子会社とかアウトソーシングで事業を賄うという形態が、どんどん進んでいて、当然組合員からの距離は遠くなります。
 さらに、Cの非組合員出資枠導入形態というのもあります。これは、組合員出資以外に、協同組合の中に投資家の出資枠をつくる形態です。組合員の出資をAシェア、投資家の出資をBシェアと区別し、同じ協同組合のなかに非組合員出資枠をつくり資金を獲得しようとしています。Bシェア、すなわち投資家の出資に関しては、基本的に投票権がないものが多いけれども、売買ができるものもあります。ということは、Bシェアは売れるということですから、株式と同じような動きをすることになります。そうすると、協同組合事業は、組合員ではなく、ますます投資家のほうを向いて運営することになって、いかに投資家の利益を確保するか、というふうに変わっていきますから、協同組合事業は内部から崩壊して株式会社に近くなっていきます。
 ヨーロッパでは、端的には農協事業において脱協同組合化の動きが急速に進んでおり、また、協同組合事業が国を超えて展開するなかで、事業の国際化から、協同組合そのものの国際化、すなわち多国籍協同組合化も進みつつあります。多国籍協同組合化にはいくつかのパターンがありますけれども、典型例はArla Foods酪農協同組合です。Arla Foodsというのは、デンマークのMD Foods酪農協同組合とスウェーデンのArla酪農協同組合が、2000年に国際合併したもので、法律上はデンマークに籍を置いていますが、総代会は1つで、国を越えて行われていますし、実質的な事業も2つの国にまたがって統一して運営されています。イメージを持ってもらうために言えば、日本と韓国の協同組合が合併したようなものです。
 ヨーロッパの農協がなぜこういうふうに変わってきたかといいますと、グローバル市場段階に入って、協同組合も多国籍企業あるいは多国籍スーパーと競争しなければならなくなった。そしてEUの農業は、基本的に輸出農業、輸出産業なのです。先ほどのArla Foods酪農協同組合についても、事業高の半分以上が国外事業、つまり輸出向け農業を中心とした協同組合なのです。そして、農協は多国籍食料資本、たとえばネスレやユニリーバなどと競争していますから、勝つためには新たな投資資金が必要で、非組合員出資枠を導入したり、株式会社化し、また、自ら国際化・多国籍化し、あるいは子会社化しているのです。そういうグローバル市場競争の中で農協の姿がどんどん変わってきている。これが輸出農業化をベースに、グローバル市場下で多国籍資本と競争する欧米農協の姿で、カナダやアメリカでも基本的に同じことが起こっています。食料輸入国日本の農協再編は、同じ脱協同組合化が進みつつありますが、基本的にベースとなる農業縮小が進む中での農協再編ですから置かれた状況が異なるなかでの再編です。
 脱協同組合化について簡単に動向を見てきましたが、同時に、今の時代は、こうしたdemutualizationの時代であると同時に、新しい協同運動、すなわちnew mutualismが世界的に発生している時代でもあります。ご存知のように、社会的企業やイタリアの社会的協同組合であるとか、日本でも、福祉協同組合とかコミュニティ・ビジネスとか、いろいろな動きが起こっています。ですから、demutualizationとnew mutualismが同時に発生する、これが現段階の特徴であるということも押さえておく必要があると思います。

(2)協同組合の2つの定義
 このように協同組合が変容するなかで、協同組合とは何かということをめぐって2つの定義があります。
 1つは、皆さんよくご存知のICA(国際協同組合同盟)の定義です。「共同で所有し民主的に管理する事業体enterpriseを通じて、共通の…ニーズと願望を満たすために、自発的に結びついた人々の自治的な協同組織association of persons」である。簡単に言ってしまえば、「事業を営む協同組織」ということです。−続く



現代アソシエーション研究会報告 松下政治理論と『大衆社会とデモクラシー』
山田 竜作 (日本大学国際関係学部助教授


 私たちは、世界的な意味での市民の動きというものが出てきたなかで、いかに生協運動が既存の枠を突破して新しいアソシエーション的な展開を遂げるかという問題意識でアソシエーション研究を始めた。そこにはアソシエーションの意味という点で、大衆社会論が大きなキー概念としてある。山田竜作氏は、『大衆社会とデモクラシー』で、松下政治理論について系統的に全体図を明らかにし、かつ欧米のデモクラシー諸論との比較を試みている。アソシエーション論の展開という意味において、山田氏を囲んだ研究会の講演録を掲載する。(編集部)

学生時代の問題意識
 初めまして。山田と申します。よろしくお願いいたします。
 現在勤めております日本大学国際関係学部が、私の出身大学です。学生時代、最初から政治学や社会学に関心があったわけではありません。ですが、これらの学問分野について非常にインスピレーションを与えてくださる先生と出会いまして、気がついたらこうした研究の世界に入っていました。
 戦後の日本の政治史もろくに理解していなかった私が、大学に入って最初にきちんと読んだ硬い本は、日高六郎氏の『戦後思想を考える』でした。私が出会った先生の演習で輪読したのですが、当時、19歳の頭でどこまで理解できたかは怪しいものです。しかしそれでも私は、日高氏の書物に非常にリアリティを感じました。この本を通じて、「大衆社会」とか「管理社会」の諸問題、つまり、人々は本当に自由なのか、本当に自分の頭で考えて行動しているのか、ただマス・メディアなどに流されているだけではないのか、等々という問題意識を刺激されました。
 卒業論文を書く中で出会ったのが、大衆社会論の代表的論客の一人、カール・マンハイムなのですが、そこで私は大きな疑問にぶつかりました。私は、マンハイムがナチスに追われて英国に渡った後、ファシズムと戦う論陣を張ったところに非常に関心を持ったのですが、マンハイムを読んでいる人の多くは、英国亡命後のマンハイムはつまらないと言うのです。“マンハイムで一番面白いのはドイツ時代の知識社会学であって、英国亡命後の社会計画論などでは、彼の知的水準は低くなった”という、判で押したような評価が定まっていました。私が大学院に進学した1980年代末(今でもそうかもしれませんが)、非常に流行っていたのはハーバーマス。誰も彼もがハーバーマスをやっていて、ハーバーマスを知らないと何も語れないというような雰囲気に、私は違和感を覚えました。ハーバーマスをきちんと読んでもいないくせに、そうした雰囲気に反発だけはして(笑)、修士課程ではずっと英国期のマンハイムを研究していました。
 私には、大衆社会やマス・デモクラシーの問題、つまり、“選挙権の拡大によって多くの人が政治に参加できるようになった途端、デモクラシーの中からファシズムが生まれてしまった”というのは、現代の問題だろうという意識があったのです。しかし、私が学生時代をすごした1980年代には、もう日本は大衆社会ではないという風潮が強かったと思います。もはや、昔の軍国主義とか全体主義に戻ることはあり得ない「個人主義」の時代ではないか。誰かが号令を掛けたからといって、人々が同調するわけではない。しかも、学歴が高くなっているのだから、すでに無知蒙昧な大衆などいない――という議論が一方でありました。ところが他方では、高学歴社会、誰でも大学に行く時代を迎えた社会のことを「大衆社会」と呼ぶという現実もあったのです。
 では「大衆社会」とは何なのかというと、実はそのことについては誰も答えていない。“人々の学歴が上がったから大衆社会ではない”という議論も成り立てば、“大学が大衆化した1960年代以降こそ、本格的な大衆社会だ”という言説もあった。大衆社会ということを真正面から議論する人は、ほとんどいなくなったのに、「大衆社会」という言葉が定着だけはしていて、しばしば無反省に使われる。ところが、「大衆社会」と聞いた瞬間に人々がイメージするものはバラバラである。総じて現代社会について、“もはや、全体主義的な画一化社会ではない”という議論が一方であるかと思えば、他方では、“日本は非常に画一化を強いる社会であって、もっと多元化した社会にならなければならない”という議論もある――等々という錯綜した知的状況に、私は途方にくれました。−続く


<食の焦点>番外編 『イチ子の遺言』―産直事業における女性と家族
今野 聰


はじめに
 海老沢とも子・橋本明子・山崎久民著『イチ子の遺言』(ユック舎、05.1.22)が波紋を広げているらしい。<食の焦点>番外としてこの本を素材に、産直事業における女性の位置、従って家族を考えてみる。産地交流で女性は欠かせない。だが交流における役割分担で終わってはならないといわれながら、納得的プログラムになっていないで現在に至っている。だからとかくして交流する都市女性から問題を提起される。女性は夫の影かと。この本は、その意味で衝撃的である。消費者女性3人が各々書いた。加えて有名な山形県高畠町有機農業生産地、そこの家族農業が舞台である。3人は、元茨城県中央会職員・海老沢氏。有機農業関連の団体に属しイギリス滞在経験あり、その後茨城県八郷町で有機農業を実践する人・橋本氏。また現役の女性税理士・山崎氏。しかも著者の一人山崎久民氏はインタビューで「イチ子さんは[殉死]した」と言う(日本農業新聞書評欄、05.3.6)。
 一楽照雄が1970年代初期、有機農業研究会をスタートした頃、高畠町の星氏らが米生産から有機農業に参加した。片平潤一・イチ子夫妻もメンバーだ。イチ子は普通の嫁だったらしい。3人の母。だがそこからが違う。類稀な有機農業パイオニアである夫婦になってから、その実質担い手がイチ子さんだった。イラストを書いた産直通信の発行人。炎天下、田んぼの草取り農民。消費者を迎えて、歓待する人でもあった。夫の稲作増反、拡大政策について行くだけで、くたくただった。こうして消費者の「縁農」、「交流」の現実に疲れ、健康を害し、2003年3月、23年間の活動のあと、52歳で「殉死」したのだと言う。つまり高畠有機農業は家族農業としても存在を問われているらしい。3人のうち、実は橋本氏担当部分は初期産直史といっても良い。本シリーズの番外だからここに論点を置きたい。

1.そもそも米産直
 まずもっとも困難な1970〜80年代米産直事業。周知のとおり生活クラブ生協の庄内遊佐米産直は1970年代初期に始まった。生協・当該農協リーダー双方の不退転の決意が、余り米事情もあって、ゲリラ戦として可能になった(詳細は本誌04年3月号小論「農協直販事業の新地平」)。関わった私にとって産直原点体験といってよい。
 1931年全販連結成以来、農協組織の全農米担当は、国家一元政策の中で育っているから、米産直は眼中に無なかった。大潟村ヤミ米派を容認できるわけがない。
 1980年代私は、全農大消費地販売推進部に在職していたので、米穀事業部関係者に米産直事業を納得させることをあきらめていた。既存米共販担当者とは生活クラブの事例があっても、「創造的妥協戦略」で、説得するしかないと思った。つまり産直米をヤミ米でも実行する人の意向にも耳を持てば良いという考えである。−続く 



まちづくりフォーラム 福祉のまち鷹巣。今、これから
岩川 徹 (元秋田県鷹巣町町長)


−中略−

 鷹巣町という町は3月23日をもって合併により消えますので、今回の講演は鷹巣町民としてお話する、最後の講演となります。きょうは、この12年間で政策として実現してきた内容と、その時々の思いをお話します。

1.「福祉のまち、鷹巣町」の財政
 鷹巣町は人口約2万1500人、高齢化率約28%。主要産業は農林業で、財政力指数は0.35〜0.36。つまり3割自治といわれる全国どこにでもある普通の町です。
 ただ一つ異なるのは、「地方債現在高倍率」で、年間予算に対し0.9です。したがって年間予算から返済していく借金の比率「公債比率」は7.6です。これは秋田県69市町村のうち下から2番目という低さです。ちなみに県内自治体の平均は14から15です。
 全国を回っていると常に出る質問が「これほどの福祉をやって財政は大丈夫なんですか?」というもの。その質問の裏には「福祉は削減の対象」という認識がある。次代を担う子どもへの投資である教育費に関しては「財政が大丈夫か」という話にはならない。つまり教育は聖域であり、反対に高齢者福祉は「財政が大丈夫」でないなら削る対象として考えている。これは日本人の価値観を如実に現しています。
 問題は、自治体としての価値観をどこに置くかです。現在の日本には福祉に対する投資はありません。

2.「福祉最優先」は住民の声
 91年に42歳で初当選しました。選挙というのは立候補者への白紙委任ではなく、「投票」という行為を通じての立候補者と有権者との契約です。だから「当選だけさせろ、俺流にやらせろ」ということはあり得ないはずです。
 私は公約は出さず、住民の意思に基づく政治をするという基本を貫くため、町内の全世帯約8000軒を二巡しました。一人ひとりの声を聞いていく中で最優先課題として出てきたものが「老後の不安を解消する」ということでした。
 当時の町では痴呆の高齢者を抱えた家庭では座敷牢状態も珍しくはありませんでした。親の介護に専念していては食べていけず、やむなく親を閉じ込めて仕事に出ていくわけです。
 有権者が候補者である私に託したいことは、こうした生活の不安を解消する政策でした。それに対して対立候補は現在の大館能代空港建設を唱えていました。しかし住民は空港よりも福祉を重視し、私との契約を選択したのです。

3.デンマークに学ぶ
●福祉施策
 当選してすぐにデンマークに行きました。最初に訪ねたのはホルベックという人口3万人ほどの町ですが、ホームヘルパーは126人います。人口1万人に対して40人という割合です。当時の鷹巣町は人口2万4千人でしたが、ヘルパーは5人だけでした。
 デンマークでは87年に「高齢者住宅法」が成立しています。日本の特養に当たる施設(プライエム)を住宅に転換するというもので、その住宅についても最低面積を50u(共用部分を含む)とすることを定めています。
●成立の基盤
 こうした政策が誕生する背景には、障害や年齢によって分け隔てせず、少数者の権利を認めるというデンマーク国民の合意があり、その基底には個々人の意思を尊重するという民主主義の成熟があります。
 さらに言うならば、政策として実現可能にしているのは徹底した当事者優先と現場主義であり、そのための決定権と財源を現場に委ねている地方分権の精神そのものです。
●三原則
 このような考え方によって進められてきたデンマークの福祉は、生活の継続性、残存能力を生かす、自己決定権の尊重を高齢者福祉三原則としています。そしてこの三原則を実現するために不可欠なノウハウとして、長年の実践から次の三点をあげています。
 @プロとしての人手の確保
 A補助器具の研究開発と提供
 B住宅の整備
−続く
 

非営利セクターと第三世界の社会的企業を支援 パドヴァの倫理銀行>を訪ねて
東京ワーカーズ・コレクティブ副理事長 三上 政子


 2004年11月に東京・生活クラブ運動グループで実施した福祉ツアーは、障害者の就労をテーマにイタリアの「B型社会協同組合」の視察を主たる目的としたものでした。私たちが地域で事業を作り出していこうするときの大きな問題の一つが資金の調達です。イタリアでは、営利を目的とせず社会的な目標をもつ事業への融資をになう銀行があると聞き、その視察もツアーの大きな関心事でした。自分の預金を社会的な目的をもつ組織への融資に役立てることができるということに共感した多くの市民の資金をベースに、社会的な有益な事業や組織の活動を財政的に支援する「倫理銀行」の本部を、ヴェネツィアから列車で30分ほど内陸に入った中世の町、パドヴァに訪問しました。
 11月8日、パドヴァ市にある「倫理銀行」を訪問しました。この銀行は一般にその名のとおり「倫理銀行」“Banca Etica”と呼ばれていますが、正式には「倫理民衆銀行」(Banca Popolare Etica)という名称の協同組合系金融機関だそうです。
 倫理銀行へは、国鉄パドヴァ駅から南へ15分ほど徒歩で向かいました。倫理銀行の事務所は、大学の構内のように幾棟もの建物がある市街の中、周囲も落ち着いた静かな場所の目立たないビルの一階にありました。
 説明をしてくださったアントネッラ・モンディーノさんは、10年前父親の仕事の関係で2年間日本で暮らした経験をお持ちです。彼女自身は弁護士の資格を持ち倫理銀行に参加しておられます。モンディーノさんは、コンピュータのデータをプロジェクターに接続して画面をとおして、倫理銀行の概要を丁寧に説明してくださいました。

T.設立経過
 1994年12月、「“倫理民衆銀行(Banca Popolare Etica)をめざす”アソシエーション」が22団体により設立される。
 1995年6月、上記アソシエーションに代わり「“倫理民衆銀行をめざす”協同組合」が設立される。銀行設立のために50億リラの資金調達目標が設定される。
 1996年、「協同組合信用金庫」(Credito Cooperativo)を設立した場合、融資範囲は一地方の半に限られるため、全国規模の「民衆銀行」(Banca Popolare)の設置が目指されることとなり、資金調達は最低限125億リラ(1936リラ≒1ユーロ、1ユーロ≒140円ツア実施時)必要となる。
 1998年4月、資金調達が125億リラを突破する。5月30日、「“倫理民衆銀行をめざす”協同組合」臨時総会(パドヴァ市にて開催)おいて、「倫理民衆銀行」への転換が決議される。12月2日、「イタリア銀行総裁」の名において「倫理民衆銀行」の業務が認可される。

U.目的
 倫理銀行は、富の生産と分配が全般的福祉益の実現、市民的責任意識、連帯精神に基礎をおく人間的・社会的発展の持続可能な方法をめざすべきという原則に則って、自らの資金が透明性と責任性をもって運用されるよう望む預金者たちの結合体、と規定されています。したがって倫理銀行は、あらゆる個人、家庭、団体から預かる財政的資源を、人間的尊厳・環境保全・社会的目的を尊重する経済的事業に振り向ける、としています。
 さらに倫理銀行は、預金者に対してはその資金の投資先およびその期限を理解するよう求め、また借手に対しては自立性と経営能力の向上を促す、とも述べられています。
−続く


遺伝子組み換え食品の表示をめぐって 日本では「組み換え原料不使用」でも、ヨーロッパではGM食品!
リンジー・キーナン(グリーンピース・インターナショナル)
聞き手:赤堀ひろ子(生活クラブ静岡・理事長)/編集部


 ヨーロッパでは昨年(2004年)4月から、遺伝子組み換え食品の新しい表示制度がスタートし、最終製品から組み換えDNAが検出されない油など加工度の高い食品にも、トレーサビリティに基づく表示が義務付けられ、遺伝子組み換え原料の非意図的な混入の許容範囲(閾値)は0.9%と決められた。このような厳しい制度をもたらした消費者の力とは、どのようなものなのか。イギリスから遺伝子組み換えナタネの自生調査のため来日したキーナンさんにお話をうかがった。(編集部)

 ―EUでは、非常に厳しい遺伝子組み換え(以下GM)表示が施行されましたが、確実に実行されるために何がなされているのでしょう。たとえば混入率が0.9%以下であることを保証するために、誰がどんな検査を行っていますか。
リンジー・キーナン(以下L.K):検査についてはヨーロッパの法律に則って国内法が整備され、各国に任されています。たとえばイギリスでは、動物検疫、微生物などの検査を行う国の検査機関が、GMについての検査も行っています。国によってGM規制の強弱はありますが、政府は問題が起こって初めて行動する傾向がありますので、グリーンピースや地球の友といった環境団体、そして消費者団体のCI(国際消費者機構)などは、政府がGMのチェックをするよう圧力をかけています。

 ―日本の「遺伝子組み換え食品いらない!キャンペーン」の検査活動のように、独自の調査は行っていますか?
L.K:NGOによる検査活動は、重要な運動です。グリーンピースも主要な活動として、PCRテストを行ってその結果を公表しています。しかし、PCRテストは高価ですので、もっと安上がりな方法として、食品会社や食品流通業者に手紙を書き、自社の製品にGMが含まれるのかどうかなどのGM政策について質問をし、その結果について、どの会社が悪くて、どの会社がいいのかを示した「レッド・オア・グリーン・リスト」として公表しています。

●まずは食品業界がターゲット
 ―政府に対しては、どのような取り組みをしているのですか?
L.K:政府となると、少し話が違ってきます。どの国でも政府は基本的にGM推進派で、テクノロジーとビジネスを推進しています。そんな中、どうやって政府を説得するのか。消費者は選挙での投票で意思表示できますが、GMの問題は、政府の政策の一部分にすぎないので、それだけを尺度に投票するのは難しいのです。
 一方、消費者はどの会社の製品を買うのかという選択の権利を、日々行使します。食品業界は他社との競争もありますから、政府に比べて消費者の要求について敏感です。また、農民にGM作物の栽培をやめてほしいとすれば、農民の作ったものは最終的にスーパーマーケットで売られるわけですから、スーパーマーケットがGM食品を置かないとなれば、金銭的なメッセージとして農民にまで伝わることになります。
 ですから政府が何を言おうと関係ありません。食品や原材料を仕入れる人がどう言うのかが、問題なのです。「われわれの顧客が望んでいない」と食品産業が言うかどうかです。
 GM食品表示法について、誰が政府に表示の法律をつくるよう圧力をかけるのか。たとえば日本で消費者団体、環境NGOが、ヨーロッパ並みの閾値0.9%、トレーサビリティに基づく表示をと要求しても、食品業界は、コストと時間がかかりすぎる、だめだと言うでしょう。米国政府は、GM作物を開発しているのはわが国のバイオ産業であり、栽培しているのはわが国の農民なのだから、何の規制もしてくれるなと言う。日本政府に消費者が表示を要求したところで、消費者が発揮できる力は小さいでしょう。
 ところが、ある食品会社がすでに、遺伝子組み換え原料は使わないという「非GM政策」をとっていたらどうでしょう。食品会社が消費者からの圧力を常に感じていれば、たとえばユニリーバ、ネスレといった会社との競争に勝つために非GM政策をとるでしょう。ヨーロッパの場合、いったん食品会社が非GM政策をとれば、会社の姿勢は変わり、厳しい表示を支持するようになりました。なぜなら自分の会社は厳しい表示制度でもなんら問題なく、競争相手こそ問題に直面することになるからです。
 それまでGM表示はいらない、と言っていた食品産業が、非GM政策をとることによって、そうは言わなくなるだけでも大きな前進です。ですから、まずターゲットを食品業界に絞って圧力をかけることが大切です。そうすれば、政府に圧力をかけやすくなります。
 情報を明らかにすることによって、運動がやりやすくなる、ということもあります。たとえば、ヨーロッパの食品業界トップ50のすべてが非GM政策を打ち出しています。ですから、日本のように閾値が5%である必要はない。もっと低い値は達成可能であり、大企業50社が現にやっていることなのです。こういった事例があれば、政府との交渉もやりやすくなります。−続く




この論文・あの図書 市民のための政治学3点
法政大学大学院博士後期課程 栗原 利美


1 「丸山眞男と「戦後民主主義」・〈市民〉」、飯田泰三×小塚尚男、月刊『社会運動』293号、2004年8月、市民セクター政策機構

 飯田泰三(法政大学教授)は丸山眞男の直弟子であり、これまで『丸山眞男集』(岩波書店)、『丸山眞男講義録』(東京大学出版会)など、丸山の著作に関する編集に携わってきた。またこれらをはじめ様々な著作集の編集に携わると同時に多くの解説や解題を書いているで、「解題屋」を自称する政治思想を専門とするユニークな政治学者である。私は現在大学院で指導を受けているが、特に本の読み方の的確さと博識ぶりは常々感心させられるとともに、尊敬の念をいだいている。ただ話が次々と展開し広がりを見せるタイプなので、時々収拾がつかなくなることがある。本インタビューは、聞き手がうまく論点を引き出すとともに、編集者が全体を非常によくまとめていると思われる。
 はじめに、丸山が60年安保の時期、既に「市民のための政治学」ということを言っているのは驚きである。次に話は、天皇制的な精神構造としての「原型」すなわち「古層」論と同時に「文化接触論」に及ぶ。この関連として徂徠学や「闇齋学派」論に話題が展開し、「異端と正統」の問題が提起される。そして丸山の有名な「永久革命としての民主主義」の意味を考察し、話は、日本の「集団」意識と個人の自立という重要なテーマについてなされる。最後に、丸山から学ぶべきこととして「他者感覚」をあげている。「つまり、『同じ日本人である』ということも『自明』ではない。一人一人全部違うのです。そして、いかに他者を理解するかということです。自分とは違うから『排除』すると言うことであってはならない。自分たちで主体的に、異質な他者との関係を作り上げ、アソシエーションを作っていく。これが、人間が社会を作っていく根本です。しかし、異質なものを排除し、同質なもので固まる、こういう傾向がますます強くなっています。昭和天皇の死に際して、丸山さんは『自粛の全体主義』という言い方をして警鐘を鳴らしていました。そういう丸山さんの『他者感覚』論を強調したいのです」(本書、10頁)。本件は、こうした丸山の提起した論点に立脚して「戦後デモクラシー」を考察した貴重なインタビューであり、われわれが丸山眞男から何を学ぶべきかをきちんと教えてくれる。

2 松下圭一著『政策型思考と政治』(東京大学出版会、1991年)

 本書は、松下圭一(法政大学名誉教授)の政治理論の集大成と言えるすぐれた著作である。1998年に法政大学大学院に政治学専攻の夜間大学院が設置され、私は第1期生として2年間にわたり、本書をテキストとした著者による講義をダイレクトに聴いたので、本書に対する愛着は人一倍強いものがある。著者が開口一番、政策についていろいろ分析した本はたくさんあるが、いかにして政策をつくるかを書いた本はこれ(本書)しかないという趣旨のこと言ったのが今でも脳裏に焼きついている。
 著者は、都市型社会への移行を明確に位置づけ、国家観念との決別により市民自治・共和の政策・制度を対置していくのである。そして、自治体、国、国際機構の三分化からそれぞれの政府をどのように位置づけるかが理論構想として示されている。根底にあるのは、「多元化」・「重層化」という政治の「分節化」である。これは著者のユニークな政治理論によるものである。また政策型思考とは、予測と調整の技術であるとの言葉は本質をとらえていて興味深いものがある。同時に、政治と政策との関係を理論的に明らかにしながら、最後には政治に限界があることをきちんと指摘している。まさに「本書を読まずして政策を語ることなかれ」というべき書物である。研究仲間と是非英訳したらどうかという話があるのだが、因みにタイトルである「政策型思考」は、松下先生によれば、“Policy Style of Thinking”と英語で表現するとのことである。興味の尽きない書物であり、常に立ちかえるべき原点がこの書物には存在している。

3 山田竜作著『大衆社会とデモクラシー―大衆・階級・市民』(風行社、2004年)

 本書は、山田竜作(日本大学国際関係学部助教授)が英国のシェフィールド大学に提出したPh.D.学位論文が基になっている。当然学位論文は英文であるが、私はその日本語版の論文が、1997年から2000年にかけて著者が勤務していた『八戸大学紀要』に掲載された時から注目していた。というのは、松下圭一の大衆社会論について日本で初めての本格的な理論研究であったからである。したがって、昨年11月に本書が出版されたという情報を得た時にはすぐに買い求めて読んだことが記憶に新しい。また幸運にも本年2月に当機構の「現代アソシエーション研究会」で、「『大衆社会とデモクラシー』をめぐって―松下政治理論を考える―」という演題で著者から話を聴くことができ、本書の理解を深めることができた。
 著者は、「松下の政治理論の全体像は、これまで十分に理解されてはこなかったし、実際、その評価も定まっていない。1950年代の松下の、ジョン・ロックを機軸とする『市民政治理論』研究、および大衆社会論、60年代の分権論・都市論・市民論、70年代のシビル・ミニマム論は、ほとんど相互に関連づけられて理解されていないように見える。50年代には社会主義的な階級論にこだわっていた松下が、60年代にはそれを放棄し、70年代には自治体論や行政学へと移行した―という認識があるように見受けられるが、これもまた通俗的な理解と言わざるを得ず、松下の論理を丹念に読み解いていけば、むしろそこにかなり一貫した論理を見出すことができる。特に彼の、50年代の大衆社会論と、60年代の都市論・市民論との理論的つながりは、当然のことなから非常に強固であり、シビル・ミニマムに至る彼の理論的パラダイムを定礎したのは大衆社会論であった」(本書、13−14頁)と見事なまでに的確な指摘を行っている。
 残念なことに、本書の英語版はまだ出版のメドが立っていないとのことである。著者によれば西欧では、議員や選挙のはなし以外、日本の政治理論は丸山眞男のものを除いてほとんど知られていないとのことである。日本の政治学者がヨコのものを一所懸命にタテにしているのとは対照的である。本書のようなすぐれた政治理論の研究書が是非英語版として出版されることをお祈りしたい。


《状況風景論》 非営利組織概念の再検討&井筒映画『パッチギ!』のぬくもり

●日本における「社会的企業」
 「社会的企業と非営利組織」を調査研究されている松本典子(駒沢大学大学院)さんの話を現代アソシエーション研究会で聞く機会があった。社会的課題をもった日本のNPO・株式会社・ワーカーズ・コレクティブを調査された事例の話だったが、その報告の結語「考察と課題」が印象的だった。
 「これら多様な組織形態で活動する非営利事業体を包括可能な非営利組織論の構築(非営利組織概念の再検討)が現実的課題として提起されている。」「サラモンの基準においてのNPOの重要な構成要素として位置づけられている、営利性/非営利性の境界を不明瞭なものとし、「非営利性」「公益性」という従来の非営利組織類型化の機軸(分析視座)の内容的再検討、および組織目的や組織特性を非営利組織概念の中核に位置づけ規定する必要性を示唆している」と。
 WNJが法制化運動の中で、協同組合の非営利性と公共性で突き当ってきた課題が鮮明にされている。また、民法34条の抜本的改革なしに公益法人改革はないとした論点に通じるポスト産業社会の非営利事業と新しい労働論にかかわる大事な指摘であったと思う。

●「きらりと光る小さな国」は…
 日本の国連常任理事国入りを果たすために、世界中から大使を呼び寄せて、町村外相が「日本の歴史PRが弱い」と叱咤激励、同じ日国会では小泉首相が「靖国参拝、他国は干渉するな」と居直るのを聞いていると、細川内閣の時代、日本が常任理事国入りをめざすのではなく《きらりと光る小さな国》を主張した田中秀征らの〈平和国家〉構想はどこで立ち消えたのかと思う。
 今年は戦後60年でもあるが、バンドン会議50年でもある。近代が戦争の時代であったのを、第二次世界大戦後の日本の平和憲法と周恩来・ネールの「平和5原則」は国家と外交の新しいタイプを示した。その平和的手法を現代の国際政治に活かし、またアジア経済の多元的発展期をとらえて互恵・平等の多角的な組み立てをもつ政治論や外交論を活かす論の展開がまたれている。

●『イムジン河』が謳われた時代
 井筒和幸監督の青春映画『バッチキ!』がおもしろい。「突き破る、乗り越える」という意味をもつ言葉だが1968年という時代の熱さが京都から発せられている。『岸和田少年愚連隊』『ガキ帝国』『ゲロッパ!』と、ガキの関わりを描いてきた井筒監督。日本人高校生が敵対する朝鮮高校生に親善サッカー試合を申し入れに行くところから始まる熱い映画だ。ベトナム反戦、学生運動、フォーク全盛時代のなかに、在日の帰国事業を折り込んで青春群像が押し出される。きれい事だけでなく喧嘩や言い合いがぶつかり合う。もうすっかり忘れてしまった事件や言葉が観ている〈私〉を挑発する。個人とグループが複雑に交差し、如何に関西の地が多文化を併存させてきた日常生活世界が多重構造の社会として形成されていたかが心地よく伝わってくる。その役を演じる俳優は当時の運動や在日のことも良く知らない人たちなのだが、当時の関西の、日常生活レベルでの目線の低い対話がやわらかい。そのバックミュージックがザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」だ。この南北分断を唄った北生まれの曲は発禁・自主規制に追い込まれながら唄われ続けた。60年世代はこの歌をジョーン・バエズの「ウイ・シャル・オーバーカム」と同じくらいに深く深く心に刻んだ歌なのだ。亡くなった生活クラブ連合会の船木専務の愛唱歌でもあり、協石連がかって岡林信康を招いて関西フォークを堪能したほど、フォークは一つの時代の精神の共有財産だった。もはや忘れられた記憶を井筒監督は現代に通じる論議と共生を、生活と地域の中での異文化交流の世界として描いてみせた。1993年に作られた崔陽一監督の『月はどっちに出ている』は在日とフィリッピン女性を日本社会の多重構造の欠かせない存在として描き、多くの映画賞をえたが、今私たちはそのような〈共生〉感覚から随分ひき離れたところに今、いるのが気にかかる。(柏井宏之)


雑記帖 【宮崎 徹】

 このところ企業をめぐる不祥事が頻発している。また、ライブドアとフジテレビの攻防は「会社はだれのものか」という素朴かつ根本的な問題を改めて呼び覚ました。企業が議論の的になっている底流には、事件のレベルを超えて、時代の変化がある。例えばポスト産業資本主義への移行過程のなかで資金力より知識が価値の源泉として重視されるようになったとき、資本提供者である株主の地位に変化はないのか。知識の創造がいっそう重要になるとすれば、その前提となるボランタリティ(自発性)を引き出す組織形態はどのようなものかといった問題が浮上している。
 さらに遡れば、株式会社がそこから派生した法人とはなにかという問いかけも出てくる。その歴史的起源はローマ時代にある。自治都市や植民地で法人という概念が最初に生まれた。中世になって僧院や大学が法人になり、やがて商業や生産に従事する同業組合が法人形態をとるようになった。発生の由来をはしょっていえば、自然人の有限の生命をこえた永続的な契約主体が必要であったこと、あわせて契約関係の簡素化であった。
 なにがいいたいのか。法人は自治組織として出発し、近代では株式会社が優位にたち、現代では社会目的と結合したNPO法人や社会的企業として甦りつつあるかもしれない。株式会社をはじめとする従来の会社だけではなく、経済組織としてNPO法人などもありうるということで、組織形態の選択肢が広がってきたといいたいのである。自己宣伝はまずいと思いますが、この論点に興味のある方は『現代の理論』(夏号、6月発売)の拙稿「法人論から見た株式会社とNPO」をお読みください。