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「雑記帖」は『社会運動』誌編集委員による連載です。(No.255以前の名称は『編集会議から』)

『雑記帖』内から検索:

No.285 2003.12.15 【古田 睦美】
No.284 2003.11.15 【宮崎 徹】
No.283 2003.10.15 【大河原雅子】
No.282 2003.9.15  【細谷 正子】
No.281 2003.8.15  【加藤 好一】
No.280 2003.7.15  【柏井 宏之】
No.279 2003.6.15  【小塚 尚男】
No.278 2003.5.15  【宮崎 徹】
No.277 2003.4.15  【大河原雅子】
No.276 2003.3.15  【細谷正子】

No.275 2003.2.15  【柏井宏之】
No.274 2003.1.15  【宮城健一】
No.273 2002.12.15 【古田 睦美】
No.272 2002.11.15 【宮崎 徹】
No.271 2002.10.15 【大河原雅子】
No.270 2002.9.15  【柏井宏之】
No.269 2002.8.15  【宮城健一】
No.268 2002.7.15  【細谷正子】
No.267 2002.6.15  【池田 徹】
No.266 2002.5.15  【柏井 宏之】
No.265 2002.4.15  【宮崎 徹】
No.264 2002.3.15  【大河原雅子】
No.263 2002.2.15  【細谷 正子】
No.262 2002.1.15  【宮城 健一】
No.261 2001.12.15 【古田 睦美】

No.260 2001.11.15 【池田 徹】
No.259 2001.10.15 【柏井 宏之】
No.258 2001.9.15  【宮崎 徹】
No.257 2001.8.15  【細谷 正子】
No.256 2001.7.15  【池田 徹】

『編集会議から』
No.255 2001.6.15 【事務局・佐野】
No.254 2001.5.15 【柏井 宏之】
No.253 2001.4.15 【宮崎 徹】
No.252 2001.3.15 【中村 陽一】
No.251 2001.2.15 【池田 徹】
No.250 2001.1.15 【細谷 正子】
No.249 2000.12.15 【宮崎 徹】
No.248 2000.11.15 【柏井 宏之】
No.247 2000.10.15 【事務局】
No.246 2000.9.15 【中村 陽一】
No.245 2000.8.15 【細谷 正子】
No.244 2000.7.15 【【池田 徹】】
No.243 2000.6.15 【佐野 嗣彦】
No.242 2000.5.15 【柏井 宏之】
No.241 2000.4.15 【中村 陽一】
No.240 2000.3.15 【細谷 正子】
No.239 2000.2.15 【宮崎 徹】
No.238 2000.1.15 【池田 徹】
No.237 1999.12.15 【柏井 宏之】

No.309 2005.12.15 【宮崎 徹】

 自分の老化のせいばかりではなく、大きなことから小さなことまで世情の変化のスピードが著しく加速しているように感じる。その要因は多様であろうが、ひとつにはグローバリゼーションや市場化の急進展という経済活動の大きな変化がある。この点に関わって最近目についた1,2のトピックスを挙げてみよう。第1は、グローバリゼーションの推進力である海外直接投資(経営資源の国際的移転)について。日本の場合、外に出て行く直接投資と対日投資の著しいアンバランス(大きいときには10:1以上)がずっと問題でありつづけてきた。ところが昨年度にはあっさりと対日投資額が対外投資額を上回ってしまった。
 優れた外国企業は日本が比較劣位にある産業分野を狙って進出してくることが多いので、全体として日本経済の効率化が図られるというメリットをもたらす。しかし、対日投資急増の裏には、いわゆる禿鷹ファンドの「活躍」も見逃せない。破綻に瀕したリゾート施設などが大量に買い叩かれている。元の10分の1ほどの値段で手に入れれば簡単に利益をあげられるし、再建して転売益も出せる。よい対日投資も悪い投資も合わせて日本をターゲットにしはじめたことが、国内経済の変化を加速している。
 第2は、本年上半期の国際収支統計で、貿易黒字を投資収益(海外投資などの果実)がはじめて上回ったこと。これにも原油急騰で輸入代金の急増=黒字減という裏がある。しかし、一国の発展段階史からいえば、加工貿易で黒字を営々と稼ぎつづける時代から日本経済が成熟債権国化への道を歩みはじめた予兆ともみえる。
 これらは経済のマクロ環境の大きな変化であるが、回りまわってわれわれの日常生活の変化にもつながる。変化があまりに激しいときには、むしろじっとしていることの方が大切かもしれない。しかし経営や運動の最前線ではそういうわけにもいかないでしょう。

No.308 2005.11.15 【大河原雅子】

 本誌1月号で既報のとおり、映像作家の鎌仲ひとみさんが、使用済み核燃料の再処理工場が建設された青森県六ヶ所村の人々に取材し、「六ヶ所村ラプソディー」を制作中だ。旗上げした赤堤館シネクラブにお招きし、お話を伺った。
 前作「ヒバクシャ:世界の終わりに」では、原爆から劣化ウラン弾まで、世界に広がる被ばくの脅威を浮き彫りにした。もはや、加害者も被害者も区別はない。兵器であろうと平和利用といわれる原発であろうと、核エネルギーを使い続ける限り、低線量被曝は増え続け、私たちは一人残らず「ヒバクシャ」となる。「人類と核は共存できない」というまぎれもない事実を前にしても「何も知らない、知らされていない」と思いたがる己が身勝手に恥じ入るばかりだ。
 使用済み燃料をすべて再処理し、抽出したプルトニウムを使う核燃料サイクル路線をとるのは、世界中でも今や日本だけという不思議。高速増殖炉「もんじゅ」の事故以来、核燃サイクル計画は頓挫したままなのに、再処理工場は本格稼動に向けて着々と準備がすすんでいる。すでに日本は、長崎型5000発分にも匹敵する43トンものプルトニウムを保有しているという。使うあてもないままに、さらにプルトニウムを作り続けることには、核拡散の危険を増大させるものとして国際的な批判も免れまい。
 小泉首相は「自衛隊はどこから見ても軍隊だ」といつのまにか開き直り、自民党の改憲案にも「自衛軍」の文字がみえる。六ヶ所村で作り続けようとするプルトニウムの使い道が透けて見える気がする。自衛のための核武装を、世界で唯一の被爆国が言い出すほどのモラルハザードはない。鎌仲監督の発信を受け止め、原子力廃止と賢明なエネルギー選択へと、一歩でも半歩でも、1mmでも進みたい。

No.307 2005.10.15 【古田睦美】

 衆院選も終わり、地域は合併秒読みの日常に戻った。既存の利権構造を基盤に主に財政メリットを強調する推進派と、反対してきたものの合併やむなしとなれば、それを契機に合併後の大きな規模では果たしえない、より小さい単位での関係づくりや根本的な地域構造の改革をめざそうとする市民的改革派のせめぎあいが展開されている。私の住む長野県でも、ほんとうのまちづくりの適正規模は?市民参加のルールはどうあればよいのか、市民協働のあり方は?などを根本から考えようと、合併する市町村の市民同士が、お上より先にと動きはじめている。今後、日常的な合併の弊害について具体的に議論していく必要があるだろう。
 たとえば、上田市と合併予定の真田町、武石村は全国でも有数の質のよい学校給食を持っている。真田町では、学校給食会の圧力に屈せず、週5日地元産の米飯(発芽玄米入り)、地産地消で野菜と小魚中心の和食メニューを実施、キレるこどもが多かった以前と比べて暴力等問題行動が著しく減り、集中力が増したのか、小中ともにCRT試験で名の知れたお受験校を凌ぐ成績を修めた。凄いのはできる子ができるだけでなく落ちこぼしがなくなり、以前は60人もいた登校拒否がほぼなくなったことだ。上田市はよくあるセンター給食である。補助金つきで学校給食会経由の米は古古米入り、輸入小麦には環境ホルモン物質が含まれている。何もしなければ合併後真田は上田化する。市民の力で上田の子どもたちにも真田の給食の質を保証したい。市民的改革派の、こんなローカルな課題にグローバリズム的改革は答えられない。こんなことが民主党大敗の一因かもしれない。

No.306 2005.9.15【細谷 正子】

 少し前からだろうか、求人募集に応募してくる状況を見ると、団塊世代の男性の動きがにぎやかになってきた気がする。早めに次のステージの準備を始めるのか。また、私の仕事の関係から言えば、介護ビジネス関係の仕事に初挑戦してくる中高年の姿も増えた。これから広がる分野だから仕事はいくらでもあると思ってのことなのだろうか。しかし現実はなかなか厳しい。
 一方の受け入れ側は、時間をかけ慎重に選んでいく。それは、団塊世代の定年を意識していることもあるが、それよりも、これからの時代に必要なキャラクターを吟味している、という感じだ。明らかに仕事の質が変わる時代に、これまで通りの人材はいらない、と考えている。
企業が、次に必要な人材の質を探している。しかし昨日まで関係も無い会社の真ん中で働いていた人が、これまでとは違うキャラクターを要求されてもそう簡単なことではないだろう。
 しかし私たちなら、この求められている人材にかなり近い人材たちを、どうすれば用意できるか、わかっているのではないか。
 このような様子の今だからこそ、福祉ビジネスにおいては、その地域に住む人にとって必要な仕組みを、今ある実体を編みこみながら、つくっていくチャンスだと思う。一人ひとり生き方の違う人、抱える状況も違えば、望みが違う。そんな地域に何があればいいのか、誰がいればいいのか、その問題を解決する方法は、かつての生協組合員の得意なところではなかったか。これまで、地域にそのための仕組みをたくさん作ってきた。地域社会で定着してきた歴史がある。そこから更に網を広げる時かと思う。でも、何かズレを感じる。企業人の私からみても、はがゆい程ズレを感じる。

No.305 2005.8.15 【加藤 好一】

 生活クラブ連合会はこの6月の第16回総会で、第4次連合事業中期計画(2005〜09年度)を決定した。その主な特徴は次の3点に集約できる。@米、牛乳、肉類などの主要品目が牽引する共同購入事業を維持・強化する。A次期物流体系と基幹系情報システムを新規構築する。B組合員主権と組合員参加を貫き、協同組合の本質と使命を徹底しぬく。
 これらは、基本的に前の中期計画の基本政策・方針を踏襲するもので、特に新味はない。しかし、これらの課題を推進していく内外情勢は大きく変化し、それは一言で言って厳しさを増した。厳しいのだけれども、どうしてもこれらをやり抜かねばならない。今度の中期計画のポイントはここにある。何が厳しいのか? それは様々あろうが、ここで念頭にあるのは日本農業がどうなるかだ。
 すでにこの3月に新基本計画が閣議決定され、年末から来年にかけていよいよWTO交渉の行方が明確になる。結果、米や乳製品等の関税引き下げは2008年とも言われている。
 2007年には米政策等の農政が大きく転換する。このようななか、この5月に日本生協連は「農業・食生活への提言」を発表した。なかでも、所得格差拡大社会の中で、日本の消費者が目にみえない形で高関税による農業保護のコストを負担していることの負荷を解消すべきとの提言は、当然にも物議をかもしている。
 という次第で、生活クラブ連合会は市民セクター政策機構に、「食料政策研究会」の共同設置を提案した。私たちなりに、現下の農業情勢と課題を、改めて整理したい。にわかに、先の@とBの課題が一気にクロスし、さらにその重要性が増してきた。

No.304 2005.7.15 【米倉克良】

 戦後60年を語るとき、「沖縄」を欠かせない。私事になるが、「沖縄復帰」をめぐって、当時高校生であったが、一日、クラス・全校討論を行った。今の「石原知事とその係累の首長」のもとでは考えられない。むろん、時差もからんだ「全共闘運動への神話」に引きずられたためか、討論は、上滑りのものであった。しかし、野球部のエースの「沖縄の子は、思い出の甲子園の土を途中で捨てさせられたんだよ」という発言は胸に残った。沖縄が「外国」であったのは遠い昔ではない。その条件は幾重にも捩れてきた。
 気鋭の評者道場親信によれば、ベトナム戦争時代沖縄は、「東アジアの冷戦体制」の集約点であり、「憲法と安保条約の制約から、直接戦地に出撃できない在日米軍は、沖縄の各地域を経由する」このため「『魔法』のように、憲法や条約の諸矛盾が解消してしまう」(「占領と平和」風土社)のであった。この歴史と構造の「再審」そして解決は、重いが私たちの課題だ。
 一方、それは文化の広がりとの接点を持ちたい。「アジアの中の日本学構築」をめざす飯田泰三法政大教授によれば、アジアの中で、日本の思想・文化を分析する方法として、文化の接触論とともに、もう一つ古層ないし文化成層を論じる方法があるという。これで分析すると、むろん「王の存在」につながる垂直軸はあるものの「弥生も古い層は縄文的世界につながり、それは沖縄や蝦夷、おそらくトラジャ(インドネシア・スラウェシ島)まで広がる文化の層なのである。そこにはニライカナイ的な水平軸の、いわば人民的ユートピアの観念があった」(『国際日本学』第2号)という。沖縄は、反転の戦略点でもある。

No.303 2005.6.15 【宮崎 徹】

 このところ企業をめぐる不祥事が頻発している。また、ライブドアとフジテレビの攻防は「会社はだれのものか」という素朴かつ根本的な問題を改めて呼び覚ました。企業が議論の的になっている底流には、事件のレベルを超えて、時代の変化がある。例えばポスト産業資本主義への移行過程のなかで資金力より知識が価値の源泉として重視されるようになったとき、資本提供者である株主の地位に変化はないのか。知識の創造がいっそう重要になるとすれば、その前提となるボランタリティ(自発性)を引き出す組織形態はどのようなものかといった問題が浮上している。
 さらに遡れば、株式会社がそこから派生した法人とはなにかという問いかけも出てくる。その歴史的起源はローマ時代にある。自治都市や植民地で法人という概念が最初に生まれた。中世になって僧院や大学が法人になり、やがて商業や生産に従事する同業組合が法人形態をとるようになった。発生の由来をはしょっていえば、自然人の有限の生命をこえた永続的な契約主体が必要であったこと、あわせて契約関係の簡素化であった。
 なにがいいたいのか。法人は自治組織として出発し、近代では株式会社が優位にたち、現代では社会目的と結合したNPO法人や社会的企業として甦りつつあるかもしれない。株式会社をはじめとする従来の会社だけではなく、経済組織としてNPO法人などもありうるということで、組織形態の選択肢が広がってきたといいたいのである。自己宣伝はまずいと思いますが、この論点に興味のある方は『現代の理論』(夏号、6月発売)の拙稿「法人論から見た株式会社とNPO」をお読みください。

No.302 2005.5.15 【大河原雅子】

 韓国と中国で対日感情が悪化している。中国では、傍若無人な反日デモが日本大使館や日系企業を襲撃する異常事態だ。デモ隊の狼藉を積極的に制止しない中国政府への不信も募るが、底流にある日本の歴史認識やアジア諸国との和解なき戦後処理への批判と受け止めざるをえない。日本が行った侵略戦争の事実を若い世代にどう伝えていくかが問われていると感じる。
 その点で、同じ敗戦国のドイツから学ぶべきことは大きい。ナチスの負の遺産を背負った戦後ドイツは、フランスやポーランドとの間で歴史教科書の記述をめぐる対話を続け、さらにはEU統合の流れのなかで、欧州各国の高校生が自国語で読める共通の歴史教科書を刊行している。さらに、東京ネットでも3年前に訪問研修したが、市民によって創設された「ヨーロッパハウス」は、注目すべき存在だ。50年代にドイツ・オランダ国境に近いアウリッヒという小さな町に誕生した教育施設で、和解(許しあうこと)と民主主義を基本に、両国の若者が共生する地域の未来を理念に設立された対話と交流の場だ。現在ではEU全土に130箇所以上のヨーロッパハウスが開設され、若者から高齢者まで政治教育から芸術・語学・環境教育まで幅広いプログラムを提供し、各国の市民が国境を越えた交流活動を展開している。アジアでも歴史教育とナショナリズムを切り離す試みが必要であり、刊行が待たれるアジア共通教科書への期待は大きい。
 また、ヨーロッパハウスを体験した高橋伸子さん(日野ネット会員)等が「あじあはうす」づくりを提起して資金集めも始まり、新宿区大久保に韓国料理店を開店した。平和と共生社会の実現をめざすアジア市民の対話と交流の場づくりへの参加を呼びかけたい。

No.301 2005.4.15 【古田睦美】

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No.300 2005.3.15 【細谷 正子】

 「アークティックミッション」という映画をご存知だろうか。カナダの環境調査船が見た北極の実態。地球温暖化による氷河の侵食、永久凍土の消滅、極度のえさ不足、急激な環境変化によって生態系のバランスが大きく崩れだし、危機に瀕している姿。その影響はすでに動物たちに深刻なダメージを与えていると警告している。私たちが有効な手を打てないでモタモタしているうちにここまで進んでいたのか!と、正直ショックだった。見えていないというのは、こういうことか、と腹がたった。
 40年以上も前からレイチェルカーソンが警告していた合成化学物質の蔓延、そしてダイオキシンに代表されるように残留性化学物質のことがわかり、その後オゾンホールの出現がわかった頃には遅すぎた。DDT同様オゾン層を破壊するCFCも最も安全と太鼓判が押されていた。その安全性が疑問視されるまで40年以上も市場に出回っていたではないか。人類が登場してからの間、人類が環境を変えると言ってもその規模は知れたものだったのが、過去半世紀の間に開発・散布された合成化学物質のせいで、地球大気の状態は一変してしまったと言われる。これから先ずっと負っていかなくてはならない環境汚染・破壊の問題。生命維持システムだ。問題はずっと存在しているのに、解決へ向かう有効な実体は乏しい。こんなことでいいのか、もっと感性に訴えるような運動がおこらないとダメだと思う。
 この『社会運動』が300号を迎える。一人ひとりの胸に届くメッセージを発信し続ける役割が、これからも続く。

No.299 2005.2.15 【加藤好一】

 「生協、全国9地域に統合 来年メド」。日経新聞1月7日付夕刊の一面にこんな活字が躍った。これは日本生協連の「新ビジョン」に基づくもので、2010年を大きなターニングポイントとする、生協の長期的指針たろうとするものだ。
 バブル期に日本生協連は、大手チェーン・ストアと堂々と渡り合う、という路線を鮮明にしたことがある。日本生協連の矢野専務は、新ビジョンについてマス化路線を前提に同質競争と差別化に挑む路線だと言い切っている。当時の路線を髣髴とさせなくもないが、そこには「負の遺産」脱却への意志と相当な危機感がある。
 その最大の課題が、困難に陥った生協の事業と経営を、広域事業連合を軸とした連帯の強化=経営統合によって立て直し、ウォルマートの日本上陸の本格化等による、流通業の競合激化に打ち勝とうとすることだ。所得格差が拡大して低所得層が増加し、かつデフレ基調が継続する中で、端的な「低価格戦略」を実現すること。それが主たる眼目であり、危機感になっている。
 もう一つの危機感。それは「2007年問題」だ。「団塊の世代」の一斉リタイア。これは今後の日本の社会、経済の動向を占う最重要の問題だ。生協でもこの世代が中心となり現在の組織と事業が形成された。そして現在も利用・出資・運営の主役である。今年は「戦後60周年」であり、戦後世代のリタイアが始まる。「2007年問題」の端緒となる年なのかもしれない。
 現在生活クラブ連合会は、2005年度からの次期中期計画を検討中だ。新ビジョンにも学びながら、しかしこれまでの自分たちの理念や運動・事業を、あらためて貫こうという確認になるはずだ。新中期計画は6月の総会で提案・決定する。

No.298 2005.1.15 【古田睦美】

 埼玉県の教育委員に「新しい歴史教科書をつくる会」の元副会長高橋史朗氏が任命され、続いて、教員委員として「男女共同参画社会基本法」へのバックラッシュの旗手、埼玉大学の長谷川三千子氏が起用されるのではと危惧されている。
 最近、「男女共同参画は、少子化の歯止めにはならない」という主張がめにつく。たとえば平等の進んだ北欧でも少子化が進んでいる国があり、そもそも少子化対策と男女共同参画は別物であって、男女平等は結局出生率に責任を持っていない、騙されてはいけない、「家庭や家族を大切に」というのである。
 先の夏、生活時間の国際比較研究の一環として北欧を訪れた。日本的なトンチンカンな文脈はさておいて、スウェーデンの厚生省にあたる部署で少子化問題への対応について聞いてみたところ、スウェーデンでは常に男女平等政策がとられてきた、出生率は経済に左右されるという回答だった。女性が安定した職に就いてから産もうとするので職がないと晩婚化がすすみ、経済不安がある場合人々は産み控えるという。
 スウェーデンはEUの中では賃金も高く、ダブルインカムを謳歌している国、EU10カ国比較でみると、一日平均で男性4時間25分、女性3時間19分と欧州一二を争う長時間労働である。とはいえ、13年度社会生活基本調査の日本の労働時間は男性6時間28分、女性3時間19分と、欧州とは比べ物にならない長さである。そのうえ、男性の家事時間はスウェーデンの2時間29分に比べて日本ではわずか35分。女性の仕事と家事の合計は、スウェーデンで6時間54分、日本で7時間43分、日本の既婚フルタイムの女性は10時間以上にもなる。雇用不安と家事責任の不安の相乗効果がある日本では産み控えて当然ではないのか。

No.297 2004.12.15 【宮崎 徹】

 NPOをめぐる論議は東京ではある程度成熟化しているやにみえる。ありていにいえば、議論より実践上の壁をどうこえるかが焦点なのであろう。もっとも、理屈を好む悪癖のある私からは、必ずしもそうは思えないのであるが。それはともかく、最近では地方大学でも社会人向けのNPO講座が開設され始めている。むしろ地方のほうが地域社会の活性化という課題は深刻なので、NPOへの期待は強いものがあるのかもしれない。
 たまたま私もそうした大学の一講座を担当して地方のエネルギーに接する機会を得た。だいたい高い受講料を払ってまでNPOを理論的に研究してみようという人がけっこういることに驚く。まちづくり担当の地方公務員、市民事業を育てたい金融機関の人、市民活動の経験を自分なりに総括してみたい人などの熱心な討論からは学ぶべきことが多かった。なかでも印象的だったのは、役所内の無理解とわがままな「市民」に挟撃されている公務員の苦労だ。そういう立場に追い込まれながらもがんばっている先駆的職員は全国に多くいるだろう。「疲れたら、松下圭一先生の本を読んだら」というほかなかったのであります。
 地方にはNPOを担うに足る人材と基盤がけっこうある。しかし、東京に比べてまだまだ少ないのも事実だ。それだけに音頭をとる人の真剣さはむしろ大都市に比べて強いようだ。中央への依存を最終的に脱却しなければならないとき、地域=地方のNPOが力強く成長していくことを願ってやまない。空理空論ではなく、そのような人たちの刺激と励ましになる論稿が本誌にも期待されるところだ。そのためには現場に学ぶしかない。「ミネルバの梟は黄昏時に飛び立つ」あるいは「研究者は運動の書記係にすぎない」という箴言も思い出される。

No.296 2004.10.15 【米倉 克良】

10月24、25日と開催された、「代理人運動交流センター全国集会」で、来年6月の都議選にむけ、ネット10名の公認予定候補者の紹介とともに、現職藤田愛子さんと大河原雅子さんの「任期付交替制(ローテーション)」実施が報告された。
 このルールは、直接にはドイツの緑の党に学んだと聞くが、当時ルソーあたりの思想的関連ぐらいまでは視野にあったようだ。しかし、最近の田中浩『ヨーロッパ知の巨人たち』(NHK出版)にもあるが、「法の支配」と権力的癒着の防止のための「任期付交替制」は、「地中海」の都市国家の政治に始まる。するとネットルールは、遡って二千数百年前からの人類の理論的遺産に源を置くことになる。松下圭一さんの話では、その後のローマ帝国、絶対主義国家にせよ、多くをこの都市政治から学んでいるという。今の政治の基本的枠組みは、この地域の「自治・共和」の思想なしには有りえなかったということだ。このあたりは最新のB・クリック『デモクラシー』(岩波書店)が手頃な解説だ。
 最近、この地域の「協同組合」を訪れる機会があった。聞いてみると、政治と同じように、源は「地中海」地域の<仕事>と<仲間>のようだ。ボローニャ市周辺では、普通の家の窓に「虹」の模様に「PACE(平和)」と書かれた旗が掲げられているのを散見した。イラク戦争反対―軍の派遣反対の意思表示を表すという。この旗は、駅前の売店でも、郊外のスーパーでも、さりげなく売られていた。筆者は、ノリにまかせて、この「旗」を藤田さんと大河原さんの都議会のネット控室と、昨年初めてイラク戦争反対のパレードに出た娘に、免税店のチョコとともに土産に持っていった。 ページTOPへ 

No.295 2004.10.15 【大河原 雅子】

 すわ、神様もお怒りか? 9月1日の浅間山噴火のニュースに、地元に被害のないことを祈りながらも、私の頭には「八ッ場(やんば)ダム中止!」の文字が躍り、しばし想像を巡らせてしまった。中規模の噴火とはいうものの、都内の一部にも降灰。群馬県長野原町の水没住民の方の中には、以前から浅間山の噴火を警告する方があり、「やはり!」と私が思うのも無理からぬこと。ダム予定地は2万4千年前の浅間の噴火で、吾妻川沿いに流れ下った火山性の土砂が堆積している場所。水と混じれば崩れやすく地すべりが心配されている場所だからだ。
 昨年11月、国は八ッ場ダムの事業費を4600億円に倍増。知事たちはまともな調査もせずこれを受け入れ、議会も賛成派が多数を占めた。そこでこの問題に取り組んできた「首都圏のダム問題を考える市民と議員会」は、全国市民オンブズマンの有志・弁護士と協力して、住民訴訟を視野に入れた1都5県一斉住民監査請求を 計画。9月10日、5293名(埼玉858名、群馬523名、千葉1337名、東京2037名、茨城401名、栃木137名)が、八ッ場ダム事業に対する住民監査を請求したのだ。監査請求は、自治体の不当もしくは違法と思われる公金支出について住民が監査委員に監査を求める仕組み。
 だが、各都県での水余りや妥当性のない治水計画を監査委員が正当に監査ができるかどうか、監査委員の能力や役割が問われている。監査委員4人のうち2人は議員。議会での慣例的な選挙で選出され、いきおい知事与党の議員だ。知事の予算執行を常に是としてきた議員に、この役割は酷というもの??前回の東京都への住民監査請求は、政策議論は議会の役割として門前払いとなり、住民は意見陳述さえ許されなかった。だが、今回は公金支出の不当性・違法性の指摘に弁護士が知恵を絞った。役にたたない制度ならいらない。住民の権利として、期待に応える監査であって欲しいものだ。 ページTOPへ

No.294 2004.9.15 【細谷 正子】

 私ごとで恐縮だが当時20代後半の子育て真っ最中の私の毎日を、ご近所の「痴呆老人問題」が襲っていた。当時は今のような福祉の仕組みもほとんど無く、ましてや他人の家の事件が私の生活を巻き込んでいたのだ。そんなのは一例で、高齢社会の持つ問題の典型事例に事欠かない、まさに高齢社会を先取りしたような地域の中で生活してきた体験は、これからの地域に何が必要かを考えるのに大変役立った。
 皮肉な事に、今我が家の周りは人口が急増し一挙に若い世代に変わってしまった。当時高齢だった方々は次々と他界され、残された土地は全て主が変わりミニ開発ラッシュが押し寄せている。
 久し振りに福祉施設の現場を幾つか見た。現在の地域福祉の状況を見て、この約20年の差を実感した。というよりも当時は特別でしかなかった私の「近所」が、確実に社会全部に広がったんだという実感だった。若者が多く働いていた。勉強してきた事とは関係無く、2級ヘルパーの資格だけはとっておくよう就職指導されるそうだ。間違いなく仕事に就けるのは福祉関係だからだ。若い人ばかりでなく今福祉の仕事に就く人が多い。人手が絶対に必要な所だから何よりだが、やはり質の高い指導を目指す所は少ないのだろうか。ちょっとした所作や言葉づかいに違和感を感じてしまう事がある。介護を受ける人はもっと敏感に感じとる。痴呆を生きる人の目はごまかせない。豊かな地域福祉はこれからだ。当誌でも「現代アソシエーション研究会」で触れていた地域労働、豊かな地域労働のあり方を考えるには、今、福祉の分野はいいかもしれない。                                     ページTOPへ

No.293 2004.8.15 【加藤 好一 】

   「現代の理論」の創刊準備号で、多く人が安東仁兵衛氏の思い出を語っている。筆者も晩年の安東さんに大変お世話になった。特に、協同組合論との関連で都度言われたことの一つが、「ベルンシュタインに学べ」であった。
 しかし、この宿題の一端に取り組んだのは、ようやく最近になってのことだ。
 19世紀後半期において消費協同組合に対する評価は概して低かった。その思想的源流はオーエンやマルクスがそれに冷淡であったことに由来するのかもしれない。そんななかにあってベルンシュタインは、協同組合に「きわめて大きな期待」をもっており、今後多様に活動の場を広げるであろう協同組合の発展のために、その礎石・母胎として消費協同組合が果たすべき積極的な役割をみていた。
 篠原一先生は近著『市民の政治学』で、新しい市民社会論は古典的市民社会論の主流派とは異なり、国家と経済社会(市場)と市民社会の三つの領域が相互に接合しながら、むしろ市民社会が優位にたつべきだと考えられていると整理されておられる。注目すべきは、ベルンシュタインが百年以上も前にこの問題と格闘していた節があることだ。この市民社会論とのかねあいにおいて、協同組合が積極的に位置づけられているように思える点は、一つの遅まきながらの発見であった。
 昨今、流通再編等の進行の中で、生協の広域組織統合が各地ですすめられている。あらためて協同組合の本質や使命についての議論が深められる必要がある。生活クラブ連合会は、今秋、欧州の協同組合の視察団を派遣する。筆者もこれに参加するが、こんな問題意識をもって臨み、その盛衰を見聞してみたい。                      ページTOPへ

No.292 2004.7.15 【古田 睦美 】

  『バイオジャーナル』(33号)によると、北アイルランドでは、シン・フェイン党が「北アイルランドをGM禁止区域にすべき」だと主張、民主統一党は「GMO問題はもっと研究が必要」、SDLP党は「GM作物に関する情報少なすぎる」とし、遺伝子組み換え作物問題が国政の争点になっているという。
 日本への主な食糧輸出国アメリカをみると、NASS(米国務省農業統計部)の推定では、GM大豆作付けは2000年に54%だったものが86%、トウモロコシは46%になるという。国内では、低アレルゲン米、スギ花粉症予防効果稲など「消費者ニーズへの対応」を打ち出す「第二世代」の遺伝子操作作物の開発競争も激化している。
 生物多様性条約をうけて国内法が整備され、この春から実用化へ向けての実験栽培がつくば市、平塚市など10箇所で行われようとしている。その他にも、すでに申請が許可されている農産物のリストにはイチゴ、小豆、ブロッコリー…と日ごろなじみのある野菜の名前がずらりと並んで二〇品種以上が開発に着手されている状態だ。
 参院選開幕。私たちが日ごろ何を食べていくのかという課題が国政の争点にされなければならないのは、もちろんだが、今年が「国際コメ年」に位置付けられ、国際市場での遺伝子組み換え開発競争を制する者が、国際貿易や国際援助予算を獲得する勝者ともなるというからくり、まさに日本の国際戦略が南と北の人々の生活を左右しているという構造を正確に分析し、サブシステンスの観点から国政の争点にしていく市民の力が求められている。ページTOPへ

No.291 2004.6.15 【宮崎 徹 】

  自分のことを棚上げしたまま言挙げするつもりはないが、あいかわらずお粗末というか、嘆かわしい出来事が次々と起こっている。おおげさにいえば、日本社会が炉心融解(メルトダウン)しているように見える。それぞれの事件にはそれなりの理由があるのだが、その深層にはどうやら知の劣化があるように感じる。
 ものごとを理論的、体系的に捉えてみるというスタンスが加速度的に失われつつあるようだ。たしかに以削に比べて情報の量は格段に増えたが、それらを整序し、意味を考えるという知的な作業がないがしろにされている。そうなると、政治や経済の問題に対しても対症療法的、パッチワーク的な対処に終始することになる。あるいは先送り、問題の歴史的文脈や構造が見失われ、判断基準も不明確化する。つまり、それなりの仮説をつくる知的作業を欠けば、ことの是非やその影響への想像力ももちえないのである。
 こうした知の病はメディアがつくる言論空間にも現れている。そこで交わされる議論には多様性が失われ、あれかこれかと雑駁化する傾向が強まっている。例えば、最近まで席巻していた「すべては市場に聞け」という立場、人々の主体的な判断に信を置かない一種のニヒリズムではなかったか。知的退廃というべきかもしれない。また、いちおうは立派な市民を作り出す最終工程の大学では、マニュアルや実学の授業ばかりが増えている。実学を軽視するわけにはいかないが、自分で考える基礎力を涵養する機会が少なすぎる。昔のような教養主義もおかしいが、現在のような転換の時代には実学と教養のバランスをとることがかえって大切であろう。ダサイといわれるかもしれないが、理論や思想を大切にすることが、一見回り道のように見えて、案外に社会再建の近道かもしれないと思うのだが、どうだろうか。ページTOPへ

  No.290 2004.5.15 【大河原雅子4・18記】

  イラクで武装集団に誘拐された5人の日本人が無事解放された。解放の喜びも束の間、人質となった人たちに対して「自己責任論」が噴出している。この間、当事者はもとより、連日マスコミ報道に晒されてきた人質の家族への誹謗中傷は激しく、インターネットの掲示板には匿名性に胡坐を書いた悪意にみちた言葉が溢れ、少なからずたじろいだ。小泉首相の自覚論を筆頭に、政府・与党をはじめ、国民の中からも自己責任を問う声が強まっていることに、新たな不安を感じる。危険な地域の取材はフリーランス記者に頼っていながら、自己責任論の共犯者ともなっている日本のマスコミの横暴さと浅薄さに絶望的な思いを持ったのは私だけだろうか?
 人質事件は、政府のアメリカ追随の自衛隊派兵を背景に起っていることは、否定しがたい事実。是が非でも自衛隊をイラクに送りたかった小泉内閣は、ことさらイラク情勢は安全と宣伝してきたのではなかったか。
 しかし、実際の治安悪化は予想以上であり、アメリカの占領下に迷彩服と小型とはいえ武器持参で送込まれた自衛隊は、どこから見てもアメリカに協力するれっきとした軍隊だ。自衛隊に対する認識は、犯行グループの声明文のみならず、人質解放に尽力したイラク宗教者委員会の日本政府批判からも明白だ。イラク国内はほぼ戦争状態であり、イラクを愛し、復興を支援するNGOは歓迎しても、自衛隊は招かれざる客。撤退を求める声は高い。スペインでは公約に従ってサパテロ新首相が部隊撤退の指示を出し、イタリアでは首相の方針に反して世論の7割が撤退を求めている。
 「命こそ宝(ヌチドゥ・タカラ)」は世界共通。自衛隊の撤収と国連主導の主権移譲を求めて止まない。                                        ページTOPへ

No.289 2004.4.15 【柏井 宏之 】

 20世紀の働き方「雇用労働」に対し、新しい働き方「市民労働」が注目されている。なかでも「出資・労働・運営」のワーカーズ・コレクティブ型のこまわりのきく自主管理型の協同組合がいかに地域社会のコミュニティの活性化に有効であるかは北海道でのWNJ全国会議の記録集『働きづくり まちづくり』に詳しい。
 580団体、16,149人が働くが、その内、家事・介護の生活支援は220団体、子育て支援・託児・塾は150団体を数え、市民が担う公益性を数字で示している。
 昨年5月、雇用創出企画会議がコミュニティ・ビジネスの雇用規模を6万人程度、そのうちNPOで3万人、協同組合・企業等で3万人と発表したが、その4分の1以上を確保するワーカーズ・コレクティブに法人格が未だにないのは不当としか言いようがない。
 公益法人改革オンブズマンの浜辺哲也氏らがここにきて新しい「非営利協同法人制度」の必要性、すなわち@出資も可A準則主義B一人一票C脱退時は赤字でなければ出資元本を返還D剰余金の非配分E残余財産の非配分F法人税非課税G情報開示等を内容として強く訴える共同行動にで、最近では259件の賛同などを総ての衆議院議員に送ったりしている。
 ところが、「公益法人改革」の行革事務局はこうした動きを全く無視して3月末にも非営利法人制度の政府案を固めようとしている。特にひどいのは、有識者会議の委員が反対している「公益性を税制で規定し税務当局が公益性を判断するB案」がもりこまれようとしていることだ。またもや官が公益性の審判者という傲慢さ。
 NPOと協同組合は協力して非営利法人の未来のために声をあげるときだ。  ページTOPへ

No.288 2004.3.15 【細谷 正子】

 語呂がいいのか頭から離れない言葉がある。『自分以外はみんなバカ』 作家吉岡忍氏が新聞で触れた言葉だ。……(人々の声に耳を傾ければ、けなす、失敗をあげつらう、悪し様に言い募る)どれもこれもが『自分以外はみんなバカ』と言っている。自分だけがよく分かっていて、その他大勢は無知で愚かで、だから世の中うまくいかないのだ、と言わんばかりの態度、…… 確かに気がつけば職場でも町中でも頻繁に出くわす態度だ。友は「そう言ってしまえば楽だからよ」と言う。そんなに偉いのなら、たった一人誰の助けも借りずに生きていけばいい。しかし今度は権利だ責任だと言い立てる。
 たぶん問題は不況ではなく、高度産業社会を経験した人々はこういう心性を抱え込むのだろう、と吉岡氏は言う。自分以外はバカなのだから、他者への同情も共感も無く、理解しようとしたり関心も生まれないとしたら、最悪だ。
 氏はこの心性は、日本が直面する不況、テロ、など様々な難問を、外側から見世物としてしか見ず、そこに内在する歴史や矛盾を切り捨て、自己の責任や葛藤を忘れ、威勢よく断じるだけの態度が露骨となる、と読み取っている。
 そんな態度が蔓延して、そうでない人たちが萎えてしまう前に、つなぎとめていかなくては。そんな態度はあらゆる非常事態に何の役にもたたない。人とつながりをつけるプロセスこそが必要なのだ。久し振りにつけたテレビはプロジェクトXだった。テヘランに取り残された日本人を、フセインの空爆から救出するトルコ航空機の話しは、まさに人とのつながりをつけて初めて成り立つ、自発主義の成せる技だった。まだ、遅くはない。          ページTOPへ

No.287 2004.2.15 【小塚 尚男】

 2004年が開けて間もない。しかし、新しい年が明け、さらに世はかまびすしい。第一、とうとう小泉政権下で戦後初めてイラクへと自衛隊が海外派兵することになった。第二は、年が明け民主党の菅代表は「憲法改正の発議をしたい。それによって民主党のイニシアティブで新しい今日的な憲法をつくりたい。」と述べ積極的な発言をし、小泉首相は「民主党と一緒に創りたい」と後出しジャンケンの余裕をみせている。第三は2003年末になってアメリカでBSE牛の発見が報じられ、日本はアメリカからの牛肉輸入を「全頭検査を行うまで」輸入禁止とした。
 これらは国家および国際社会から台所・食卓に至るまでの大問題である。だが、連日のマスメディアがかまびすしく報じている割にはすべてが淡々と進んでいるかに思える。
 第一のイラク派兵は「行くか 行かないか」とマスメディアは騒いでいるようだが、問題はイラク派兵の合法性をつくったのは特措法であり、はたしてこれが合憲か否かが問われなくてはならなかったが、民主党はこれを国会を通してしまった。その上で第二の改憲発議のイニシアティブとなるといささか危ういものがある。
 第三のBSEは起るべくして起きたといえよう。ヨーロッパや日本でも発生してアメリカで発生しないい保障は何もないかったというべきで問題は飼料、飼育、産地の情報公開がなされるか否かである。
 各ネットを中心にイラク派兵反対のさまざまな会がもたれ出している。憲法についてのミニフォーラムも行われている。今はだまっていることが一番危険な時ではないか。沈黙は罪である。                                              ページTOPへ

No.286 2004.1.15 【加藤 好一】

 昨年は、大きな犠牲を伴ったイラク問題で国内外が終始し、また市場原理主義の横行とデフレ圧力、加えて冷夏・暖冬で農畜産物の作況と価格が異常事態となるなど、ポジティブに評価できることが少なかった。そんななかにあって特筆されるのが、本号で報告のある岩手県の反GMイネ運動の大勝利であろう。
 冷害によりコメの作況が極度に「著しい不良」となった岩手県で、耐冷性目的の遺伝子組み換えイネの野外実験とその商品化を断念させたことは、まさに画期的であった。同様に北海道でも、道議会が国にGM作物の商品化を承認しないよう意見書を提出するという。
一昨年の愛知県での反GMイネ運動の勝利を受けて、「戦後日本の消費者運動・市民運動の一ページを飾るであろう」と思わずある所で書いてしまい、大言壮語でスミマセンとコメントを付したようなこともあったが、もうそんな必要はない。
 一方、先日、農水省の畜産振興課長に面会し、そこで採卵鶏、肉用牛等の国産畜種の維持・育成についての努力の必要を訴える機会を得た。年末の慌しいなかで1時間以上にわたって遣り取りし、別れ際に「夢の共有」という言葉を、外交辞令ではなく気持ちのこもった言葉として聞くことができた。作物ではなく畜種の話だが今後への期待が膨らむ。
 このように運動は着実に成果をあげつつある。生活クラブでは今年、「遺伝子組み換え食品問題協議会」を立ち上げ、次なる課題の明確化とより主体的な運動の構築をめざす。読者諸氏のご助言とご支援をお願いしたい。末筆ながら、謹賀新年。           ページTOPへ

No.285 2003.12.15 【古田 睦美】

 独立行政法人化、任期制の導入と大学を巡る状況が激変する中で、大学人は、既得権益への固執・保守と、奇をてらった大改革のはざまで方向を見失っているようにみえる。他方、地域にめをやれば、学びと実践の相互作用を繰り返す草の根のとりくみが決して絶えることなく続けられている。
 上田でも今年、私の所属する長野大学の学生たちが中心となって「学生地域くらし創り考房」というNPO活動をはじめた。放棄されていた保育園の建物を学生たちと地域のボランティアで改修しコミニティーの拠点を作った。開所式には地産地消のコミニティバザールを開いて地域通貨で楽しんでもらった。今日は拠点に併設されたオーガニック・カフェ(地域通貨が二割使える)が営業をはじめた。サブシステンス、コモンズの再創造、地域通貨やNPO等の新しい形態の地域づくりへの挑戦。若者の新しい発想が地域を繋ぎなおして行く。昨夜のイベント「みんなで学ぼう有機堆肥」には、学生と地域の老若男女が入り混じって、玄米おにぎりをほおばりながら、生ゴミを堆肥化する循環型農業の話に聞き入った。そこには、大正期の上田自由大学やブドリの学校にあったのと同じ熱気と、それらを現代的なパースペクティヴから超えていく、命に根ざした学びの躍動感があった。
 エリートを集めて遺伝子組み換え等の先端研究をする機関?そんな破滅へとむかう機関はもう要らない。そこに生きる人の命に根ざした創造的な学びの欲求、どんなに形が変わっても、この欲求に応え、この営みとともにあることが大学の、とくに地方大学の原点なのではないだろうか。                                        ページTOPへ

No.284 2003.11.15 【宮崎 徹】

 10年を超える日本の産業的停滞の背景には、通常の技術革新を超えた大きな産業技術の変化が生じつつあり、そこにおいて日本が遅れをとっていることがある。産業技術の大変化は、モジュール化である。それはディジタル化=情報化の進展を前提に、ものづくりにおいて各構成単位=ユニット(モジュール)を自立化させ、最後に組み合わせて製品化するという方式である。アーキテクチャ(設計)と構成部品のインターフェイスがちゃんとしていれば、高機能部品を寄せ集めることで高度な製品も比較的容易につくることができる。モジュール型生産が可能な分野では、すぐに技術キャッチアップがなされる。国際的な工程間分業も容易になり、このやり方を最大限に活用しているのが中国だ。
 モジュール化というコンセプトを明確化することで産業技術が2つのタイプに分けられ、その特徴や趨勢が分かりやすくなる。もう1つのタイプはインテグラル(統合)型=擦りあわせ型であり、部品相互の調整が難しい生産方式である。モジュール型の代表産業はエレクトロニクスであり、インテグラル型の典型が自動車である。自動車は数万点の部品から構成され、それらの相互調整が難しくモジュール化にはなじまないといわれている。ここでは経験と技能、いわゆる暗黙知が大きくものをいう。これは日本の得意とするところだ。現に日本の自動車産業は高い競争力を持ち、エレクトロニクス系の旗色は悪い。
 しかし、時の経過とともに以前はインテグラル方式であったのにモジュールのほうへ移行していくというトレンドがみられる。この情報化を活用するモジュール方式という大きな波に乗り遅れているのが日本産業だ。モジュール化の意義と影響はこんな簡単なものではないが、ご興味のある方は12月に日本評論社から刊行される『産業空洞化はどこまで進むのか(仮)』のなかの拙稿を読んでください。                 ページTOPへ

No.283 2003.10.15 【大河原 雅子】

 悪夢のアメリカ同時多発テロの発生から2年。あの日を境に、世界は大きく変わったといわれる。いったい何が変わったのか?
 世界最強の軍隊と兵器を有するアメリカが、わずか17人のテロリストの凶行になす術無く繁栄の象徴・ツインタワーの崩壊と共に、3000人を超える市民の犠牲を強いられた。テレビでWTCの崩壊を目の当たりにした国民は、報復戦争へとひた走る大統領を支持した。愛国心が強調され、政府への批判の声はかき消された。
 ブッシュ大統領は、「殴られたら、殴り返せ」とばかりに、国連安保理の大勢の意見を振り切って対イラク攻撃を強行した。戦争終結が宣言されたものの、大量破壊兵器は発見されず、治安の悪化もあってブッシュ大統領の再選にも影がさし始めている。アメリカと行動を共にしたイギリスでは、イラクの大量破壊兵器の脅威を誇張していた疑惑でブレア首相が窮地に立たされ、ブッシュ大統領の再選にも影がさし始めた。一方、日本では北朝鮮問題をにらんで、日米同盟頼みの小泉首相が、圧倒的な強さで自民党総裁に再選された。また、東京では、知事がテロ容認ともとれる不穏当な発言を繰り返して、懲りる様子もない。だが、なぜテロが起こったのか、テロに対して無力だった軍備拡大を疑い、国内の多様な声を受け止めることこそ必要だ。
 目前の民主・自由両党の合併を中心に、政権交代のうねりをつくることができるだろうか。「非戦」を軸に外交政策の転換にもつながるよう期待したいところだが・・・・。道はまだまだ、遠そうだ。                                  ページTOPへ

No.282 2003.9.15 【細谷 正子】

 「つくづく日本という国が嫌いになった」と80に近い彼女は珍しくはっきり“嫌い”と言った。「大人を大切にしない国だから。今にまともな大人がいなくなってしまう」それが理由だと言う。ナルホド。そう言われて思い出したことがある。数週間前の新聞に載った高村薫氏の言葉だ。…今の政治家の発言は普段着だ。そのような発言からは天下国家を語るまともな言葉は生まれてこない。思考能力が落ち感情論にしかならない。その背景として言葉の乱れに行き着く。政治だけでなく学校問題、家庭問題すべてに共通する問題。最近は書き言葉に親しまなくなった。書き言葉は複雑なことを表すことができる。話し言葉は複雑なことを伝えられない。書き言葉に親しまなくなったということは複雑な思考になじまなくなったということ。…
 この内容は私の気に入っていたサルトルの言葉を思い起こさせた。「自分の人生の証人になるために、書くという行為が重要な意味をもつ」(自分の人生の証人になるとは、なんと素敵な言い方)単純に経験しただけでは自分の経験を我が物にすることはできない。書くという活動を通して、言葉の力を借りて、経験をもう一度本質的なもの、実体にすることができる。この過程を通して、しかも自分に向けた嘘のない視線を通して自己が形成されていく。
 最近の人たちは、こどもも含めて、実体験が乏しいと指摘されている。その上に、書き言葉になじまなくなっている。これで、まっとうな大人なんて形成されていくのだろうか。ページTOPへ

No.281 2003.8.15 【加藤 好一】

 7月19日のアソシエーション・フォーラム(当会主催)は大盛況であった。田畑稔、佐藤慶幸の両氏の講演という硬派な企画に、生活クラブの組合員リーダーや専従者の多数の参加があった。
 フォーラム終了後の両氏を交えた懇親会の席上、『世界』の8月号に掲載されているユルゲン・ハーバーマスとジャック・デリダの連名になるエッセイ、「われわれの戦後復興―ヨーロッパの再生」に話が及んだ。この両者が連名のエッセイを発表したこと自体が一つの事件だが、それだけイラク戦争が「ヨーロッパ」に与えた衝撃の大きさを物語ってもいる。
 例えば、ネオコンのイデオローグ、R・ケーガンは、人間理性による戦争廃絶を展望したカント的な永久平和の希望は全く無力であり、秩序をもたらすものは「怪物的な権力による畏怖と暴力」だけだと決めつけているという(福田和也氏)。対してこのエッセイは、カント的な精神の伝統の正当な相続人としての「ヨーロッパ」と、その結束を訴えている。
 「ヨーロッパ」は、このような自覚を深めつつ、EUの成功や国際法にもとづく世界秩序の建設という形で、「近代の近代化」の課題を推し進めていく展望を切り開いていくのだろう。一方わが日本では、イラク法案が今日(7月25日)にも採決されそうな情勢にある。
 ところで、4月に逝去された宮城健一氏の後任として、本誌編集委員の大任を仰せつかった。先般の編集会議でも今期各号の編集方針について様々に議論があり、「編集」という仕事の難しさの一端を垣間見た。とはいえ、先のフォーラムの盛況振りからすれば、「案ずるより生むがやすし」かもしれない。楽天的に関わらせていただくことにする。   ページTOPへ

No.280 2003.7.15 【柏井 宏之】

 NEWSWEEK誌が“ネオコンの誤算と挫折−イラク問題情報操作疑惑−つまづいたブッシュのタカ派世界戦略”と題して大特集を組んでいる。また米英政権が開戦理由とした大量破壊兵器の証拠とされた情報のウソが大問題になっている。戦争強行の原因とされたものがウソであるとの倫理的な問題が浮上している時、韓国の盧武鉉大統領の来日にぶつけて「有事三法」を強行した小泉政権の危うさとうさん臭さ−。
 時代は後からならわかるがその中にいるとわからない、そのことをズバリ描いているのが篠田正浩監督の『スパイ・ゾルゲ』だ。
 1930年代、風雲急を告げる中国への日本の戦争拡大をとめようとする『朝日』の尾崎秀実がアメリカ人ジャーナリスト・スメドレーに出会う。奔放で行動的な彼女によってゾルゲに引き合わされ、上海と東京が舞台となる。尾崎には関東軍の拡大を抑制しようとする近衛文麿が、ゾルゲにはナチ党員証を持つドイツ人というカードが重なりながらの交差だ。篠田は大島渚や浦山桐郎が青春娯楽映画を通して政治映画をとっていた時代、『乾いた花』の審美的映像で登場したように何かメッセージを映画から期待することは無理である。しかし彼には『心中天網島』の道行きやキリシタン弾圧を描いた『沈黙』のように史実への独自の執着が一つの世界を作る。CGによってバーチャルなものとリアルなものが渾然一体となった現代、『ロードオブザリング』の白人文明と有色文明のはてしない殺しあいのニヒリズムでイラク戦争を暗示したかのような映像とは違う。ポランニーの『戦場のピアニスト』が、戦争の無意味さを語って私たちを激励したが、もはや歴史を消却している日本人にはアジアとは、平和とは何かを考える契機となる点で刺激的だった。                 ページTOPへ

No.279 2003.6.15 【小塚 尚男】

 5月は各企業の株主総会の季節である。連日新聞各紙には決算結果や、人事変更についての記事が細かく報道され、その記事量たるや膨大である。いかに上場企業が多く、また多分野にわたっていることか。しかし、その決算内容を読むといわゆる“勝ち組”“負け組”の差が歴然としている。1980年代までは、ほぼ日本の上場企業はおしなべて前年の売り上げを上回りどれだけの税引き利益を挙げるかが焦点だった。しかし今は銀行を筆頭に「この会社が」と思う企業が赤字決算をしている。
 デフレ不況、不良債権は各企業に重くのしかかっている現状だ。この不況と不良債権処理についての克服は言われて既に久しい。だが一向に改善されない。「政治の失敗」――それもあるだろう。しかし依然としてドロ沼に入り込んだままなのは経済全体の構造的な問題でないかと思われる。
 約100年にわたって隆盛をきわめてきた株式会社というシステムが制度疲労をおこしているのではないか。
 80年代後半「21世紀は協同組合の時代」を言われたが、最近はあまり聞かなくなった。各生協、農協の総代会もこの時期に同じく開かれる。はたしてどうか、各紙はほぼ報道しない。だからと言って「協同組合の時代」は夢物語だったなどと決め込まれたら困る。この不況を企業と一緒になってあえいでいても始まるまい。協同組合の時代であるゆえんは、協同組合が株式会社に比べ、より人々の参加によって形成され民主的であるからだ。
 生活クラブの総代会に出席した。世の中と違って組合員はきわめて元気だ。 ページTOPへ

No.278 2003.5.15 【宮崎 徹】

 なんとなく時代閉塞感が広がりつづけている。それは政治・経済から思想・文化にまで及んでいるようにみえるが、なんといっても生活の閉塞状況が大きく、かつ直接的に影響している。3月に発表された02年度の国民生活選好度調査はこのことを直截に示している。
 それによると、「暮らしがよい方向に向かっている」と答えた人は14.3%と、78年の調査開始以来最低となった。実際、この数値は90年には46.2%であったが、その後の長引く経済停滞のもとで下がりつづけ、前回の99年調査では20.6%まで落ち込んでいたのだ。また、現状の生活に不満を抱く人の割合も過去最大の26.6%となっている。この原因は、いうまでもなく不況による所得の減少や年金など社会保障制度への不安である。そしてまた、この現状や将来への不安が消費活動を萎縮させ不況を招くという悪循環に陥っているのが今の日本の姿だ。景気の「気」は気分や気持ちを示すものでもあるから、人びとの見通しや「期待」が経済に及ぼす影響は存外に大きい。
 また、失業率も過去最悪記録を更新しつづけている。失業の定義をアメリカなどのように厳しくすれば、現在の5%台半ばの失業率は10%だと推計される。とくに若年層で深刻なのが懸念される。失業は経済面から生活を崩壊させるだけでなく、社会参加の機会喪失というアイデンティティ・クライシスを招く。A・センのいうように人々の「潜在能力発揮の自由」の剥奪が貧困であるとすれば、たとえ失業保険や家族の援助で経済的には生活できても、失業は先進諸国の現代的な貧困問題なのである。とにかく、さらに生活不安が高まっていけば、「なんとなく時代閉塞」ではすまない事態が出来するのではないか。            ページTOPへ

No.277 2003.4.15 【大河原雅子】

 3月20日、ついに国連決議がないまま米英軍によるイラク攻撃が開始された。大量破壊兵器の所有が想定される敵への自衛を理由とする先制攻撃の正当化、いわゆる“ブッシュ・ドクトリン”に基づく初めての攻撃だ。査察継続を求める声を押し切っての米国の攻撃は、国連安保理を軸に多国間で紛争の解決をめざしてきた国際規範を揺るがす行為であり、世界中の市民が反戦・非戦の声をあげている。多くの市民は、国連決議の有無ではなく、戦争そのものに反対しているのだ。開戦から1週間が経ち、戦闘員だけでなく民間人の犠牲者も増え続ける。
 日米同盟の重要性から米国支持以外の選択肢はないとする小泉首相の方針に対して、やむをえないとの声も多いが、唯一の被爆国として平和憲法をもつ日本だからこそ、平和を希求する発信力と行動力が問われているのだ。
 イラク攻撃直前、東京では石原都知事の一人勝ちが確実視されていた都知事選挙に、樋口恵子さんが立候補を表明した。“問答無用”から“都民が主役”へと、威圧的な石原都政の転換と「超高齢社会において生涯一世紀を支える生活都市として東京を再生したい」と訴える。10歳で東京大空襲を体験し、大学の教壇に立ち、若い世代とともに未来を見通してきた樋口さんは、今だからこそ東京から平和のメッセージを発信したいという。樋口さんの果敢な挑戦は、自らネーミングした「軍国おじさん対平和ばあさん」の対決といわれる。無力感に抗して、非戦の声をあげ続けるしかない。日本最大の選挙で、首長の平和への姿勢も問われる。21世紀初めての統一地方選挙・都知事選挙が、明日から始まる。(3/26)ページTOPへ

No.276 2003.3.15 【細谷正子】

 職場の仕事を通して、人々の生活や生活圏の著しい変化が見える。その実感と、この『社会運動』での議論や実践とのギャップにハッとする。かつての議論の検証をしているようだ。
 小さな起業が増えた。そのかわり失敗も多い。そして破産者。こんなにいるものなんだと驚く。偽名を使った犯罪、ストーカーがらみ、サギ、ネットショップでのトラブルも増えている。身近な所でおこっている。
 介護福祉分野こそ、いろいろできてきたが、まだ高齢=福祉の域。一般社会での高齢対策はおぼつかない。ボケが始まっても一人暮らし…という実態が寂しい。耳が遠い、目がよく見えない、となると外界とのコミュニケーションが取れない。交信手段が無いのだ。この情報社会に、その人たちの道具は無い。それは障害をもった人にとっても同じだ。高度な技術や知識があっても、そちらのためには開発されない。片方だけが突出して発達する。いつも片翼飛行だ。
 せっかく耳も聞こえ目も見える若者はマトモな言葉が使えない。こちらが察して何とかする。彼等はずっとそうして生き延びてきた。「普通の時ならアンタのことなど察してやらない」とこっそり思う。サービス残業やリストラも相変わらずだ。これが仕事で毎日感じる実感だ。このスピードは速すぎる。危ないと思う。
 社会的経済の議論も頻繁になってきた。本誌で展開している方向性を全体図としてホンモノにしていくために、社会全体のつながりを、早くつなぎ始めないと、生活圏がもたなくなる。そんな危うさを感じる。                                  ページTOPへ

No.275 2003.2.15 【柏井宏之】

 佐藤慶幸早稲田大学教授の最終講義<言語論的展開とアソシエーション>を聞きにいった。大久保教授が佐藤氏を紹介して、ウェーバーの行為論の研究者、対話的コミュニケーションのハーバーマス研究者、そして生活クラブ運動の実践を広く紹介したと述べられた。私たちが有名なハーバーマスの『公共性の構造転換』序文改定に先立つ時代に、生活クラブの組合員・職員の実態分析に触れて氏の対話的行為論にどれほど揺さぶられてきたか、光栄なであいだった。最新の著書『NPOと市民社会』(有斐閣)の中には、公・私・共的セクター(社会経済)が、コミュニティ・セクター(生活世界)を基礎とする独特の図を土台に「アソシエーション革命」として展開され、講演でもそれが「もう一つの構造改革」とむすばれた。
 「協同組合の旅・カナダ」は2003年度の活動へつながりそうだ。レイドロウは『西暦2000年の協同組合」の第1優先分野に「世界の飢えを満たす協同組合」をあげた。しかしその後、協同組合関係の国際会議でこのテーマが主要に語られたということを聞いたことがない。参加者が一週間にわたって昼夜つき合っていただいたマクファーソン教授の協同組合に寄せる想いは、レイドロウの遺志を引き継ぎ、世界の貧しい人たちの経済的自立と飢えと闘い食を確保する運動ではないかとの感想が印象的だった。というのも「協同組合とニューエコノミー:主な接点」の5つのプロジェクトには「経済的・社会的に逆境にある人々の協同組合の利用」があげられ6月の会議に生活クラブの参加が求められているからだ。豊かさが問われている。                                                ページTOPへ

No.274 2003.1.15 【宮城健一】

 すったもんだのあげく、鳩山代表が辞任し、再選挙の結果、菅―岡田の対決となり、最終的に菅直人氏が選出された。
 民主党は市民が主役、そして自民党に替わり、政権を担えうる政党を標榜して出発した。おりしも小選挙区制(変則ではあるが)が導入され、従来の中選挙区制の選挙とは景色が大きく変わるのではないかと期待された。もちろん旧来の自民党政治に決別する方向でだが。
 自民党に替わるには、限りなく自民党に似せた政党組織にして、有権者に「どっちでも同じ、なら、新しいほうに任せるか」という心情を抱かせるか。はたまた、民主党の組織論の方が、市民感覚に沿った運営が、未来社会を先と映していると期待を膨らまるかのどちらかだ。
 「市民が主役」の民主党が組織論として試みたのは、代表戦のサポーター制、新人候補発掘のオーディション制ぐらいだ。しかしこれとてオリジナリティに欠ける。
 それよりも政権を担う民主党のリーダーシップのありようが問題だ。今のご時世は傑出した人物が一人でリーダーシップを発揮する時代ではなさそうだ。懐かしい言葉でいえばトロイカ方式、群像として働く時代だ。従って代表戦も、鳩山チーム、菅チーム、横路チームをあらかじめ提示して支持を求めるべきであった。
 ところが、鳩山氏は後から幹事長を選んだ。典型的な自民党派閥政治の構図をとって転覆した。それに懲りて菅氏は、対立候補の岡田氏と権力のコンビを組むことを先に言明した。そして選出された。後知恵もあったろうが、菅方式を民主党の代表戦の新ルールに組織論として取り込むことを考えるべきだ。                 ページTOPへ

No.273 2002.12.15 【古田 睦美】

 このところ、日本でも男女平等の流れに対するバック・ラッシュが激しくなっている。産経新聞や『湧泉』では「男女共同参画社会基本法」=「天下の悪法」キャンペーンが繰り広げられ、同法は「専業主婦を認めず女を全員働かせるもの」「家族崩壊に繋がる」「フリーセックスを推進している」などと報じられている。運動形式としては草の根保守主義の共感を得て市民運動の形をとり、議会では保系内部のリベラル派バッシングもおこっている。
 バック・ラッシュ自体はアメリカにくらべて遅かったくらいであり、驚くにはあたらないが、なぜ今顕著になってきたのかについては必然性があるだろう。先週、中教審が「愛国心」「家庭の役割」重視の方針を示した。「民主主義」「個人の尊重」が、誰も否定できない価値であった戦後の一つの時代が終わった感がある。
 「男女共同参画社会」は平等派からみれば、男も女も労働権と生活権を行使でき、市民社会で活動することのできる社会への転換の可能性を秘めている。そのためには、均等待遇に根ざしたワーク・シェアリング、性別分業の流動化、評価と報酬の平等化を図る税制・年金・福祉の諸政策が求められる。だが、経営者側からみれば、男も女も(パートのおばちゃんのように)搾り取れる社会、保健も金融も民営化し、水や食べ物といった人々の再生産領域、サブシステンス自体もグローバル市場化できるアメリカ型市場社会ないしはもっと過酷な日本型として期待できるのである。フェミニストの主張が総合的な社会政策の形で提起されるようになった現在「男女共同参画」はまさにイデオロギー・バトルの場となっている。 ページTOPへ

No.272 2002.11.15 【宮崎 徹】

 つい先ごろ、『幕末気分』(野口武彦著)という面白くて参考になる本に遭遇した。時代の変化のなかで危機の本質と諸相を正確に知り、対処することがいかに難しいか、思い知らされる。庶民から官僚、政治家にいたるまで同列のようだ。漠然と今までどおりにはいかないと感じながら、実際に鼻面を引き回されるまで枕を高くして寝ているというのが人間なのかもしれない。一例をあげれば、長州征伐に際して旗本や御家人は「御公儀に対して長州ごときが本気ではむかうわけがない」と高をくくっていたらしい。出征は物見遊山であり、指導部の不決断で長く逗留した大阪では芝居見物や酒食にうつつを抜かしていたようだ。本業のほうでは長州軍の近代化で戦の形が一変したのに先祖伝来の鎧や槍で武装した輩が大半だった。さらに、時ならぬ軍需品調達の役得にありつく下級幕臣が跋扈していたという。
 これを徳川300年の安穏ボケというのはやさしいが、あれだけの危機の兆候が続発する中にあっても惰性的な常識や行動規範の呪縛から離脱することの難しさを示しているとみるべきだろう。話は飛ぶが、あの大恐慌に対処するに当ってケインズが最大の難題と指摘したのも古い経済思想の克服であった。現在の経済危機についても伝統的な経済成長志向、財政・金融政策にこだわるだけでいいのか、あるいは新しい装いをした古典的な市場主義でいけるのか、きわめて不確かである。当政策機構内には江戸に学ぶ研究プロジェクトがあり、主としてこの時代のポジティブな面を勉強しようというものだが、同時に退却戦というか転換期についても学ぶ必要がありそうだ。それは別として、この本にはもっと興味深い事例と解釈がたくさん展開されているので一読をおすすめしたい。                 ページTOPへ

No.271 2002.10.15 【大河原雅子】

 「東京電力よ、お前もか」というよりは、「やっぱりね!」と思ったのが大方の反応であろう。私もその一人だ。東京電力の原発トラブル隠しや検査記録の改竄が、同社の自主点検を請け負ったGE社(ゼネラル・エレクトリック・インターナショナル社)の元検査担当者からの内部告発で発覚した。原発の機器のひび割れや誤った取り付けが検査で発見されながら、事実を記載しないGE社の検査報告書にサインさせられた元検査官の良心が告発に向かわせたのだ。
 このところ食品偽装や虚偽表示も内部告発から次々に事件が明るみに出たが、この告発が旧通産省に寄せられたのは2年前の2000年7月。いったい国は何をしていたのか。当初、この告発が“GE社内部の内輪もめ”と受け止めれたということに 驚きを禁じ得ない。例え内輪もめだったにせよ、稼働中の原発に検査でトラブルが見つかっているという内容になぜ反応しないのか。国の検査の際にも、ひび割れに金属板を立てかけて検査官の目をごまかしたケースまであるという。原発の安全神話に毒された官僚機構と利権政治が、未だに温暖化防止対策の柱を原子力にしていることに強い怒りを覚える。
 原発は事故が起きた場合に甚大な被害が起きるばかりでなく、建設からリスク対策、廃棄物処理や廃炉までのトータルなコストから考えても決して効率的な発電とはいえない。また忘れてはならない日常的な危険として、公安委員会しか情報を持たない核燃料や核廃棄物の輸送問題がある。混雑する都内の道路を輸送トラックが頻繁に走っており、今後も原発を増やすなら、市民を巻き込む日常的な危機はますます大きくなっていく。自然エネルギー推進計画も国任せにせず、自治体が市民とともにエネルギービジョンをつくり、共にエネルギーシフトを国に強く求めていかなくてはならない。                 ページTOPへ

No.270 2002.9.15 【柏井宏之】

 五島列島の夏は、盆前に早場米が刈られていた。台風による全滅をさけるため8、9、10月の苅取りだ。2年前「離島で物々交換型の生協は創れないか」と相談をされ出かけたことがある。獲れた鮮魚は長崎、博多、大阪へ直航し魚はそこからUターンして戻ってくる。何という理不尽!。生協構想を実質担った地区労も今や解体、巡った農協も漁協も合併。さらに1市5町の合併と地方の再編は急ピッチだった。その時の米の島内産直が細々と続いていた。
 8月9日の長崎は反核一色だ。福江では毎月9日、30数年欠かさず座り込みの抗議がつづけられてきたという。強い意志力を感じさせる運動だ。
 五島はキリシタンの島である。藩主自ら教会を建て洗礼を受け島民を帰依させた。禁令が出、島原の乱のあと、“島原くずれ”が隠れ住むところとなり五島の隅々に3千人に及んだ。奥浦に泊まったが、地蔵堂でマリア観音を観た。その地の栄林寺の白磁の観音には十字架の手が落とされていた。禁令解除後、寺の屋根に十字が付けられたという。ここは末子相続の地でもある。
 五島は黒潮と玄海灘の交わる多文化の地だ。アジアの漁民や母系の伝統も残している。高崎の美浜に建つ見張り台は共同漁労の名残をとどめ、ムラ人総出で囲い網を引き獲物を最近まで共同分配したという。坂上には女相撲の聖所があり、この日だけは重労働や家事労働から解放される。文身鯨面の天(海人)国の倭寇・王直の祭りや廟もある。帰路、チャンココ踊りの門付けに送り出されて福江、奈留、若松、青方、小値賀、宇久、生月、平戸をめぐったが、生月に風力発電が4機、悠然と潮風をうけて廻っていた。島のしたたかさをそこにみた。                                                ページTOPへ

No.269 2002.8.15 【宮城健一】

 サッカーW杯の後、静かな日本になるかと思いきや、長野県議会から、田中知事の不信任可決という胸躍る政治トピックスが提起された。
 議会筋の不信任の言い分として、知事の政治手法が槍玉にあがっていたが、筆者の印象に残ったのは、長野県議会のなんともいえない権威主義的な固陋振りだ。田中型政治文化と旧来型議会文化のせめぎ合いだ。
 報道によれば、田中知事は議会の解散でなく、失職の道を選択し、知事選に再立候補する可能性が高いという。そうなれば、知事選が脱ダムという政策をめぐる住民投票の代理だ、という見かたも出てくるであるが、政治文化の選択の様相が強まるであろう。
 この動きを見ていて、かつての逗子市のことを思いだした。この時は、池子の森の米軍住宅の建設をめぐって、池子の森の自然を残せという反対派との政策の綱引きであった。
 当時の富野市長は、再立候補した市長選を住民投票の替わりと位置付けた。長野知事選もこれと似たようなことになるかも知れないが、逗子で富野市長が挑戦したのは、市民参加型行政の開発であった。市議に多数の女性議員が当選してきたこと、また市長は市民委員会を多数設置し、委員は市民から公募で選んだ。このやり方は、戦後の「男女共学民主主義」の実践と名づけられた。
 田中知事は情報公開と自身の行動の公開を信条にしているようだ。知事を表敬訪問したロシアの若い女性は、田中知事の動きをゴルバチョフのペレストロイカになぞらえていた。
 田中知事の目指す民主主義は果たして何と名づけたらよいのだろうか。   ページTOPへ

No.268 2002.7.15 【細谷正子】

 2月号の中国経済特区の上海の表紙。4月号には、昔の墨田の工場街のような深■の記事。6月には生活の質問題プロジェクトの墨田報告記。このつながりは、一挙に私を95年に戻して懐かしかった。関満博氏の著書との出会いが始まりだ。「地域経済と地場産業」「中国開放政策と日本企業」「中国長江下流域の発展戦略」「地域経済と中小企業」など。題名だけで冒頭のつながりの意味がご想像いただけると思う。
 面白かった。すぐに氏にお手紙を書いた。北東京生活クラブで、地域の自立と地域経営という視点でお話をして頂きたい、と。快諾を得て実現したのは97年1月になっていた。氏は学生も誘って来て下さった。生活クラブという面白そうな人たちがいるからと。墨田の話しは例に引く程度だったが、区の最重要課題に中小企業を位置付け、区が当時把握していた9313工場全てに対し、中堅職員200人が調査に当ったこと。その後の次々と具体化されていくものの出発点は、全てこの実態調査だったという。20年以上いろいろな現場の中にいる氏だからこそ、貴重な興味深い話を沢山いただいた。以前からロンドンのまちづくりの工夫から、インナーシティ問題が気になっていたので、その問題に明確に触れる氏の言葉は説得力があった。この問題は、最近ますますその傾向が強まっていると思う。都市化、高齢化、国際化。老朽化した住宅、世代バランスの悪さ、外国人労働者、過密した住い方。今後の地域経営は、住民と企業と自治体の三者によって担われるという。その通りだと思う。  ページTOPへ

No.267 2002.6.15 【池田 徹】

 生活クラブ千葉では、来年度から始まる第7次中期計画の議論が始まった。議論を開始するにあたり私がいくつかの問題意識を提示したのだが、そのひとつは「より加入しやすく、より加入しにくい生協に」というものである。この間の構造改革によって生活クラブグループは長期にわたった減少傾向に歯止めをかけることができた。大勢増えなくても良い。しかし、少しずつでも仲間が増えていくか否かは、私たちの主張が地域社会の共感を得られているかのバロメータである。組合員が増加傾向に転じたことを歓迎したい。便利にできることはもっと便利にして、だれでもどんなライフスタイルの人でも生活クラブを利用できるように改善を続けていきたい。「より加入しやすい生協に」である。
 その上で、「より加入しにくい生協に」しなければならないと思う。このところ、生協での産地偽装事件が続発した。背景に欠品を出したらペナルティをとるところさえあるという生産者と生協の関係がある。一連の事件は食べ物を取り扱う生協の根本的な姿勢を問い直しているのだ。生活クラブでも鶏肉問題等が発生したから大きなことは言えないが、それでも例えば豚肉の1頭買いに代表されるように、生産の実態を直視して消費のあり方を制御する共同購入のあり方は、他の生協では考えられないことではないか。野放図な消費態度を抑制することを呼びかける生協は「加入しにくい」生協である。しかし、その加入しにくさは、生活クラブの魅力そのものでもある。加入しやすくするところは徹底してやることで、「加入しにくさ」に惹かれて生活クラブを選んで加入してくる人たちを増やしていきたい。       ページTOPへ

No.266 2002.5.15 【柏井 宏之】

  『金達寿ルネサンス』(解放出版社)の刊行を祝い、辛基秀さんを励ます会の案内と誘いをうけ、私はおもわず大阪・法円坂へかけつけた。金達寿はいうまでもなく在日朝鮮人作家の先達である。10歳の時日本に渡り、くず拾いと納豆売りをしながら苦学し戦後『後裔の街』『玄海灘』『朴達の裁判』『太白山脈』を書き「日本の中の朝鮮文化」で知られ、すでに亡くなって5年になる。辛基秀さんは江戸時代の「朝鮮通信使」の発掘でしられ金達寿氏とは『季刊三千里』で誌面を飾り、今回の著書の編者。その71歳の誕生日を祝う会でもあったが、昨年秋以来の入院で遂に出席できず残念、「会いたかった」の声しきりの中、娘さん2人が代わって挨拶と花束を受けられた。
 乾杯は上田正昭教授、「金達寿は在日のドナルドキンと呼ばれた」とその豪放磊落な性格を紹介、会場には姜在彦、徐龍達、梁永厚、趙博、呉相彩ら多数の在日韓国・朝鮮人の顔が見えた。
 戦後文学は金達寿とそれに続く金石範、高史明、金時鐘、李恢成、梁石日、柳美里らにつならる一連の在日文学をもつことによって日本の中の深底から発する人間の叫びを聞くことができた。私たちは何者であるかを照射され、そのつど蘇生の契機をえてきた。
 植民地支配によって言葉を奪われ「植民地文学」を強いられた彼らが、「一世世代が元手をかけて獲得した日本語」(磯貝治良)によって在日朝鮮人文学を「侵略言語」「仇敵の言葉」であえて書き続けた金達寿の「栄光と悲哀」、金石範の「言葉の呪縛」から、今や堂々のポストコロニアルを踏まえた最もグローカルな共生の感性をつづっているのだ。 ページTOPへ

No.265 2002.4.15 【宮崎 徹】

 2月の終りから15日間ほどヨーロッパのいくつかの都市を訪問する機会に恵まれました。しばらく前からヨーロッパでは都市の再生というか「都市のルネサンス」が大きなうねりとなっているので、それを垣間見てこようということでした。国名でいうと、フランス、スペイン、イタリアで、昨秋の「協同組合の旅」と全く同じでしたが、訪問した都市は重ならなかったので見聞を広げることができました。
 最も印象に残ったのは、バルセロナの公共空間政策です。ごく簡単に紹介しますと、従来の都市再開発のように図書館や美術館のような箱もの、あるいは立派な道路を通すことをめざすのとは発想を全く転換しています。たとえば、スラム化したところにある倒壊しそうなビルを壊して広場にしてしまうのです。日当たりのよいところに人々が憩うようになり街区全体が明るく風通しがよくなります。
 そうした公共空間をネットワーク状につなげて人々が出会える空間を拡大していくわけです。もともと各都市には大小の広場があり、そこではバザールのようなものが頻繁に催されているのですが、それを過密で暗いインナーシティ対策として広げようとするものです。80年代以降のヨーロッパでは公共空間に人を呼び戻すことに成功した都市が魅力ある都市とみなされるようになったといいます。「公共空間の復権」といっていいかもしれません。もっとも、バルセロナの場合は開発資金が少ないので知恵を絞らざるを得なかったという面もあったようです。それはともかく、生活の基盤である場所、空間を人間的にするのは基本というか、レベルの高い豊かさの追求だと思われます。                 ページTOPへ

No.264 2002.3.15 【大河原雅子】

 「国家百年の計」と言われる都市計画だが、実際に今すすめられているのは経済対策としての「都市再生」で、そこでは当然のように経済・効率が優先されている。様々な規制緩和のなかでも、特に容積率の緩和は東京をビルだらけのまちに変えてしまう。先日、私の担当する都議会/都市・環境委員会で審議された超高層マンションの建設に反対する住民の請願には、その問題点が端的に現れていた。
 高輪の町もバブル期にはご多分にもれず地上げに荒らされ、不良債権化した土地も少なくない。まちの中心に位置するその土地は、公的資金も投入されている(財)民間都市開発推進機構から某マンション会社に渡り、公開空地を設けて容積率の緩和を得る総合設計制度で高さ153mの超高層マンションが計画された。周辺住民からは全く歓迎されない北向きの暗く寒々とした公開空地と引き替えに、規定の容積率に倍近いボーナスがつき、高さにして約1.8倍のマンション建設が可能になった。閑静な寺町を見下ろすビル計画に周辺すべての町内会が反対し、住民からは高輪再生の見直し案も提案されているが全く取り入れられる様子はない。緩和を許可する手続きの中に住民意見の聴取が全くないことがまず問題だ。
 都議会で新年度予算の審議がはじまる。「首都東京の再生」は石原都政の大看板。小泉―石原の連携で進められる首都圏再生プロジェクトも動き出し、都の都市再生予算は道路や鉄道、都心の土地区画整理事業などに重点化されて破格の扱いだ。だが、誰のための都市再生か疑問は大きい。                 ページTOPへ

No.263 2002.2.15 【細谷 正子】

 まちづくりが、やっと市民のものになってきた気がする。私の住む東京練馬区は、市民自治という点では進めづらい区であったことは間違いない。ところが「この練馬区で?」である。
 現在区では都市計画マスタープラン地域別指針の策定にあたり、7つのブロックに分け懇談会を設置している。それぞれ自由に地域別指針を策定するわけで、この3月には“地区別”のためのカルテの提案もされる予定だ。基本的にはこれまでの計画をベースとしながら、当時との社会経済状況や区民意識の大きな変化を踏まえ、『修復型のまちづくり』に重点を置き、『住民主体のまちづくり』『評価と見直し』を明言している。区がこのような視点に立ったその転換点を、提言メンバーの一人として見てきた。区やコンサルの意識が転換し切るためには、区民の安心できる後押しが必要っだったのだ。
 先月各ブロックの中間報告会があった。広い会場を静かな熱気が覆っていた。ブロックごとの報告書ができあがり、報告書そのものがまち歩き記録集となるものもあった。手書き、写真入りのパネルが並んだ。OHPとパソコンを駆使して報告する所も多い。なるべくまとめの結論を急がない所など様々。ブロックの違いや、慣れの違いの差が大きく出た。コーディネーターからは、いずれもわずか数ヶ月間の、まち歩き、ワークショップ、まとめ作業等、そのエネルギーを評価された。見事にまとめた所に対し「プロのようで、もっと素人らしさを」とのコメントにはまいった。そのすぐ後を「プロのような市民が出てきた、当然の事と評価」とコメントされて救われた。市民が力をつけてきた、と評価したい。                 ページTOPへ

No.262 2002.1.15 【宮城 健一】

 小泉首相は構造改革を声高に叫んでいるが、何をどうする構造改革なのか、なかなかはっきりしない。しかし、衆目が一致していることは戦後、否、明治以降につくりあげてきた土地本位制の崩壊という事であろう。
 先日「日本の近代的土地所有(奥田晴樹著、弘文堂)のなかに面白い事が紹介されていた。明治5年頃からはじめられた地租改正の際、重要な役割をはたした神田孝平という役人がいて、地券制度を提唱した。地租改正は、土地の私有権をみとめ、かつ売買を解禁する。その際、江戸時代の石高制から、地価に対して課税する制度に変更された。ところが、それまで売買禁止であったので土地に価格がついていない。そこで地価を自己申告させ、それに基づいて地券を発行し、課税の対象の価格にするという方式を採用した。その際、申告地価が相場より安い場合は、購入希望者に入札させ、買い取ってしまうということで、低い地価の申告を防止しようとした。また、その後の売買の結果も地券に裏書することによって取引が成立するという制度。
 明治22年に現在の制度のように、土地登記と課税台帳が分離し、地券制度は終りをみたが、興味ある制度だ。
 台湾には孫文の提唱した三民主義に基づく平均地権制度というのが現在もあり、地価を自己申告させそれに応じて課税するという地券制度とそっくり同じ考え方のもの。明治の地券制度を孫文が研究したに違いないと思う次第。
 日本の現在、土地制度の改革が構造改革の根幹だと思っている。       ページTOPへ

No.261 2001.12.15 【古田 睦美】

 近年「オランダ・モデル」という言葉をよく耳にするようになった。70年代に「オランダ病」とまでいわれた経済は80年代初頭の政労使協調合意を基礎として、国際競争力の回復と雇用創出に成功、EIU(英国の民間調査機関)による世界58カ国のビジネス評価(97〜2000年)でみごと1位をしめ、EUのモデルと言われるまでになった。
 成功の要は「パート革命」と「ワークシェアリング」の実現といわれる。2日ほど前のラジオ放送でとうとう小泉首相の口からも「オランダ・モデル」の名を聞くこととなった。「日本も賃上げよりも雇用確保(流動化という意味だろう)を優先するオランダ・モデルをめざす」というような内容だった。同じ雇用の流動化をめざす経済団体でさえ「ヨーロッパ型路線は採らない」と明言しているのと比べて、この発言は「破廉恥」なほどの大嘘つきか、ほんとの「無知蒙昧」かのどちらかである(にわかに判別がつかないところが小泉さんである)。
 つまり、ヨーロッパであれは労働者の人権や生活権の侵害だとみなされるほどの、賃金や労働条件の格差が存在する日本の雇用の現状をそのままにして、合理化、リストラ、有期雇用の活用、パート化を推し進める「流動化」は、労働コストの削減とともに失業、著しい賃金ダウンをともなう転職など労働条件の悪化をもたらすのみだ。
 これに対して例えばオランダでは96年の法律で5%以上の賃金格差は違法とされた。ヨーロッパの雇用の流動化は均等待遇と社会保障によって支えられているのである。9月の参議院選の際、女性団体が行なった均等待遇に関するアンケートの結果を見ても自民党は均等待遇をまったく考えていない。この違いを明らかにしていく市民による争点づくりの必要を痛感する。                                  ページTOPへ

No.260 2001.11.15 【池田 徹】

 テロ事件と報復攻撃で世界がゆれている中で、ローカルな話題で申し訳ないが、千葉県が、大きく変わりつつあることを報告したい。去る10月25日、「自分らしい地域生活支援研究会」という組織が発足した。「支援を必要とする障害者、高齢者、乳幼児、児童などを地域全体でケアする仕組み(地域ケアシステム)のありかたを研究し、必要な提言を行なう」ことを目的にし、「1年を単位に、千葉県内の福祉活動と行政の施策展開状況を分析し、課題と提言をまとめ」ることを主な活動とする。会の存続期間を4年と定めたことにも明らかだが、この会は、堂本暁子さんが知事になったことと連動している。福祉と環境、それにNPO立県を掲げた新知事は就任半年とは思えないスピードで行政の方向転換を図りつつある。三番瀬の埋め立て中止は全国のニュースになったが、他の分野、特に私が関わる福祉の分野での動きは目を見張るものがある。何よりも職員の仕事の仕方が全く違ってきた。「自分らしい…研究会」の会合にも、関係課の実務担当者が業務として参加することになった。考えられなかったことである。
 研究会の会員になったのは、当時者団体、福祉関係団体の現場で日々苦闘している人たち、彼らの研究会に寄せる思いはある意味で極めてドライである。堂本さんが知事である間が最大のチャンス、今のうちに、県の政策の基本方向を変え、できる限りの具体的施策を引き出したい。それが可能である限りにおいて研究会の意味があるというものだ。4年で目処がつけば良し。そうでなければ、あと1期堂本さんに頑張ってもらうしかない。  ページTOPへ

No.259 2001.10.15 【柏井 宏之】

 岡部一明さんからメールが届いて驚いた。生協総研の研究賞を『サンフランシスコから:社会変革NPO』(御茶の水書房)が受賞、その相当部分がかつて『社会運動』に連載されたことへのお礼である。生協総研の栗本昭さんからも受賞記念の「公開研究会」での協力要請がきた。歴史の継承性の重みを痛感した。
 2年前の臨時総会で『社会運動』の性格が変化した。佐野編集統括のもと、グループの材の生産・流通など特色ある内部分析がすすんだ。7月総会を機に「生活の質」をメインテーマに調査事業室が新たに立ち上がることになった。 編集会議メンバーに、新たに大河原雅子、古田睦美、宮城健一さんが加わることとなった。編集企画にご本人の言説だけでなく案や人の紹介を期待したい。これで男女同数が実現した。 誌面の基調を調査研究、調査事業の双方を含み、何よりも運動グループの様々な運動現場からの発言を交差させ、総合誌の性格を深めていくことが常任理事会で決まった。そのために創建当時、「社会運動としての生活クラブ」「生活クラブと知識人の対話」の2つの討議資料をまとめられた岩根邦雄顧問の原点の話を聞き、討論する自主研究会も決まった。
 桑原史成さんの表紙の写真が届いて心がふるえた。アフガニスタンの姉弟と年寄りのありふれた日常の一瞬、そして悠久の歴史の伝承としての遊牧の民俗が写されている。いま難民として飢餓のなかに映されているアフガニスタンのひとびとの表情とは全く違う。近代と大国の論理はこうした異文化に対してあまりに残酷である。今晩から「協同組合の旅」が始まる。                                                ページTOPへ

No.258 2001.9.15 【宮崎 徹】

 何度めかのクリティカル・ポイントを迎えつつある日本経済について、数ある難問のうち2点に触れておこう。
(1)いよいよ小泉政権による「痛みをともなう構造改革」が具体化するが、もっとも懸念されるのは失業問題である。現に7月の失業率は、1953年の調査開始以来はじめて5%台となった。これに関連して2つのことに注意する必要がある。第1は、なかなか仕事が得られないために労働市場から退出してしまったディスカレッジド・ワーカーの増大である。最新の「労働力特別調査」(2月)によれば、その数は453万人で完全失業者の318万人を大きく上回っている。両者合わせたものを広義の失業者だとすれば、その労働力人口に占める割合は11.6%となる。「実質的な失業率は10%を超えているのではないか」という問いかけに符合している。第2は、失業期間の長期化である。実際、失業期間1年以上の失業者の割合が増加傾向にある。失業が長期化すれば、ディスカレッジド・ワーカーが増えつづけ、統計上の失業率の背後に膨大な潜在失業者が堆積していくことになる。(2)消費活動の低迷が続いているなか、消費者心理が一段と弱まってきている。消費者態度指数(「暮し向き」「雇用環境」などの5項目について今後半年間の消費者の見通しを指数化したもの、四半期ごと)をみると、3月調査では40.2と2四半期連続で悪化した。昨年12月調査からの悪化幅は2.8ポイントであり、金融不安のさなかにあった97年12月調査以来の大きさとなった。直近の6月調査では0.7ポイント改善したが、前年同期比では2.2ポイント低下と悪化が続いている。なかでも「雇用環境」に対する見方の厳しさが消費者態度指数の低下に大きく影響しており、(1)との関連が留意されねばならない。                 ページTOPへ

No.257 2001.8.15 【細谷 正子】

 5〜6年前、生活クラブの組合員活動に男の人が参加すれば、まだちやほやされた。男の人の方も慣れていなくて、会社組織のやり方を持ち込んでいた。私たちのやっていることが、素人くさく見えたのだろう。しかし必ずしも会社で通用したことが意味を持たないことを知って、去って行った人もいるが、新たな目で関心を寄せてくれた人もいる。そういう新たな目があったから、今、確実に、私たちと一緒に活動をしようとする男の人が増えてきている。男の人に限らない。同様に会社で働く女の人も多い中、反応は同じだった。
 今、私の身近な配食ボランティアグループを見ると、メンバーの4割が男の人だったりする。私の関わっている地域福祉の拠点づくりでは、その他のボランティア活動にも、働いている男の人も女の人も、自分のできる範囲で活動している。「自分のやっている仕事で、役にたつことはないか」と相談しに来てくれる。しかし、時代状況だけで、どこも同様になるとは思えない。いくつかの地域で同じように始めようとする人が出てきてくれても、なかなか苦戦するところが多い。やはり、相手に、新たな目で関心を持たせることに成功した、その関係を作らせた人が、こちら側にいたから、今この展開ができている、ということをつくづく感じている。地域の違いはそこにあると思う。『男性や働く人がボランティア活動や生活クラブ活動に参加してくるって、細谷さんはいったい何年先のことを言っているの』『机上のものと、地域で実感していることの違いだよ』ある会議でのやりとりが懐かしい。ほんの5〜6年前である。 ページTOPへ

No.256 2001.7.15 【池田 徹】

 都議選が終わった。自民党、公明党が勝利、民主党伸び悩み、共産党惨敗という結果が報道され、「小泉現象」とも言える暴風が都議選の結果に大きく影響し、参議院選も同様の結果が予想されるという。多分その通りだろう。
 しかし、東京生活者ネットが6名全員当選という大躍進を果たしたことについて、マスコミの取り上げ方が極めて弱いのはどうしたことだろう。3月の千葉県知事選に関わった一人として、市民の投票行動について、マスコミは全然判っていないという感を強くしている。
 私は、社会運動誌254号で知事選についてリポートしたが、その中で、堂本さんへの49万票は浮動票ではなく、「市民の確信票」だと書いた。また、消去法によって投票することが多かった市民が、堂本さんには積極的に1票を投じたとも書いた。なぜ、積極的な票になったかを補足すると、それは市民自身の選挙運動への積極的な参加があったからなのだ。市民は堂本暁子という候補者と直接向き合って票を入れたというより、堂本暁子を応援するおおぜいの、自分たちと同じ人々を通して、堂本暁子と向き合った。市民の浮動票は、田中康夫に流れたり、菅直人に流れたり、小泉純一郎や田中真紀子だったりする。しかし、市民自身の活動を通した確信票は、風向きに関係なく、候補者とそれを支援する人々への確かな1票となる。
 千葉県知事選での堂本さんの当選、次いで行なわれた千葉市長選での自民党の勝利(ネットは自主投票であった。一方、同日行なわれた千葉市稲毛区の補欠選挙ではネットが勝利した。)、そして小泉現象が渦巻く都議選でのネットの超然とした躍進が、それを明確に証明している。風向きにしか興味を示さないマスコミは、この本質を全く理解していないように思える。                                  ページTOPへ

これ以前の号は『 編集会議から』

No.255 2001.6.15 【事務局・佐野】

 はじめにお詫び申し上げます。毎号のように校正ミスが見つかりご迷惑をおかけしております。“ゼロ”をめざして精進してまいります。
 さて。だれしもスポーツ選手や芸能人に限らず一人、二人の「ひいき」を持っているものです。「ファン」あるいは「おっかけ」と称する場合もあります。ちょっとアレンジして社会学的には「定点観測」、医科学的には「臨床…」と似ているでしょうか。私も勝手に「ひいきすじ」を設けて長年“ウォッチング”してきました。
 本人(現場)以上に本人(現場)のクセや仕草を知っていて、次の動作をリアルタイムで予測出来るようになればファンとしても一人前です。居酒屋での論評にも一目置かれ、新聞・雑誌などからの引用や他評の孫受けを得意とする酔客はたちまちのうちに撃破され、「まぁまぁ一杯」という具合におもわぬ恩恵に与かることも出来ます。ところで、私は、生活クラブ運動は地域に「生活の道具」を作る活動だと理解しています。そこで最近気になるのは、「時代分析」や「社会傾向」は書きものから正確にうかがい知れるのですが、肝心の、生身の生活像が伝わってこないことがあります。思わず「だからどうしたいの?」と資料に向かって聞き返えしたりします。「ファン」に見習い、追っかけ精神と臨床学的アプローチをもって、具体的な生活像を描いていく必要性を感じます。また、描いた生活像を評価する(カウントする)方法を見出ださなければなりません。私も、さらにファン根性を鍛え上げ、評価する手法を探りながら『社会運動』の編集に反映させていきたいと思っています。それが市民セクター政策機構のミッションだと思います。                                 ページTOPへ

No.254 2001.5.15 【柏井 宏之】

 日本を大陸に引き付けて見るのではなく太平洋に散らばる6千もの島礁のなかに、首飾りの弓なりの連なりとしてヤポネシアを見出だしたのは島尾俊雄だった。だが朝鮮半島は日本列島に突き出されたダモクレスの剣と見る論もある。しかし地図を逆様にすれば超軍事大国と経済大国が沖縄をキーにして逆包囲しているのも事実。この東アジア地域に「太陽政策」という卓抜な構想で「南北対話」を切り開いたのは金大中だが、今回の米中偵察機接触事故は、よほどリアリズムを伴った根太い理念なしには前途は容易でないことを痛感させた。
 5月は憲法をめぐって二項対立的な論議が盛んだ。しかし外から見れば、日本は「憲法・核安保体制」の貼り合わせ体制で、その抽象論議より東アジアの緊張緩和と人事・経済交流が日本の未来を握るとの立場で組み立てるべきだ。
 在日の姜尚中東大助教授は、憲法調査会で発言、何よりも近隣の隣人を持つことの重要性を説いた。またナショナリズムを「取扱注意」にし、ボルテージをあげない仕組みの必要性を力説、若い世代の大学間での単位互換性やテレビなどの近隣2カ国語放送の着手など具体的な実施案を提案、各国が多極的な安全保障として「北東アジア共同の家」をもつことを提起した。
 姜氏は南北首脳会談前の在日の集会で、かつての「南北共同声明」と違い今回の対話は朝鮮半島から外に出た5百万人の人々がアリューシャンからユーラシアの各地に暮らし「多民族・多文化・共生のアジア」を生きた人々の熱い共感が支えていると語った。異質なものを豊穣としてきた重い貴重な事実からの声がそこにある。                 ページTOPへ

No.253 2001.4.15 【宮崎 徹】

 前号の本欄に触発され、「あえて少し柔弱なことを書く」。
 読者諸兄 は社会科学系 の悪文というか色気のない文章に倦みつかれたとき、どのような代償作業 をしていますか。私の場合 は小説 を読むことをもって毒消 しをすることにしています。それにしても経済学者 や政治学者 の文章はひどいと思いませんか(こういう場合自分のことは棚上 げしているのが通例です)。政治学 には原理論 のようなものがなく、着想 や作文能力 こそが問われるだけに政治学者 のほうがまだましかもしれません。
 しかし、私の独断と偏見によれば、経済学も社会科学の一部であり、もっと広くとれば人文科学に包含され、行き着くところは文学ではないかとさえ考えられます。
 それはともかく、あたりまえですが作家の文章はさすがだというべきでしょう。しばらく前に親しんでいた藤沢周平などは、これしかないというかズレや揺るぎがない表現でしばしば感心させられたものです。最近では米寿の現役作家小島信夫に興味を持っています。かの「抱擁家族」の30年後の展開を書いた「うるわしき日々」もなかなかのものでした。私小説風でありながら普遍性がある、ユーモアを伴った悲惨という含蓄があります。テーマである家族は、彼の場合ソフトだけではなくハードも重要なので(詳しくは作品を読まれたい)モデルである昭和30年代における最先端の家(ご自宅)も拝見しました。たまたま住所が私の近所であったので探し当てたのです。周りの風情とともに作中の描写が思い出されました。蛇足ながら、物干し竿には老作家の巨大な猿又が一枚風に翻っておりました。               ページTOPへ

No.252 2001.3.15 【中村 陽一】

 今回は、あえて少し生硬なことを書く。
 先日、全社協の雑誌『月刊福祉』特集用鼎談収録を行ってきた。相手は高橋紘士氏(立教大学)と加藤敏春氏(経済産業省)。
 「共助システムの展開と社会福祉」というテーマだったのだが、奇しくも話は、領域型思考に陥らず、いかにして重層型の発想を形にしていけるか、という問題意識へと収斂していった。社会福祉のあり方はむろんのこと、これはたとえば、NPOの現在を俎上に乗せる議論でもある。
 いま喧しいNPOのマネジメントや評価といった話がはらむ落し穴。それは、錆びた尺度で活動を括ってしまう、つまり想像力/創造力に乏しい領域型思考に陥ってしまうことだ。私たちにとってNPOの発見とは、そうではなく領域横断的なつながりへといざなう道具立ての発掘であったはず。加藤氏提唱のエコマネーも人と人とのコミュニケーション・メディアたるマネーのルネッサンスとして、そうした発掘に連なる。
 この鼎談の前日、私が代表を務める21世紀コープ研究センターでは富沢賢治氏(聖学院大学)をお招きし、基盤としてのコミュニティをつくりつつ連帯していくセクターとしての社会的経済組織のありようをめぐって議論した。
 (領域横断的な)つながり、コミュニケーション、連帯、そこでは相互理解が鍵となる。しかし、それは個人の「孤独な幸福」をもひっくるめて支え合うシステムを創造するためのもので、決して他者をある運動領域に同化させることではない。ウィーン郊外グギング村の<芸術家の家>で暮らす、精神障害をもったアーティストたちを映像で捉えた作品『遠足』を見るとその思いを深くする。                                    ページTOPへ

No.251 2001.2.15 【池田 徹】

 3月8日告示、25日投票の千葉県知事選挙を前に、新聞の千葉版各紙は連日各政党および市民団体の候補者選びの過程を報道している。中でも「21世紀の千葉を創る県民の会」という市民団体が市民の世紀への道筋を千葉県民がつくろうと活発に活動していることが注目を集めている。
 昨夏の長野県知事戦での田中康夫氏当選の意義は、栃木県での福田氏の当選によって、より高められたと思う。田中氏の個人的な資質は別として、有名人であることは間違いなく、横山ノック、青島幸男現象の流れを完全には否定できないとの思いが多少あった。しかし、「栃木」はこの文脈では説明できない。
 戦後の日本は、政、官、財、民それぞれが経済成長の分け前を取り合ってきた。バブルがはじけ、銀行がつぶれ、保険会社がつぶれ、日本中をリストラの大波が覆っているが、人々はようやくにして真っ当で心豊かな人生を選ぼうとし始めているのだと思う。千葉県知事選はこの変化を日本の将来像として決定付けるために極めて大きな役割を果たすことになろう。
 日本は、8億トンを輸入し、輸出量は1億トンに過ぎず、毎年7億トンのゴミを国内に溜め続けているという(農業総合研究所長 篠原孝氏=1月27日に開かれた旭市サンライズプラン交流会にて)。飽食と贅の限りを尽くす中でゴミ列島と化している日本、世界のブランドを買い漁る日本、本当にもういい加減にしなければならない。
 千葉県知事選はもちろん、6月には千葉市長選挙もある。そして参議院選挙。政治を自分の生活意識の埒外に置くことはもう許されない。                 ページTOPへ

No.250 2001.1.15 【細谷 正子】

 最近『大いなる誤解』がやたらと目に付く。
フェミニズムとジェンダーの関係でも、履き違えた議論をして問題の本質が見えていなかったり。自己の確立へ向かう修行の旅との引き換えもない、自分勝手だけの個人主義が横行したり。これで「地域」「自治」「コミュニティー」をキーワードとする協同セクターを充実させていくのは容易ではない。図を描くのは難しくない。方法もそこそこ。何が大変かと言えば一つひとつの大いなる誤解に出会い共通認識をつくる丁寧な活動が不可欠だからだ。その活動を誰がやれるのか。単純な意味での自分しかないひとに、あらゆる差異を正面から受け止めることは容易ではないだろう。絶対的自分が苦手とするものは他者だからだ。一方で、そういう人を非難するひとがエスカレートすると排他的な発言になる。どちらも共通なのに。おまけに協同セクターのなかにも大いなる誤解が存在したりする。地域とはそういう所だ。その中でいろいろな縁に身をおきながら地道な活動をする人が存在し、共感が広がっていかないと、描いた図が現実になっていかない。
 昨年伝統工芸品に携わる「師」とつく人々を知った。ネットワークのような世界で、互いの技術が関係し合って全体ができていたりする。どの人も、何百年という時間を経てきた伝統の中に自分があり、しかし埋没せず、人や物や空気(自然)と共生している姿が、見事に自然体だった。自分の技に対する信頼と、自分を越えてその時の条件が作り出す出来に、信頼を寄せる姿が清々しかった。地域には、そういう人々もいる。                ページTOPへ

No.249 2000.12.15 【宮崎 徹】

 時代の閉塞を破る一つのキー・コンセプトとして、しばらく前から「新しい公共性」ということがいわれている。その中身はもう一つ明らかではないが、新しい言葉というものは運動が作り出すものだとすれば、運動自体が途上段階にあるとみるべきだろう。おそらく市民という主体概念と公共性という価値空間概念を自覚的に結び付けることが課題となっているのだ。
 振り返ってみれば、市民という言葉は今では何の抵抗感もなく多用されている。逆に言えば、その言葉が持っていたイメージ喚起力が衰弱し、その歴史的背景や文脈も忘れられてきている。
 また、公共という言葉は「お上」として人々の上位にあるものとして敬して遠ざけられていた。公共性は国家、政府が独占していた。しかし、人々の自治能力が高まる一方、他方では行政の問題解決能力が急速に低下するなかで、公共性とは何かを改めて問い直す動きが強まってきている。
 生活クラブグループが先駆的に提起してきた公・共・私概念に一層の磨きをかけることが時代全体の要請となってきたのではないか。                 ページTOPへ

No.248 2000.11.15  【柏井 宏之】

 協同組合・NGOをめぐる熱い秋の論議が続いている。カナダのマクファーソン教授を招いての生活クラブ連合会のシンポジウムは、その前後の交流で、21世紀の協同組合は自治と地域をキーワードとして、市場では疎外として弾きだされる人間関係資源を社会資本として、多様で分権的な事業システムの担い手として創りだすことが改めて浮彫りになったように思う。
 中でも少子・高齢化社会にあっては、営利システムでは社会的に不利な立場のひとびとを挑ね飛ばし対象者には画一的であるのに対し、人のネットワークによって個別対応型の非営利事業の役割は大きいとワーカーズコレクティブやヘルスコープの自治と分権型にその期待で一致したように思う。また組合員と事務局・専門家・行政のステークホルダー調整の運営が問われるようになっておりその運営原則は実態の中からつくる以外にない。何よりも日本の戦後の協同組合法制の縦割り法制では対応できず、統一協同組合法、協同組合基本法、さらにはNPOを含めた非営利地域基本法のような簡便な法制の必要性論議がこの間、浮かび上がってきた。
 クラブ・プロジェクト21では「協同組合の近未来」というパネルディスカッションを開き、首都圏コープ事業連、グリーンコープ、生活クラブの若き論者が多いに語ったが自らの問題点をさらして語り合う姿勢にしなやかな協同組合間連帯を感じた。また『2025年 日本の構想』が岩波書店からでたが、最終章の「生活と労働の共生契約」の住沢博紀論文はこの間の21世紀論を総覧しかつ先をいくもので、ややもすれば欠落しがちな生活の目線から時代を読みといて私は読書の秋を満喫した。                 ページTOPへ

No.247 2000.10.15 【事務局】

 9月7日(木)、今年度後期分の編集会議をもちました(出席=敬称略/池田、宮崎、柏井、事務局・佐野)。そこで企画の中心テーマに取り上げられたことを列記します。@協同組合論(=地域社会や生協経営をふまえた新しい切り口を必要としている)。A食の問題(=生産技術論や品質管理論だけでなく、人々の生活と“食”のあり方そのものに触れる)。B代理人運動論(=地域社会へ開かれた「参加の仕組み」の手法を新たに提示する)。Cコミュニティ・ビジネス(=ケーススタディをあげる)。その他「まちづくり」について自治体のケーススタディを取上げていく等を確認しました。
 また会議では、やはり地域社会のデザインがこれから深耕が必要な基本テーマだとの共通認識でした。例えば「学校崩壊」問題でも、再び地域ぐるみで学校運営にかかわっていかなければ…、と認識し始めましたが、そこで思い出すのは「学区」のルーツです。いまでも残る京都の町内組織、「町組」です。ここで「小学校株式会社」を作り、建設から運営・修復等一切を取り仕切った組織体です。「ガック」は今で言う通学エリアではなく、コミュニティを指した言葉でした。子どもたちを見つめる眼は地域ぐるみでした。いまでも町内一帯の土地を組合の所有とし、住宅、店舗などは「利用権」とする“共有制度”が残る地域があります。祇園の裏町を歩いた折に、敷地の境界石が無いことに気づき、教えていただきました。生活に根ざすが故に見過ごされがちな、生きた“協同”の仕組みにこそもっと光を当ててリポートし、将来への糧としていく必要がありそうです。                 ページTOPへ

No.246 2000.9.15 【中村 陽一】

 (社会運動研究センター時代も含め)市民セクター政策機構で、私はこれまで事あるごとに、(生活クラブや協同組合の)外の動きを真剣に見据えようと投げかけ続けてきた。もっとおいしいことをいえばうけるのは承知のうえで、もって生まれた性分か、長らく協同組合に関わってきた愛着のなせる業か、嫌われても嫌われても耳ざわりのよくないことをいい続けてきた。
 そんな私が曲がりなりにも関わってこられたのは、ごく少数でも、私の拙い投げかけに耳を傾け、私が考えた以上に深く受け止めて下さる人々が生活クラブに確実に存在したからである。これは本当にありがたいことであった。
 ただ、最近は、もういうのはやめようか、などと疲れた気持ちになっていたのもまた正直なところだった。もっと敏感な反応を返してくれるところの方に顔が向いてしまうのは、悲しき哉凡人の常である。
 しかし、生活クラブ(東京)の第3次長期計画策定にあたっての考え方、特に地域のとらえ方の根底的といえるまでの変化とそこに至る激論(?)の様子を庄妙子さんから聞き、久々に生活クラブらしい革新力を見る思いだった。
 同じ「地域」といっても、自分たちが見ているものだけが地域だと思ってしまえば、その途端に地域は手の中をすり抜けていってしまう。それほど地域というものは奥深い。まして、変化のスピードはますます加速している。私が座長を務めるクラブ・プロジェクト21「地域・コミュニティの再生」分科会では、この間の動きを余さず伝えるつもりだが、あらためていい続けることにしよう。外の世界を見据えよう、と。                 ページTOPへ

No.245 2000.8.15 【細谷 正子】

 『地域通貨』がやっと話題として頻繁に上るようになった。あちこちで具体的な試みが動き始めたことが、人々に「やれるかもしれない」と思わせ、イメージづくりに役立っているのかもしれない。そして、まさにそのことをねらって本誌でも積極的に数回にわたって取り上げている。
 私などは、その仕組みを使うことで地域コミュニティーの豊かさが広がると思いこんでいる。人間の経済は原則として社会関係の中に埋没している。現在のように逆に経済システムの中に埋没してしまった社会を、本来の姿に戻したいと思う時、地域通貨はいい役割を果たせるのではないか。類似の仕組みはかなり古くから様々な所で実施されていたが、今のように、地域福祉、ボランティア・ネットワーク、持続可能な生産と消費、地域経済システム、…などの実現に向かおうとしている時、同時に検討することが必要だと思う。現代社会においては経済システムにのらないものは、まともな扱いを受けていない。通貨による交換価値しか知らないから、わかりにくいだけなのだが。
 まず、小さな範囲で始めてみるにかぎる。やたらとお金に換算しようとしない。人間関係性で解決していく。……私が今ねらっている地域にとって必要な地域福祉事業を、地域の人を主体としつつボランティア・ネットワークで実行しようとすれば、地域通貨の発想が是非とも欲しい。ボランティアが、経済性に切り取られない新しい価値を提供できるのかということが問われている。同時に市民・協同セクターの力も問われている。            ページTOPへ

No.244 2000.7.15 【【池田 徹】】

 総選挙が終わった翌々日である。国政への期待はほとんど持てない。投票する政治家、政党は消去法である。故小渕氏の娘をはじめとする世襲議員の"跋扈","ばっこ"は近代社会の光景とは思えない。日本人から「言葉」の重みが失われた最大の犯人は政治家であろう。票とポストと名声のためには何でも有りという世の中で、そして、まあそんなものさと、したり顔で身を守る世間の中で、子どもたちがどうしようもなく壊れていっているではないか。
 6月17日の朝日新聞に、《債務帳消運動》の紹介とその運動にかかわる坂本龍一氏のインタビューが載った。飢餓や環境破壊の現実を憂い同時に日本の現実を憂い次のように語った。「渋谷などを歩いている顔の真っ黒い女たちに『お前一人が生きているために第3世界で何人死んでいるか』、オートバイを空ふかしして騒音だして喜んでいるやつに『その二酸化炭素を回収するためにどれだけの緑が必要か』、そういうことがわかるようにするにはどうすればいいか。」(下線引用者)
 彼らが「わかるようにするには」本当にどうすれば良いのだろう。おとなも子どもも壊れてきている日本を一体どうするんだ、“政治家”。                 ページTOPへ

No.243 2000.6.15 【佐野 嗣彦】

 歴史学に新しい手法を展開し着目されているアラン・コルバン(仏)著書『記録を残さなかった男の歴史』(邦訳/1999年9月・藤原書店刊)に関するシンポジウムの記録に目を通した。本編は18世紀の北部フランス、ピナゴという無名の、「物理的痕跡以外になんの記録もない」木靴職人の生活をつうじて、同時代の歴史を発掘しようとした試みについて書かれたものである。読み終えて5月の高原の風のようにさわやかな印象を受けた。なぜだろうか……。考えてみると、かつての職人の世界をはじめ、大半の人々は特別の記録を残さない生涯をおくった。一部の地位の人々を除き、いわゆる“アノニマス”(無名性)に地域社会の住民として生きた時代がすぐそこまであった。私が学んだ工業デザインの世界もそうであった。
 ひるがえってみると現在は個人主義の時代。文芸・工芸やらビデオやら自主作品づくりに溢れ、顔や名前、はては内輪話の記録までやたらと社会に出したがる人々があふれている。多分この落差がさわやかに感じた原因かもしれないと、ふと思った。
 いっぽう、生活クラブ運動は膨大なメッセージを作り日々発信している。そのひとつにこの『社会運動』もある。そこで思うのは改めて記録を作ることの重みであった。私たちの発信する記録が単に活動の“履歴”としてではなく、社会的討論を組織化するメッセージとして、その道具足りえるかどうかが問われているのだと思う。先の書物は、“記録を作る”という行為の原点を十分に噛み締めて仕事にあたれよ、という忠告の意味だったのかもしれない。                                             ページTOPへ  

No.242 2000.5.15  【柏井 宏之】

 「生活クラブ」というネーミングはどういうことから生まれたのだろう。岩根邦雄さんが本誌創刊20周年号でその由来を語っておられるが、別の座談の折り「クラブってまあ強いて言えば徒党かな」とおっしゃったことが耳に残っている。そのいたずらっぽさの感覚が1960年の青年運動の気概をにじませているように思う。
 17世紀、イギリスのコーヒハウスに生まれた有名なクラブは議員を順番に毎年交替させるという政治主張をかかげその名も"輪番制","ロータクラブ"。フランスではアソシアシォンと呼ばれた。そこには自由で自立的な個人がその自発的意志によって"結合","アソシエ"しあった。いずれも政治的な性格とともに、社交や趣味、休息などを大事な要素をもつ生臭い人と人の絆でもあったという。
 クラブの面白さは、個人の側に限りなくひきよせることも協同の側で強調することも、そのルーズさに着目することもできることだ。生活クラブでは<私>発の「おおぜいの私」の個性ある「物語性」にこだわった。
 誌面での特集や<つくる><はこぶ><くばる><わける><つどう><再使用・循環する>というシリーズでさまざまな生活空間や社会空間で作り出され、埋め込まれているひとびとの「物語性」が自己表出されてくることが楽しみである。             ページTOPへ

No.241 2000.4.15 【中村 陽一】

 私のいる大学では、卒業式後に、教員が自分のゼミの卒業生にはなむけのことばをおくるという場がある。そこでいわれたことで人生が変わる学生はおそらくいないだろうし、こっちも柄ではないという思いがあるのだが、これが儀式のもつ「けじめ」という力なのだろう、結構本気でしゃべったりするのである。
 今年は「自分に厳しいことをいってくれる人を大切に」ということと「大いに悩みかつ迷ってほしい」ということを伝えた。卒業式の祝辞で「21世紀に向かって飛躍を」式のことばが濫発されていたので、急に人間が賢くなるわけでもあるまいに、と反発心も起こったのである。
 学生に話すうち、これは自身の関わる仕事や活動にもあてはまると気がついた。市民セクター政策機構や生活クラブ運動にはぜひそうあってほしい、いやそうしなければ、と思う。批判や疑問を提出してくれる存在を疎んじたり、迷わなくなったりしたとき、その組織は独善に陥る。「編集会議」が、闊達な議論の場としても機能するよう勤めることも、常任理事の責務であるかな、と思っている。                 ページTOPへ

No.240 2000.3.15 【細谷 正子】

 私たちの生活がどれだけ多く言葉に負っていることか。その言葉が、必要性は少しも変わらないのに、どんどん力を失っていることに、改めて驚いた。「大勢のみんな」に向かって発せられる言葉が町中に溢れ、誰一人として気にも止めず、言葉は人々の頭上をむなしく過ぎる。言ったら損をする、言ってもしかたがない、…自分の言葉が大切にされる経験をほとんど味わうことなく育ったことが、言葉そのものを信用させなくする。当たり障りのない言葉を操り、当たり障りのない関係の中に生きる。言葉の力を信じずにコミュニケーションを失っていくのか。ヒトはせっかく言葉を持ったというのに…。
 この『社会運動』も多くの情報を言葉に拠っている。情報は使われて初めて意味をなす。つまり誰かの胸に届かなければ価値がない。「個人」に向かって言葉を届かせなければならない。そもそもの言葉の無力さ・限界をかみしめながら、言葉の持つ力を精一杯発揮させることに努めることが、今必要なんだろう。「この人たちに必要な情報はこの形でいいのだろうか。」一度は言ってみることにしている。                 ページTOPへ

No.239 2000.2.15 【宮崎 徹】

 一般の雑誌と運動の機関誌的な異同はどこにあるのだろうか。前者の場合は雑誌の基本性格を踏まえてのことであるが、いかに新しく魅力的なテーマを次々と立てられるかどうかが死命を制す。編集の苦労と楽しみは新しい論点の発掘と才のある書き手の表現の場を提供することにあるだろう。その責任は最終的には編集長にあるから、裁量権も大きい。どのみち極めて分かりやすい仕組みである。
 それに対して、機関誌の場合はどうか。運動の勢いが雑誌の活力を決めるといえばそれまでであるが、常識的には運動の主張と実践を分かり易く理論化する、あるいは運動の内外の交流の場だともいえる。大きく分ければ本誌は後者に属するが、政党や宗教の機関誌ではないのだから、どこまで幅を広げられるかが一つのポイントかもしれない。換言すれば、市場の洗礼も含めて前者の一般雑誌的要素もそれなりに配慮すべきだと思われるがどうだろうか。                                                ページTOPへ

No.238 2000.1.15  【池田 徹】

 新しい理事体制での運営が始まった。臨時総会で確認した「市民セクター政策機構のめざすもの」の中に「私たちは、21世紀において、市民社会の成熟過程を牽引する『市民・協同セクター』発展の一翼を担い続けたいと思います。」とある。30年近く生活クラブ運動の一角に身を置いてきた私たちの切実な気持ちだ。
 今をときめく宮城県知事の浅野史郎氏が厚生省の課長だったころ、生活クラブ連合会総会の席上「私は生活クラブが大好きです。しかし、21世紀に生活クラブは無くなっているかもしれない。」と「祝辞」を述べられたことがある。悔しいが21世紀を目前として、生活クラブ運動は事業的に厳しい状況を余儀なくされている。しかし、天に唾するわけにはいかない。我々が我々の未来を切り開くしかないのだ。
 自分のことを「我々」の一員だと感じる職員、組合員は市民セクター政策機構に結集してほしい。我々の英知をこの場に集めて、新しい世紀の生協クラブを創造していきたいと心から思う。じゃなけりゃこれまでの俺の30年は何だったんだ。               ページTOPへ

No.237 1999.12.15  【柏井 宏之】

 広岡守穂前理事長らが生活クラブの東京・静岡の組合員の協力をえて調査をおこなった「家族」に関するプロジェクトのまとめの座談会を側で聞いた。設問に込められ出てきたデータに見た研究者の意外感は組合員の別の意外感に重なるのかもしれないと思いながらデータから浮かび上がる深層心理の評価はおもしろかった。
 そしてこれに陸続するのが『家族のリストラチュアリング』(山田昌弘著/新曜社)という標準所帯モデルという近代家族の21世紀の夫婦・親子はどう変わっていくかという、社会システムを先読みした世界なのだろうか。あわてずこれからも追っていきたいテーマである。
 今回は、11月6日の市民セクター政策機構の臨時総会報告を載せている。「めざすもの」をベースに三つのことが決められた。一つは「クラブ・プロジェクト・21」をおおぜいのひとびとと四つのテーマで具体的な地域社会づくりのメッセージをつくること。二つは『社会運動』を協同組合に基礎をおき、読みやすく刷新すること。三つは常任理事会制度を引き、研究者と生活クラブ連合会メンバーで基本的な課題設定を討議してもらう仕組みをつくり、定款としても定めたことである。また草創期のように職員を中心に読まれる取り組みも決めていただいた。
 この間、今まで協力いただいた方々に新たな仕組みのもとでの誌面刷新と形を変えての協力をお願いした。まだ形が見えない中での要請には当然のことながら厳しい声をいただいたのは逆に励ましとして心した。                 ページTOPへ

行き詰まりの中で、私たちに何が求められているのか。
何ができるのか。そして未来に何を描くのか。
『社会運動』は、原点に返り、市民・協同セクターの
様々な動きにズームインして、活動の現場から
課題と展望を発見するツールづくりを目指します。

   

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