花咲く南房総に戦跡を訪ねて(ライター 室田元美)
海軍の戦跡、地下壕が
そのまま残る 館山
館山をガイドしてくれたのは、「NPO法人 安房文化遺産フォーラム」の副代表、鈴木政和さんだ。いまはリタイアしたが、かつてJRバスの運転手をしていた時に、いつも仕事で見聞きしている地元の地名にさまざまな歴史やいわれがあることを知り、のめり込んでいったそうだ。
「ここには『館山海軍航空隊』『洲ノ崎海軍航空隊』がありました。ですから特攻の基地跡や格納庫跡、弾薬庫跡などがあちこちに作られた。今もたくさん残っているんです」
まず案内されたのは、どこにでもありそうな住宅地。「何だろう」と想像してもわからなかった苔むした大きなドーム型のコンクリートは、かつては戦闘機を隠していた格納庫だった。そのままの形で戦跡が街の中に残っていることに驚いてしまう。あまりにも堅牢な造りなので、簡単に取り除くこともできないということだ。
隠れたところにも戦跡はある。鈴木さんは、「失礼します」と住民に声をかけて民家の裏庭へとずんずん進んでいく。そこには崖をくり抜いた壕があり、戦争中には弾薬庫として使われていたと聞く。このように意外な場所にある戦跡は、やはりガイドしてもらわないと見られない。
住宅地をあとにして、次は館山海軍航空隊(現・海上自衛隊館山航空基地)の近くにある「赤山地下壕」へ。ヘルメットを借りて地下壕の中に入ると、海に近いせいか足元が砂地で、さらさらしている。総延長約2キロという長い地下壕のところどころに、オーロラのような地層が現れる。とっても幻想的だ。
「わあ〜、きれいですね」と声が弾んだが、血のにじむ思いをしてこの地下壕を掘った(掘らされた)人がいると聞いて、「ああ、やはりそうか」と思う。戦時中の土木工事には、たいがい地元の人たちや動員された学徒たち、朝鮮の人びとがかり出されたのだ。
「赤山地下壕は資料が残されていないので、地元の人びとの証言に頼るしかないんですけど、1940年ごろから使いながら掘られ、館山海軍航空隊の戦闘指揮所や発電所、病院までが整備されていました。実際に病院に負傷兵が運ばれてくるのを見た人がいます」
静けさの中に、鈴木さんの声だけが響く。こんな人里離れたところに掘られた地下壕で、海軍は「日本を守るために」何をしようと思ったのだろうか。
その後に訪れた館山の海岸では、鈴木さんは1枚のモノクロ写真を取り出し、見せてくれた。大勢の米兵が銃を手に、海から上陸してくる場面だ。一見するとノルマンディ上陸作戦のものかと思ってしまう。
「ここで実際にあったことなんですよ。1945年9月3日、日本の敗戦後に3500人の米兵が館山に上陸し、日本で唯一、米軍による4日間の『直接軍政』が敷かれたんです」
直接軍政…。聞き慣れない言葉だが、上陸した米軍第8軍はその後GHQの間接統治が決まるまでの4日間、館山で司法権を行使し、英語を公用語にし、また米軍通貨のB円(占領下に使われた米軍の軍票)を使用した。このことは住民の間でもあまり知られていなかったそうだ。
もし戦争がさらに長引いて、米軍が館山に上陸していたら…。沖縄と同じように住民を巻き込んだ凄惨な地上戦が起きていたにちがいない。そう思うと身の毛がよだつ。可能性は十分にあった。基地や軍備を整えた場所ほど攻撃目標とされ、多くの市民が巻き添えになる、昔も今も戦争はそういうものではないだろうか。
(P.113~P.115記事から抜粋)