月刊『社会運動』 No.305 2005.8.15


目次

<戦後60年特集>
 『占領と平和』<戦後という経験> 道場親信/米谷匡史‥‥2
 戦闘機の銃後を巡る物語・足元の「事実は伝わっているのか」 葉上太郎‥‥17
GMナタネ最新情報
 ナタネ調査結果発表―予想を超えて拡がるGMナタネ 倉形正則‥‥24
 モンサント社と闘うパーシー・シュマイザーさん来日 清水亮子‥‥27
 GMOフリーゾーンの草分け・ザルツブルグ州の有機農業団体 ピーター・ヘクト‥‥28
食の焦点F 牛肉と日本農業 今野 聰‥‥29
増えつづける多重債務者 消費者信用産業の現況と多重債務問題 横沢善夫‥‥31
ライト・ライブリーフッド賞25周年記念シンポジウムに参加して
 「世界」から生活クラブを見て 奥田雅子‥‥37
 生産する消費者としての生活クラブ 和田裕子‥‥39
 グローバルからローカルへ 清水亮子‥‥42
生活クラブ生協総代会2005 議案書にみる地域の生活クラブ中東京・神奈川 編集部‥‥44
『高齢社会の医療・福祉経営』に寄せて 介護保険見直しと今後求められる機能 小川泰子‥‥51
イギリス、核燃料再処理工場で事故 セラフィールド再処理工場の破綻と六ヶ所村再処理工場の行く末 真下俊樹‥‥56
<状況風景論>『17歳の風景』、『輝ける青春」&都議選とマスコミ 柏井宏之‥‥63
雑記帖 加藤好一‥‥64

表紙からのメッセージ 写真家・桑原 史成
 8月15日は、日本がたどった悪夢の節目で今年は60年にあたる。ヒロシマやナガサキは日本が被った悲劇だが、日本の負の遺産もある。私たちの先人がたどった大陸への進攻は朝鮮や中国、東南アジアそして南太平洋など、そこで歴史に何をもたらしてきたのか。戦闘で沈没した戦艦や航空機は海の藻屑と化しつつあるが、他国の人民の海での戦略的な侵攻の足跡は半世紀余が経過した現在でも、容易に風化の現象はみられない。中国の南京市には南京大虐殺記念館がある。それは、日本人にとって、目を背けたい現場で、また韓国の独立記念館も同じである。南京事件は1937年に起きた日本軍の攻略で、中国兵と一般市民に多大な被害を与えた。中国はプロパガンダで、その数を30万人と誇示しているが、事実はその一割との見解もある。ここで数値を争う誌面はない。日本のたどった歴史が残した負の遺産と私たちは真摯に立ち向かわなければならいない。一説では、この記念館を世界遺産に向けて準備が進んでいるとも伝えられる。


<戦後60年特集>現代アソシエーション研究会 占領と平和 <戦後>という経験(上)
<対談>  道場 親信(大学講師) 米谷 匡史(東京外国語大学教員)

 本年は、戦後60年である。首相の「靖国参拝」だけでなく、様々な部面で「逆流」を感じる方々は多いと考える。その危機感は是としても、その感じ方=「尺度」の前提を吟味することは不要なのだろうか。歴史の再審という課題だ。道場氏の最新刊『占領と平和 <戦後>という経験』(青土社)は、単に研究という立場でなく、運動をも包括してこの課題を提起している。今後、歴史を国際、日本、地域という多軸重層に分析していく点で、この大部な労作は、一つのスタンダードとして機能しうると考える。この著書をめぐって、同世代の米谷匡史氏との対談を掲載する。(編集部)

1.「戦後」を問いなおす
<道場> きょうは、交互に問題提起をしていく形で進めていきたいと思っていますが、1.「戦後」を問うことの意味──「冷戦」の再審、2.「東アジア」という視点、3.「東アジア」の中の「占領」、4.「東アジア」の開かれた歴史へ──共同研究と歴史の対話、という4つの論点を設定してみました。そういうわけで、まずは「戦後」を問うことの意味を考えるところから始めたいと思います。
 『占領と平和』の中で示したかったことをまずお話しします。序論では、「戦後日本」というものを東アジアの冷戦の文脈の中に置いてとらえ直すという構想を展開してみました。一般には「戦後」というと、文字どおり戦争が終った後の時代のことだというふうに受けとめられていると思います。ですが、この10〜15年に見えてきたことは、戦争のない、平和な時代だと思われていた1945年以降の時代は、世界的に見ても東アジアという地域に即して見ても、けっして平和な時代ではなかった、そのことをあらためて考え直さなければいけないということです。
 それから、「冷戦」という非常に大きな構造に組み込まれる中で、日本は直接に戦争を経験しなかったけれども、朝鮮半島やベトナムといった場所では「熱戦」が展開されていて、地域間に不均衡な力が表れていました。各国の「民主化」が進んで、この時代についての史料が出るようになり、経験者たちが具体的な証言をするようになってきて、「冷戦」の時代を東アジアという視点から考えることなしに、戦後って何だったのかを考えることはできなくなりました。
 「冷戦」という構造の中に封じ込められていた声は、単に同時代の実情──たとえば軍事独裁政権のそれ──を告げるものだけでなく、それ以前の時代、つまり植民地時代とか第二次世界大戦の経験自体が封じ込まれてきた。そういうことが冷戦以後見えてきて、「冷戦」を知るということは、実は、それ以前の歴史をより深く認識する上でも不可欠な通路であることがはっきりしてきました。
 小熊英二さんの『単一民族神話の起源』(新曜社、1995)では「日本の自画像」という言葉が使われています。日本の自画像としての単一民族国家観のパターンというのが戦前・戦中に出尽くしていて、戦後にそのパターンの中の一つが勝利していく、というかたちで書かれています。しかし、なぜそれが勝利したかという時に、占領あるいは冷戦を抜きに考えられないはずなのに、それがほとんど表れてこないんですね。戦後日本の「自画像」を考えるなら、それはまさに単一民族国家観であると言えるでしょうが、それは「日米合体」で生み出されたものです。平和主義というものも、単一民族国家観とふかい結びつきをもっており、「一国平和主義」といわれるような認識の限界を持っていたと言える面もあると思います──本書の第U部では「一国平和主義」の想像力を越えようとした思想や運動についても追いかけているつもりです。
 とすれば、もう一度冷戦と占領という文脈に置き直して、単一民族国家観というのはどういう力関係の中でつくり出されてきたのかということを考える必要があるでしょう。『占領と平和』の第T部では、ルース・ベネディクトの『菊と刀』(講談社学術文庫、2005)が生み出されていく歴史的な文脈、それが読まれていく歴史的文脈に即して読んでいくと、単一民族国家論的な文化観というものがどうやってつくられたか、同時に、それを支える社会構造というか政治的な力というものが見えるのではないか、という視点から考えてみました。
 第U部では平和運動そのものを取り上げています。そこでは序論で集約的に語っていた「冷戦」の再審を通じて、われわれの歴史感覚をつくり直すために、冷戦構造と対峙していたはずの平和主義の多様な内実をふり返ってみる、という作業を行いました。多様な人々の経験をたどり直すことで、経験を互いに共有し、議論できる場がつくれないか、という課題にとりくんでみました。

2.戦後日本のダブルスタンダード
 後の議論につなげる上でまとめますと、1つは、先ほども言いましたけれども、「冷戦」を読み直すことが、第二次世界大戦やそれを遡る植民地支配の歴史の読み直しにつながるだろうということ。読み直しというのは、歴史を自国のナショナリズムに都合のいいように修正する(歴史修正主義)ということではなく、より深く理解するという意味です。 2番目に、戦後日本のナショナリズムだけでなく、中国・韓国・北朝鮮のナショナリズム、あるいはいま勃興しつつある台湾のナショナリズムなども含めて、ナショナリズムというものがつくられてくる過程が、第二次世界大戦後の東アジアの政治過程、特に軍事的な動きに大きな影響を受けていると思われるので、戦後ナショナリズムの意味を問い返すことができるだろうということ。
 3番目に、社会運動の意味を問い直すことができるだろうということ。この本でやったのは戦後日本の平和運動ですけれども、例えば韓国史を考えた場合、民主化運動の意義とか、米軍駐留と軍事独裁政権の癒着に対する批判・告発の運動が持っていた意味は、けっして、韓国の民主主義確立というナショナルな物語に回収されるものではなくて、アメリカの東アジア戦略への抵抗という意味を非常に深く持っていたわけです。
 すでに、沖縄の反基地運動と韓国の反基地運動の交流が盛んになっていますし、このことの意味はこんごますます重要になっていくと思いますけれども、社会運動レベルでの戦争責任や「従軍慰安婦」問題、あるいは植民地支配責任の追及等、いろいろな課題が相互に重なり合いながら、社会運動の交流が非常に広がってきていて、それが歴史を開いていく重要な要素になるのではないかと思います。このように「冷戦」と「東アジア」を見ていくことが、戦後のナショナリズムや社会運動の問い直しにつながるということを、本の中では冷戦構造に対する「反システム運動」の視点として提示しています。
 もう一つ、吉田裕さんが「東京裁判」(*1)に関連して提起されていた、戦後日本のダブル・スタンダードという問題を、「冷戦」の問題の中で考えていく必要があると思います。
 10年前に加藤典洋さんの『敗戦後論』(講談社、1997)がかなり物議をかもしました。戦後日本には「ねじれ」があって、これを解消するためには、他民族の死者への追悼を先に立てるようなやり方をやめて、まず自分たちの死者をきちんと弔うことから他者に向かい合う、そういうかたちでなければ責任ある主体は立てられないだろう、というような問題提起をしたと思います。−続く


<戦後60年特集> 戦闘機の「銃後」を巡る物語 足元の「事実」は伝わっているのか
地方自治ジャーナリスト・葉上 太郎


 戦争の事実は驚くほど伝わっていない。私達の目の前の「銃後」で起こった悲劇ですらだ。戦後は60年の「還暦」を迎え、新たな“有事”を想定した法制が進むなど、我々を取り巻く環境や考え方は大きく変わろうとしている。だが、その前に何か重要なことを忘れてはいないだろうか。中島飛行機という文化都市・武蔵野にあった軍需会社の「銃後」を巡る物語に、その「何か」を見る。

空爆工場の非情と少女の武勇譚
 ある「軍国少女」に会った。
 60年前の戦争では、米軍のB29爆撃機が大型爆弾を落とした空襲で、家族でただ一人、防空壕に入らずにいたという武勇伝を持つ。
「男に生まれたらよかったのに」
 家族はそう惜しんだという。今年、75歳になる。
 1944年秋、高等女学校の2年生だった少女は、学徒動員で東京都武蔵野市(当時は武蔵野町)にあった中島飛行機に派遣された。
 中島飛行機とは、元海軍機関大尉の故中島知久平氏が群馬県で創業し、海軍の零式戦闘機(零戦・設計は三菱)や陸軍の隼戦闘機を量産した大日本帝国で随一の戦闘機メーカーだ。東京には、まず現在の杉並区に進出し、それから1938年に武蔵野町へ陸軍機のエンジン工場「武蔵野製作所」を開設した。次いで、海軍機のエンジン工場「多摩製作所」を隣接して操業させ、当時の武蔵野市は軍事工場の一大拠点となっていた。軍需大臣の勧告で、両製作所は合併して「武蔵製作所」となり、陸軍は東工場、海軍は西工場と呼ばれていた。
 だが、戦争も末期になると、働いていた工員までが兵隊として出征してしまい、後を埋めるための銃後の要員として少女は戦闘機のエンジン作りに参加させられた。
 中島飛行機には高等女学校から学年単位で派遣され、まず工場内にあった青年学校で作業の訓練を受けた。
「旋盤の回転数を変えるために、ぐるぐる回るベルトに手を引っかけて、大きさの違うギアに移すのです。これは力が要るだけでなく、危険な作業で、ベルトに巻き込まれて大怪我をした人もいると聞きました」
 体の小さかったその少女にとって、作業は精神力だけでは不可能だった。そのため、ねじ切りなどの作業を経て、部品の検査工室に配属された。3〜4人が一班になり、地下の工室で働いたのだという。

 「蘇鉄の入った油に、腕まで突っ込んで部品を浸し、ノギスで計るのです。アレルギーで顔が倍近くにまで腫れ、1カ月ほど休んだのですが、それ以外は皆勤でした。『私が行かなければ戦争に負ける』と思っていたからです。工場での成績は優秀でした。賞として国債をもらったほどでした」
 ところが、その年の11月24日、中島飛行機はB29九爆撃機の編隊に襲われた。
 サイパン島が陥落し、日本本土が米軍の空爆の射程に入ると、東京空襲のまず第一の目標とされたのが中島飛行機だった。
 11月の初めごろ、工場のはるか上空を米軍機がゆっくりと横切るのを、元工員らが目撃している。空から製作所の写真を撮影して、空爆の最終確認をするためだった。
「戦後知ったのですが、そもそも工場の設計は米国人だったそうです。米軍はすべてを知ったうえで、爆撃をしたのですね。だからひとたまりもなかった」
 元「軍国少女」はやるせなさそうに話す。
 爆撃は、ちょうど昼時だった。
 工場には食堂があり、食券で大根の煮ものとおにぎりが食べられた。その昼食を食べていた時に、爆撃は始まった。軍事機密を取り扱う工場だけに、外に逃げることは許されていなかった。
 「机の下に潜るしかありませんでした。皆で抱き合って、震えながら泣くばかりで、お経を唱えていた人もいました」
 中島飛行機は以降、敗戦間近の45年8月まで、たびたび空爆にさらされる。B29が降らせたのは、1トン爆弾と呼ばれる2000ポンドの爆弾だった。
 地上で爆発すると、直径10メートル・深さ五メートルほどのすり鉢状の穴になり、直撃すれば人間の体はバラバラになった。爆風は500メートルに及んだとされる。
 だが、会社は非情だった。
「既に空襲は想定していたので、工場の近くに遺体安置所を作っていたほか、群馬県の工場で棺も作っていた」−続く



予想を超えて拡がるGMナタネ 全国GMナタネ自生調査結果発表 5府県、14ヶ所で自生を確認
市民セクター政策機構 倉形正則


輸入ナタネの大半がGM混入
 2005年7月現在、日本で食品としての安全審査済みとされ、輸入・流通・販売が許可されている遺伝子組み換え(GM)ナタネは、15種類!もあります。それらはすべて除草剤耐性を組み込まれた西洋ナタネです。15種類の内訳は、耐性除草剤で分けると、2つが「ラウンドアップ」、12が「バスタ」、残り一つは「Buctril」です。
 主にキャノーラ油の原料として輸入される西洋ナタネは年間約200万トン、その9割をカナダ産に頼っています。カナダでは半分以上がGMナタネとなっています。また非GMとして販売されているナタネの種子からも、高い頻度でGM遺伝子が検出されることから、カナダ産ナタネのほとんどには、程度の差こそあれGM遺伝子が混入していることが予想されます。
 GM遺伝子混入がとりわけナタネで問題とされるのは、ナタネは交雑する頻度が高く、ヒノナ、ハクサイ、スグキナ、カブ、アブラナ、カラシナ、タカナなど交雑可能な近縁種が野生種、栽培種ともに多数に上ることです。

予想を超えて拡がるGMナタネ
 7月9日、遺伝子組み換え食品いらない!キャンペーンは、全国に呼びかけて行った、「遺伝子組み換え(GM)ナタネ自生全国調査」の2005年度分の結果を発表しました。今回のGMナタネ調査は、以下の2種類の方法で検査しました。
・一次検査:イムノクロマト(ラテラルフロー)法。GMナタネに組み込まれたタンパク質を「抗原抗体反応」で反応させ、検出する鋭敏な方法です。検査紙のキットによる比較的簡便な検査なので、今回は参加した市民が自らキットを使って検出しました。
・二次検査:PCR法。検査対象から「遺伝子」の本体であるDNAを取出し、GMナタネに組み込まれた遺伝子の一部分だけを増やして検出する方法。市民が採取した葉や茎などを検査機関に送り、検出しました。増幅するDNAの対象部分を工夫することで、厳密な検出や定量検査が可能です。
 その結果、北は岩手から南は鹿児島までその調査地点数は、1177地点に及びました。そのうち組み換え遺伝子が検出されたのは、一次検査で、ラウンドアップ耐性とバスタ耐性を合わせて142検体、二次検査では同じく14検体となりました。

栽培認可もなし、カルタヘナ法も違反
 GMナタネの自生、あるいはGM遺伝子の拡散は、違法行為にあたります。05年現在、国内では栽培の認可を受けているGMナタネは、ラウンドアップ耐性の2品種のみです。バスタ耐性は栽培してはならないはずのものです。−続く



モンサント社と闘うパーシー・シュマイザーさん来日 北海道を、そして全国をGMOフリーゾーンに!
市民セクター政策機構 清水 亮子

 カナダの最高裁で遺伝子組み換え作物の巨大企業モンサント社と闘ったパーシー・シュマイザーさんが、2年ぶりに2度目の来日をした。シュマイザーさんは、カナダの穀倉地帯サスカチュワン州のブルーノというまちで、ナタネ、小麦などを50年にわたって栽培してきたが、畑で自生している「ラウンドアップ・レディ」(RR)ナタネがみつかり、1998年、このナタネの特許権を持つモンサント社から特許権侵害として訴えられてしまった。昨年(2004年)5月に下された判決では、モンサント社のRRナタネに対する特許権は有効とされたものの、シュマイザーさんはナタネの栽培中に除草剤ラウンドアップを使っておらず、特許権を「使用」したとは見なされず、モンサント社が求めていた特許権使用料の支払いは免れた。
 今回の来日は、「北海道をGM汚染からまもろう」という北海道の人々の呼びかけに応えたもの。北海道では、GM作物栽培規制条例が今年3月、議会で可決され、商業栽培については事実上禁止されたが、実験栽培についての細則を決める道のGM部会の議論は、在来種とGM作物の間の栽培距離の長さに終始しているようだ。
 この部会の松井座長(北海道大学)は、7月3日の会合で、「国が定めた交雑防止のための栽培距離の2倍から3倍でいいのでは」と発言している。もともと根拠の乏しい国の基準を2倍、3倍にしたところでどういう効果があるのか、疑問に思わざるを得ない(本誌290号参照)。ちなみに国の基準では、イネは20m、大豆10m、トウモロコシと西洋ナタネは600m。
「安全な栽培距離など存在しない!」
 このような状況を受けてのシュマイザーさんのメッセージは、「安全な栽培距離など存在しない」だった。花粉や種子は風、昆虫、鳥、動物によって媒介され、予想もできないほど長い距離を移動する。
 9年前に遺伝子組み換えナタネの商業栽培が始まったカナダでは、いまや農場、街中を問わず至る所で自生のGMナタネが見られる。栽培国のカナダだけでなく、カナダから大量にナタネを輸入している日本でも自生のGMナタネが大規模に見られるという事実が確認された(P.35参照)。

世界中に広がるGMOフリーゾーン運動
 こうしたGM汚染の実態を受けて、カナダでも市民団体「カウンシル・オブ・カナディアンズ」が呼びかけ、「遺伝子組み換え作物を作らない!」というGMOフリーゾーン宣言が各地で活発に行われている。この先頭に立っているのもパーシー・シュマイザーさんだ。ブリティッシュコロンビア州のソルトスプリング島とパウエル・リバー市ではすでに、GMフリーゾーン宣言を決議した。プリンス・エドワード島ではGMフリーにするかどうかを決めるため、現在、公聴会が開かれている。
 GMOフリーゾーンは1999年、スローフードの発祥の地、イタリア・トスカーナ州で始まり、いまやヨーロッパでは全土に広がっている。イタリアでは国土の8割に当たる自治体、オーストリアでは9州のうち8州、ギリシャでは54の州すべてがGMOフリーを宣言している。
 米国でも、メンドチーノ郡をはじめカリフォルニア州のいくつかの郡や、東部のニューイングランド地方などの市・郡などで、GMフリーの条例を通過させた。日本では今年2月の滋賀県新旭町を皮切りに、GMOフリーゾーン運動が全国的な広がりを見せ始めている。


GMOフリーゾーンの草分けオーストリア・ザルツブルク州の有機農業団体に聞く
ピーター・ヘクトさん(ビオ・オーストリア)


――まず、ビオ・オーストリアとは、どのようなグループなのか教えてください。
ピーターさん(以下P):1979年に有機農家が始めた非政府(NGO)の非営利団体で、会員は約12000人です。役割は、大きく分けて3つあります。一つ目は、有機農業の促進。慣行農家に対して、有機への移行を支援し、すでに有機農業を実践している農家には、技術向上のための支援をします。
 2つ目に有機農産物のマーケティング、つまり販路の拡大です。いまでは、SPAR, BILLAなどの大手スーパーマーケットチェーンが独自の有機食品ブランドを開発し、店頭に並べていますので、販路としては、これが一番大きなものです。スーパー以外でも、もっと産直に近いかたちのファーマーズ・マーケットや、オーガニック・ショップといった販路もあります。
 最後にロビイングです。ビオ・オーストリアには生活者ネットのように議員がいるわけではありませんが、有機を促進するための法律を整備するよう、政府に圧力をかけています。

――ザルツブルク州では州政府が遺伝子組み換え作物の栽培禁止を宣言しており、いわゆる「GMOフリーゾーン」の草分けとも言えますが、いったいどのようにして栽培禁止が可能になったのでしょうか?
P:オーストリア全体では、有機農家は農家全体の10%ですが、ザルツブルク州では、その割合は42%です。有機農家はもちろん、遺伝子組み換え作物に反対であり、消費者のほとんども反対です。政治家も選挙で勝つためには、反対するしかありませんでした。グリーンピースなど環境保護団体の反対運動も、背景にありました。
 ザルツブルクの遺伝子組み換え作物に関する州法ですが、栽培をいっさい「禁止」することは、EUの法的枠組みからできません。そこで、GM作物の栽培を申請する場合は、周辺の作物との交雑のリスクがいっさいないことを保証することを義務づけました。そんなことは保証できませんから、実際は栽培することができません。

――日本の場合は、遺伝子組み換え作物の実験栽培について、周辺農家との栽培距離が定められていますが、例えば大豆の場合、自家受粉という理由で、たったの10メートルです。ザルツブルクでは、栽培距離をとれば交雑の心配はない、といった反論はなかったのですか?
P:オーストリアでも栽培距離は定められていますが、風もふけば鳥も飛ぶので、交雑する可能性はあります。

――シンジェンタ社など、遺伝子組み換え作物の開発企業からの圧力はなかったのですか?
P:それはあったと思いますが、オーストリアは市場としてはそれほど大きくありませんから、日本のような大市場に比べると圧力は少なかったかも知れませんね。

――ザルツブルクで有機農業の割合が高いのは、どうしてでしょうか。
P:酪農家の割合が高いのが、一番大きな理由でしょうか。ザルツブルクの農家の9割が酪農家です。残り1割は、主に南の地域で果樹を栽培しています。

――有機農家の割合は増加しているようですが、慣行農家に比べて利益が多いということでしょうか。昨日、スーパーマーケットで見た限りは、価格にそれほど違いはないようですが。
P:価格は製品によって違いますが、多かれ少なかれプレミアはつきます。政府の補助金もありますので、有機の方が収益は高いです。しかし、政府の政策が変われば、補助金がなくなることだって考えられます。そのとき有機農業がどうなっていくか、心配です。

――消費者の側から見ても、有機食品の方が人気が高いということでしょうか。
P:残念ながら、それは違いますね。オーストリアの有機農家の割合は10%と言いましたが、消費者の5%しか有機のものを買っていません。つまり5%が過剰です。残りは輸出されるか、有機でない製品として販売される場合もあります。有機農産物の消費は成長してきてはいますが。(6月11日、ザルツブルクにて、聞き手・文責:編集部)



<食の焦点>F 牛肉と日本農業
(財)協同組合経営研究所 元研究員 今野 聰


1.農耕馬力として
 どうしても牛肉というとBSE(牛海綿状脳症)対策は大丈夫かという問題になりやすい。そこに行く前に「牛馬のごとく」という慣用語に先ず、目を向けよう。農村労働の厳しさをかつてこう表現した。牛は農業畜力であり、輸送手段であった。敗戦後、食糧増産が国家使命であり、同時に農家の使命でもあった。それほどの飢餓状況だった。増産は人力、畜力、肥料の3要素がどうしても必要だった。そこに牛が存在した。食用第1ではなかった。自作農になったからその分、米生産意欲は高まった。だが畜力、肥料が飛躍的に高まるはずは無い。肥料増産の傾斜政策が採用された。一方、猫の手も借りたい労働事情は変わらなかった。
 1948年、小学3年生だった私が兄弟と交代で代掻き要員だった。牛の鼻取りで、代掻きを効率的にする補助役割だった。こうして戦後農村に、共通する時代経験が形成された。つまり黒毛和牛は食うものにあらず。共に働くものである。なんの不思議も無い。その後、宮城県の田舎町にアメリカ西部劇(カウボーイ)が怒涛のように流行っても、牛肉と焦点は合いようがなかった。

2.動力源から食肉の階段へ
 戦後混乱でも、おそらく都市部では牛肉は食べられていたろう。それが江戸末期からの新しい食だったからだ。農村でも鳥肉、兎肉などは食べていた。たまに高級肉として豚肉を食べた。不足分は鯨肉が補った。だから松坂牛、神戸牛など都市部消費、秋田県、長野県、熊本県などに一部農村馬肉消費、そうした食肉典型消費はあった。
 時代は下がる。私的体験を引き寄せてみて、一体どういう段階を辿って、牛肉は食用になったのだろう。1965年、驚くことを経験した。浦和市で仕事中、昼食に「ビーフステーキ」が出た。レアにするかと訊かれた。焼き方のことだった。
 一般的に1970年代食の洋風化に乗って牛肉消費が急に増えたといわれる。その典型に道路わきに続々出店したファミリーレストラン、例えばスカイラークを思い出せば良い。または1971年、銀座三越にオープンしたマクドナルド「ハンバーガー」を思い出しても良い。0歳からの食べ方を変えると創業者藤田田はうそぶいた。共に洋風化の典型だからである。和風牛丼がこれを後追いした。急速にビーフステーキ、ハンバーグ、牛丼らが牛肉メニューとして大衆化していった。ついに私の遊学時代、想いもしなかった仙台名産牛タンまで登場した。

増えつづける多重債務者 消費者信用産業の現況と多重債務問題
岩手県消費者信用生活協同組合 参与 横沢 善夫

はじめに
 多重債務者について定義するとすれば、一般的に複数以上の高利金融業者から借り入れて定期収入では支払ができず、支払のために借り入れる、あるいは支払ができない状態である方といえましょう。
 また、多重債務者の中には、金融業者だけではなく一般の銀行からの借入、住宅の賃貸料、公共料金・各種税金の支払、友人からの借入などを抱えている場合もあります。
 そうした中で、借金を苦にした自殺、蒸発、あるいは強盗などの凶悪犯罪も増加傾向にあります。
 特に自殺では年間で1万人近い方が金銭の問題に絡んで命を絶っています。
 もし、この人たちが、適切な助言や解決策を得る機会があったら、どれだけの人が救われたのでしょうか。
 日本社会で多重債務の問題はどれほど市民レベルで認識されているでしょうか。
 また、自分自身が問題に直面したとき、気軽に相談できる機関が最寄の場所にあるでしょか。
 今日、日本では多重債務者が150万人から200万人にのぼると言われています。
 この問題が現在どのような状況になっていて、どのような対策が講じられているのかいないのか稚拙ながら取りまとめてみました。

1.消費者信用産業の現況
 日本の金融機関は、公的金融機関と民間金融機関とに大別できますが、民間金融機関の場合、銀行など預金を取り扱う業態と、保険会社やノンバンクのように預金を取り扱わない業態に分けられます。
 ノンバンクとは個人や法人に対し融資業務を行う機関であり、消費者向け無担保ローン会社、信販会社、クレジット会社、リース会社などがあります。消費者が商品やサービスを購入する際に代金の立替払いを行う「販売信用」と資金の融資を直接行う「消費者金融」に分けられます。これを合計したものが消費者信用産業といわれるものです。
 「消費者金融」のうち、無担保・無保証の小口ローンを専門に営んでいるのが「消費者金融会社」と呼ばれるものです。
 日本の消費者信用産業は信用供与額によってその規模が示されていますが、2001年には約74兆円に達しております。この74兆円のうち、38.5兆円が消費者金融であり、このうち24.6兆円が消費者ローン、さらにこのうちの10.6兆円が消費者金融会社によるものです。


「ライト・ライブリーフッド賞」の25周年記念シンポジウム

「もうひとつのノーベル賞」として知られる「ライト・ライブリーフッド賞(RLA)」の25周年記念シンポジウムが、6月8日から13日の6日間にわたって、オーストリアのザルツブルクで開催され、1989年に同賞を受賞した生活クラブからは、代表として奥田雅子さんと和田裕子さんが参加し、市民セクター政策機構の清水亮子が事務局として同行しました。このシンポジウムでは、歴代受賞者が世界各地で繰り広げている数々のローカルな試みの一端を垣間見ることができました。(編集部)


「世界」から生活クラブを見て
生活クラブ東京・副理事長 奥田雅子

 “ライト・ライブリーフッド賞”をご存知でしょうか。スウェーデンの切手収集家であるヤコブ・フォン・ユクスクル(Jakob von Uexkull)氏がライト・ライブリーフッド財団を1980年に創設し、人権や環境などの分野で活動する人々に毎年贈るというもので、「もうひとつのノーベル賞」とも言われています。
 これまでにおよそ110人(個人と団体)が受賞していますが、その内のひとつとして、生活クラブは1989年に名誉賞を受賞しました。
 日本では私たちの他に高木仁三郎氏がフランスのマイケル・シュナイダー氏とともに1997年に受賞しています。高木氏は現代科学がもたらす問題や脅威に対して、科学的考察に裏付けられた批判を行える「市民科学者」を育成・支援することに尽力し、特に原子力問題に対する研究・運動で受賞されました。しかし、残念ながら2000年に他界されてしまいました。また、生活クラブとも遺伝子組み換え問題で接点のあるインドのヴァンダナ・シバさん(1993)、昨年末にノーベル平和賞を受賞したケニアのワンガリ・マータイさん(1984)などはご存知の方も多いのではないでしょうか。

運動と事業がまるごと評価されての受賞
 では、私たち生活クラブの受賞した理由はというと、以下の6点(生活クラブ連合会HPより)があげられています:
1.生協活動を通して、ただ物質的に豊かになることだけでなく、せっけん運動やリサイクル運動の例が示すように、社会と環境を考えながら活動してきたこと。
2.生産・消費・廃棄まで、共同購入活動を通して組合員一人ひとりが責任を持つ新しい経済の仕組みをつくってきたこと。
3.大企業中心で市民が経済活動に参加しにくい中で、班組織による共同購入活動やその他の活動を通じて、民主的な経営参加の仕組みをつくってきたこと。
4.子どもやお年寄りなど弱いものの立場に立つ活動、農業を守る産直運動等を通して、人間のための経済をめざし、助け合いの仕組みづくりをしてきたこと。
5.運動が成功している。人間のための経済活動や増資運動に見られるように、共感を持つ人々が増えていること。
6.しかも驚いたことに、活動の主体が普通の主婦であること、だから運動が排他主義にも陥らず、エキセントリックでもなく、それゆえにこそ他の人々にも先例となって運動が拡大していること。
 他の受賞者が特定のプロジェクトや活動に対して受賞している中で、生活クラブは運動と事業、まるごと評価されて受賞していることがわかります。「ライト・ライブリーフッド賞創設25周年記念シンポジウム」に参加し、そのことを改めて実感できる機会を得ることができましたので、その時、私の感じたことをお伝えします。

受賞から15年、いまも変らない生活クラブの底流
 まず、最初に感じたことは、15年前の受賞理由が今も変わらず通用しているということで、活動のスタイルは変わってきても根底に流れるものは15年前、もっと言えば40年前から脈々と受け継がれてきたことがすごいなと思いました。分科会や地域団体との交流の場では、生産者と消費者が直接つながっていることや予約共同購入の考え方、自主管理・監査制度、生産原価保障方式などに興味がもたれ、それをしくみにして実体化していることにすばらしいという評価をいただきました。ミニミニ生活クラブがザルツブルグにもあるらしいのですが、このところ運動より事業優先になってきていて残念だという話もありました。また、生活クラブを知るジャーナリストが遺伝子組み換え問題やHP情報以上のことが知りたいと熱心に取材しに来たことも印象的でした。−続く


生産する消費者としての生活クラブ 経済のグローバル化に対応して
横浜みなみ生活クラブ・理事長 和田裕子


「ここヨーロッパでも、生活クラブ生協がつくれると思いますか?」
 このような質問を幾度となく、違う方々からいただきました。私自身答えは「?(クエスチョン)」であると思いました。当然ではありますが、文化的、社会的、政治的、経済的にも異なる背景を持つ国々で、この質問に対する単純な「はい」は、あまりにも短絡的(?)な気がして、また安易に希望を抱くようなこともすべきではないと思ったからです。しかしながら、生活クラブの予約共同購入、自主管理監査制度、生産者原価保障方式などなど説明をしていくに従い、現地で交流した多くの団体から、「わたしたちが理論として思っていることを実践している生協だ」との評価をいただくことになっていくのです。このシンポジウムで見出した私なりの視点について、簡単に報告したいと思います。

企業の社会的責任と消費者の役割
 まず、私たち3人はほとんどの時間をともに過ごし、同じワークショップに属し、議論に参加しました。しかし、1日だけ地元団体との交流に当てられた日があり、奥田さんや清水さんとは別行動でしたので、この日の報告を中心に行いたいと思います。
 私が訪れたのは、まず午前中にザルツブルグ市内にある「労働会議所Chamber of Labour」です。ここは、いわば消費生活や労働者の労働条件などについてのさまざまな相談や苦情を一般市民が持ち込み、時には対象となる企業・商店あるいは行政機関と個別の折衝を行う独立した機関で、いわゆる「消費者相談センター」のような機能を有しています。ここで、労働会議所の幹部のみなさん、そして、RLA受賞者で独自の企業認定制度を開発・展開しているアメリカ人のアリス・テッパー・マーリンさんと私で、互いの組織の紹介と情報交換を行いました。これをもって、この日の午後、ザルツブルグ州から南西へ車で約30分のヘイレン(Hallein)という岩塩の採掘で有名な風光明媚なまちでのワークショップとパネルディスカッションに臨みました。
 ヘイレンでの企画はすべて、文化振興機構(当時、このエリアで、文化的なさまざまな催し物が行われており、この企画もその一環)、オーストリア労働連盟地方支部、先の労働会議所の主催で行われました。午後のワークショップ(パネルディスカッション形式なのですが)のタイトルは、「社会的説明責任と消費者の権利」で若い人を中心に30名くらいが集まりました。夜は、オーストリア労働連盟会長や雇用主連盟代表も加わり、オーストリア国営放送職員がコーディネーターをつとめて、仕事帰りの人たちと思われる50人ぐらいが集まって、パネルディスカッション「消費倫理−オーストリアでの表示は?」が行われました。
 生活クラブの実践と理念を限られた時間で、しかも特に関心のある視点を探りながらの発表は、かなりどきどきしました。でも、午後のワークショップ、そしてパネルディスカッションと進むうちに、主催者や参加者の意図するところのツボにどのように当てはめていこうかという余裕も生まれてきました。どの場面でも、参加者は、経済のグローバル化と、公正な貿易、企業倫理に積極的な関心を示していました。生活クラブの共同購入運動の実践については、それが特にローカル経済を基盤にし、生産者と消費者が「材」を作るところ、価格の決定、包装・物流にいたるまで、直接的な関係の中で経済行為が行われていることに興味を抱かれました。

社会的監査と生活クラブの自主管理監査制度:共通点と相違点
 自主管理監査制度による「おおぜいの自主監査」について言及したところで、同席した企業認定制度を展開しているテッパーさんとの共通項・相違点について、明らかになりました。いわゆる、企業の生産行為においてどこまでその倫理を客観的に査定し、消費者にとってその情報が公開され判断材料になるかとの議論です。テッパーさんの企業認定制度は、全世界的に展開している玩具や衣料小売業に対しても提供されていて、専門的に訓練された認定員が認定項目にしたがって審査し認定していくというものでした。この制度・システムの詳細については、合理的でかつ実績のあるすばらしいものではありますが、私たち生活クラブの制度・システムと決定的に異なる点は、生活クラブが組合員(消費者)の運動としている点と、制度・システムはあるにしろ最終的に拠って立つところが「生産者との顔の見える関係」であるところでした。どのように制度・システムが整備されようと、24時間365日、生産を監視するわけでもなく、また、いついかなる状況で今までの常識が覆されるかもしれません。私たちがめざす消費するくらしとは、材をめぐってつくる担当をしている主体(生産者)と消費を担当している主体(組合員)が、同じ目的・利益・理念を有して、不断に会い、思いを交換しながら信頼関係をつくっていくことでしか達成されないということでした。生産手段を有しない消費者が、それでも、生産を担当している主体と、できる限りに近づいていく努力が、私たち生活クラブ組合員が「生産する消費者」を標榜できるゆえんかと思います。−続く 


グローバル化らローカルへ
市民セクター政策機構 清水亮子


 今回のシンポジウムのテーマは、「オルタナティブを勝ち取る」。受賞者はみな、それぞれの国、地域で、さまざまな社会的な問題の解決とオルタナティブな社会に向けて活動しています。世界中で繰り広げられているこれらの試みをどうひとつに結びつけて、オルタナティブな社会を実現するのか、というのが会議を貫いたテーマでした。
 たとえば、生活クラブのメンバーが参加した「ヒューマン・デベロップメント」(人間開発)の分科会には、キューバで有機農業に取り組むGrupo de Agricultura Organicaのエドゥアルド・マルチネス・オリヴァさん、ブラジルで土地を持たない農民の定住化を支援するMovimento dos Trabalhadores Rurais sem Terraのアドラー・ピゼッタさん、チリで大規模水力発電所の建設反対に取り組むジュアン・パブロ・オレゴさんらが参加し、他にも、ボツワナ・南アフリカなどで行われている教育に生産活動を取り入れる試み、インドでの特に女性の識字率向上のための活動など、それぞれの地域で人々のくらしの向上を支援している人々が集まりました。

有機農場を訪問:消費者と生産者の協働
 6月10日は、受賞者がそれぞれザルツブルクとその近郊の大学や市民団体を訪問する“Day of Meetings”(出会いの日)に当てられました。これまで、地元の団体を会議に招くだけだったようですが、今回のシンポジウムではもう一歩踏み込み、初の試みとして、RLA受賞者の方が地元の人々を訪れました。
 生活クラブからのメンバーのうち奥田さんと私は、有機農業を支援する二つの団体、「ファーム・ホリデイ」と「ビオ・オーストリア」の招きで、ザルツブルクから南へ25キロ、ゴリング(Golling)とキュッヒル(Kuchl)にある有機農園を訪れ、午前は農業・環境を学ぶ大学生、午後は有機農業、フェアトレードなどの活動に取り組む人々などを対象に、生活クラブの活動を報告しました。和田さんは、ザルツブルクの労働団体を訪問しました。その内容は和田さんの報告に詳しく書かれています。−中略−


ライト・ライブリーフッド賞創設25周年記念シンポジウム(6月8日〜13日)
(オーストリア・ザルツブルク、セント・バーギルにて開催)

●6月8日(水)
 午前:記者会見
●6月9日(木)
 午前:開会式(歓迎式典、10のテーマのワークショップ座長が問題提起)
ワークショップのテーマ:「すべてのひとびとの安全保障のためのフレームワーク」「拷問/免責/和解」「リビング・デモクラシー」「持続可能なライフスタイル」「精神的再生と文化」「人的開発」「自然保護と生物多様性」「労働と経済の新しい概念」「未来像のフレーミング」「ライト・ライブリーフッド賞−次の25年」
午後:ワークショップ(人的開発:human developmentの分科会に参加し、南アフリカ、キューバ、ブラジル、チリ、インドなどで地域開発のために人々を支援するRLA受賞者たちと交流)
 夜:ザルツブルグ州政府、ザルツブルグ司教による歓迎レセプション
●6月10日(金)
ザルツブルグ州および市の市民団体等を訪問しての交流
<奥田・清水>有機農業支援の市民団体(ビオ・オーストリア、ファーム・ホリデイ)の招きで有機農業の観光牧場経営者を訪問。午前は農業大学の学生など、午後は有機農業の農家をはじめフェアトレードのショップ経営者など地元のひとびとを対象としてプレゼンテーション。
<和田> 午前:ザルツブルグ労働会議所(消費者相談センターのようなところ)訪問。午後:ワークショップ「社会的説明責任と消費者の権利」(主催:文化振興機構、オーストリア労連地方支部、労働会議所)夜:公開パネルディスカッション「消費倫理−オーストリアでの表示は?」(パネラー:オーストリア労働連盟会長、雇用主連盟代表、RLA受賞者のアリス・テッパー・マーリンさんなど)
●6月11日(土)
会議「オルタナティブを勝ち取る」
 午前:開会式
・ザルツブルグ州副知事による歓迎の挨拶
・RLA創設者ヤコブさんによるスピーチ「RLAの25年」
・受賞者ヘレンさんによる声明「グローバルからローカルへ−社会的、経済的、エコロジカルな刷新のビジョン」
・受賞者バーグマンさんによる講義「新しい労働、新しい文化」
午後:公開ワークショップ(ザルツブルグ州の活動家、市民が招待され、各ワークショップでの受賞者の紹介と、テーマに沿った討議に参加する) 夕方:ヤコブさんによる会議のまとめ
●6月12日(日)
 午前:具体的行動提起(本会議において、受賞者より具体的行動提起の提案と、
    ワーキンググループに分かれての討議と、具体的行動提起のまとめ)
 午後:最終本会議(具体的行動提起の発表、RLA次の25年にむけての提案と討議、閉会)
●6月13日(月)
 午前:記者会見




<2005総代会特集> 議案書に見る地域の生活クラブ(中) 首都圏単協抜粋編・東京・神奈川

 5月末に各地域の単協総代会が開催されました。「自ら考え、自ら行動する」基本は、同じでも、置かれた地域の条件、そして、歴史や規模によって、その展開は多軸・重層的な展開であり、極めて個性的であると思えます。本号では、首都圏4単協のうち、東京・神奈川の方針抜粋を掲載させていただきます。<編集部>

生活クラブ生活協同組合・東京

[1] 基本方針
 長い不況とグローバル化の波は流通業界を席巻し、 ―略― 生協も含む流通業界はウォルマートなどのグローバル資本も交えながらの大競争時代を迎えているその只中に存在します。
 ―略―
 2005年度は生活クラブが1965年世田谷で産声を上げて40年目の年です。また、生活クラブ東京・第4次長期計画の初年度です。第4次長期計画では、食と農・環境・福祉のそれぞれの分野で事業を展開し、組合員の生活の豊かさにつなげていくことを方針化しました。 ―略― その基本にある考え方は、協同組合は組合員が協同で所有するものであり、組合員の参加で運営されるものであり、組合員がその事業を利用するものである、といった協同組合の原則です。すなわち、生活クラブの方向性とは流通業としてスーパーと闘うことではなく、組合員と、組合員の生活のフィールドである地域社会に依拠し、人と人の関係性という社会関係資本をつくり続け、生活と地域にとって必要な事業を行なっていくことです。
 
<重点方針>
1.消費材を媒介にした「共感」の連鎖をつくり出します
1)消費材の利用を推進します
 ―略― 組合員自身が消費材について語る場の拡大とメッセージ発信のしくみづくり、そして実践を2005年度の最優先課題とします。
 第4次長期計画の中で提起した、まちに「食会議」を設置し、消費材を学びながら、人から人へ「信頼」の情報を伝えていく動きを実施可能なまちから始めます。
 今年度の重点消費材は、特に牛乳。新たな農産物政策を提起 秋から農産物ライブリーも発行し利用の拡大をめざします。

2)人から人へ生活クラブを語ること、そして、人のつながりをつくることが拡大です
 地域社会にコミュニティをつくり出すことは、現代社会の中では非常に困難になっています。―略― 犯罪の抑止は地域のコミュニティが豊かであるかどうかが鍵を握るといわれています。また、災害時の救援とその後の復興においても地域コミュニティの重要さは、多くの事例が実証してくれています。―略― 生活クラブの仲間を増やすことはコミュニティをつくり、広げていくことにつながっているということを、自信をもってアピールします。 ―略―
 「つながる」をキーワードに、人から人へ広がるコミュニティをつくり出し、組合員の拡大へつなげます。

2.まちの運営力を高めます

3.地域福祉政策、食と農・環境政策の実行は優先課題を明確にして取り組みます
 ―略― 昨年度から検討を行なっている保谷センターの跡地利用のプロジェクトの中で生活クラブの福祉事業の構想の具体化が始まっています。プロジェクトでは、保谷センター跡地に多世代共生型集合住宅と地域ケア・コミュニティ事業の併設施設として「保谷コミュニティガーデン」を建設する構想が答申されました。建物は5階建ての環境共生型施設で、1階に生活クラブ事業としてデポーと保育事業およびコミュニティスペースを併設します。2階以上の事業スペースには生活クラブ運動グループを中心に市民事業を展開し、バリアフリーの住宅部分は高齢者が地域の福祉サービスを利用して暮らすだけでなく、子育て世代や単身者なども共に入居できる設計とします。 ―略― 2005年度に第2次プロジェクトを設置して事業の枠組みや収支計画などの詳細を検討していきます。
 食と農政策では生き物環境調査や総合的な学習の時間への関与、生活クラブ・料理スクール、食のコンシェルジュなどこの間行なってきた「共育」の推進が大きな柱 ―略― 。また環境政策は生活クラブ環境ビジョンの策定と協同村構想の実現をめざし環境プロジェクトを発足させ実行計画の策定を行ないます。

4.デポーは2005年度に2つのまちでオープンします
 2004年度のまち八王子南とまち国分寺に続き、2005年度はまち調布・狛江、まち東村山でオープンをめざして活動が始まっています。 ―略―

5.人々の生活と地域社会づくりをサポートするシステムをつくります
 ―略― 特に「東京コミュニティパワーバンク」「コミュニティファンド・まち未来」は、昨年から今年にかけ、マスコミを始め多くのメディアに取り上げられ、社会的な反響の大きさを実感しました。 ―略― 行政や既存の金融機関が勇気ある市民への投資を行なわないのなら自分たちでつくるという生活クラブ型行動のスタイルが社会に影響を与えていることの実証例となっています。
 また、 ―略― 返済が不可能になり債務を抱えた結果ホームレスとなった人など、社会的な問題を抱えている人々をサポートする生協の設立に向けた動きが東京において始まっています。生活クラブではこの動きに賛同し生協づくりの支援を行なっていきます。

6.第4次長期計画を推進する事務局体制を構築します

7.経営の優先課題は剰余を継続して生み出していける経営構造づくりです
 2005年度末64,811人の組合員人数、214億5,000万円の利用高を計画数値とします。
 ―略― また、 ―略― 両面OCR用紙の導入やインターネット注文システムの充実など組合員にとって使いやすいシステムをめざしています。−以下略


生活クラブ生活協同組合・神奈川

T 基本方針
[1]はじめに
1.時代状況の特徴と基本認識
1)個人化と自己決定のはざまに拡がる社会不安

 東京圏の全人口に占める70歳以上の割合が2020年には19%と2000年(9%)の倍に達するとの試算が、内閣府の「日本21世紀ビジョン」に関する調査会に報告されています。なんと、2020年には5人に1人が70歳以上の高齢者になるというのです。
 一方、高齢化問題とは密接不可分な関係にある出生率をみると、1人の女性が生涯に産む子どもの平均数である合計特殊出生率が2003年、戦後最低の1.29にまで落ちこんでいます。―略― 今日、少子化や子育て問題については、大方の人が「社会の問題」として捉えているのではないでしょうか。少子化は、個人が多様な生き方を模索する現代の社会で自己実現と社会の持続性が調和しにくくなっていることに起因する問題です。自然のリズムを大切にする社会と、そこに生きる自律した個人(による自己実現)。この両者のバランスをいかにとるかが問われています。
 自己実現を希求する個人化の進展は近代化と密接にかかわっています。―略― 個人化を三つの次元に分けて考えることが可能でしょう。その三つの次元とは、伝統的拘束からの解放、伝統が持っていた確実性の喪失、そして新しい社会統合のことです。
 伝統的拘束からの解放は、封建的身分制度や土着の掟やルールからの解放を意味します。伝統が持っていた確実性の喪失とは、行為の拠りどころになるような規範が失われることを指しています。新しい社会統合の次元とは、個人化によってばらばらになったはずの諸個人が、逆に労働市場や教育制度、社会福祉制度のようなマクロな次元の制度に、まさにひとりひとりがばらばらになったことによって依存するようになり、組み込まれ、統制されるようになることを指しています。逆説的なことに個人への解体化は新たな統合化を生み出すというわけです。近代化が進めば進むほど、この個人化も進展していくと考えられ、社会全体としての個人化が進展していきます。
 諸個人の生活様式があたかもすべて自らの選択(自己決定)にゆだねられ、ミクロ化が進展し、社会が完全流動社会になっていくということは、逆にマクロな制度に諸個人が統合化されていくこと、マクロ化を意味し、その結果、ミクロとマクロの中間に位置する家族、地域、アソシエーションといった中間的なものが弱体化していくことになります。ミクロとマクロの中間に位置する領域にある共同体の弱体化が加速する中で、現在のキーワードは“不安”といえるでしょう。家庭崩壊、学級崩壊、相互信頼感の崩壊、地域の崩壊など、―略― 日本社会に充満する閉塞感、行き詰まり感の噴出の一端と見ることができるでしょう。ミクロとマクロを結ぶ中間的なものが弱体化していく中で、そこでは一体、どのようにしたら子どもを持とうと思う人の、希望がかなうような社会に近づけていくことが可能となるのでしょうか。

2)グローバルに進行するリスク社会
 グローバル化というのは、引き返すことのできない両義的な過程です。人類が一つの同じ情報圏のなかに暮らし始めたという意味で、人びとは、これまでの国家や地域を越えて地球という茫漠たる社会単位のなかに直接に曝されていると、ひそかに実感し始めています。個人にとってそれは可能性の拡大を与えられるとともに、他方では不可測性の増大という不安をそそる両義的な事態なのです。
 現代ドイツの社会哲学者であるウルリッヒ・ベック ―略― によれば、危険(Gefahr)とは、例えば天災のように人間の営み、自己の責任とは無関係に外からやってくるもの、外から襲うものです。それに対してリスク(Risiko)とは、例えば事故のように人間自身の営みによって、まさに自らの責任に帰せられるものであるのです。つまり、そうである以上、リスクは社会のあり方、発展に関係しています。リスクとはベック自身が認めているように、自由の裏返しであり、人間の自由な意思決定や選択に重きをおく近代社会の成立によって初めて成立した概念なのです。さらにリスク社会とは、産業社会が発展し、環境問題、原発事故、遺伝子工学などに見られるような新たな時代、別の段階に入り、それまでとは質的に異なった性格を持つようになった社会のことを意味します。
 例えば産業社会の生産活動によって結果として生み出された有害な副産物は、仕方ないものとして受け入れられ、リスクは公的な議論の対象にもならず、政治的、社会的対立の争点にもなりませんでした。しかし、現代化が加速すると、この負の副産物は公的な議論の対象になり、政治的、社会的対立の争点になりました。まさに、これこそがリスク社会というわけです。そして、富の生産の源と考えられていた科学技術自らが、負の結果、つまりリスクを生み出すようになります。そしてリスクというものが空間的、時間的、社会的にその影響範囲を限定することができず、その責任の所在をつきとめられず、その被害を補償することができないものになります。
 近代は自由な主体に重きをおく社会ですが、にもかかわらず、リスク(社会)の恐怖はまさにこのことを建て前としてしまうことから生じているといえるでしょう。恐ろしいのは、たんに不意の災禍の襲来ではなくて、それが自由な主体の選択の結果であり、災禍の責任が主体そのものにあるという観念なのです。現代人の脅える新しいリスクとは、「誰もそこから逃げだすことのできないようなグローバルな責任の連関のなかにわれわれは生きているのだ」という、この巨大な無責任の意志の連関をまえにして、なおかつ自己責任を問われる主体者としての意志の不安だといえるでしょう。
 グローバル化やリスク社会の拡張によって、個人の顔の見える社会、身に触れて具体的に感じられる社会が脅かされ、現代人の不安が未曾有の窮迫を強めていくならば、これに対処できるものは狭義の社会政策ではなく、より根本的な人間の生きかたの修正にしか求められないと考えるべきでしょう。この時代の圧倒的な趨勢を覆すことができない以上、求めるべきビジョンがあるとすれば、グローバルな視野で考え、地域でアクティブに行動することによって、個人の生きるもう一つの世界としての「共同体」を確保することのほかにはないのではないでしょうか。今、必要なのはリスクをはねのけていく人と人の結びつきであり、そのための新しいコミュニティです。それは、一方に茫漠たる地球社会、他方に国家や企業も含めた組織社会の不安の連鎖をひかえて、その両方に拮抗して個人に心の居場所を与える、もう一つの人間関係―アソシエーションでなければならないでしょう。

2.持続可能な社会のための新しい協同組合をつくる
 2005年度は、各地域生協ごとの運動と事業の活発化、個性化がさらにすすむ中で、各地域生協による自立に向けた基盤形成と、そのために地域生協の組合員活動ならびに事務局活動の活性化に貢献していく、ユニオンにおける連帯機能の真価が問われる年度となるでしょう。
 持続可能な社会の担い手としての協同組合とは、自発的な個人の参加を多様に創出し、今日の(経済)成長を基本価値とする「消費構造」の転換をはかり、未来の自然環境と社会の持続可能性に責任を持ち続け、地域に新しいコミュニティを形づくる協同組合です。
 私たちがこれまですすめてきたNON-GMO運動を例にとってみると、この運動は、科学(遺伝子)技術の発展による「無秩序で無責任な支配」に対する市民的基本権としての異議申し立てであり提訴です。というのは遺伝子組み換え作物が人体や環境に及ぼす損害には、空間的時間的制限がなく、このままでは因果関係により責任をとるという近代社会が確立したルール(責任者原則)が機能しなくなってしまいかねないからです。市民はいつでも、どこでも利用できる直接的な投票行為である購買活動を通じて、損害やリスクを拡散する商品を排除し、同時にリスクを抑制する材に結集することによって、(経済)成長を基本価値とする「消費構造」の転換が可能となります。このように購買活動(共同購入)と異議申し立てとしての投票行為は、個々人の意識化されたライフスタイルの連帯によって統一できるものなのです。
 「大ぜいの私」が生活のニーズや課題を主題化し、生活の再慣習化と規範化を通じて、持続可能な社会を支えていくライフスタイルへの共感と連帯を高めていくことで、新しい仲間を大ぜいにしていきましょう。―略―


『高齢社会の医療・福祉経営』に寄せて
介護保険見直しと今後求められる機能 福祉サービス第三者評価のシステムづくり
特別養護老人ホーム ラ・ポール藤沢 理事長 小川 泰子


橋本・朝倉両氏の「協同組合福祉」への私の問題意識


 2005年3月25日日本福祉大学21世紀COEプロジェクトが「協同組合福祉研究フォーラム「協同組合福祉の第2の地平を拓く」というワークショップを開催し、ゲストスピーカーとして私は報告の機会をいただいた。その時COEプロジェクトの研究成果の発表があり、そのまとめとしての本書『高齢社会の医療・福祉経営―非営利事業と可能性』が紹介された。今回その中から協同組合福祉について執筆されている橋本吉広氏と朝倉美江氏の研究報告について私の問題意識と重ねて書かせていただいた。
 2006年度の介護保険制度改正は2000年の制度導入時より混乱が起こるのではないかと言われているが、介護保険制度の原点に戻り、さらに「福祉とは何か」「予防介護とは何か」など、自助・公助・共助のシステムの点検が求められる中、協同組合やワーカーズ・コレクティブ等非営利組織が担うべき領域が拡がったことは確実である。こうした時期に出版された本書は、生活協同組合やワーカーズ・コレクティブ等福祉NPO関係者のみならず地域利用者にも是非一読していただきたい一冊である。
 名古屋でのフォーラムは、協同組合やワーカーズ・コレクティブが福祉事業に参入するということの意味を介護保険事業の5年間の実績から見つめなおし、これからの可能性を再確認することが狙いであった。そのためには協同組合福祉陣営が客観的に事実分析を行なっていなければならない。「暮らしの助け合い」や「生活協同組合の組合員委員会」の福祉活動の原点を確認することも大切であるが、内輪の理論だけではなく外部評価や利用者評価、特に同業他社の市場評価を受けて福祉事業者としての現状分析を行い、介護保険サービス市場に参入した経営の点検・評価を行うことである。その上で介護保険サービスは福祉サービスの一部でしかないことを踏まえ、協同組合福祉のテーマ領域の広さを再確認し、その社会化・市民化を進めることが出来ると考える。組合員組織の域を超え、市場に開かれた組織運営の構えがなければ「協同組合福祉の第2の地平を拓く」ことは出来ない。市場化された介護保険の福祉ビジネスで勝利する「経営」をめざすことが目的ではないのである。協同組合組織を超えて、地域社会にある市民生活の事実に、協同組合資本あるいは市民資本による福祉コミュニティづくりを拓くことに、どのように協同組合のもつ組織を活かして取り組むかという協同組合福祉政策の行動計画立案が急がれる。−続く


イギリスの核燃料再処理工場の事故 セラフィールド再処理工場の破綻と六ヶ所村再処理工場の行く末
真下 俊樹(緑の政策研究家)

 イギリスのアイリッシュ海に面したセラフィールドにあるTHORP再処理工場で今年4月、放射性溶液の大規模な漏えい事故が確認され、工場は無期限に停止している。イギリスでは、核燃料サイクルのコスト負担が英原子力産業を経営危機の泥沼に引き込みつつあり、今回の事故を契機に、再処理からの撤退が秒読み段階に入ってきた。イギリスの状況は、青森県の六ヶ所村再処理工場の完成で、これから本格的な商業再処理を開始しようとしている日本の行く末をも示唆している。イギリスの再処理で今何が起きているのか、そして日本にとっての教訓とは何かを見てみよう。

放射性溶液が大量に漏洩
 再処理工場は、原発の使用済み燃料からプルトニウムを取り出すための施設。原子炉から抜き取られた使用済燃料棒を細かく剪断したあと硝酸に溶かし、その溶液を何段もの遠心分離器にかけて、燃え残りのウランと核分裂の結果できたプルトニウム、高レベルの放射性廃棄物を分離する。回収されるウランは純度が悪く、ウラン鉱から作るふつうのウランの価格が安いため、利用価値はない。プルトニウムは、日本の「もんじゅ」のような高速増殖炉の燃料になるほか、ウランと混ぜて軽水炉で燃やすMOX燃料(プルサーマル)にも利用されている。また、プルトニウム数キロ〜8キログラム程度で原爆1個が作れると言われている。高レベル廃棄物は、ガラスと混ぜて固化した上で容器に入れ、50年前後の間、発熱がおさまるのを待つ。その後の最終処分方法はまだ誰にも分かっていない。
 今回のソープ工場の事故は、硝酸溶液を分離施設へ送る前の、前処理建屋にある「セル220」と呼ばれる清澄・計量室で起きた。工場の操業を委託されている英核燃料公社(BNFL)の事故調査委員会によると、天井からステンレスの支持棒で宙吊りにされている計量槽(V2217B)の上蓋部に接続している直径数センチの配管の1本(Nozzle 5)が、タンクとの接合部の根元で破断し、プルトニウム約180キログラムとウラン約22トンが溶け込んだ溶液83.4立方メートルが漏れ出し、ステンレスの内張りでシールされた縦60メートルの作業場の床に溜まっているという。漏れは、早ければ昨年7月から始まっていたとされ、今年1月15日前後には配管が破断していたと見られている。破断の原因は、当初の設計では計量槽の周囲をガードする耐震用の補強フレームで計量槽の横揺れを防止するようになっていたのが、設計変更により計量槽が耐震設計から切り離されたために、注液時や撹拌時に過大な振動が生じ、パイプが金属疲労を起こしたためと考えられている。
 ソープ再処理工場は、以前は英核燃料公社(BNFL)が所有・操業していたが、今年4月、旧型のガス冷却原子力発電所とともに、その所有権が、国有の独立公共機関として新設された英原子力廃止措置機関(NDA)に移譲された。NDAはソープ工場の操業と管理を、BNFLが子会社として設立した英原子力グループ(BNG)に委託している。
 10ヵ月もの間、漏れに気づかなかった理由として、当初BNGは、計器の表示が遅かったためとしていたが、事故調査委員会のその後の調べで、作業員が6ヶ月の間に100回にわたる漏洩の警報を無視していたことが明らかになった。「新築工場なのだから、そんなはずはない」という思い込みが、事故を見逃す原因になったとされている。計量の期待値と実測値があまりに食い違うので、ビデオカメラで点検してみて初めて漏れに気づいたという。
 漏れた溶液をポンプで工程中のバッファータンクに戻す作業は4週間をかけて完了した。事故のあった部屋は、通常でも放射線が非常に強く、人が近づくことができないため、工事用のロボットを特別に製作する必要があるなど、修理は困難が予想される。修理方針が決まっても、英原子力施設検査局(NII)の認可を得なければ工事には入れない。修理完了には少なくとも数ヶ月かかると見られ、損失は今年だけで3億ポンド(約600億円)にのぼるという。
 委託再処理契約では、各国の使用済燃料から抽出したウランとプルトニウムを発生国に返還することが義務付けられているが、漏れた83立方メートルの溶液中にはオランダ、スイス、ドイツの溶液が混在しており、それぞれの量の同定は事実上不可能である。

汚染の歴史
 セラフィールドは、かつて「ウィンズケール」と呼ばれ、世界有数の原子力コンビナートとしてイギリスの原子力開発の中核を担ってきたサイトだ。サイトには、イギリスが独自に開発したコールダーホール型炉や改良ガス冷却炉など7基の黒鉛減速ガス冷却型原発(いずれもすでに閉鎖)や放射性廃棄物処理施設、MOX燃料加工工場、核施設の廃止研究作業施設もある。−続く

《状況風景論》『17歳の風景』、『輝ける青春』の社会的明暗&都議選とマスコミ


●母親殺しの少年に伴走
 今では17歳は15歳の両親殺しなのかもしれない。『17歳の風景』は2000年に岡山県でおきた少年の母親殺しに想をえた若松孝二が、少年が自転車で岡山から北へ向かい、三国峠から六日町、柏崎から象潟、男鹿半島、青森へと16日間で1300キロを走り抜けた事実にひたすら伴走する。安直なワイドショー風の解説を排し少年の心に向き合おうと試みる。いや緊迫の16日間、少年は何も語ろうとはしない。この映画は自転車をこぐ少年の声にならないあえぎや都会から田舎、海岸へと変貌をとげていく日本の風景にまみえて観る私が主人公の気持ちを想像、近接していく。見知らぬ地の暮しが一つのおにぎり、一杯のみそ汁となって孤独と絶望の少年をやさしくつつむ。少年は家にいる時には見たこともない風景と土地の人、風雨に触れる。
 無頼派監督で知られる若松がみせたこの静かな姿勢は成功している。少年はこの旅を通じて母親殺しは風景のように後景にすっ飛ばしたかったに違いない。ドフトエフスキーの『罪と罰』は青年が老婆殺しを確信を持って実行し後で人間としてたじろいた。確信など持つはずもない17歳の少年にとって、母親殺しは日めくりかゲームの映像に近い。この映画を見た10代の声「もっと馬鹿をすることに寛容な社会がきたら…と思った」という感想に息苦しさの目立つ日本社会が問われているのだ。
●社会の壁を破る勇気ある物語
 それに比べイタリア映画『輝ける青春』はなんと開明的なのだろう。往年のイタリア・ネオリアリズムを彷彿とさせる映像が6時間余も、それも1966年から37年間を家族の物語の中に重たい政治的社会的な出来事−トリーノの労働争議やボローニアの学生運動、「赤い旅団」のテロ事件−を重ねながらイタリア社会と人が新しく変わっていく様子が描かれる。−続く 

雑記帖 【加藤 好一】

 生活クラブ連合会はこの6月の第16回総会で、第4次連合事業中期計画(2005〜09年度)を決定した。その主な特徴は次の3点に集約できる。@米、牛乳、肉類などの主要品目が牽引する共同購入事業を維持・強化する。A次期物流体系と基幹系情報システムを新規構築する。B組合員主権と組合員参加を貫き、協同組合の本質と使命を徹底しぬく。
 これらは、基本的に前の中期計画の基本政策・方針を踏襲するもので、特に新味はない。しかし、これらの課題を推進していく内外情勢は大きく変化し、それは一言で言って厳しさを増した。厳しいのだけれども、どうしてもこれらをやり抜かねばならない。今度の中期計画のポイントはここにある。何が厳しいのか? それは様々あろうが、ここで念頭にあるのは日本農業がどうなるかだ。
 すでにこの3月に新基本計画が閣議決定され、年末から来年にかけていよいよWTO交渉の行方が明確になる。結果、米や乳製品等の関税引き下げは2008年とも言われている。
 2007年には米政策等の農政が大きく転換する。このようななか、この5月に日本生協連は「農業・食生活への提言」を発表した。なかでも、所得格差拡大社会の中で、日本の消費者が目にみえない形で高関税による農業保護のコストを負担していることの負荷を解消すべきとの提言は、当然にも物議をかもしている。
 という次第で、生活クラブ連合会は市民セクター政策機構に、「食料政策研究会」の共同設置を提案した。私たちなりに、現下の農業情勢と課題を、改めて整理したい。にわかに、先の@とBの課題が一気にクロスし、さらにその重要性が増してきた。

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