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神戸の碑文に見るさまざまな戦争の記憶(ライター 室田 元美)

季刊『社会運動』 2017年7月号【427号】特集:ワクチンで子どもは守れるか?

 

真っ赤な屋根がふわっと浮いてドスンと落ちた

 

 「1945年の6月5日。よく晴れた朝でした。私のうちは須磨のお寺でした。学徒動員で工場へ行くために靴を履こうとしていたら、いきなり空襲警報が鳴りました。家を飛び出したら、すでに私の頭の上に、アメリカのB29の編隊が低く飛んできました。それが不気味な、重苦しい、なんとも言えない音なんです。すぐに防空壕に飛び込まないといけないのに、私、飛行機を見ていたんです。すると焼夷弾が降ってきて、火の粉、煙、ものすごい臭い。昼がいっぺんに夜になったように、暗くなりました」

 三宮から少し南にある高齢者向け住宅で、横井和子さんが72年前の神戸空襲の体験を語ってくれた。今年87歳になる横井さんの記憶は鮮明で、聞きながらそのときの光景が目に浮かぶほどだ。

 「父と兄は家に残って火を消さないといけなかったので、15歳だった私は5歳の弟をおぶって母の手を引っ張って先に逃げました。ところが周りは火の海で、家々が焼け、真っ赤な屋根がふわっと浮いて、ドスンと落ちる。一歩進めば目の前に焼夷弾が雨のように降ってくる。煙もうもうの中で右往左往ですよ。何かにけつまずいて、見ると遺体だった。後ろで焼夷弾にやられたのか、ぎゃーっという悲鳴が聞こえたけど、振り向くこともできない。助け合うなんてできません。人を蹴っ飛ばしてでも親子3人、生き残りたい」

 やっとのことで、横井さんたちは防空壕を見つけた。外から戸をたたいて、「開けてください、助けてください」と頼むと、中から「何人か」。3人と答えると、「よそへ行け」と言われた。あとで知ったことだが、その壕の前に1トン爆弾が落とされて壕の中の人はみんな亡くなったという。

 「ここが死に場所、と逃げ込んだお宮さんの中で、爆撃機が飛び去るのを待ち、ようやく空は明るくなってきた。ああ、助かった。私たちは、家族が離れたときの待ち合わせ場所に決めていた山に登りました。すると一番にそこへ上がっていた人がいたんです。町内の訓練でいつも『逃げたらあかん、火を消せ!』と言っていた人でした。なんとも言えない気持ちね。私たちといっしょ。自分が助かりたいの。父と兄の無事を祈って待つ時間が、永遠のように感じられました。そのときの気持ちは忘れられない。もうだめ、と山を下りかけたとき、父と兄が真っ黒になって上がってきた。父は阿弥陀さんを、兄はお寺の過去帳を持ってね。それでみんなで山を下りていったら、あっと叫びそうになった。さっきまであった家が全部焼けてなくなっていたんです」

 「日本は神国である、神風が吹く、と教えられていたことを、まだ信じていたんでしょう」と横井さんは振り返る。体験を話す間、何度も「教育って怖いね」と口にした。

 「子どもの頃の教育は大事」だと横井さんは小学校、中学校へ足を運び、自身の戦争体験を子どもたちに語っている。

 爆弾が落ちてくることなどをどれだけリアルに想像できるかはわからないが、お腹が空いてみじめだった話を聞いて、「白いごはんを食べられなかったなんて。もう捨てたりしません」と感想に書いた子どもや、ガキ大将だった子どもが、「友だちとけんかしないようにします」と綴ったことなどを、目を細めて語ってくれた横井さん。もうなかなか聞くことのできなくなった戦争体験者の話だが、「子どもたちが、自分の感性で何かを掴んでくれたらうれしい」と言う。

 (P.125~P.126記事から抜粋)

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