月刊『社会運動』 No.325 2007.4.15


目次
ワーカーズ・コレクティブ法研究会 日本の協同組合法制とワーカーズ・コレクティブ法 堀越芳昭‥‥2
シリーズ:社会的経済の実践in日本@ 川崎市民石けんプラント20年の到達点と可能性 鈴木伸予‥‥22
<社会的企業研究会> 社会起業家と事業型NPO 服部篤子‥‥28
現代政治論研究 デモクラシーの今日的問題と大衆社会論 山田竜作‥‥37
ミニフォーラム 電気自動車を共同購入できないか 舘内 端‥‥47
食の焦点N きのこと日本農業 今野 聰‥‥55
<書評>
 鞍馬天狗とは何者か 小川和也‥‥57
 打越綾子・内海麻利編著『川崎市政の研究』 栗原利美‥‥60
雑記帖 米倉克良‥‥64

表紙からのメッセージ 写真家・桑原 史成
 日本がアメリカとの戦争に負けて、この夏に62年を迎える。その敗戦の年、1945年(昭和20年)の3月10日、東京の城東地区が焦土と化す大空襲に見舞われ、一夜にして約10万人もの尊い命が奪われたと伝えられる。
 この時から、ちょうど62年の歳月が過ぎる。その前日にあたる3月9日に合わせて今年の同日に被災者や遺族ら112名が、国に謝罪と損害賠償を求めて集団で訴訟を提訴した。東京地裁に提出された訴状は、A4版で約300頁におよぶ被害状況がつづられている。
 東京大空襲は、昭和20年3月10日の深夜0時過ぎから2時間以上にわたり米軍のB-29爆撃機約330機が飛来して焼夷弾を雨のように降らせた。現在の江東区や墨田区、台東の一帯を中心に焼け野原にされるという壮絶な惨事であった。
 しかし、民間人の被災は国家から補償されることはない。62年が経過したいま、この悲惨な歴史に対して私たちの日本はどのような答えを見出すのであろうか。


<ワーカーズ・コレクティブ法研究会>
日本の協同組合法制とワーカーズ・コレクティブ法
堀越 芳昭
山梨学院大学教授


 はじめに
 きょうは「日本の協同組合法制とワーカーズ・コレクティブ法」と題してお話しさせていただこうと思っております。今、論文を一つ書いております。地域経済の自立のための条件は何か、地域と協同の意味の再発見について、考えております。現在は地域も協同もそのいずれも再建しなければならないわけですが、そのためにも地域というのはどういう意味を持っているのか、協同とは何だろうかということを検討しております。

1.21世紀協同組合運動の歴史的課題
 そのためということもあって最近、「レイドロー報告」をもう一度読み直しております。そこでレイドローの提起している問題をもう一度考え直してみました。「レイドロー報告」での協同組合の成長戦略のポイントは何か。「レイドロー報告」では最終提言として「協同組合の優先課題」のうち、第4の「協同組合地域社会の建設」ということが言われているわけですが、これと理論的検討の箇所で述べている「協同組合セクター」の提起との関係、そこに「レイドロー報告」のポイントが集約されるのではないかと思います。
 「レイドロー報告」の再評価
 国際協同組合運動は基本的には、1980年のこの「レイドロー報告」によってしっかりした姿勢に立つようになったと思います。「レイドロー報告」の後、「マルコス報告」、「ベーク報告」、そして「1995年原則」に至る一連の過程の出発点は、実はこの「レイドロー報告」にあったわけです。「レイドロー報告」の前の1960-70年代は、国際協同組合運動も経営主義に流れていました。1960年代から国際協同組合運動において構造改革路線が展開していった時期があったのですが、70年代には多国籍企業といかに戦うかということで、どのように協同組合の統合化を図るかということに重要な戦略を置いて、協同組合の資本問題についても株式市場の上場もあるという議論までしていたわけなんです。
 それが「レイドロー報告」できちんと批判されたわけです。ですから、「レイドロー報告」はその後の協同組合原則の改定に至る現在の出発点であると同時に、それまでの国際協同組合運動の問題点との決別の書であったと言うべきだと思うのです。ですから「レイドロー報告」は国際協同組合運動上非常に重要な文書だと思います。
 そこで提起された4つの優先分野は今なお重要性を帯びております。(1)世界の飢え、食料問題を解決する農業協同組合の役割。(2)地域の保全社会としての消費組合の役割。(3)新しい産業革命としてのワーカーズ協同組合の役割。(4)協同組合地域社会の建設。そして、この(4)の協同組合地域社会の建設というのは、前の3つの総括というような位置にあると思われます。
 「レイドロー報告」を読み直してみると感銘深いところがたくさんあります。まず冒頭のところで、今はどういう時代かというと、「狂気の時代」だというのです。金銭万能の狂った時代であるということですが、こういう狂気の時代に協同組合こそが「正気の島」になるというわけです。なかなか面白い表現をしているのです。協同組合というのは島として点在しているだけで、まだまだ大陸にはなれないが、少なくとも正気の島であるというわけです。冒頭にそういう表現が出てくるのです。
 「協同組合の二重の目的」というのもありました。経済目的と社会目的というわけですが、レイドローがそういう指摘をしたことに私は大いに啓発されました。我々は、協同組合と言うと経済目的ばかり考えていたのです。所得の向上、販売流通過程の改善、収入をどうやって増大させるかということなど、経済的メリットのことばかり考えていたのですが、レイドローは経済目的ばかりでなく社会目的もあるという問題提起をして、1980年代頃の日本の協同組合関係者に大きな刺激を与えました。それまで高度成長路線で進んできた日本の協同組合にとって反省の材料になったのです。
 協同組合セクター論の今日的意味
 さらに協同組合セクターについて述べられているのですが、この協同組合セクターの重要性を指摘した最初の人はJ・フォーケという人です。この人はフランスの協同組合の指導者で、のちにILOの初代協同組合局長になった人ですが、1935年『協同組合セクター』という著書を著しました。それまでは協同組合が単独で協同組合共和国、あるいは協同組合国家を建設するのだということが言われていまして、協同組合の発展により利潤のない社会をつくることができるという考えが強かったのです。1920年代のシャルル・ジードがそうですし、日本でも那須皓や東畑精一さんたちはそういう理想に燃えていて、ある意味で、そういうことが夢であったわけです。ところが、フォーケはそういう考え方を否定したのです。
 つまり、協同組合は資本主義制度や資本主義国家を克服するというものではなく、実は国家セクターや私企業セクターと並んで存在するものであるという協同組合セクター論を提起したのです。そういう協同組合が一つのセクターとして存在感をきちっと持つように確立されることが目標である。国家や資本主義を克服するものとしての協同組合ではないという考えなんです。この協同組合セクターという考え方は、当時の社会改造、社会改革といったことと結び付けて提起されているのは間違いのないところですが、それを協同組合単独で、あるいは協同組合が他のセクターを駆逐する形で協同組合共和国をつくるということではないという、そういった問題提起だったわけです。
 ところが、その後、この協同組合セクター論というのはあまり重視されることなく、数十年たって「レイドロー報告」でそれが復活したということなんです。レイドロー氏がこのセクター論を復活させたということで、非常に重要な役割を果たしたと思われます。
 それから協同組合原則の改定も提案しています。これまでの協同組合原則は運営原則であったが、そうではなく、もっと協同組合の本質、根本哲学に関わるような原則にしなければならないという提案でありました。
 このほか「素人」と「専門家」の関係、資本問題などにもふれておりまして、現在に通じるような指摘が沢山されています。
 1995年ICA原則の未解決問題
 1995年のICA(国際協同組合同盟)原則が国際協同組合運動の一つの到達点になります。ただ、この原則の積極的な意義を認めながらも、ICA原則には正直言って問題点もいくつかあります。
−続く


シリーズ:社会的経済の実践in日本 @
川崎市民石けんプラント20年の到達点と可能性
鈴木 伸予
かわさき生活クラブ生協 理事長協同組合論研究


 本稿をもって「月刊社会運動」の新しい企画として「シリーズ:社会的経済の実践 in 日本」をスタートします。「社会的経済」とは、グローバリゼーションの波の中にあって、市場経済とも政府経済とも違う「もうひとつの社会と経済」のあり方を非営利協同というスタンスから表現したものです。今や、その政策はEUやカナダなどにおいて、地域再生の最も重要な担い手づくりとして推進されています。その主体は多様な市民が担う協同組合、共済組合、アソシエーション、市民組織、NPO等の非営利的・協同的な事業体です。この「社会的経済」という視点から、あらためて、ワーカーズ・コレクティブなど生活クラブ運動グループをはじめとした数々の実践を捉えなおし、その到達点や課題や展望を共有し、日本における「社会的経済」の広がりにつなげるのが、このシリーズの目的です。そして、この「川崎市民石けんプラント」の20年は、まさに、地域の多様な人々や組織が障がい者など社会的排除に直面する当事者と共に問題解決に向け参加するイタリアの「B型社会協同組合」の、日本における先駆的実践と呼んで過言ではない活動と事業です。(編集部)

●はじめに
 1980年の合成洗剤追放の直接請求運動の後、叶崎市民石けんプラントはおおぜいの川崎市民の参加で1989年に設立されました。この石けんプラントが稼動してからの運動と事業は、決してバラ色の道ではありませんでした。特に90年代後半からは、運動と事業の継続性の確保と工場の移転問題に追われ、停滞を余儀なくされてきました。しかし、時代は石けんプラント設立当時にも増して、経済のグローバリゼーションによる市場主義が蔓延し、不平等の拡大や自然破壊が深刻化し、人間の生活の持続可能性が危機に瀕しています。
 私たちは、自分たちが暮らすこの川崎のまちで、生命をいつくしみ、人と人との関係性を大切にし、人間と自然との共生的関係をつくる生活の論理にもとづく地域社会の実現をしていくことがより求められていると考えています。廃食油再生石けん運動を基点とした人と自然、人と人の共生社会をめざして、川崎市民石けんプラントを株式会社から2005年4月NPO法人化することをすすめ、11月には工場を移転し、新たな運動のスタートを切りました。これと同時に、石けん運動を推進する市民団体として「かわさきかえるプロジェクト」を立ち上げました。
 この春には、「2007年シャボン玉フォーラムin神奈川」を川崎の地で開催し、川崎の石けん運動・環境運動をおおぜいの市民の参加でより広げる契機とします。この節目に、これまでの川崎市民石けんプラントを中心とする川崎の石けん運動の経過ならびに成果をまとめ、今後の展望を描いてみたいと思います。

●石けん運動と石けんプラントの設立
1.74年にスタートした石けん運動
 生活クラブでは、合成洗剤である日生協のコープセフターの取り組みを行っていましたが、1973年から粉石けんの取り組みを並行して行い、洗剤についての組合員学習、議論を進めてきました。1974年には生活クラブオリジナル消費材としての粉石けんを開発し、共同購入を進めてきました。
 その中で、1976年に川崎市に「合成洗剤製造販売を禁止する請願」を運動として提出しました。翌年、コープセフターの取り組みを中止し、石けんキャラバン活動を広げ、1980年に川崎市に「合成洗剤追放対策委員会の設置および運営に関する条例」制定のための直接請求運動を行いました。この運動をきっかけとして、83年には市議会に寺田悦子さんを代理人として送り出しました。
 石けん運動をきっかけに川崎市は「合成洗剤審議会」を設置し、1983年7月議会で洗剤対策推進方針が採択されました。

2.川崎市民石けんプラントの設立
 石けん運動の高まりとともに、1984年に「かわさきせっけん工場をつくる市民の会」を設立し、学習会や集会を開いて市民に石けんをアピールする活動を開始しました。市民の出資による工場をめざし、1口千円の出資金を募る活動と石けんの販路づくりを進め、1987年には川崎市への石けん納入業者になりました。川崎市から有償で貸与される工場建設用地が1988年に決定し、石けん工場建設にむけて市民の会から「きなりの会」を生み出し、建設資金の約35%の約1300万円の出資金を集めました。このとき賛同して出資した市民の数は6000人を超える人たちでした。更に生活クラブからの出資を受けて、1989年11月に叶崎市民石けんプラントを設立。同時にそこで石けんづくりを担うワーカーズ・コレクティブ(W.Co)サボン草が結成され、廃食油再生石けんの製造と販売がスタートしました。

3.市内全小学校で石けん使用実現
 川崎市では、石けんの利用が推進され、市内すべての小学校の学校給食の現場では、石けんが使用されるようになりました。
 川崎市民石けんプラントでは市内の廃食油を回収し、その廃食油からつくられた石けんを「きなりっこ」という名称で販売しています。市内小学校では2006年現在で86校、74%の小学校で「きなりっこ」が使用されています。また、保育園、その他の公共機関でも石けんの使用が推進され、「きなりっこ」の利用が進んでいます。これは大きな運動の成果です。
 また、小学校給食の廃食油を回収し、石けんの原料としています。市内の60%以上の学校と公共施設から石けん工場へと回収が行われており、資源循環型のモデルとなっています。組合員を中心とした一般家庭からも廃食油を回収し、石けんをつくって組合員が利用するというリアリティある資源循環のしくみをつくることができています。
 石けんプラントにおける石けんの製造・販売は、石けん運動の進展と不可分のものでした。1995年のアルタネット(石けん販売グループ)の解散による運動主体の低迷により、1996年をピークに製造・販売量の減少傾向が止まらない状況が続きました。2003年のせっけん製造量は54.6トンまで低下しました。これは設立1年目の製造量とほぼ同じです。また、製造設備の老朽化も深刻な問題となってきていました。叶崎市民石けんプラントの経営状況は、赤字基調が続き、累積赤字は2003年度末で300万円を越え、石けん関連グッズの売上げとW.Coサボン草が運営する障がい者の福祉作業所からの家賃収入等に依存する構造となっていました。
−続く 


<社会的企業研究会>
社会起業家と事業型NPO
服部 篤子
CAC・社会起業家研究ネットワーク



はじめに
 本日はお招きいただきましてありがとうございます。私はNPO、社会起業家の切り口で市民セクターを研究しています。先ほどの皆さんがなさっていた協同組合のお話は、とても共感しています。
 私はCAC・社会起業家研究ネットワークを主宰しています。これは、ゆるやかなネットワークで社会起業家について研究をしたい、そして、社会起業家を普及させたいという仲間たちが集まっています。社会起業のビジネスプランは事業性と社会性のバランスをどのようにとることができるか、誰が何のために社会起業家を支援するのか、などよく議論をしています。特に、社会起業支援について考えるために、研究が盛んなアメリカから専門家を招聘してシンポジウムや専門家会議などを開催しています。例えば、昨年実施した「日米ソーシャル・イノベーション・フォーラム」は、アショカとREDF(後述)という財団を招聘しました。国際交流基金日米センターから助成金を得て、東京アメリカンセンターと共催して実現できたわけです。
 社会起業家の活動が推進されるよう支援が必要ではありますが、何より、社会起業家自身が増えて欲しい、と人材育成プログラムを始めました。社会人を対象としたワークショップです。社会に出ると学生時代と異なり問題意識が高まります。自分の業務の中でこんなことがあったらいいのにとか、会社に新たな提案してみたい、あるいは独立したいという人たちが参加します。基本的に、自己発見、社会の課題発見から始まり、自分で事業アイデアを導き出し、事業プラン作成までを行います。実務家にアドバイスをもらいますが、基本的に、小グループに分かれ、参加者同士がディスカッションすることで各自の事業プランをブラッシュアップしていく方法をとっています。これは、丸の内「ビジネス・イノベーションシリーズ:社会起業ワークショップ」と題して、ビジネスに新しい視点を入れることで社会を変えていこう、という趣旨です。
 このようなことをやりながら、社会起業について一緒に考えませんかということを、様々なセクターの方にお話しさせていただいています。
 それから、今年は6つの大学に行っていますので、やや厳しいスケジュールなんですが、大学では基本的にNPO論を教えています。学生は、企業には親しみがありとても理解しやすい。営利と非営利の枠組みにとらわれないハイブリッドな概念がある、というような話をすると、とても新鮮に思えるそうで、こちらはNPOの宣教師という気持ちになっています。最近は非常に元気な学生が増えてきて、NPOに関心を持ったが就職先はどうなるのかとか、いろいろ痛い質問をしてきます。企業に就職するという手もあるけれども、自分で社会事業をやってみたい、自分で何かNPOを立ち上げてみたい、ということを言ってくれる人もいます。そういう時は嬉しいのですけれども、給料面なども含めNPOの実態をよく話し、マネジメント上抱える課題はどうすれば解決できるか、というレポートを課すようにしています。
 なお、私はNPO学会の理事を仰せつかっていますので、宣伝をさせていただこうと思いましてお手元にニュースレターをお配りしました。

問題意識
 まず私自身の問題意識を代弁してくれる文章を、『新時代の創造 公益の追求者・渋沢栄一』(渋沢研究会編、山川出版社)から引用します。
 渋沢栄一は500社ぐらいの会社に携わったことが一般によく知られていますが、むしろ、福祉、教育の世界で非常に貢献したということに着目したいと思います。
 「慈善と云ふものは、昔日は唯だ人情の発露を直ぐに現すだけであったが世の進むに従って……方法も進化して昔の可憫そうだといふ一念が発露しただけに留まるといふことは、此20世紀の慈善としては決して適当なものではなく、さらに一歩進めたならば、矢張り経済の原理に基づいた……組織的継続的慈善で無いと救済せらるる人に効能があるとはいへぬ」と言っています。
 つまり、渋沢栄一はこの時代、既に、慈善というものが組織的継続的でなければならない、今の言葉で言えば、サスティナブルな活動でなければならない、と言っていたわけです。彼は、エコノミーの世界では強豪が大勢いたけれども、福祉や教育の世界では自分のライバルと思う人はいない、と自負していて、公益活動を非常に熱心に推進していたようです。現代のNPOに置き換えて考えても、単に、いいことをしている、社会を良くしよう、というような自己満足な活動だけでは不十分でしょう。21世紀だからもう一歩進んで、社会にインパクトを与えること、成果を見せることを考えなければならないのではと、渋沢栄一の発言から考えさせられます。

 もう一つの私の問題意識は、こちらも有名なジョージ・ソロスの言葉を引用します。ソロスは、投資家から今はオープン・ソサエティという財団をつくって慈善活動をしていることは、皆さんご承知の通りです。
 「私の個人的な体験からいうと、社会をよくするための事業は金儲けより難しい。金儲けの場合には、成功を判定する単純なモノサシがある。決算書の最後の一行だ。会計帳簿の様々な項目はすべて利益というただ一つの目標のためにある。しかし、公共利益のための事業では、状況は全く違ってくる。そうした事業が社会に及ぼす影響はすこぶる多様な形で現われ、簡単には合計できないのである。」(『グローバル・オープン・ソサエティ』榊原英資監訳、ダイヤモンド社)
 皆さんも、ダブルボトムラインとか、トリプルボトムラインという言葉を聞いたことがおありかと思いますが、数値だけでなく、社会的あるいは環境に与える影響なども考慮して、決算書の最後の行、つまり企業の価値を判断すべきである。企業を財務面だけで評価せずに、新たな基準を設ける、という動きが出ているかと思います。
 しかし、それではどうやって評価するのか。どのような指標があるのか。ソーシャルインパクトを測る、という研究プロジェクトが海外では始まっています。私はとても興味を持っています。「社会」というものをつけて社会起業家、社会企業という言葉を用いているわけですが、「社会性」をどうとらえるのか。客観的に、定量的に評価することができるのか。自分たちの活動によって生じる社会的価値をどのように知らせることができるのか。
 そこで、冒頭に申し上げた通り2005年、「日米ソーシャル・イノベーション・フォーラム」を「社会変革を促す本当に必要な投資とは何か」、「社会的投資効果をどう測定すればいいのか」にフォーカスをおいて議論しました。これらが私の問題意識です。

社会起業家の台頭
 社会起業家という言葉は、1990年代ぐらいから盛んに使われてきましたけれども、現場をみれば、社会起業家の人たちは既に活躍していました。言葉は後から付いてきました。英米の社会起業家の支援団体は、この言葉を使うことによって、今まで地道に頑張ってきた人たちが脚光を浴びることができるだろう、そういう人たちを増やしていくことができる、と新しい言葉の持つ威力について言います。
 皆さんはヨーロッパのソーシャル・エンタープライズに通じていらっしゃるので、本日は、特にアメリカの資料を使いながら、社会起業家台頭の背景についてお話ししようと思います。
 まず、NPOの課題として、人材と資金調達といったマネジメント上抱える問題が非常に大きい。ミッションが崇高であったとしても、継続するのは難しいですね。ですから、NPO法人の数が益々増えてきても、大きなNPOと小さなNPOに規模は両極化していくことが推測されます。NPOが育たないのは、資金調達が不得手だからでしょうか。ビジネスの世界も、当然、資金調達に苦慮しているわけです。NPOの収入源は、様々ですが、寄付はあまり期待できない。あるいは、寄付を得る努力が全く足りない。企業からの寄付と個人の寄付の比率が日本と逆転するアメリカにおいても、資金調達に苦労している。フィランソロピー教育を子どもの段階から行い、寄付文化を促進しようとしているようです。対して、日本の場合は、むしろ、最初から行政の補助金を期待している団体は少なくない。市民の活動、市民の問題を自ら取り組むと勢いよく立ち上げているわけですが、マネジメントをみると、広報をはじめビジネスの世界では当たり前に実施していることさえも行っていない。
−続く 


<現代政治論研究
デモクラシーの今日的問題と大衆社会論
シティズンシップと「異質な他者との共存」をめぐって
山田 竜作
日本大学助教授



 憲法改正論議や、教育基本法などを含めて、現在を戦後的枠組みの変容期にあるととらえる意見は少なからず存在する。また、こうした変容とともに、あらゆる種類の「格差の拡大」が深刻なものとなる事態の下で、再び「民主主義の機能」が問われていると考える。いわゆる「民主主義の空洞化」の問題提起として過去最も議論されたものとして「大衆社会論争」がある。今「論壇」がこの視点を取り上げない中で、山田竜作氏の問題提起は貴重且つ新鮮なものであると考える。(編集部)


バブル時代とデモクラシー
 こんにちは、山田でございます。宜しくお願いいたします。
 学生時代からの私の問題意識の中に、「政治教育」が何らかの形で必要だということがありました。しかし、私が学部生だった1980年代後半は、「政治教育など、ほとんど議論する価値のないものだ」という雰囲気だったと記憶します。
 バブル経済前夜の時代は、「もはや大衆社会の時代ではない」とされていたのではないでしょうか。中野収氏や山崎正和氏のように、「日本はもはや画一的な大衆社会ではない。みんな個性を謳歌しているじゃないか。豊かで安定していて、昔の軍国主義や全体主義に戻ることはない」というような、非常に楽観的な議論がありました。ところが他方では、「日本は相変わらず、低俗な大衆社会だ」という西部邁氏による大衆批判もあった。1983〜84年に、一種の大衆論がワッと出たのですが、しかし、松下圭一氏を中心とした1950年代の「大衆社会論争」のような論争にはならず、各自が言いたいことを言って終わったという観があります。
 そういう1980年代という時代に、私は中学・高校・大学と過ごしたわけですが、当然、右とか左とかは全く関係ない(そもそもそんなことに無知な)人間として中〜高校生時代を過ごしました。しかし、大学2年生になってから、私は大衆社会の問題にリアリティを感じてしまいました。私が最初に関心を持ったのが、エーリッヒ・フロムやデヴィッド・リースマンらの議論でしたが、彼らの指摘は80年代日本にそのまま当てはまると思えてならなかったのです。日本人は、マスコミの流す情報や流行に弱いのではないか。二言目には「人それぞれだ」と言うが、しかし本当に人は自分の価値観で判断しているのか――等々というのが、私の初発の関心でした。流行にしても、商業主義にしても、人々は宣伝(今「プロパガンダ」という言葉が使われるかどうかわかりませんが)に乗せられているだけではないかという、マス・コミュニケーション論の極めて古典的な問題関心を、「高度情報化社会」などと言われた80年代になってから、私は持ってしまったのです。
 しかしながら、大学に入ってから、政治学やデモクラシー論をやろうなどという人間は「奇特だ」と言われ続けました。特に、私が在籍した国際関係学部という学部では、「世界の経済大国ニッポン」という時代を反映してか、カリキュラムも、また学生の関心も、証券市場とか金融とか、経済学と言うよりビジネス系(マネーゲーム?)に集中しており、政治学や社会思想をやろうなどという人間は、乱暴に言えば「変人」扱いされました。時流を追いかけるのが国際関係の勉強だ、というのが支配的な雰囲気だったのでしょう。「自由」「平等」「デモクラシー」など、もう分かりきったこと、実現済みのことだと言わんばかりに…。
 また、論壇を見ても、私が大学院に進学してテーマに選んだ英国期カール・マンハイムなど、当時はほとんど見向きもされず、おびただしく言及されていたのはユルゲン・ハーバーマスでした。もちろん、ハーバーマスは現代市民社会論における重要な理論家ですけれども、彼が大衆社会論とどういうつながりを持っているかについては、誰も突っ込んで言及していないと思います。しかし他方で、マンハイムをはじめとした大衆社会論の延長線上にある議論が全く消滅していたかと言えば、例えば故・秋元律郎氏などは1980年代初頭までそうした議論をなさっていました。私は日本の大学院で、英国亡命後のマンハイム研究を行いましたが、秋元氏に何かとお世話になりつつ、相当マンハイムの思考法の影響を受けました。その後、松下圭一氏の大衆社会論を読み込むようになって行きました。

デモクラシー論の沈滞と活況のはざまで
 1980〜90年代という時代を見る前に、私がいつも思い出すのは、故・阿部斉氏が、1973年の段階で『デモクラシーの論理』(中公新書)という本で、「敗戦直後や60年安保の時には、日本人にとってデモクラシーという言葉は新鮮な響きを持っていたが、73年の時点ではデモクラシーという言葉はすでに陳腐なものになっている」という趣旨のことを述べていた事実です。73年にしてすでにこうだったのかというのを、私は大学に入ってから知りました――当時は、自由主義と民主主義が別物だということも理解していませんでしたが。
 1973年というと私は小学1年生でしたが、小学校でも中学校でも学級会などで「民主的に決めましょう」「みんなで話し合って決めましょう」等々と言われました。おそらく今でも、「多数決が民主主義だ」とか「みんなで決めることが民主主義だ」とか、ひどい場合には「憲法で『国民主権』と書いてあるから民主主義だ」といった認識が、10代の頭に易々と刷り込まれてしまう。その認識を高校卒業まで疑ったことのない人々が大学に入ってきて、不幸にも(苦笑)私の授業を受けて、デモクラシーの基本的な話を聞くと、「何のことかわからない」という顔をする。――そういうことを延々と再生産している気がします。これが、教育の場でいかに犯罪的なことであるか、という意識を私はここ10年余りずっと持っています。
 1980年代以降の現代を考える場合に、既に1970年代にデモクラシーが陳腐になっていたとなると、「一体70年代というのは何だったんだろう?」という疑問もあります。ともあれ、1980年代までには、政治に関心を持っている学生などというのは、ごく一部の「変わった」「アブナイ」連中と見なされがちで、大学の学生自治会なんかにはみんな寄り付かない、そうした時代になっていたと思います。そもそも私の大学には、自治会それ自体が存在しませんでした。
 ところが1990年代には、逆にデモクラシー論が活況を呈したわけです、そこには「1989年問題」があるでしょう。言うまでもなく、ベルリンの壁そして冷戦崩壊。あの時に東欧などで多くの市民運動が起きている。それをきっかけに、おびただしいデモクラシー論・市民社会論が世界的になされました。さて私は、90年代の前半に2度英国に留学しましたが、少なくとも1度目の留学をする前後の日本におけるデモクラシー論は、ひどく沈滞していました。「デモクラシーとは要するに、エリート選出の手続きの問題であって、もはや議論は出尽くしている。政治的無関心や政治教育など、今さら論じるべき価値はない」と周囲から言われ続けた記憶があります。大衆社会の問題にこだわっていた私は、「本当にそうなのか?」と思い続けていました。
 やがて、私が2度目の留学をして気づかされたのは、欧米ではデモクラシーが「シティズンシップ」という形で論じられていることです。それは、日本にいた時には正直ほとんど想像もつきませんでした。公共性であるとか、差異の政治とか、フェニミズムが提起した公/私の区別に対する批判の問題であるとか、そうした論点を私が本格的に掘り下げ始めたのも、シェフィールド留学の前後です。私が、北米のいわゆる「リベラル/コミュニタリアン論争」をフェミニズムの観点から批判するという論文を書いたのは、シェフィールド時代の1995年でしたが、私が日本を出る前は、政治学者がフェミニズムについて言及するということは極めて稀だったはずです。
 ところが、ちょうど私が日本に帰国する寸前に、千葉眞氏が『ラディカル・デモクラシーの地平』(新評論、1995年)の中で、私がシェフィールドで出会った多くの諸論点を一気に提示なさるわけです。こう言ってはなんですが、せっかく私がシェフィールドでそういった諸問題に出遭って、「これらは、従来の日本にはなかった大事な議論だ。じゃあやろう」と思った矢先に、先を越されてパッと出されたものですから(苦笑)、知的興奮と同時に大ショックを受けました。そして私の帰国後、1990年代後半には、ラディカル・デモクラシーの議論が日本でもかまびすしくなりました。
 もっとも、そのことの大きなきっかけになったのは、私の留学中に起きた1995年1月の阪神・淡路大震災だと思います。日本における市民社会論、NGO/NPO論の独自の展開に、この大震災は大きな影響を与えたと考えられます。しかしながら、ある種の流行のようにNGO/NPO論が広がった観がありますが、その議論の少なくないものは大衆社会論を視野に入れていない。人々が公的な問題に関心を持って自発的にグループを作って参加していく「アソシエーション」を、手放しで素晴らしいものだとするかのような論調も中にはあるわけです。「それは本当なのか?」という議論が、当然出されなければいけないと思うのですが、ラディカル・デモクラシー論にしても、市民社会論にしても、あるいは今時の社会運動論にしても、かつての大衆社会論を十分に踏まえないまま今風の議論になっているものに対しては、私は、一方ではコミットしたいのに、他方ではどうしても距離を置いてしまうところがあります。

バブル崩壊後の大衆社会状況
 バブル経済崩壊以降の今日の日本社会を考える場合、私が今、非常にリアリティをもって改めて読み直したのは、故・藤田省三氏の「『安楽』への全体主義」です。この論文が書かれたのは1985年。また、『全体主義の時代経験』(みすず書房、1995年)の中に収録されているインタビュー「現代日本の精神」が雑誌『世界』に載ったのが90年2月号でしたが、私は修士課程時代にそれを読んで感銘を受けました。これらの論稿をつい最近読み直して、日本は相変わらずこの藤田氏の指摘のままではないかと思いました。
 バブル崩壊によって、国中がこぞってマネーゲームに狂奔した1980年代後半の社会のあり方や生き方を、日本人が深く反省したかと言えば、実はそうではなく、相変わらずバブル的な発想をしているのではないか。景気がよくなったら、またバブル的なことをやろうとしているんじゃないか(例えばホリエモン)。だとすれば、「失われた10年」とか何とか言われながら、日本は結局バブル崩壊から何も学ばなかったのか、という気にもなります。
 むしろ今こそ、大衆社会論のアクチュアリティを見直すべきではないか。確かにかつての大衆社会論は、今ほど豊かではない時代の、かなり不安定な社会を俎上に乗せたものでした。そして、1960〜70年代を経て大衆社会論が下火になっていく一つの理由は、「もはやファシズムが生まれるような不安定な社会ではない。(先進国の)デモクラシーは安定している。だから大衆社会論は古い」という論調になったことだと思います。しかし、私の目から見ると、社会が豊かで安定しているか否かというのは相対的な話で、ある意味で二義的な問題です。
 人々が私的な関心しか持たない(公共性の衰退)。あるいはどの集団にも帰属意識を持たない(アイデンティティ・クライシス)。それゆえにこそ画一化される。人々の価値観が多様化したというのは表面的な話であって、より儲けたいとか、今の豊かさを失いたくないとかという点では意識の画一化が進んでいる。そういう、藤田氏や日高六郎氏が指摘したことの方が、むしろ今リアリティを持っていると私は思います。
 携帯電話がこれだけ普及して、いろいろなメーカーがいろいろな機種を出している。それが多様性だとか言われてしまうけれど、私からすれば、みんなが携帯電話を持つという点では画一化しているだろうということになる。「インターネットでみんなが発信できる時代だから、情報操作はあり得ない。一方的にマスコミが大衆操作をする時代ではない。だから大衆社会ではない」という議論もあるのでしょうが、それも怪しい話です。インターネットの検索エンジンでも、結局、圧倒的に巨大メディア組織によって流される情報しか得られないこともあるのであって、自分が本当に欲しい情報を検索すると「このキーワードはヒットしません」と出てきたりする。立派に大衆操作は可能ではないのか。
 また、今「ポピュリズム」という名で語られる問題は、「大衆社会」という言葉を使わないけれども、古典的な大衆論・大衆社会論と接点があるのではないか。かつての社会と今の社会が違うということを理由に、「大衆社会論は、20世紀前半までの社会理論の一つの傾向性だったに過ぎない。もはや過去のものだ。以上、終わり」で終わらせていいのかという問題意識を、私はますますつのらせています。今の安倍政権をどう見るかといった時局的な問題について、私には論じる能力はありません。ただ、2001年の国政選挙で「小泉旋風」が吹き荒れた。私にとっては、あれは見事に大衆社会的な現象だろうと思います。
 松下氏が、大衆社会のネガティブな面としてマス・デモクラシーを指摘しました。それは、すでに解決済みなのではなく、そのまま今の21世紀の「現代政治の条件」でもある。それと同時に、松下氏は「大衆社会状況だからこそ市民運動が可能になる」と論じていました。ですから、あの『現代政治の条件』という1959年の本(中央公論社)のタイトルに込められた意味は、現在でも生きていると私は思っています。
−続く 


市民セクター政策機構ミニフォーラム
電気自動車を共同購入できないか
舘内 端
日本EVクラブ代表



 トヨタ社製の「プリウス」のヒットによってハイブリッド車は、今、注目を集めています。またブラジル、米国の肩入れによるバイオエタノール燃料利用も拡大し、穀物需給が逼迫しています。しかし、もっとも現実的で効果も大きい電気自動車(EV:Electric Vehicle)については、不思議なくらい取り沙汰されていません。永らくEVの伝道に努めて来られた舘内端さんの「目から鱗」の講演録をお送り致します。本公演は、当機構会員の桂協介氏の呼びかけで、昨年7月に開催されました。多彩かつ興味深いお話でしたが、誌面の都合で割愛させて頂いた部分が多く、且つ又掲載が大幅に遅れてしまったことも併せてお詫び致します。
 はじめまして、舘内です。もともと職業は自動車評論家です。デカイ車がいいとか、高級車がいいとかいうことも言ったりした懺悔もあって、EVクラブという市民団体をやっています。これは94年に私と自動車関係のジャーナリストが一緒になって設立した団体で、現在会員が400人、法人会員が25社くらいです。事務局は私と、事務、技術の3人でこなしています。私にとって、ほとんどボランティアの活動です
 最近では、中学生を対象に「中学生EV教室」、「ハイブリッド教室」というのを開催しています。これは月に1回、土曜日を使って、2005年は7回、2006年は6月10日から12月26日まで全8回、小型のハイブリッド車を中学生に作らせて、ナンバーとって走らせようという講座です。同時にCO2削減がEVクラブの主眼ですので、いろんな形でとりくんでいます。ひとつはアイドリング・ストップ運動で、世田谷区と共同し、経済産業省・環境省・警察庁の後援で停車中のエンジン停止を拡げる活動をやっています。それから年1回、日本EVフェスティバルという低公害車の祭典を筑波サーキットでやっています。EV中心に百数十台が出場します。
ガソリン車をEVに改造する
 もともと私はレーシングカーの設計をやっていました。ですから電気自動車を作っちゃおうというのがEVクラブの主流になっています。コンバートと言いまして、既製のガソリン車のエンジンをモーターとバッテリーに積み替えて、個人でEVを製作してナンバーを取得する。もう5万qくらい走っている京都の工業高校の先生がいらしたりして、既に200台ちかくが改造され、150台くらいはナンバーを取得しています。平均の航続距離は50キロくらいですが、通勤、買い物その他にはほぼ間に合ってしまい、使用率が高い。自分で作りますからお金が掛からない。その京都の先生は中古の自動車や廃材あつめて、一台35万円くらいで製作してます。
充電はコンセントの出し合いで
 EVには充電が付きものです。充電のインフラがないからEVは普及しないんだという意見がありますが、EVを実際に使ってみた感触ではそうは思えない。そこで2001年に「日本1周充電の旅1万2千q」というのをやりました。「お宅のコンセント貸してください」というコンセプトで、なるべく個人のお宅、ときには事業所など、621箇所に寄って電気を貰う、それは充電よりも、ほとんどが井戸端会議が目的です。充電すればするだけ多くの人たちと自動車問題について話せるじゃないか、という企画を半年かけてやりました。ドライバーは筑波大の大学院生とフリーのエンジニア。ふたりの授業料と生活費はEVクラブで持って、全国を走りました。使ったEVはメルセデスのAクラスという車にモーターと鉛電池を載せたもので、一回の充電で80qくらい走れます。メディアにもとりあげられました。
 その結果は、どうもこれは特別の充電インフラなんかいらない。共同でコンセントを出し合えばEVはほぼ走れる、ということがわかりました。これはEVを開発しているメーカーや、経産省、環境省に対して大きなインパクトをあたえて、充電インフラの再考が起きました。
みんなでEVを特注=国民EV
 これは桂さんの提案とも重なる話しですが、国民EV構想というのがあります。10年近く実際に作って生活で使ってみた中から浮かんできたEVの条件が、軽自動車から大きくてもトヨタのビッツ、ホンダのフィットクラスの車で4人乗り、価格はバッテリーを別にして100万円。5年ローンなら月額1万6千666円で買える、という構想を立てたところ、けっこう会員の同意がありました。そこで自動車会社各社の担当者に集まっていただいて、「国民車構想を考える」という会をやったところ、電池別なら、だいたい100万円でOKだというのが各社の感触です。ただそれには、できれば年間2万台、少なくて2千台、ずいぶん幅がありますが、それくらいの需要という条件が付きました。
 その場合、車体は、既にある車種を改造する。それからエンジンと燃料タンク、排気管を降ろしてモーター、インバーターと交換します。エンジンよりもモーターの方が安いですから、ガソリンエンジン車として100万円なら、EVならば間違っても100万円を切る、各メーカーともいいアイディアですね、とおっしゃいます。
 そんなことを言っているうちに、桂さんがだんだんこの話しに傾注して、今日の集まりになったんだと思います。
 EVクラブは市民団体ですから、会員が個人でやる改造くらいで、EVクラブが開発したりということはまずない。そのかわりメーカーにEVをつくらせるという運動はしたいということです。購入活動はEVクラブが率先して動く。例えば50台くらい揃えて北海道から九州までキャラバンをやる。主要な都市で大試乗会をひらいて、どんどん乗ってもらい、各県に1台ずつ置いて行く。それはディーラーでもいいし、個人商店でもガレージ系の人でもいい。積極的に売りたいという人に1台あずける。キャラバンのあと、その車を中心に試乗会が継続する。そういう促進はしてみたいなと思っています。
EVは重い?遅い?高い?
 EVはそんなに簡単に普及しないという問題点は二つ。
 一つは価格が高い。例えば日産のハイパー・ミニは450万円もします。ひと月のレンタリース代が6万円。
 もうひとつは、EVは重くて遅くて走らない、という従来のイメージがまだまだ残っています。それをどう払拭するか。
 このふたつが普及しない理由だと思います。
 ひとつのヒントは、補助動力つきの電気自転車です。これも最初は売れなかった。どう使って良いか。電池が切れたらどうするのとか、止まっちゃうんじゃないかとか、なかなか普及しなかった。それでメーカーは販売するにあたって、北海道から九州まで各販売店をめぐって、お客様の実生活に則した電気使用量を測定した。Aさんは、山の上の自宅から山の下のスーパーまで買物に行きたい、はたして電気もつの、という相談をうけて、実際に走らせる。「これだと3回は大丈夫です」。Bさんの場合は遠いから2回往復したら充電してくれとか、対面で説明をすることを2年間やったらしいのです。それで急速に販売が伸びたということでした。
 知らないものを扱うというのは大変に不安があるものです。まして安全もかかわりますし、もし何かあったときには、車は移動が大変困難ですから、家電品とは比べものにならないくらい不安がある。その不安をどう払拭していくかということが三つ目です。それがキャラバンにむすびつくわけです。乗っていただいて一緒に充電して、というのが2001年の日本1周充電の旅だったわけです。 
2万台で特注車が作れる
 その前に「2万台クラブ」というのを本に書いたことがあります。実は自動車というのは2万台くらいまとめるとメーカーに特注して作って貰えそうなんです。これは、改造ではなくてゼロから設計して作るという話です。メーカーと話しをすると、少量生産がうまくなったので、大体2万台だ、と言ってました。10年くらい前ですが、ユーザー2万人集めたら作ってくれるかと聞いたら、「つくる」と言ってました。多分いまは1万台以下になっていると思います。
 会員制にして一人200万円集める。2万人で400億円になります。メーカーにそれを渡して、一緒につくる。5年間くらいかけて。セダンがいいとか、いやミニバンがいいとか、何色がいいとか、いろいろ会員が言える。デザインスケッチがあがったら、会員がパソコンで見られるようにする。デザインが決まったら、後楽園ドームかなんかで皆でクレイモデルを見る。メーカーのエンジニアとも懇談し、希望も言いながら、自分たちのオリジナルの車をつくる。
 メーカーのメリットは、まず宣伝費ゼロ。商品広報・カタログをつくる必要がない。それから自動車評論家あつめての試乗会・発表会をする必要もない。こういった経費がバカにならない。この考えをある人に言ったら、「舘内さんそれは200万円払って300万円の価値の車になる」と言っていました。この2万台クラブというのがベースにあって、それをEVにひきつけていったのが国民EV構想です。
電池は軽く、長寿命、安価へ
 残った話しは電池です。電池はまだ高くて、なかなか手がでないのですが、電池メーカーに言わせると、リチウムイオン電池は大変寿命が永いそうです。それもあって、ゆくゆく量産がはじまるとリチウムイオン電池の経済構造が変わって、今の鉛電池くらいの値段になると言うことです。
 一方、充電代はどうなのかというと、これが滅法安いんです。平均的な家庭の昼間にきている電気を使うと走行1qあたりの電気代は約1.5円くらい。深夜電気はもっと安いですし、一般家庭用に比べると業務用の工場とか商店用電力は3分の1から半分です。工夫すれば1qあたり0.2円から0.3円くらいになる。そのうち電気に燃料税とか付くと高くなりますが、将来的には1.3円とか、そんなものでしょうか。
 軽自動車の燃費、カタログ値は[10-15]モードでガソリン1リッターで17.5qとかですが、例えば私が一昨年2カ月くらい都内の事務所と自宅のあいだで使った場合だと、リッター12qくらいでした。軽自動車はエンジンをどんどんふかしたりして乗ると、場合によってはビッツとかのクラスの方が、燃費が良いです。
 この経済性に気付いたら、皆さんいきなりEVに動いちゃうと思うんですよ。
車輌だって高くない
 車両そのものも安くつくれます。エンジンとモーターの値段は比較になりません。例えばエンジンを買うと50万円とかします。モーターだと1万円もしない。さらにエンジンだけじゃ動きません。マフラーとか周辺機器がいっぱい要ります。また維持費でもメリットがある。
 最近は自動車の販売台数の3分の1くらいは軽自動車です。地方の一世帯あたりの車の普及率がものすごく高くなっている。いまは地方にいくと、だいたい一世帯毎に成人と同じ数だけ車がある。車がないと動けない社会になっています。公共交通機関は減っている。もちろん便利さというのもあって、どんどん自動車が増えています。ですから維持費だけでも大変です。でも一台の走行距離は、1日で15qがいいとこです。一日15qとするとEVの航続距離というのは十分に間に合う。
自動車と環境・エネルギー問題
 CO2は増えています。日本の場合1990年〜2001年の11年間で自家用乗用車の出しているCO2が1.5倍になっています。京都議定書が規定するCO2の排出規制は、2010年までに90年比マイナス6%ですが、自動車のCO2に関しては、逆にたぶん2倍くらいになってしまう。運輸部門のCO2削減で政府は大変に苦慮しています。一方で石油の消費量も増えています。いろんな表現がありますが、例えばアメリカの自動車が使う石油は、(かつての)イラクの生産している石油の6倍。だからイラクが欲しい。イラクだけでは足りないっていうんで、今イランに手を出している。さらに足りないからアゼルバイジャンとか、トルクメニスタンとか、不安定なカスピ海沿岸に、いまアメリカは軍隊を出しているし、経済援助もしています。カスピ海は海につながっていないので、パイプラインが要る。一番ちかいのはイラン経由ですけど、イランとアメリカは犬猿の仲ですから、そこでアフガニスタン経由です。アフガニスタンからソ連を追い出すためにオサマ・ビンラディンと仲良くして、彼らにカネと武器をわたしてソ連を追い出したところまでは成功したんですけど、サウジアラビアにアメリカ軍が駐留したとたんにビンラディンと今度は犬猿の仲になった。石油絡みでもめている地図が、いずれもアメリカを中心にして描けます。
 そして中国の経済発展です。中国は2020年で車の保有台数が1億2千万台といっています。日本はいま7千万台です。アメリカが2億台。となればそれだけ石油がほしい。
 では石油はあるのか。可採年数というのがあります。今のペースであと何年採掘できるかと言う期間ですが、例えばロシアで20年です。アメリカ11年。中国は15年もない。ヨーロッパがあてにした北海の石油は8年。メキシコも13年です。チャベスのヴェネズエラもそんなもの。けっこう悲観的な状況で、すぐにはなくならないものの石油価格が上がることは確かです。
 それから石油に頼っているかぎり、世界の不安定構造のなかで、何かやらなきゃならない。この間のイラク派兵ではないですけど、自衛隊を出す、出さないという話しも出てくる構造にはなって行くと思うんです。
 なおかつ原油はバンバンあがる。いま1バレル75ドルくらいですけど、いずれ100ドルはたぶん行く。そうするとガソリン代がリッター300円という声が聞こえてくる。CO2で言っても、経済で言っても政治的な不安定性で言っても、脱石油をしていかないとやって行けない。
 ちなみに、ガソリン1リッター燃やすとCO2が2.3から2.4kg出ます。車をよく使ってますという人は、月に千キロくらい走ります。燃費がリッター当たり6qとするとCO2は一年で4.8トンになります。その車が日本だけでも7千万台近くある、という大変な事態となっているのが地球と自動車の関係です。
 カー・メーカーは環境・エネルギー対応をしないと生き残れない、という意識がようやく芽ばえた。ただそうは言っても、なかなか動かないんですが、余裕のあるところは対策を始めました。
 トヨタが燃料電池を販売できる所までにしていった。言い出したのはメルセデスでしたが、トヨタとホンダが抜いて、メルセデスはもう燃料電池はやめたとか言ってます。
 やはり実利的にはトヨタがハイブリッドを完成させて、去年で20万台くらい売りました。2010年には年間100万台を目標にして、全車種・モデルにハイブリッドをつくると言っています。この実績があるもので欧州、米国もハイブリッドをやらざるをえなくなってきています。これはマーケットの感受性、つまりユーザーの意識を変えるではないかと思います。環境にやさしい、それからフトコロにもやさしい。ハイブリッドはだいたい燃費が2倍です。つまりガソリン代は2分の1。ただしまだハイブリッドは50万円くらい高く付きます。トヨタとしては近い将来には価格差を20万円台に、ホンダも同様。さらにトヨタは、ゆくゆくは価格差8万円くらいを目標にしたいと言っています。
 それにしても環境対応、エネルギー対応をしてない自動車メーカーは、今後の経営が相当難しくなります。それは2010年くらいになると更に明らかになってくると思います。
燃料電池、ハイブリッドカーの可能性
 じつは90年代には燃料電池が非常に期待されたんです。しかし、燃料電池はまず価格が高い。そして水素インフラがどうにもこうにもできない。それと水素をつくる原材料は、天然ガスが期待されていますが、天然ガスもこれから取り合いです。石油代替と言えるのかどうか。
 ではハイブリッドだと思って、やろうとしたところが、これがまた開発にカネがかかる。むずかしい。国内でハイブリッド車売ってるのはまだ二メーカーだけなんですよ。小さいカー・メーカーだと、とてもやってられない。ハイブリッドはやってはみたものの、売るまでにいたっていない。燃料電池はダメ、さあどうしよう。
 手はふたつ、ひとつはトヨタの傘下になっちゃう。もうひとつは、やっぱりEV。EVは市民が作れるくらいですから、すごいシンプル。難しいのは電池技術くらいです。
 実はハイブリッド車の開発を通じて、電池技術が急速に進んだんです。トヨタは松下電器と共同で会社をつくって、パナソニックEVエナジーという会社をつくって、ここでニッケル水素電池を開発した。これがいまトヨタのハイブリッド車に載っている。
 これはもしかすると世界の各カー・メーカーがハイブリッドに手を出すんじゃないか。それでいろんな電池メーカーが急速に次世代電池の開発に走ったんです。NECとスバルでNEC・ラミリオン・エナジーという会社をつくりました。ここは大変すばらしいリチウムイオン電池を作った。三洋電機も大変いい電池を現在開発中で、四国に実験量産ラインをもう作っているそうです。三洋電機はホンダやフォードとくっついてます。当然ながらヨーロッパのメーカーも三洋には手を出していると思います。
 電池は鉛、ニッケル水素、リチウムイオンと変わってきている。いまはトヨタの車はニッケル水素です。ニッケルだと材料は高い、大きくて重い。性能ももうひと息。ところがこれがリチウムになると、小さくて軽くて、材料費がガクンと安い上に性能がいい。
 トヨタと松下のパナソニックEVエナジーも現在リチウムイオン電池を大急ぎで開発しています。プリウスが08年に三代目になるんですけど、そのときはまちがいなくリチウムイオン電池になるだろうと言われています。NECのリチウムイオン電池はとうとう量産にほとんど問題なく移行できるところまできています。
各メーカーがEVを開発
 スバルは新型軽自動車の「R1」にNECのリチウムイオン電池を積んで「R1e」というEVを作った。とりあえず06年6月に10台が納車されました。残り30台は06年度中に納車予定です。R1eは1回の充電で80q走ります。15分で80%の充電ができる急速充電器も東京電力がいま開発しています。東京電力は、スバルからばかりではありませんが6年間で3千台のEVを購入する計画があります。
 最初に手をあげたのがスバルなんです。07年度には500台という話しが出ています。東京電力の試算ですが、3千台の業務車両を新型EVに転換すると年間で2,800トンのCO2削減、1.9億円の燃料代削減になる。東京電力の試算は軽自動車比較です。軽自動車の燃費を17.5qという数字で比べています。これは私の計算なんですが、普通乗用車が年1万2千q走行、リッター6qで計算すると年間の燃料代は27万円。q当たり22.5円となります。対してR1eはq1円。だから年間の燃料代が1万2千キロ走って1万2千円です。EVの採用はほかの電力会社にいま波及しつつありますが、相当の需要が出てきそうな状況です。
 三菱自動車に「アイ」という軽自動車があります。これをEVに改造して近々売り出したいということで、開発を進めています。私の感じでは2010年には発売になると思います。どこかの電力会社との提携もあるとは思いますが、どちらかというと三菱は一般に売りたいと言っています。
プラグイン・ハイブリッド
 プラグイン・ハイブリッドというのが出てきていて、業界を震撼させています。ハイブリッドカーというのは家庭のコンセントで充電はせずに自分のエンジンで充電します。プラグインというのは家庭のコンセントでも充電してしまうハイブリッドカーです。
 米国のベンチャー企業がプリウスを改造して、プラグイン・ハイブリッド・プリウスというのを作った。計算の詳細が不明ですが、走らせてみたらリッター100qとか言っています。
 これはいけそうだとトヨタがプラグインを作って実験したら、プリウスにくらべてCO2排出量は60%、燃費は4分の1という数値が出てきたらしいです。これは何のことはない、プリウスとEVを較べているだけなんです。普通車との比較にすると、排出CO2は30%、燃料代は8分の1となります。ということでEV否定派だったトヨタが変わって来ている。
 プラグイン・ハイブリッドで何が起きるかです。よく車を使うと言われる米国でも、一般的な走行距離は1日30qくらいだそうです。日本では10〜15qくらい。例えばプラグイン・ハイブリッドに40〜50q走れるくらいの電池を積んだ場合、行って帰って1回もエンジン掛けないことになります。1年間走ってみて、あれっ一回もエンジンを使わなかった、ということもあり得ます。だったら重いエンジンは降ろしちゃおう、これはピュアEVです。つまりプラグインが、EVの導入口になるのではないかな、と私は思っています。
 ただ、プラグイン・ハイブリッドの問題は、さらに電池を積みますから、さらに高価格になる。同時に、だったら最初からEVの方が良いではないか、ということに多くのユーザーが気づくことになってしまいますから、メーカーとしては痛し痒しのところもありで、プラグイン・ハイブリッド・プリウスの市販化という可能性は低いのですが、それでも今後、国内メーカーからもプラグインがたぶん出てくると思います。
 これ以外にも色々ありますが、総合すると、どうも自動車は電気で動く方向に行かざるをえない。ハイブリッドはハイブリッドで存在するでしょうけども、実際の生活に則したことから考えていくと、EVの方がずっと安い。EVになだれこむ可能性がある。
 打破できれば、大変にメリットが大きいし、地球環境、政治的な不安定さも、少しばかりいい方向に向かう、ということでわれわれ市民も、EVに注力した方がいいんではないか、というのが私の大雑把な話しです。
質疑
 質問:いますぐにでもEVが普及すればと思うんですが、そのときは電力需要がだいぶ増えそうです。風力発電で増える分には賛成ですが、東京電力さんにお願いすると、「原発作ります」となってしまうのではないかと心配です?
 舘内:専門家が台数と走る距離を掛けて、消費電力を計算した結果ですね、深夜電力を使うという条件だと、日本の車がトラックとか含めて全部EVになってもまったく発電所の増設は必要ないということです。
 何で東京電力がEVに力いれるかというと、原発の深夜電力問題です。深夜にEVに充電すれば、電力の平準化がはかれる、ということです。原発の問題はそのまま残るんですけどね。
 トラックにも既にハイブリッドがあります。乗用車より早く増えるかも知れないですね。
 EVクラブ会員で八王子の方が、ご自宅に太陽電池をのせて、その発電でEVに充電しています。平均で35qくらい走れる電力が得られる。その方の一日の営業範囲は30qくらいなんです。その方は、山梨の上九一色村にエコ・パーク・ビレッジというのをつくってエコ教育やっています。そこはソーラー・パネルと小型の風車でバッテリーに充電して、夜もそれ使って、東京電力からは電線きてないんです。ほら電線ねぇだろう、って。(笑い)
 質問:エネルギー効率のトータル比較を考えた場合、火力発電は発電の際に既に半分くらいのエネルギーは捨てている。加えて送電ロスがある。また動力にかわるときにも何らかのロスがある。一方エンジン車は、燃料輸送に少し余計にかかるでしょうけど、とりあえず燃料を直接動力に変える。それを考えると、EVとそんなに差が出ないようにも思えるんですが。
 舘内:「ウェルtoホイール」という考え方があります。ウェルは井戸、ホイールは車輪=タイヤです。油井から車で消費するまでをトータルで考えて、どういう次世代車がいいのかという判定をしています。やはり断トツでEVが良い。次がハイブリッドかディーゼル。そしてガクンと落ちてガソリン。バイオ燃料が騒がれていますが、バイオ燃料つくるのにエネルギーを使います。植物toホイールというのでやると、改善率は20%ない。実は省エネ運転を頑張ると燃費は2割くらい改善する。だからバイオ燃料を使うんだったら省エネ運転の方がいい。
 質問:EVのエネルギー効率の高さというのは、発電所の発電能力の効率の高さを、それぞれが分けあっているからですか。
 舘内:エネルギー効率は、火力発電のタービンの方が自動車のエンジンよりも3倍から4倍いいんですよ。それからCO2に関しては原発がある、ということもあります。
 質問:原発を前提にしている訳ですか?
 舘内:そうです。日本は原発がある程度前提にある。アメリカはまた事情が変わるんですけど。もう一点は石油が今後高くなっていったときに、先ほど計算したように、EVはかなり安い、ということですね。
 質問:減速時に発電して、エネルギーを回収できるということもありますね?
 舘内:はい。ハイブリッドも、EVも回収します。それからアイドリング・ストップですね。信号で止まれば電気使いませんから。
 質問:エアコンとか、暖房とかに使われる電力は、走行に支障が出ないのですか。
 舘内:電気エアコンはエンジン車でも普及し始めてます。エンジンで駆動しているエアコンはオン・オフ制御=全開か全停かどっちか。温度調整はエンジン冷却の熱風をミックスして調整する。家でいうと、エアコン全開でかけながら石油ストーブで温度調整するようなものです。一方、暖房も冷房もインバーターエアコンでやると効率がいい。もちろん航続距離は減りますけどね。
 質問:需要の点についてです。日をまたいで走行する車にとっては、いまのところEVはむずかしいようですが、日帰り=夜充電できる分野は需要がある。生協の配達車、宅配便、タクシーも帰ってきて必ず1時間以上は事務所にいますから、そういう車は大量にあると思います。そこに焦点をあてたら進め方があると思います。
 舘内:その通りでしょうね。
 質問:EVだと街は静かになっていいですが、子供たちに気をつけないといけない。新たな事故がおこるんじゃないかと心配です?
 舘内:杉並から世田谷までEVミゼットで通勤してたんです。途中細い道だらけですが、案ずるより生むが易し、危ないシーンはありませんでした。後ろからそっと行くと、やっぱりびっくりされる。その時は窓あけて「すみません」って言うんです。自転車のときと同じです。
 イギリスでは牛乳配達の車がほんとんどEVです。静か過ぎて事故が起きるんじゃないかと問題になったんです。ところが実は事故がない。徐々に普及していくことによって、歩いている人間もだんだん変わってくるかな、と思います。
 音を消すのは大変だけど、出すのは簡単です。全部音を出すようにすると、かえって厄介なこともありますが、出すならチリンチリンという鈴がいい。金の含有度があがるほどに高周波になって、気持ちが良い。駐車すると持っていかれるから、しまえるようにして。(笑い)
(2006.7.26 赤堤館にて)


<食>の焦点N
きのこと日本農業
今野 聰 
(財)協同組合経営研究所 元研究員


1、「原木栽培」か「菌床栽培」か
 3月春先のスーパー野菜売り場。どこでも数種類のキノコ類商品に出合う。買う人は少しも不思議がらない。いつものように西友練馬店を見た。群馬県産生シイタケが2種類区分、「原木栽培」と「菌床栽培」。品質表示制度と原産地表示義務化に従って区分陳列されていた。原木(つまりホダ木)がほぼ30%高だから、安い方が良いなら菌床栽培シイタケとなる。値段の比較か品質差か。食べてみたら自ずから味が違う。中国産菌床シイタケなら、こうはいくまい。まして菌床とはそもそも何か、その説明も詳しくは無い。
 コンビニ戦争激化でこの頃、西武池袋線保谷駅南口前公道から左右に7店ほどがひしめく。生鮮野菜売り場を広げるコンビニさえある。決まってエノキ茸かシイタケのパックが陳列されている。当然だが、そこにすでに季節感はない。
2、秋のキノコ
 そこで旬のキノコだ。毎年9月になると、何日頃雨が降るか、キノコは豊作かが気になりだす。かつて子供時代、キノコ狩りは9月の最大イベントだった。夏の川魚獲りと同じだった。遊びであり、自然が恵んだ食へのチャレンジでもあった。この頃は毎年長野県の山に入るようになった。狙いはマツタケである。それは難しいから結局雑茸を採る。地元の専門家は、採ってきた私のキノコ類を品定めする。70%ほどは食べられないと捨てられる。生活そのものがキノコ類との共生だから、即座に判るらしい。愛用している菅原光二著『きのこ』(小学館、1991年)は写真図鑑。ざっと食用で240種が載っている。如何に無知かを知る機会になる。自然生キノコは実に深い。だからキノコ狩りの趣味人は人工栽培キノコに見向きもしないのかも知れない。山から採ったものは、初物として珍重して、食する。私の場合は、子供の頃ほとんどハツタケ、アミダケ、アワダケだった。シメジなど高級希少価値品種は大人が危険を侵して、山深く入って採って来るものと教えられた。だから収穫量も少なかった。
3、生産と流通
 一体、いつからこうした人工栽培菌茸類が広がったのだろうか。大昔からキノコを食したといわれる。毒キノコなら命にかかわったであろう。こうして山間地生活を中心に豊かな食文化が形成されてきた。
 一方、栽培キノコ類である。ハツタケを採って、クズになった端物を庭の松ノ木の根元に撒く。ちゃんと翌年はハツタケが生えた。この原理は自然の中でのこと。
 栽培シイタケでみよう。先駆者が何人もいたが、本格的なシイタケ生産が始まったのは、昭和30年代。純粋培養種菌法を開発した森喜作(1908〜1977年)が有名である。本社が群馬県桐生市の森産業KKとなった。現在でも事業は展開されている。菌を育成、種駒にしてホダ木に打ち込む方法である。これが群馬県で一挙に広まった。最近の日本農業新聞広告で見ると、「菌床用」として短期培地にも進出している。時代の嵐かなと思う。
 1974年全農東京集配センター体験を思い出す。菌茸担当者は、群馬産をパック詰め以外のバラコンテナー詰め・配送する新方式にチャレンジしていた。店で小パックする方式である。実に驚いた。相当な商品開発だった。それなりに産地にも雰囲気が出来ていたのだろう。
 つまり品目多様化を伴った産地競争の激化である。こうして生シイタケは野菜扱いとして卸売り市場のエース品目に成長した。群馬、茨城両県が主導した。片や伝統的な乾燥シイタケの世界がある。これは大分、宮崎県など全国各地に乾シイタケ自由市場をつくった。入札方式で卸価格が形成されている。ドンコ他の品質鑑定もある。相当深く、贈答用である。
 平成18年版『森林・林業白書』(平成18年6月)から、キノコ類の生産消費動向を見ておこう。これによれば平成16年は、キノコ類全体で2,305億円、ざっと40万トン。前年を上回ってきた。最も多い生シイタケが生産量6.6万トン。ここ数年生産体制が整備され、生産量も増加していると報告。しかも原木生産に対比して、菌床生産は7割ほどに成った。圧倒的に菌床生産に移行しつつあることが判ろう。加えて本年5月末のポジティブリスト制度導入がある。これによって一層輸入品はチェックされる。白書のまとめを引用しよう。
「原木しいたけ生産は中山間地域におけるきのこ栽培の中核的存在であるが、生産者の高齢化、海外産品との価格競争、他のきのことの市場競争の激化などにより、大変きびしい状況におかれている」
 品質表示制度と原産地表示義務化も政策的バックアップになるともいう。中国産菌床生シイタケは、今が難局である。いずれ輸出力を回復してこよう。気が抜けない。
4、安全性
 いうまでもなく、これは生命を賭して食用選別をしてきた自然性キノコの問題ではない。小川真『キノコは安全な食品か』(築地書館、2003年)をひもとく。マツタケ開発の専門技術者らしく、多くの大量生産方式の施設・工場を研究視察している。その結果は、野放しの培地添加物、培地素材である。輸入されるトウモロコシの芯、いわゆるコーンコブも培地素材として広がりをみせるという。トウモロコシとなれば、いやおうなし遺伝子組み換え作物にもおよぶ。
5、産直の壁
 「ライブリー」07年14週号(3月下旬申し込み締め切り)から、扱い品目を書き写す。
・生椎茸100g(地場産地など)200円
・やまびこしめじ150g(JA上伊那)145円
・えのきだけ200g(JA上伊那)135円
・株取りナメコ1株(JA上伊那)175円
・ナメコ100g(JA上伊那)、
・シメジ100g(地場産地など)130円
・白あわび茸150g(地場産地など)245円
・舞茸100g(地場産地など)145円
・マッシュルーム100g(JAちばみどり)215円
・ブラウンマッシュ100g(とねマッシュルーム組合など)230円
・上伊那きのこセット300g375円
以上12。これを多すぎるとみるかどうか。スーパー店頭の多様化と同じ傾向を辿っている。
 1983(昭和58)年6月、清水の舞台から飛び降りるように伊南農協との産直事業がスタートした。勿論品目は単純だった。「ホンシメジ(やまびこしめじ)」全盛時代だったからだ。長野県経済連担当者から、「菌茸」の相場も知らないでと怒られたのが忘れられない。−続く

<自著紹介>
鞍馬天狗とは何者か 大佛次郎の戦中と戦後
(藤原書店2006年)
小川和也



 「国民」的ヒーロー鞍馬天狗
 鞍馬天狗という時代小説のヒーローが誕生したのは、いつのことか。
 経済学者の河上肇が『貧乏物語』で「ひっきょう米英独仏の諸国が貧乏人の実におびただしきにかかわらず、世界の富国と称せられつつあるは、古今にまれなる驚くべき巨富を擁しつつある少数の大金持ちがいるためである」と、経済格差の是正を訴えたのは、1916年、大正5年のことであった。
 ときあたかも、第一次大戦の最中であり、日本は、ヨーロッパを主戦場とするこの戦によって、軍需産業を中心に右肩上がりの経済発展を遂げていた。だが、「バブル」はいつか弾ける。1920年に深刻な不況が日本を見舞った。いわゆる「大正デモクラシー」の「明るい」空気はこの不況によって黄昏を迎える。会社・工場では「合理化」=馘首が行われ、大量の失業者が路頭に迷い、労働争議が起こる。神戸の三菱・川崎造船所の労働争議では、憲兵隊、軍隊が出動し、市街戦の様相を呈すほど苛烈であった。そして、1922年、関東大震災が起こり、首都・東京は焦土と化した。
 河上は、経済制度の変革を求め、その指導者として、「恒産なくして恒心ある者」すなわち「士」「豪傑」の出現を待望していた。その声に応えるかのように英雄・鞍馬天狗が「国民」の前に姿を現したのは、震災の翌年のことであった。
 以後、鞍馬天狗は大衆から熱烈な支持をうけ、新聞・雑誌・映画・テレビといったマス・メディアを通じて、「国民」的ヒーローとして活躍することになる。チョビ髭でダブダブのズボンを履いた、チャーリーという像が大衆に支持され、世界を席巻したように、鞍馬天狗も、第一次大戦という総力戦とともに、歴史の地平に姿を現した大衆(マス)時代のヒーローである。大正期に呱々の声をあげた『鞍馬天狗』シリーズは、戦後の高度成長期のただ中の1965年まで、42年の長きにわたって書き継がれ、全47作品が誕生した。
 鞍馬天狗が活躍する舞台は幕末維新である。彼は孤剣よく時代の闇を斬り割き、新選組と闘い、幕府を倒そうとする倒幕派の志士である。時代小説の架空のヒーローが世を捨てたニヒリストか、体制擁護者が多いなかで、彼は反権力を貫き、体制を変革しようとする徹底した個人主義者・自由主義者という点で特異な位置を占める。そして、これは作者自身の思想が反映したものであった。
 「国民」的作家・大佛次郎
 鞍馬天狗という人物を作りだしたのは、大佛次郎(おさらぎじろう)という作家であった。
 その経歴は特異である。大佛は一高・東大から外務省条約局へ進み、エリート国家官僚の道を歩みながら、途中でドロップ・アウトし、大衆作家となった。フランス文学を中心とするその教養のレベルは極めて高い。
 大佛は軍靴の響きが少しずつ高まりつつあった1930年代に、『ドレフュス事件』『ブゥランジェ将軍の悲劇』というノンフィクションを書いている。これらの作品は、日本の軍国主義の台頭を痛烈に批判したものとして、すでに定評がある。例えば、井出孫六氏はこれらの作品に基づき、「つねに醒めた理性と知的余裕」の持ち主であったと位置づけており、反戦的知識人・大佛次郎という像は通説化している。
 戦後は『パリ燃ゆ』『天皇の世紀』といった、日本文学に稀有で重厚な歴史叙述を手がけた。大佛は震災の翌年に27歳で作家としてデビューしてから、72年に75歳で亡くなるまで、新聞・雑誌の第一線で書き続け、時代小説・現代小説・ノンフィクション・随筆・戯曲・少年少女小説など、散文のあらゆるジャンルで活躍した現代日本を代表する作家の一人である。その業績が称えられて、死後、朝日新聞社により「大佛次郎賞」が設けられ、中野好夫、丸山眞男、加藤周一、大江健三郎など、日本を代表する知識人が受賞している。また、近年では「大佛次郎論壇賞」も設けられ、受賞者は注目を浴びている。
 大佛のように、戦前から戦後を通じて第一線で活動できた作家は少ない。また、鞍馬天狗のように戦前のヒーローで、戦後も生き延びた像も少ない。なぜなら、敗戦は「国民」の意識を大きく変えたからである。例えば、戦前のヒーローの楠木正成は「軍神」として崇められたが、戦後は捨てられてしまった。軍国主義の下で支持された作家・ヒーローは戦後民主主義のなかで消える運命にあった。
 戦前の鞍馬天狗というヒーローが、戦後も読者の支持を受け続けたのはなぜだろうか。その秘密は、作者である大佛次郎の戦争体験のなかに隠されているに違いない。いったい、大佛はあの戦争、すなわち、1931年の「満州事変」に始まる15年戦争をどのように体験したのだろうか。
 戦時下の「空白」を埋める
 ところが、大佛に関する戦時下の作品論は多数あるものの、これまで具体的に戦時下の思想と行動を明らかにした研究はなかった。1930年代後半から太平洋戦争にかけて、大佛の思想と行動には、実に、「空白」が存在する。
 この「空白」はとりわけ随筆に代表される。戦時下の大佛の小説やノンフィクションは戦後、あらためて活字化されているものが多いのだが、15年戦争下の随筆は165本のうち、27本しか公刊されていない。41年以降の太平洋戦争中のものに限ると、この4年間において42本もあるのに、戦後公刊されたものはわずか3本にとどまる。これは、いったいなぜなのだろうか。
 しかもこれら戦後未公刊の随筆には、「山本元帥の武運に寄す」(43年)、「貫かん我が大義」(44年)、「戦闘一本の訓へ」(同年)、「目白の話―神風特攻隊について」(45年)など、戦時を色濃く反映したタイトルが付けられているものが少なくない。そこで、封印を解くように戦後未公刊の随筆を読んでみると……そこには、これまでの大佛のイメージを覆す衝撃的な事実があることが判明した。
 大佛の戦時下を知る資料としてすでに『敗戦日記』(草思社、1995)が刊行されている。そのなかに「レイテ湾に神風特別攻撃隊がまた出撃……鞍馬天狗現ると云う感じで嬉しい」という極めて興味深い文章がある。なぜ、特攻隊が大佛が生涯の友とした鞍馬天狗なのか、この謎は、大佛の「空白」を埋めることによってのみ解明できる。
 そこで、本書では二つのテーマを設定した。
 15年戦争には、国内的には「ファシズム」に比肩される思想・言論の弾圧と、対外的には膨張・侵略戦争という二面性があった。大佛は知識人として、国家による言論弾圧・思想統制に反撥しており、その姿勢は生涯を通じて一貫していた。
 一方、戦争に関してはどうか。戦時下の圧倒的大多数の「国民」は戦争を支持した。
反戦を貫いたごく少数の知識人は、言論弾圧がピークに達する太平洋戦争の前夜ごろから「沈黙」し孤立した。だが、反戦的知識人とされる大佛は「沈黙」せず、大衆小説家として「国民」に対して、『鞍馬天狗』を始めとする小説を書いていた。本書のテーマの一つは、大佛次郎の知識人としての精神と大衆作家としての精神が、どのように交差するのか、それをこれまで明らかにされてこなかった、戦時下の軌跡から探ることにある。
 戦争を支持した「国民」は、戦後民主主義の担い手でもある。「国民」に主体性を期待することができなければ、日本に民主主義を根付かせる努力は生まれてこない。かくして、戦後民主主義の指導者の多くは、「国民」とともに戦争に協力した知識人から輩出される。本書のもう一つのテーマは、大佛の戦争体験が、戦後どのように生かされるのか、それを「国民」との関係から問うことである。
 本書は、戦時下の大佛次郎の「空白」を埋めることを通じて、「国民」的ヒーロー・鞍馬天狗を書いた、「国民」的作家の実像に迫ろうとする試みである。
<書評>
打越綾子・内海麻利編著『川崎市政の研究』(敬文堂、2006年)
栗原 利美 法政大学大学院博士後期課程



 本書はタイトルが示すように、政令指定都市である川崎市の政治行政に関する分析を研究対象としたものである。首都東京は、東京都政という府県行政と市役所行政が一体となった特異な自治制度(=都区制度)の下で、「大都市東京=国家」ということを前面に押し出す非常に強力なリーダーシップを持つ著名な都知事が存在する。お隣の神奈川県をみると、横浜市と川崎市という二つの政令指定都市が政治・行政の中心的な役割を担っているが、全国的に名前が知られ、現市長の派手なパフォーマンスで何かとマスコミの話題になる横浜市に比べて、現在の川崎市はかなり地味な存在であるように思える。しかし1960年代から70年代にかけて、「革新自治体」が全国的に叢生した時代は、川崎市はその象徴的存在の一つであった。本書は、川崎市の歴史と現状をふまえ、大都市自治体である川崎市の「地域内の問題を解決するために、必死に工夫を重ねた」政治行政を総合的かつ多元的に分析した興味深い本である。(編集部)
1 本書の目的と意義
 本書の目的は、「過去何十年もの間に、大都市部では幾度となく危機や停滞の時期が繰り返されてきた。それでもなお、苦境を乗り越えるために、行政職員のみにとどまらぬ地域住民や社会団体による懸命な努力が続いてきた。停滞や閉塞感を乗り越えてこそ自治体の足腰は鍛えられる。そうした歴史の紆余曲折を経てきた大都市自治体の政治行政を研究する」ことであり、「その事例として川崎市を分析対象としている」のである(1頁)。
 そして本書は、「川崎市は、首都圏中枢部の一大都市である。高度成長期の工業地帯の興隆とともに、公害問題や宅地開発による環境破壊といった問題をも抱えてきた。『川崎方式』として国の法制度に甘んじない独自の取り組みを行うとともに、リクルート事件に見られるようなバブル経済の潮流に流される側面もあった。そして、現在は、工業地帯の空洞化による産業政策の手詰まりに悩み、バブル崩壊後の財政危機を乗り越えるべく抜本的な行財政改革を遂行することが火急の課題となっている。こうした社会的・経済的な荒波に揺さぶられてきた川崎市は、様々なトピックを提供してくれると思われる」(同頁)と川崎市の抱えた課題を認識している。
 次に、一つの自治体の政治行政について複数の研究者が論文を執筆することの意義として、以下の点を挙げている(1−2頁参照)。@日本の地方自治論に関しては、中央地方の関係論から研究がスタートしたため地方政治行政そのものの分析が後発したという指摘があり、地方分権改革に至るまでの既存研究を見ても、中央省庁と地方自治体の制度的関係を論じるものが多く、特に中央地方関係が集権的か否かという論点に関心が集中していた。Aもちろん、革新自治体が登場した頃から地方政治行政への学問的関心は次第に高まり、現在に至るまで首長・地方議会・政党・住民参加・自治体行政機構・職員組合等々の役割をめぐって多様な実証研究が蓄積されてきたが、これらの研究のほとんどは、特定の対象にテーマを絞った研究である。Bしかし、地方政治の諸相や政策の帰趨は、多様な要因と幅広い関係者の相互作用が絡み合って決まってくるのである。C本書も、執筆者それぞれが異なる視点で川崎市を眺めることによって、地域の経済・社会との相互作用、政策形成過程における多元的な状況を描写したいと考えている。
 本書は、六つの論文から成り立っている。「第1章 2001年川崎市長選挙の分析」(打越論文)、「第2章 川崎『先駆自治体』の歴史位置」(土山論文)、「第3章 高度経済成長期における『障害者福祉政策のレジーム』の形成過程」(金論文)、「第4章 外国人の政治参加−地域社会にみる権利保障の深化の諸相」(加藤論文)、「第5章 都市計画行政の総合性―川崎市まちづくり三条例等の改編を素材として―」(内海論文)、「第6章 川崎市役所の組織風土(組合人事から能力主義へ?)」(打越論文)である。「前半の二つの論文が川崎市の政治構造に焦点を当てた内容となっており、後半の四つの論文が川崎市の施策や行政機構に関する内容となっている」(2頁)が、この紹介では、紙面の関係からすべての論文をとりあげることはできないので(例えば、障害者の福祉政策を論じた第3章の金論文のようなすぐれた研究論文を詳細に紹介することができないのは残念である。)、筆者の研究テーマが「自治・共和政治理論」であること、また筆者の本書に対する最大の関心テーマが「革新自治体」論にあることから、前半の二つの論文を中心に紹介することをご了承願いたい。
2 川崎市の政治構造
 「冒頭の打越論文は、現在の川崎市の政治状況を概観するべく、その象徴として、現職が敗れるという政権交代劇が見られた2001年の川崎市長選挙について描写している」(2−3頁)。2001年の川崎市長選挙において新人の阿部孝夫(元自治省官僚・法政大学教授)が当選した。「この結果は、多選反対を唱える新人候補が、四期目に向けて立候補した現職市長を破ったという意味だけでなく、1971年以来30年間続いてきた革新市政を終焉させたという意味でも注目を集めた。本論文は、「候補者選考をめぐる政党間の駆け引きや水面下の対応が見られ、進退をなかなか表明しない現職と突出した行動をとる新人候補らに市議会各会派が振り回されていったこと」、また「関係者が妥協と取引の中で混迷を深めていった様子を克明に記すことで、当時の川崎市の政治構造が、もたれ合いの中で末期症状に陥っていたことを明らかに」している(3頁)。
 また本論文は、選挙分析を通じて浮かび上がる、川崎市の政治構造に関する三つの論点を整理している(以下34−36頁参照)。@一年近くにわたる選挙戦において、最終的には多選反対のみが唯一の争点になったように思われる。特に「如何なる政策路線を重視していくのか有権者の納得のいく形で提示できるか否かが、今後の市政への信頼を大きく規定していくのではないだろうか。」(35頁)との指摘は重要である。A2001年の市長選挙では、各政党の市議レベルと県レベルとのねじれが生じたが、地方政治を分析するには、今後、政党間の水平的調整の視点と、政党内の垂直的調整の視点を並立的に観察していかねばならない。B川崎市の有権者の投票行動を挙げ、有権者側から政策的な意向を政治的アクター(政党・議員・首長ら)に伝えようとしなければ、すなわち政治的アクターから見て有権者の政策的な意向が十分に伝わってこないならば、政党や候補者は何を拠りどころに行動すべきかを見失い、政党間の駆け引きや妥協に奔走することになり、有権者の政治的関心がますます離れていく。これも適切な論点である。最後に、2006年の市長選の投票率が前回を下回ったことから、著者は、「一般有権者の政治的無関心が広がる川崎市で、限られた政治的エリートによる閉鎖的な構造が打破できるものなのだろうか。」(36−37頁)という疑問を投げかけている。
 次に、第2章の土山論文であるが、本論文は、川崎市の革新市政(伊藤市政、高橋市政)を中心に高度成長期以降の市政史を詳細に論述しているすぐれた論文である。まず、「革新自治体」の叢生が日本の地方自治史にもたらしたものは、地方自治における政策の理念、内容、手法の革新であったとする。川崎市において革新市政である伊藤市政が誕生したのは1971年であり、革新自治体の叢生期といわれた1963年から8年あとになる。ただ、政策の展開をたどれば、要綱行政の嚆矢となった宅地開発要綱の策定、横浜市、東京都との政策連携など、「革新自治体」と親和性を持つ政策開発が「保守」政権である金刺市政期になされていたことは見落とせない。金刺の政治手腕や既在の政治構造なども要素であろう。しかし、伊藤市政以前の川崎市が都市問題に対し、おそらく横浜市・東京都と相互に影響しつつ、評価すべき政策展開を行っていたことは注目される。(44−45頁参照)。こうした政策論を主体とした評価はかなり興味深いものがある。
 そして、伊藤革新市政の誕生は、その高い評価に加え、最大の政治課題であった公害問題の深刻さが、伊藤の「革新首長」的理念や姿勢に対する反発を先駆ほど強固なものにさせず、就任直後から積極的な政策展開を可能にしたといえよう。また、他自治体の先駆となる政策、市民参加手法の開発、機構改革、自治体間連携など、見るべき点は多い。近年再評価されている「川崎市都市憲章」も伊藤市政の初期の提案である。いくつかの課題を内包しながらも、川崎市は政策理念、内容、手法の「革新」自治体として全国の注目を受け続けることになると(45頁)、革新市政に対し高い評価を行っている。
 1970年代後半から、「革新政党に所属また推薦をうけた首長」という意味での「革新自治体」数は、1970年代後半から減少するが、地方自治史としてみれば、「革新自治体」が提起した、自治、参加、人権、環境保全の推進といった政策展開の基本的な方向性は、ほとんどすべての自治体で共有されていった。それはまさに地方自治に示された「革新」性が受け入れられ「普遍化」する過程であった。その後も、都市型社会において絶え間なくおこる政治課題に対するための政策とその手法の開発、法務、財務といった行財政システムの改革が意欲ある自治体によってとりくまれている。かつて「革新自治体」が日本の地方自治史に果たした、理念、手法、内容の革新という役割を担う自治体を今日「先駆自治体」と呼ぶことができ、その意味で、川崎市は「革新自治体」と「先駆的自治体」との評価を重複させた自治体であるといえる(45−46頁)という的確な指摘を行っている。
 おわりの、時代の制約をもちつつも「革新自治体」が示した理念や手法の転換が、高度成長とバブル経済ののちの経済危機という苦境のなかで、あらためて「必要」としてとりくまれているのであるとの指摘は、「革新自治体」をイデオロギーではなく、政策の「普遍性」で評価する姿勢であり、非常に共感できるものがある。
 なお、本書の論文の配列としては、この第2章の論文のほうを冒頭に置くのが、論文のテーマ及び内容またボリュームからいって自然と思われるがいかがであろうか。
3 本書のモチーフ
 本書は、「六つの論文から共通して浮かび上がってきた三つの視点を説明」(5頁)する。「各論文は、それらの視点を提示することを目的として執筆されたわけではないが、川崎市の政治状況や政策内容を過去から現在にかけて丹念に描写するなかで、自然とそうしたモチーフを滲み出させている」(同頁)とする。三つの視点は、以下のとおりである(5−6頁参照)。
@ 大きな政府から小さな政府へ、ガバメントからガバナンスへという政治行政構造の変容が描かれ、革新市政時には、サービス拡充を目指す行政機構と受動的な受給者としての住民という二元的な関係が見られたが、近年は、行政対応の限界が広く認められ、地域社会における住民の主体性を要する構造へと変化しつつある。こうした状況は、しばしばローカルガバナンスと呼ばれているものである。
A 地域に内在する諸課題が、国の法制度によってではなく、自治体内での議論や工夫を通じて解決されていく様子を描くことで、自治体の政治行政の重要性を指摘する論法になっているという点が挙げられる。川崎市の各種団体は、生活に直結するニーズの対応を、国ではなくローカルなレベルに求めてきた。
 なお、しばしば川崎市の対応は、国の法解釈や見解に対抗するという革新政権という図式で描かれてきたが、そうした独自の対応を可能にした行政職員や地域住民の発想は、もともと国に対抗することが目的であったわけではない。全国画一の法制度ではどうしても解決できない地域内の問題を解決するために、必死に工夫を重ねてきたといった方が的確である。
B 自治体の政治行政は地域内のコミュニティに支えられてこそ継続してきた、という考え方が各論文に共通して見られる。ただし、それだけに、最近の地域内コミュニケーションの停滞と政治の行き詰まりも気になるところとなる。
そして、「これらの三つのモチーフは、いずれも昨今の地方政治・地方行政を論じる際の鍵となる議論である。各論文において、こうした議論が自然と滲み出てきたことにこそ、一つの自治体を複数の研究者が眺めることの興味深さがあると言えるのではなかろうか。」(6頁)と複眼的考察の意義が強調されている。
4 自治体研究の意義
 本書の生まれた背景には、川崎市のユニークな制度がある。「川崎市には、政治学や行政学を専攻する大学院生等を『専門調査員』『研究員』といった立場で採用する制度がある。これは若手研究者に、政策決定に向けた実務作業や市民参加の現場を日常的・直接的に参与観察させ、課題の解決策を職員とともに考案させようとする制度である。本書の執筆者五名は、時期的に少しずつ異なるものの、1996年から2002年にかけて川崎市の非常勤専門調査員あるいは川崎地方自治研究センターの研究員等として勤務し、自治の現場を学ばせていただいた」(321頁)ということである。こうした制度は、研究者にとっては自治体の現場を知る良い機会であり、自治体職員にとっては良い知的刺激になると思われる。「地方分権改革を経て、地域ごとの課題を発見し対応策を検討する作業は必須のものとなった。現場の知識を有する実務家と、専門知識を有する研究者との協働は、今後ますます必要になってくると思われる」(323頁)との指摘は、まさにそのとおりである。
 ところで、本年4月は統一地方選挙が予定されているが、今回からマニュフェストの配布が解禁されることに伴い、自治体の選挙でも、マニュフェスト作りの重要性が強調され、マスコミ等で繰り返しマニュフェスト作りの重要性を説く大学院教授も存在する。もちろんマニュフェスト作りは大事なことであるが、それには前提として、本書のような地道な自治体の政治や政策に関する研究が必要ではないだろうか。本書でも触れられているが、本書のような類の研究書はまだまだ少ない。自治体改革が未完の課題であり続けることから、今後こうした研究は、ますます必要になってくると思われる。本書は、そういった意味で一つのお手本となる研究書である。地方自治に興味のある方は、是非ご一読願いたい。
 なお、欲をいえば、本書に付録として、川崎市政に関する地図及び統一的な年表を付けてもらうと読者の理解の助けになるように思われる。また、市政の研究にとって財政的な考察は、必要不可欠と思われる。今後の課題として検討してもらえればと思う。

雑記帖 【米倉 克良】

 都府県の知事選選挙の告示を以て、統一地方選挙が皮切りとなった。東京都知事選挙に関わって、市民集会で浅野候補は、もっとも「危険」なことは、「政治が変えられないというムードが漂うこと」と端的に語った。確かに浅野候補の出馬表明の以前には、「どうせ石原が勝つ」、「時代が大分おかしくなってきたが、これは変わらない」という雰囲気は大方のものであったように思う。確かに最大の敵は、私たちにも身近で関係のあるこの「雰囲気」である。その意味で浅野候補の決意とこれを動かした市民の力を高く評価したい。さらに市民の、それこそ地域から創意ある動きがあって欲しい。しかし石原都政が「何が問題であり」「どう変えるか」という論点を、曖昧にしてはならないと考える。やはりマニフェストにもとづいての選挙を深めて欲しい。「雰囲気」あるいは「正義」だけでは、どうにもならない。時期や財源、そして目標管理も含めて、都知事選挙をはじめとして、首長選挙にあっては、このマニフェストを使った動きが前回よりも大きく前進して欲しい。それこそ、各地域の市民の力量が問われる。しかし今、手にできるいくつかのマニフェストや政策集には、「地域の経済政策」の弱さを感じる。地域格差が出たこういう時代であればこそ、経済への市民自身の参加を促進することが必要だ。しかし、今のところこの「社会的経済」への視点がないのである。野党は、市場原理とは異なる立場の社会的経済にこそ大きな関心を持ってもらいたい。その意味で、地域に足場を持つローカルパーティこそ、選挙で前進し、この政策を国政政党にむけて表現して欲しい。

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