月刊『社会運動』 No.316 2006.7.15


目次

第20回社会経済セミナー報告― 後退する男女平等と地域社会 海妻径子‥‥2
協同組合研究 昨今の大学生協 寺嶋英介‥‥14
生態系保全農業を求めて キューバの有機農業による国興し―国際会議と視察報告 古沢広祐‥‥22
韓国でGMフリーゾーン宣言 「農者天下之大本」 倉形正則‥‥26
議案書からみえる地域単協 一人ひとりの発信が動かす社会に 生活クラブ生協・東京‥‥29
市民による公共圏づくりへのチャレンジ 生活クラブ生協・神奈川‥‥36
巨大バイテク企業VSカナダの農民 シュマイザー裁判がテーマのビデオ完成 清水亮子‥‥45
<書評>「詩学叙説」「詩とはなにか」 室伏志畔‥‥47
「戦後精神の光芒」 川上 徹‥‥50
<追悼> 井手左千夫さんとの20年 中村陽一‥‥52
井手左千夫元編集長におくるレクイエム 中山靖隆/庄妙子/村上彰一/西貞子/清水亮子‥‥57
状況風景論 元編集長の遺したもの、キックオフ!共生型経済&89年世代 柏井宏之‥‥59
雑記帖 米倉克良‥‥60

表紙からのメッセージ
写真家・桑原 史成
 1995年1月17日、連休明けのこの未明に阪神大震災が起きた。なぜに、この災害から書き出すかと言うと、私は指揮者の岩城宏之氏を追って岡山県の津山に行くところだった。早朝の6時前に私が乗っていた寝台列車「出雲」が鳥取駅の手前で停車した。長い停車のアナウンスもなく、このとき阪神地域では悲劇が進行していたのである。
 私は週刊誌『アエラ』の取材で、東京での撮影に追加するように作陽大学(津山市)での指導(授業)風景を撮らせてもらった。その後も東京で、ある時は酒場にも招かれて撮影する機会があった。
 その岩城氏が、この6月13日心不全のため他界された。岩城氏の音楽家としての経歴は華麗でその実力のほどを記述するまでもなかろう。氏はクラシック音楽とは少し異なる演歌にも関心を示していた。故美空ひばりの歌唱力は世界の人びとを感動させる声量であると語っていた。この人は“棒ふり”の人生だけでなく文筆のエッセイストとしても知られる。気負わない文体の表現に味わいが感じられてものだ。享年73歳だった。

第20回社会経済セミナー報告 後退する男女平等と地域社会
岩手大学 助教授 海妻 径子


 海妻と申します。もともとは女性学の出身ですが、「男性性研究」と私は自称しておりますが、男性および男らしさの問題に取り組んでおります。本日は、受付にも置いてくださっているそうですが、共著の『ジェンダー・フリー・トラブル』(白澤社、2005)という本を出しまして、わりと反響が良かったものですから、その内容に絡めつつ、地域における男女平等の後退、いわゆる「バックラッシュ」の現状をお話しさせていただこうと思います。

「ジェンダー・フリー」バッシングの現状
 『ジェンダー・フリー・トラブル』では、拙稿「対抗文化としての<反「フェミナチ」> ―日本における男性の周縁化とバックラッシュ」も含め、収録された9本の論文が、いま各地で盛んに行なわれている、「ジェンダー・フリー」へのバッシングについて論じています。
 今日ご参加の方の中にも、身をもって体験なさっているという方も多いかと思いますが、「ジェンダー・フリーという言葉を公のところで使うな」という圧力が、様々なところから加えられている現状があるんですね。有名なものでは、最近、上野千鶴子さんという著名なジェンダー研究者が、国分寺市の市民講座に講師として招かれようとした時に、都のほうから横槍と言いますか、「待った」がかかった、という事件がありました。「上野氏はジェンダー・フリーについて話す可能性がある。ジェンダー・フリーは議論が多い用語だから、それは認めない」ということが理由らしいのです。対する上野さんが「これは一種の言葉狩りではないのか」と、都に公開質問状を出して回答を求めるなど、いろいろな反響が起こっています。
 「ジェンダー・フリー」という言葉が、これまで最も盛んに使われ、したがってその反動で、「そのような言葉を使うな」という締め付けが現在最も強いのは、小・中・高の学校教育現場だろうと思います。もちろん「ジェンダー・フリー教育」という言葉が登場する以前にも、「男女平等教育」とか、ジェンダーをめぐる問題を考えるためのいろいろな言葉が教育現場にはありました。「ジェンダー・フリー」という言葉が90年代後半に急速に普及したきっかけとなったのは、東京女性財団が1995年に刊行した『ジェンダー・フリーな教育のためにI・II』という報告書と『若い世代の教師のためにあなたのクラスはジェンダー・フリー?』というパンフレットだったと言われています(詳細については、前掲書収録の木村涼子氏の論文「教育における『ジェンダー』の視点の必要性 ―『ジェンダー・フリー』が問題なのか」、あるいは『女性学』6号(新水社、1998)掲載の舘かおる氏の論文「学校におけるジェンダー・フリー教育と女性学」などをご参照ください)。
 したがって、「ジェンダー・フリー」がいわゆる「官製の用語だ」という批判や違和感の表明が、教育現場にもないわけではありません(詳しくは、前掲書収録の日野玲子氏の論文「『ジェンダー・フリー』教育を再考する ―担い手の立場から、ジェンダーに敏感な教育を考える」などをご参照ください)。しかし「ジェンダー・フリー」が、どこかから一方的に、「指令」のように教育現場に押し付けられた言葉なのかと言えば、それは違うだろうと私は思っています。
 竹信恵美子さんという方が、前掲書収録の論文「やっぱりこわい?ジェンダー・フリー・バッシング」の中で、北京女性会議(1995)にたくさんの女性教員が参加したことが、「ジェンダー・フリー教育」の盛り上がりにつながった、と指摘しています。私も少し調べてみたのですが、90年代後半には、たくさんの「ジェンダー・フリー教育」に関する現場からの実践報告が、さまざまな教育研修集会や雑誌上で行なわれているんですね(たとえば性教協の第16、18、19回全国夏期セミナーで行なわれた模擬授業発表など)。
 「ジェンダー・フリー」バッシング派の人は、欧米ではこんな言葉を使わないとか、きちんと定義が決まっていない言葉なのだとか、言いがかりを付けて「だから公の場では使ってはいけないのだ」と言います。しかし、それらのことがらは、私から見れば当たり前の話です。先ほどお話しましたように、「ジェンダー・フリー」とは教育実践報告などを通じて、現場の人達が、どうやったら生徒や同僚教師の理解を得られるのかという、具体的な苦闘を経験しつつ定着してきた言葉であるわけです。ある意味では自生的な言葉です。−続く


協同組合研究―昨今の大学生協―生協法上の「学生」の不思議な位置
大学生協神戸事業連合 前専務理事 寺嶋 英介


 このような機会を与えてくださり、ありがとうございます。この誌面の読者は地域生協の関係者が多いと思われます。そしてご家族が大学生協の組合員というケースも多いのではないかと推察しますが、運営側の問題認識をお知らせする機会はあまりなかったのではないかと思います。そのため、ごく基本的なところをまずご報告し、その上で今日的に課題と思われるものをいくつか、ご報告します。
 同じ協同組合として、今後の協力関係を模索する一助になれば幸いと考えております。

1、大学生協の現状
 全国大学生協連合会の会員は2006年3月現在で212の単位大学生協、10の地域事業連合(全国を10の地域に分割)、6のインターカレッジコープ(生協のない大学の構成員を対象にその都府県単位でこの間、設立されています。東京・大阪・熊本・宮城・福岡・愛知)です。

 国立大学のなかで大学生協のあるところはほぼ全てと言えます。エピソード的ですが、東京教育大学を廃止して作られた筑波大学にはありません。設立を求める声は長年あるのですが、まだ実を結んでいません。
 公立大学のなかでの割合は約半数、そして私立大学のなかでの割合は20%弱です。
 最近はいくつかの高等専門学校でも設立が進んでいます。

 大学生協は大学構成員を対象に、構内の福利厚生施設(食堂や売店)の運営を任されている関係から「職域生協」と区分けされます。そのため、生協への加入率は、地域の任意の住民を組合員とする「地域生協」と違って、学生で90%をかなり超えるといった高い割合が一般的です。中には、大学と合意して労働組合のユニオンショップ制のごとく、基本的に100%加入となっているところもあります。
 全国では総組合員数140万人(2005年度)となっています。
 合計の事業規模(供給高)は約2000億円です。

 次に大学との関係です。
 生協が使用している事業所は学内では福利厚生施設との位置づけで、施設使用料無償で貸与されているのが通例です。大学の構成員である学生・教職員のために、大学に代わって福利厚生事業を営んでいるとの位置づけからです。
 生協が事業に使用する水道光熱費は、物件費の中で大きな割合を占めますが、利用者が食事以外の目的でも滞留することがありうる食堂ホール部分を除いて、他は生協の負担が一般的です。そのなかでは食堂で調理用に使用されるものが大きな割合となります。また店舗の什器類は生協が費用負担、食堂の調理機器は大学が費用負担というのがこれまでの通例です。
 国立大学法人化の動きの中で、大学内へも民営化の風が吹き込み、経費の負担区分の見直し、事業からの収益の一部の大学への寄付などが言われるようになっています。−続く 


<生態系保全農業を求めて>キューバの有機農業による国興し-国際会議と視察報告
國學院大學教授 古沢 広祐


 世界の勢力地図が徐々にだが変化し始めている。中南米でも、この4月30日にキューバの首都ハバナにおいて、米国主導の米州自由貿易地域(FTAA)に対抗して三国貿易協定(キューバ、ボリビア、ベネズエラ)が締結された。最近のベネズエラ(チャベス大統領)による石油資本の国有化政策を筆頭に、3カ国とも米国の経済的な支配関係を脱して、独自の自立政策への道を選んでいる国々である。
 多国籍資本による資源の囲い込みと従属・支配が進んでいる現代世界において、既存の支配体制を脱して「もう一つの世界の可能性」に挑戦する動きが胎動している。ちょうど三国協定の締結の翌日、キューバでの国際会議に参加するために、ハバナへと旅立った。前々から一度キューバの地を訪れたいとの希望が、今回の第6回有機・持続的農業国際会議(カリブ・ラテンアメリカ・アグロエコロジー運動総会も同時開催、5/9〜12)および事前の現地視察ツアー(5/4〜8)に参加することで実現した。

歴史的経緯〜なぜキューバで有機農業?
 まさに奇跡のようなキューバ革命(1959年)を経て、米国に対抗して東側勢力下に入ったキューバは、中南米随一の教育・福祉国家を築きあげてきた。国民所得やGNP(国民総生産)はどちらかと言えば途上国並の低さにも関わらず、米国を下回る乳幼児死亡率の低さを実現し、大学・高等教育の広範な普及をはたしてきたことは特筆に値する(医療費・教育費はすべて無料)。他の多くの中南米の国々が、絶望的とも言える貧富の格差を抱え、不十分な医療や教育環境を余儀なくされている中、カストロ首相の独裁国家というマイナス・イメージを払拭して、キューバは羨望の目でみられていた。
 しかし、旧ソ連からの巨額の援助と輸入、砂糖のモノカルチャーによる外部依存型経済によって組み立てられた国の基盤は、根本的な脆弱さをはらんだものだった。そのことが明らかになったのは、ソ連の崩壊(91年)を契機に独自の国家形成を模索せざるを得なくなった80年代後半から90年代にかけてであった。そして、90年代のキューバは、第2の革命期とでも言っていいような社会的実験に取り組んでいく。
 ちょうど日本と同様に、食料の6割、石油関連物資のほとんどを輸入に頼っていたキューバは、経済的封鎖状態の中で、まさに物資窮乏と国の崩壊の危機とも言うべき状況に直面した。なかでも食料危機は深刻であった。しかし、こうした危機的な事態に対して、すでに80年代から地域資源の有効活用や有機農業の研究の蓄積が進められていたことから、キューバでは国家規模で有機農業と都市農業を推進する体制が急速に整えられていくのである。その背景には、化学肥料・農薬に頼りきった大規模モノカルチャー農業の弊害が徐々に顕在化していた経緯もあった。
 すなわち、90年代の大転換は外的要因を契機にしたものではあったが、国内的にも対応・適応すべき基盤がある程度は醸成されていたと考えられる。輸入に頼っていた化学肥料、農薬、大型農業機械が姿を消す一方で、牛馬の畜役が復活し、堆肥利用と輪作・混作を基本とした作付け体系のもとで生物系農薬(天敵・ハーブ・微生物)を補助的に使用する環境保全型の有機・持続的農業が大々的に展開するのである。
 農業とは無縁だった都市部では、有機農業による自給菜園や都市農業が広がり、地方では、旧ソ連型の大規模な集団農場(コルホーズ)の多くが中小の協同組合農場や家族農場に組み替えられ、土壌と環境保全に留意した持続可能な農業形態が模索されていく。現在、全人口の約5分の1を抱え220万人が住むハバナ市域では、およそ8千をこす農場や菜園によって野菜消費量の約半分がまかなわれているという。
 まさに有機農業革命とでもいうべきキューバの動向の詳しい経緯については、すでに吉田太郎氏による著書が出ているので、それらを参照願うことにして、今回の訪問先や会議について以下みていこう。−続く 


韓国でGMフリーゾーン宣言 「農者天下之大本」



韓国でGMフリーゾーン宣言 「農者天下之大本」

 彼の地では農楽隊の先頭にこの幟(「農者天下之大本」)が立ちます。農こそすべての基礎、社会普遍の理と言えます。今年3月、琵琶湖のほとりの新旭町で開かれた第1回GMフリーゾーン全国集会に、韓国から参加されている人達がいらっしゃいました。カトリック農民会副会長とウリ農生協の職員でした。そのカトリック農民会の皆さんが韓国江原道の原州(ウォンジュ)市でGMフリーゾーンの宣言を行いました。以前からウリ農生協と交流を続けている生協連合会きらりの皆さんとともに、遺伝子組み換え食品いらない!キャンペーンもその宣言式に招待され、代表の天笠さんにお供して参加して来ました。その模様を写真を中心に報告いたします。


■カトリック農民会とウリ農生協
 韓国の農業事情は、日本と大変良く共通しています。農家一件当たりの平均耕作面積も約1ヘクタール、食糧自給率も半分以下となり、更に輸入農産物が増えようとしています。
 今回、韓国で初めてGMフリーゾーン宣言式を行ったのは、韓国の北東部、江原道の原州(ウォンジュ)にあるテアン村のカトリック農民会の皆さんです。ソウルにあるウリ農生活協同組合と提携する10軒の農家の水田が対象です。宣言対象の広さは3万坪と聞きました。約10ヘクタールという計算になります。宣言式当日は、ウリ農生協からバス3台、約150名の組合員家族が参加。午前10時に到着。テアン村では、伝統的なサムノリ(大小の鉦、鼓を打ち鳴らす農楽隊)が、出迎えてくれました。

■村を守るGMフリーチャンスン
 合鴨農法の合鴨の放鳥式の後、フリーゾーン宣言はカトリック農民会らしくミサの中で行われました。ミサの後、村の集会所で揃って昼食の後、都会の子らによる田植え、餅つきと続きます。近くの小川に逃げ出した合鴨を子ども達と一緒に追いかけます。日が西に傾く頃、フリーゾーン宣言の目玉「フリーゾーンチャンスン」を担いで練り歩き、村の入り口に安置します。長性(チャンスン)は、日本では道祖神、村を守ります。地区を挙げてのフリーゾーン宣言祭りの一日でした。
 今後、韓国でもGMフリーゾーンが拡がっていくことでしょう。欧州に負けず、アジアでもGMフリーゾーンを拡大していきたいものです。
(市民セクター政策機構 倉形正則) 



議案書からみえる地域生協 生活クラブ生活協同組合・東京
一人ひとりの発信が動かす社会に


 2006年度は生活クラブ生協・東京の第4次長期計画の2年目にあたります。総代会議案書から、2005年度の活動報告の全体総括と2006年度活動方針から抜粋して紹介します。(編集部)


生活クラブ生活協同組合・神奈川
―市民による公共圏づくりへのチャレンジ―


 第36回通常総代会において生活クラブ生活協同組合(以後神奈川ユニオン)は第8次中期計画を決定した。それは、2004年度、神奈川において、横浜北、横浜みなみ、かわさき、湘南、さがみの5つの法人地域生協が誕生して以降、初めて策定された神奈川ユニオンの中期5ヵ年計画である。その意味で、この第8次中期計画は、第7次中期計画までの神奈川ユニオンのそれとは大きくその性格や役割を異にするという意味で、大きなエポックを成すものであり、その内容に注目する必要がある。以下、第8次中期計画を中心に、併せて、その初年度としての神奈川ユニオン2006年度方針を要約・紹介する(編集部)。
 


巨大バイテク企業VSカナダの農民「シュマイザー裁判」がテーマのビデオ
『ジェネティック・マトリックス』日本語版ついに完成!




 巨大バイテク企業モンサントと裁判で闘ったカナダの農民パーシー・シュマイザーさんが主役のビデオ『ジェネッティック・マトリックス―いのちの未来のために』の日本語版が、ついに完成しました。このビデオは、シュマイザーさんの闘いをずっと撮影しつづけてきたマニトバ大学の大学院生、イアン・マウロが製作しました。バンダナ・シバ、ラルフ・ネーダーなど著名な活動家、あるいは、遺伝子組み換え作物の影響を直接受けている農家の団体である「全国農民連盟」など、数多くの人々のインタビューで構成されています。

●生活クラブの活動から生まれた日本語版
 日本語版の翻訳にあたったのは、市民セクター政策機構の自主研究会「翻訳ネットワーク」のメンバーです。翻訳ネットワークは、生活クラブ・東京を母体とする「コミュニティスクール・まちデザイン」で時事英語を学んだ卒業生の有志で構成されています。これまで、バンダナ・シバさんの「食のマニフェスト」をはじめとして、いろいろな資料を翻訳して『社会運動』に発表してきました。今回は、初のとりくみとしてビデオの翻訳に挑戦しました。
 吹き替えの声優をつとめたのは、同じく「コミュニティスクール・まちデザイン」の朗読教室の元受講者たちです。吹き替えは初めてとはいえ、読み聞かせ、ライブの司会、役者の勉強など、多様な経験を生かして、初めてとは思えないプロフェッショナルな仕事ぶりでした。リーダーをつとめていただいたのは、いつも遺伝子組み換え食品いらない!キャンペーンの催しで司会をお願いしている木村育子さん。普段は、ナレーションの仕事をしています。
 もともとこのビデオは、著作権などの縛りがいっさいなく、コピー自由。市民に必要な情報を低コストで自由に行き来させる、というコンセプトで作成されています。日本語版の作成にあたっても、このコンセプトに則って、すべてボランティアの力で作り上げました。

●妨害をのりこえ、やっと新作を発表
 イアン・マウロの次のビデオは、”Seeds of Change“。パーシー・シュマイザーさんのケースにとどまらず、遺伝子組み換え食品のもたす問題について、徹底的に農家の立場から取材して撮られたドキュメンタリーで、英語版がウエブサイト上で公開されたばかりです。
 しかし、この作品の公開までには、長い道のりを要しました。2004年に完成したものの、当時、モンサント社とパートナーシップを結んで資金提供を受けようとしていた大学側から、公開に待ったがかかったのです。これについては、メディアでも大々的に取り上げられ、「カナダ大学教職員協会」の抗議もあり、やっと最近になって公開にこぎつけました。
 このビデオはまだ英語版だけですが、以下のウエブサイトで見ることができます。
 http://www.seedsofchangefilm.org/

 『ジェネティック・マトリックス』の完成上映会が7月8日(土)の12時から13時まで目黒区民センターホールで開催されます。ボランティアによる手作りビデオです。将来的には、ウエブサイトでの公開も考えていますが、まずは、完成会に一人でも多くの方に見にきていただきたいと思います。(清水亮子) 


<書評>詩とはなにか
世界を凍らせる言葉(吉本隆明・詩の森文庫)
詩学叙説(吉本隆明・思潮社)
「近代文学の無念」の止揚 吉本詩論の達成とは何か
室伏 志畔


 吉本隆明の詩論が思潮社から『詩学序説』と『詩とはなにか』の二つにまとめられ、相次いで刊行を見ている。私はその意味を少しく語るところから始めたい。
 我々は吉本像を彼自身の旺盛な著作活動を通し多く育んだが、それに加え川上春雄による初期習作の発掘、松岡祥雄による未刊行論文とインタビューの集成、また宮下和夫による吉本講演のテープ起し、また青土社からの対談集の刊行等によって、その多方面にわたる重層的な展開を与えられその像を確かにしてきた。
 それらの像に親しみながら、私はその膨大を極めた著作、講演、対話の、「系統的な再編集による再抽出」が次の課題ではないかと考えてきた。それはこれまでそれぞれが私淑した吉本論を競うところから、より本質的な提起への前提となると信じたからである。我々はそれぞれに吉本を大いに語ってきたが、その「方法としての吉本」の可能性を確かめることを怠ってきたのではないのか。その意味で吉本ブームはあったが、吉本ルネッサンスを我々はまだ起し得ていない。
 編集という仕事がすっかりもの書きの陰に隠れ、その創造性が忘れられているが、埴谷雄高発見の先陣をきった鶴見俊輔の「虚無主義の形成」は、松本昌次が編集した『濠渠と風車』、『鞭と独楽』の刊行なしにはありえなかった。その意味で編集は時代に先立つ創造的な仕事だ。
 さて、詩(文学芸術)の誕生を「意識の自発的な表出」に始まったとする吉本詩論に話を戻すなら、『詩学序説』は1956年から2004年のほぼ半世紀にわたる吉本の論理展開とするなら、『詩とはなにか』は、安保闘争前夜の1959年から1986年に及ぶ、吉本の自己表出にアクセントを置いた発言の集成と云えるかもしれない。これらは共にあいまって時代の荒波に沈んだ近・現代詩の検討を通して、時代に耐えうる思想詩に根拠を与えようとする凄まじいまでの吉本の時代との格闘を伝えており、そのほとんどは目を通したものであったが、やはり圧倒されるほかなかった。
 これらの詩論の編集に、昨年度の小野十三郎賞の添田馨が関わっている。『詩学叙説』に編集者の名がないのは、編集者の創造的役割を自ら軽く扱うもので頂けない。それはともかく、この系統的な詩論の集成が、詩の実作者としての添田馨が関わったことによって、自らの詩を時代に耐えうるものとするために、吉本詩論から貪欲にその達成を汲み取ろうとした一詩人の行程が重なり、生き生きとした編集となっている。
 その中で添田馨が次第に、吉本詩論の核心を表現転移論から喩法論にあると見定め、その原理論である『言語に取って美とはなにか』に先駆した『詩人論序説』に新たな意味を付与しているのは注目される。これを踏まえ、現代詩が伝統に就くことなく、現在へ開くために七・五調の音数律を捨てることの代償に、様々な喩法の重層化による試みを通し、ついにそれに変わる新たな韻律を内在化させたとする最近の「詩学叙説」の達成は、ここ半世紀をかけ登り詰めた吉本詩論の一結論と見ることができよう。
 この吉本詩論における韻律の内在化理論の完成は、それに先立つ多くの現代詩人の先行する実作によって裏打ちされているが、この理論的達成によって現代詩は、伝統歌へ決して後戻りする事のない新たな思想詩としての城塞を整備し得たと云えよう。添田馨の第四詩集『語族』は、東京という都市に覆い被さる幾多の霊をを重層させることによって、喩としてしか語り得ない現在を開示しえたのは、この吉本詩論の達成とその消化なしにありえなかったことを語るものである。
 それでは、この二つの詩論によって開かれた、吉本詩論の達成とは何か。それは北村透谷の必敗を前提として戦わねばならなかった「近代文学の無念の止揚」と私は呼びたい。−続く 

<書評>『戦後精神の光芒』丸山眞男と藤田省三を読むために(飯田泰三/みすず書房2006)
<自分>のために藤田省三を読む
<第三部>の感想
同時代社 川上 徹


 本書〈第三部〉は著者飯田泰三氏による〈藤田省三〉の「全貌」の紹介である。「丸山真男と藤田省三を読むために」とサブタイトルに記された本書は、私などのように、自分の〈必要〉に迫られて〈食い囓り〉的にしか〈藤田省三〉を読んで来なかった者にとって、大変に貴重なものであった。藤田省三著作集全一〇巻(みすず書房、一九九七〜九八)の編集作業に深く関わった飯田泰三氏は、そこに収録された個々の論稿の一つ一つを、ときに同時期の先生の言説を含めて、それらがどのような経緯と状況の中で書かれたものなのか、丁寧にかつ誠実に記している。私はいま、取り上げられている幾つかの論稿を(未読のものも含めて)あらためて読んでみたいという欲求に駆られている。おそらくそれらの論稿は、私にとって以前とはちがった意味合いをもって迫ってくるのではないか、意外な発見があるのではないか、そうした〈再発見〉への期待を抱かせてくれたのである。
 〈第三部〉は八本の論稿・インタビュー記事で構成されており、冒頭に「藤田省三の時代と思想」が収録されている。そのサブタイトルに「韓国の読者のための解説」とあるように、この論稿は韓国版『全体主義の時代経験』(創作と批評社、一九九八年)のために書かれた飯田泰三氏の解説である。韓国版のこの書はみすず書房版の同名のものに収録されているもの以外のものも多く含まれており、さながら韓国の読者のために発行された「藤田省三選集全一巻の趣をもったもの」であるという。それだけに〈藤田省三〉の「全貌」を知りたいと思う読者にとっては格好の〈案内〉書ではないだろうか。私自身も知らなかったことが多く大変参考になった。
 韓国版に翻訳をしたのは李順愛さんである。ある時期、彼女は私の勉強会仲間だった。藤田先生が一九九〇年から九二年にかけて〈私塾的〉な数人のゼミを続けてくれた、その時のことである。直腸ガン手術(九四年)をする直前のことだった。飯田氏によれば、藤田先生の元気なころ自ら旺盛な知的活動を展開する一方で、こうした〈私塾的〉な勉強会をいくつか開いてきたという。おそらく私たちのゼミはこうしたものの最後のものだったのだろう。
 飯田氏は、藤田先生のこうした私的空間でのお喋りや行動のエピソードを交えながら解説を書いている。飯田氏は「これは作り話かもしれないが」と断りつつ先生の饒舌の一端を紹介している。先生が春子夫人にプロポーズしたあと照れくさくなって「ボクは逆立ちが得意なんだ」と言って、公園のベンチで倒立してみせたとか。実際の見聞としては、雑踏の中の甲州街道で、信号のないところを「さあ、ひいて見よ」とばかり突っ切ろうとした。クルマ社会に対する野蛮な〈反抗〉だったとか。私もこれらに似た〈蛮行〉をいくつか目撃しているから、クスリとしながら読ませてもらった。〈藤田省三〉の世界にある、一種の乾いた爽快さや、洒落っ気や、キリで揉むような批判の痛烈さは、こうしたエピソードを下敷きにしたとき、ヨリ深みをもって理解できるように思う。−続く 


追悼
井手左千夫さんとの20年
立教大学教授 中村 陽一



個人的な思い
 『社会運動』に書かせていただく久しぶりの原稿が井手左千夫さんの追悼文になろうとは、いまだに実感が湧かないままである。病床にあることは存じ上げていたものの、いずれまた新宿辺りで、ポテト料理をつまみながらあの独特の語り口で生活クラブ論や職員論を、そして社会運動を語る井手さんと呑んで盛り上がる日が来ることを、心のどこかで待っていたのだと思う。いくら何でも享年54歳は早過ぎる。
 また、市民セクター政策機構発行『社会運動』掲載の追悼文が、生活クラブ外部者の私でいいのか、という思いもある。井手さんは、これまた井手さんらしいあの口調と柄にもなく(井手さん、すみません!)照れたような表情で、止めてくれというに違いない気がする。「中村さん、あなた、もっと書くべき原稿が他にあるでしょう」といわれるかもしれない。空約束のままの原稿が累積していたことをいまさら悔やんでも仕様がないのだが。
 それとも、「また前置きが長いですね、早く本論に入って書き上げてください」といわれるだろうか。いま考えると赤面するばかりだが、幾度となくお待たせした前科がある私である。もう15年ほど前だから勝手に時効にさせていただくが、当時住んでいた西荻窪の「グレース」というティールームで井手さんを待たせること数時間という強者だったりしたのである。普通だったら絶縁ものだ。
 とはいえ、今回、岩根さんからのお話もあって原稿依頼をいただいたことが(不謹慎な表現だが)嬉しかったのもまた事実である。井手さんと語り合った「構想」に、本来は追悼ではなく取り組むべきところを、日常の諸事に取り紛れ着手できないままの私に井手さんが与えてくれた最後の叱咤だと受け止め、また(生活クラブ職員としての井手さんには迫れないが)少なくとも、まだ海のものとも山のものともつかない時代から『社会運動』誌に習作の場を与えてもらった書き手の一人として、(たぶん井手さんが望まぬであろう)感傷的なスタイルを避けつつ拙文を寄稿させていただき、井手さんが担った『社会運動』誌および社会運動研究センター(以下、社運研)の時空をなるべく再現すると同時に、個人的には、いまだ果たせていない「構想」の実現を確認する再出発点としたい。

社会運動研究センター、そして井手さんとの出会い
 井手さんとの出会いは、確か1986年だったと思うから20年前である。したがって、(今回、社会運動研究センター準備会会報として1980年2月20日付で発行された『社会運動』創刊号以来の各号を引っ張り出してみたが)生活クラブ東京職員評議会の肩書で社運研準備委員(16号の設立総会[81年9月27日]へ向けての記事では何と井手「三千夫」と表記!)、運営委員、編集委員であった頃の井手さんとは残念ながらお会いしていない(当時、筆者は叶V評論で藤原良雄氏[現在は鞄。原書店社長]のもと、編集者として、たとえばイヴァン・イリイチ絡みで『社会運動』と生活クラブに接する機会があった)。この頃のことは、あらためて社運研準備会と生活クラブ関係の方々にぜひうかがってみたいと思っている。
 きっかけは、当時、政治研究会などとともに社運研で行われていた研究会の一つ、社会運動研究会に誘われて参加したことである。誘ってくれたのは、後に、渡辺登、山嵜哲哉両氏、そして私とともに保谷・生活者ネットワークの共同調査研究を社運研で行い、「四人組」と揶揄されたチームの一員となる、大学の後輩・大津浩氏である。いまは皆、大学に籍を置く身となってしまったが、86年当時は私を除く3人が血気盛んな研究者の卵(後に当時助手だった大畑裕嗣氏も参加)、私はといえば、生活クラブにシンパシーを感じながら日本生協連で機関誌『生協運動』や出版物を編集するちょっと変わり者の職員になっていた。皆まだ20代終わりであり、井手さんは30代半ば前であった。もちろん、あの髭と禿頭という風貌の印象は強烈だった。
 この研究会は、実に刺激的で、日曜でもせっせとあの雨漏りのする古い建物だった赤堤館に通った。ピースボートのオリジナルメンバーだった原田さんに始まり、ワーカーズ・コレクティブ、フェミニズム、石けん運動、生活者ネットワーク運動、逗子池子の森の運動、自由ラジオ、エスニシティと社会運動(このときの講師が先ごろ急逝された梶田孝道さん)等々、今にして思えば、世界と日本の新しい社会運動の生き生きとした(理論も含めた)最新の現場の様子に毎回ふれていたことになる。このときの経験が、参加者に大きな影響を与えたのはいうまでもない(どれほど成長したかは自信がもてないが)。私にとっても、この研究会での経験と、日生協時代、辞めてからの独立時代(消費社会研究センター)を通してせっせと足を運んだ地域の「生活からの『地殻変動』」の現場での調査取材とが共鳴し合いながら、90年代、NPO/NGO、市民活動領域へと一気に歩を進めて行くことになる出発点であった。そして忘れてならないことに、岩根さんの過去から現在進行形に至る、かつ地域からグローバルな視野にまで広がる思考実践をリアルタイムで聞けるという幸福があった。
 ただし、この研究会そのものの記憶のなかでは、井手さんと話し込んだ思い出はあまり鮮明ではない(研究会メンバーとのそれは数多いのだが)。後述の『社会運動』編集長としての井手さんとの付き合いが濃かった故であろうし、井手さんはこだわりの事務局員として会の後片付けにまわっていたこともあるだろう。そしておそらくは、講師選びの相談などの場面で「事務局道」を発揮していたのだと思う。

事務局(長)としての井手左千夫
 私にとって井手さんといえば浮かぶのが前述の「事務局道」(井手流事務局論、職員論)である。これについては、幾度となく、呑みながら議論を交わし、私は、今後あるべき人材(「財」の字を充てた方がいいという主張もあるが、ここではそのままにしておく)像として、編集者(エディター)、コーディネーター、ネットワーカー、プロデューサー、ディレクター、ファシリテーター(私のいまの職場が「21世紀社会デザイン研究科」で、最近コミュニティデザイナーなどとまた熟さないことばを使って研究プロジェクトを進めたりしているのも井手さんとの格好の「論争」材料になりそうだが、すでにかつてから、いわゆる人材育成という問題意識において接点を持っていたのだと思える)など多様な形があるのではといつも水を向けたのだが、井手さんはといえば、「中村さんはそれでいいと思うが、私はあくまで事務局道と職員論にこだわる」といって譲らなかったのが記憶に残る。かつて私が口を滑らしたのを逆手に取り、「どうせ、あたしゃ、古い世代の人間ですから」と苦笑していた表情は、いまでもありありと思い浮かべることができる。頑固一徹者・井手さんの面目躍如であった。
 そのこだわりが活かされたのが、社運研時代の生活クラブ埼玉を嚆矢とする職員研修(90年代初期)だった。私は全面的に協力させていただいたが、新進気鋭の経済学者・社会情報論研究者だった須藤修氏をはじめ、このときの講師陣は井手さんと私の「独断と偏見」にもとづくラインアップで、毎回、粗削りだったかもしれないが、刺激に満ちていた。この頃、私たちは、会えば必ず、生活クラブのありようをめぐって議論していた(そういえば、須藤さんと、やはり私と学生時代から知己があり、『アクロス』編集長などを経ていまは『下流社会』で有名な三浦展氏を結びつけ、高度化した大衆消費社会とネットワークを俎上にのぼせて議論するなどといった企画もこの頃の井手さんとの議論のなかから生まれた)。私が、外部の眼から問題を投げかけると、井手さんが内部者の眼で鋭くそれに応ずるといった具合で、このやりとりは実に楽しかった。同時に、井手さんの生活クラブにたいする強烈な(しかしアンビバレントな)愛をまざまざと感じもした。まさしく、井手さんは生活クラブを愛していたと断言できる(またぞろ、止めてくれとご当人にはいわれそうだが)。
 後に、私は首都圏コープ事業連合(現在、パルシステム連合会)を基盤としてつくられた21世紀コープ研究センターの研究会に井手さんを強引に引っ張り出し、その職員論を語ってもらった(2002年3月6日)。いまとなっては、無理をいって生活クラブの外、それも一応、パブリックな場で井手さんにこのテーマを語ってもらっておいて本当によかったと思っている。そのときの中身を書く紙幅がないのが本当に残念だが、自称「生活クラブのなかでも少数派になりつつある運動派のなかでもさらに少数派」たる井手さんらしい洒脱で飄々とした語り口による職員論は出色のものといってよい。ちなみに、ここで井手さんは、「職員は編集者たるべし、著者は組合員、事務局は出版社」という「テーゼ」を出している。かつては、私などとの議論のなかで消極的にはそういうしかないかと思っていたのが、ああやっぱりそれでいいのかなと思うようになってきたと、自身の考え方の変遷を生活クラブの歴史のなかで語っていたのが印象的だった。生活クラブの、特に若い職員の皆さんにはぜひ眼を通していただく機会があればと思う(添付資料には、井手さんの手になるものではないが、「生活クラブ職員の労働形態変遷史」もある)。
 ただ、ここから先は外部で付き合ったものと内部で評価が分かれるのだと思うのだが、井手さんには独特のコミュニケーションの流儀(?)があって誤解も多かったようだ。井手さんもまた、あえて判ってもらおうとは思わない的なところがあり、外から見ていてもはらはらするときがあった。私のような立場の付き合いでは、それがまたきわめて人間的に感じられたのだが、一緒に仕事をする立場では、違った受け止め方もあっただろうことは容易に想像がつく(確かに、昨夜、あんなに新宿で盛り上がったのに、今日のやる気のなさは何? と私でも感じるようなことがなかったわけではない)。

編集者としての井手左千夫
 私が意識していた井手さんには、もう一つ『社会運動』誌編集長としての顔があった。むろん、それは上述の「事務局」としてのあり方と連動していたわけだが、私も職業生活のスタートが編集者であった関係で、自分が見てきた編集者とはまた違った、なるほどこういう編集者像もあるかという思いを強くさせられることしばしばであった。
 たとえば、手元に「社会運動研究センター再編強化計画案」(87年10月9日)という井手さんそのものの文字で手書きされたレジュメがある。1.現代世界認識(大項目)、2.生活クラブ運動の課題、3.社運研が果たすべき役割、4.その為に備えるべき機能、とすべてが見事に編集(者)的発想で貫かれている。事務局としての仕事領域でも、井手さんは(ご本人は否定されるかもしれないが)優れた編集者であった、と私は思う。ただそれゆえに、こうした計画はなかなか実現しなかったのかもしれない(だから、いまの時代なら、「マネジメント論」で行くことになるわけだ)。
 まして、『社会運動』誌においては、井手さんの才はとてもユニークに展開されていった。先だってのお通夜でも、ゆかりの、特に50代前半から40代の人びとの間で異口同音に語られていたことだが、私を含め、若いときに、井手さんによって『社会運動』で書かせてもらい、場を広げていった者は非常に多い。人をつなげ、人を育てたという意味で、まさしく編集者であった。たとえば、いまでは日本人でNGOと紛争後の平和・社会再構築の両方で修羅場をくぐり抜けてきたところからの理論を語れる唯一の存在といってよい、私にとっても元・同僚の伊勢崎賢治さんは、「インド通信」の連載からものを書き始め、一冊にまとめ、そして大学という場に入っていった。「井手さんとの出会いがなかったら、ものを書いたり、大学で教えたりはしていなかったでしょうね」と伊勢崎さん自身も語っていた。また、社会運動研究会をきっかけに、保谷・八王子・佐倉など代理人運動、生活者ネットワーク運動の現場をともに調査して歩いた先述の渡辺登氏は、井手さんと同世代で環境社会学の第一人者の一人であり、私が大学の世界に行く大きな契機をつくってくださった寺田良一さんの後輩として社運研に出入りするようになったのであった。
 私が関わり始めた80年代後半の『社会運動』拡大運営委員会や編集委員会では、岩根さんはじめ、今野聰さん、丸山茂樹さんなど社運研準備期からの顔ぶれ、山浦康明さん、古沢広祐さん、戸田清さんなど私より以前から社運研との付き合いが深かった方たちとのやりとりも数を重ねていた。
 時には、議論を呼ぶ起用も行うのが井手さん流で、大月隆寛さんの連載は大いに反響を呼び起こした(ずいぶん批判も浴びたようだ)。ここにもイデオロギーの枠を超えて、いっていることの内容で問題提起をしようとする編集者的精神が大いに発揮されていたのだと思う。その点、編集者としてのわが師であった先述の藤原さんとも似た感覚があったように思う。その藤原さんと岩根さんとの対談を、井手さんと力を合わせて『社会運動』誌上で実現できたのは幸いであった。
 しかし、大いなる心残りというより、井手さんにはお詫びをし、もう一度チャレンジしなければならない宿題の一つに、岩根さんと首都圏コープの創始者である下山保さん、そして私を軸とした出版企画の積み残しがある。この企画に関しては、井手さんの編集者としての力量が横溢した数多くのメモとレジュメが私の手元にあり、何度かにわたる岩根さん、下山さんへのインタビュー、お二人の対談の起こしが残されている。ちょうど私が大学を移り、超過密スケジュールにあった時と重なり、もしかしたら、井手さんが最後に力を傾けた仕事かもしれないこの企画がそのままになっている状態は何とかしなければと思っている。「戦後社会運動史としての(生協)運動論」という大テーマのもと進めたこの企画には、きわめて豊かな実践的示唆があるだけにである。
 書き手としての私にとって(そして他の多くの書き手にとっても)、原稿の読み手としての井手さんの「読み」には書き手であるにもかかわらず、その洞察の深さに脱帽することしばしばであった。恐ろしく多読・速読の井手さんには、一流の読者精神が宿っていたとしか思えない。そしてそれは、最初の読者としての編集者に必須の力であり、それゆえ、井手さんに原稿を読んでもらうのは楽しみであり、緊張の一瞬でもあった。ついでにいえば、編集者としてこれまた必須の能力である督促のタイミングも絶妙であった。

 最後に、本当は、構想者、書き手としての井手さんにもふれたかったのだが、すでにかなり与えられた紙幅をオーバーしてしまっている。おびただしく残された井手さんの手になるレジュメやメモ、『社会運動』誌上の編集後記や「私の本棚」(いま読んでも面白い)、そして唯一まとまった形で世に出た論稿かもしれない「生協運動と資本主義」(『アソシエ』4号、2000年10月、御茶ノ水書房)については、もう一度、そのめざそうとしたものを、ぜひ社会に明示的な形で残す作業を有志で行いたいと考えている。
 井手さん、本当にお世話になりました。ありがとうございます。いつの頃からか、年末年始に必ずお会いして、1年の総括と次の年の計画を話し込むようになって以来、累積し続けた宿題を一つ一つ形にしていきたいと思っています。
 あらためて、井手左千夫さんのご冥福を心よりお祈りいたします。(原稿中、一部、敬称を略させていただきました)



井手左千夫元編集長におくるレクイエム
井手さんのおかげで…
中山靖隆(東京都老人総合研究所 研究員)


 1987年、井手さんに拾ってもらい「社会運動研究センター」に。非常識な言動で多々ご迷惑をかけた。浴衣で出勤し、注意されたことも。怒られた記憶はほとんどない。企画の9割は蹴られたが、書いた原稿にはほとんど口を出さず、載せてくれた。シニカルで斜に構えるところはあったけど、芯は暖かく、多様な価値観に寛容であろうとする人だった。
 延べ10年。知識やスキル、各種免許・資格、妻、家etc.etc.井手さんのもとにいたおかげで手にしたものは数知れない。「行かされた」福祉系や医療系の取材も、今では仕事にしている。結婚式には仲人役までお願いした。だが、多忙にかまけ、独立の報告にも行かず。恩知らずのままだ。2年前に逝った母と同じ命日。残った己の恩知らずが、二重に応える。
 古い赤堤館。一階には怪しげなバーの跡、赤いビロードのソファと黴のにおい。二階は雨漏りする事務所。ひげ面のいかつい人が、鼻歌で事務作業をしている。誰かの相談に乗っている。少しどもりながら、えらい人と話している。原稿を見ながらチェーンスモークの鋭い目。子どもっぽいおふざけと笑顔。あの躁鬱的非日常的日常は幻か? 機嫌よく(あるいはヤケで?)歌っていた「池袋モンパルナスに夜が来た 学生、無頼漢、芸術家が街に出る〜♪(小熊秀雄)」が妙に耳に残る。後に続く、「彼女のために、神経をつかへ あまり太くもなく、細くもないありあわせの神経を」は口にしていたのだろうか?



ゆっくりお休みなさい
生活クラブ生協・千葉 専務理事 庄妙子


 年下なのにどうしても井手君と呼べない風貌のまま、私にとっては「師」であり続けてくれた人でした。二十数年前、東京生活クラブでともに職員評議会の役員になったのがつき合いのはじめ。井手さんがマルクスを持ち出して方針こうあるべきと力説するのに、出来の悪い私が繰り返し質問攻めにしても懲りずに丁寧に教えてくれました。それ以来、困った時の井手頼み。「EUの動きが…」「じゃあこれを読みなさい」、「消費動向が…」「ハイこれ」、「女性作家のミステリーを」「それなら彼女だよ」という具合です。
 2000年の「第3次長期計画」策定が一緒に取り組んだ最後の大仕事でした。「地域をステージに、個人が消費材のメッセージを」というコンセプトで出来上がった長計を一人一人の組合員に十分に理解してもらうためにダイジェスト版を作ることになりました。ただ要約したのでは面白くないからと、長期計画をもじって長太郎じいさんと孫の計子ちゃんが解説する仕掛けにしました。イラストも必要というので井手さんと娘の真弓さんをモデルに決定。なかなかの仕上がりでした。葬儀の日、初めて「計子ちゃん」にお目にかかったのに、なつかしさでいっぱいでした。長太郎じいさん、ゆっくりお休みなさい。



「職員エディター論」
生活クラブ・東京専務理事 村上彰一


 井手さんは不思議な人だった。生活クラブに興味はあるが、食い物にはまったく興味がないといっていた。せっけん運動は好きだったが自分がせっけんを使っていたかどうかは定かではない。生活クラブという風変わりな生協のその中でも一段と風変わりなアンダーグラウンド的気質を持ち合わせた気骨のある、私から見るととてもチャーミングな人だった。10年ほど前に職員が集まって事務局論を議論し、事務局の新しい像を描くプロジェクトの座長を私がおこなったことがあった。その時、当時社会運動の編集長だった井手さんを講師に学習会をおこなったのが、私と井手さんとの本格的な出会いだったと記憶する。彼が解説していく、正史である生活クラブ運動史とまったく視点が異なる職員中心の運動史は極めて刺激的であり、職員に、様々な要素を集めて統合する能力を求める井手理論「職員エディター論」は、私の心の中に何かが「ストン」と落ちた気がした。その理論を拝借し、プロジェクト答申をまとめたのだが、経営会議でコテンパンにやられ玉砕。井手理論は再びアンダーワールドへと落ち着くことになった。ただ、私はずっとエディターでいようと思ってきた。
 「村上よ、お前はいったいどんな本をつくろうとしてるんだい。」きっとそういってるよね。井手さんの鋭い目に睨まれてることを思い出に、市民の本を編んでいきたいと思う。



もう答えを聞くことが叶わない
ワーカーズコレクティブ凡・西貞子


 井手さん あなたとの出会いは、1976年の夏、富士五湖は西湖での初めての生活クラブ協同村、その前半20日間のおさんどんを買って出たことによりました。10歳、7歳,3歳の3人の子供と着替えなどの荷物、そして1頭の小ヤギを積んで、終業式の夜、そのキャラバン隊は家を出発したものです。「今度はヤギの1頭買いをするのか、生活クラブはって言われそう」とつぶやいた運転者の声に、舅・姑・夫を置いて家を空ける緊張感から一挙に開放されて笑いあった、それが井手さん あなたとだった!
 それから自分らしい生活クラブ運動を追って、思いもかけず事業主なぞにもなって30数年、私らの応援団長と自ら旗を振ってくれた人の突然の死、そのお別れの会をしきってくれたのが、井手さん あなただった、それもたった5年前。
 そしてちょうど1年前、届いた1通の手紙、初めてで最後のあなたからの分厚い封書。どんなに罪作りでもやってきたことには後悔しないと告げた私に強く同意しながらも、あなたは、「あるひとつの行為を選択することは、その時点で他の選択肢を「やらなかった」ことにもなる、それに気付くのが遅かった」と吐露しています。そうだよね、井手さん!あなたが踏み出そうとしたもう一つの道はどんな、そしてどこへと続く道?もう答えを聞くことが叶わない、私も今強くそれを追います。その手紙の日付は2005.6.28。



いつも私を支えてくれた井手さん
市民セクター政策機構 清水亮子


 井手さんとの出会いは、私が当時の社会運動研究センターに新人として入った1985年のことでした。井手さんは当時、『社会運動』を一人で編集していて、誰でもいいから手伝って、という、私にとってはラッキーな状況でした。井手さんのお葬式のとき、息子のひさし君が、お父さんは子どもの頃どんな質問にも答えてくれた、と挨拶の中で言っていました。ひさし君は、「社会人としての父親について知らないままだった」と言っていましたが、職場でも「どんな質問にでも答えてくれる」人でしたよ。
 井手さんの「編集後記」は名物ページで、『社会運動』は編集後記のある最後のページから読む、という人がおおぜいいました。その後、編集長を後進に譲ってからも、「私の本棚」というページで、井手ワールドは『社会運動』の名物であり続けました。
 新人だった私も、いつの間にか母となり、小さな子どもを抱えて働くのが大変だった頃、励まして支えてくれたのも井手さんでした。当時『ふっこさん保育園を走る』という本の書評を書いたとき、あまりに思入れの多い長い文章は、当時の編集長にあえなくボツにされたのですが、そんな文章をほめてくれて、私の書く力を伸ばそうとしてくれたのも井手さんです。「編集後記」の中では、私を「同僚」と呼んでくれましたが、私にとっては、兄であり、父のような存在であり、私が人生の師と仰ぐ3人のうちの一人です。 


東 京《状況風景論》
元編集長の遺したもの、キックオフ!共生型経済&89年世代



●編集者としての自負
 『社会運動』の編集長で親しまれた井手左千夫氏が54歳の若さでなくなった。社会運動研究センターから市民セクター政策機構の長きにわたる時代に事務局を率いた。私がきた頃、デビュー前の宇多田ヒカルに夢中な無邪気な一面をみせたが、葬儀の時、息子さんがいつも本を離さず頑固で孤独な親父を語った編集長の日常性がとても印象的だった。
 井手氏は、日本のミニコミ誌の一角にひとつの編集のスタイルを残した。それは日本の市民運動、とりわけ生活者の運動が、地域社会の中で次第に根付いていく生成期の姿の記録、その内発的な自己表現であり、そしてその意味づけだ。
 そのことを示している例の一つは今、大阪経済大学の斉藤日出治さんから平田清明13回忌を前に協力を求められて実感する。生活クラブ創立者・岩根邦雄氏と平田清明との実践と思想のぶつかりと交歓を井手氏が編集企画として系統的に残している。78号の「新しい市民社会の構築」、121号の「現代資本主義論」、129号の「東欧市民革命」、141号の「アフター・フォーディズムと日本」、181号の特集「追悼 平田清明氏」である。そのキーワードは「共同する個の自己実現を求めて」や連続講座〈緑・社会民主主義・自治〉の簡潔な見出しによく生きている。
●地域で自律し支え合う協働を
 ジャンテ氏招聘市民国際フォーラムが縁で大阪で6月17日「共生型経済推進フォーラム」が設立され、記念フォーラムがエルおおさかで開かれた。
 基調提起「非営利の価値が21世紀の社会をつくる」を代表委員の津田直則桃大教授が行い、司会の法橋聡氏(近畿労金)の発言と合わせ、「お金の社会的役割を変える」ことが鮮明となったフォーラムだった。
 障害者自立支援法の6点にわたる問題点、ニートの若者がコミュニティ・カフェを立ち上げ、精神障害者が比較的多い町の中で、病院内喫茶や売店をスローワークというミッションでの試み、福祉・配食・移動サービスをコミュニティ価格で提供するワーカーズ・コレクティブ、そして今回、生活保護500億円が投じられてもまちづくりには何一つ生きない西成のまち構造が赤裸々に語られた。酒とカラオケ、パチンコに使えても出資することや生活の質に使えないお金をコミュニティ・ファンドとして地域循環させ自立と良い消費の営みになるには冨田一幸氏は「参加型まちづくり」の次のステージは「投資」だという。まちづくりと知的障害者雇用促進、地域就労支援、コミュニティ・デベロッパーをめざす地域ビジネスの6点の問題提起など、関西に芽生えた「共生型経済」の実践的な連携に期待したい。
●天皇の歴史認識と小泉靖国参拝
 テレビで天皇が愛国心と教育基本法のことをアジアの記者から聞かれて1930年から36年の間、内閣総理大臣や要人が次々と襲撃され、政党政治が終わりを告げたことを語っていて、事実認識としてリベラルでアジアの民衆を大変意識していると感じた。愛国と靖国が結びついた時代の反省は、今年の8.15の総理大臣小泉の行動を止めさせることだ。
●ベルリンの壁世代の<漂流>
 映画・廣木隆一監督『柔らかい生活』はさまざまに面白い。女優寺嶋しのぶの「さりげな〜く幸せ」なミーイズムの世界、原作は芥川賞作家絲山秋子の『イッツ・オンリー・トーク』の新しい、リアルな女性像、そして阿部嘉昭が見事に批評したさりげない虚言が重なり合う“「35歳独身」の生の流儀”(図書新聞6.17)の重層性である。脚本・荒井晴彦は68年の全共闘世代の『身も心も』で社会的個人の解体を描いたが、この映画の主人公優子は89年ベルリンの壁世代で、共同なき私的世界の個である。自分の心に素直になる、気分が晴れる暮らし方とは、蒲田という開かれた下町と銭湯の空間、そして躁鬱症の優子にさまざまにからむ異性との行為に挟まった自己演出の物語、つまり虚言が大事な小道具になってバーチャルな世界をつくりだす。「共同する個の自己実現」の反転した世界なのだ。(柏井 宏之)


雑記帖 米倉 克良

 6月26日開催の第17回生活クラブ連合総会には、河野会長の勇退のためか、いつになく懐かしい顔ぶれが目立った。河野さんが、答弁に一度だけ立ったとき、会場から一斉に多くの視線が向けられた。答弁は、確か「生活クラブ」や「協同組合」の「制限性」に、関わるものであった。会長の公の発言としては、最後になり感慨深く感じられた方も多いと思う。その内容とともにである。総会としての、退任の挨拶はまた、シンプルなものであった。
 連合会の農業分野の基本方針は、1)生産者主体の生産構造改革への支援、2)点から面への複合連携の追求、3)循環と自給率向上の観点からする耕畜連携、4)地域の分断ではない協働と仕事の創造、5)「適正な価格」とコストへの挑戦、6)協同組合としての農協(全農)との連携、とある。この政策的争点に、今後の生活クラブの危機と可能性が両方存在すると考えられる。おりしも「2006協同組合の旅」のある参加者は、アメリカを中心としたグローバリゼーションの流れに対応する、日本とヨーロッパの違いがよく分かったという。日本に比べ、ヨーロッパは、まだ「軸を持っている」感じがするそうだ。私たちの政策は、当然こうした、大きな<配置図>と無縁ではありえない。この視点を徹底するとさらに新たな課題が、鮮明となるのではないか。
 おりしも、国会では小泉首相が、最後の「答弁」に立ち「改革の正当性」を誇った。マスコミでは、押しなべて「小泉政権」の功罪が論じられている。もっと一皮もふた皮もめくった議論は必要だが、なぜかBSEや牛肉は語られても、小泉政権のもとでの、農業政策総体について、論じられることは無かった。むしろ、ここにこそマスコミを含めた<危機>が存在するかもしれない。私たちに<制限性>があるからこそ、挑戦が始まる。

市民セクター政策機構 〒156-0044 東京都世田谷区赤堤4-1-6赤堤館3F
e-mail:civil@prics.net tel:03-3325-7861 fax:03-3325-7955

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