海を越えて来た少女たちは、いま
「働きながら学校へ行ける」と誘われて
名古屋には三菱重工業名古屋航空機や愛知航空機があり、日本の航空機の生産拠点であった。また港の近くに軍需工場がひしめいていたため、米軍による空襲のターゲットにされた。初めて名古屋が本格的な空襲を受けたのは、1944年12月だった。
45年3月には名古屋駅が炎上、5月には名古屋城が焼失した。敗戦までの1年足らずの間にたび重なる空襲でまちや工場は破壊され、7000人を超える人びとの命が奪われた。
そんな空襲が始まる前の、1944年6月のことだ。名古屋に朝鮮半島から13?15歳のあどけなさの残る少女たち289人が「女子勤労挺身隊」(注1)として到着した。彼女たちは麗水の港で、音楽隊のにぎやかな鉦や太鼓に送られて旅立った。すでに米軍がサイパンに上陸し、その後、日本の戦況はじりじりと悪化していくのだが、「日本の工場へ行けば働きながら中学校に行かせてあげる」「勉強もお金儲けもできる」という言葉につられ、学校へ行ける、親に仕送りもできる、と向学心のある少女たちはまだ見ぬ日本への希望をつのらせた。親の反対を押し切って海を渡った子もいた。しかし中には、二度と故郷の土を踏むことがなかった少女もいたのだった。
一行は、現在の名古屋市南区にあった三菱重工業名古屋航空機製作所道徳工場へと送られた。女子勤労挺身隊の仕事がどのようなものだったのか、彼女たちの証言がある。みんなで寮生活をし、毎朝隊列を組んで歌をうたいながら工場に通った。作業は1日9時間近く。来る日も来る日も待っているのは労働ばかりで、約束された学校通いなどはとても実現する環境ではなかった。食事はいつも少量。お腹を空かせて落ちているスイカの皮をかじった少女もいた。
工場では誤って機械で指を切断したり、重い金属板を足の上に落として怪我をするなど、慣れない作業には危険がいっぱい潜んでいた。具合が悪くても十分な休養が与えられず、ぼんやりしていると殴られたり怒鳴られることがあった。しかも給料の支払いさえされなかったという。
1944年12月7日午後1時36分。
突然、大地がグラグラと激しく揺れた。熊野灘沖を震源とするマグニチュード7・9(推定)の大地震が、東南海地方を襲ったのだ。死者、行方不明者は1000人を超え、多くの軍需工場が倒壊し、沿岸の津波で亡くなった人もいたという。
三菱重工業名古屋航空機製作所道徳工場の組立・塗装工場も押し潰され、働いていた57人が亡くなった。そのうち6人は、朝鮮半島から来た女子勤労挺身隊の少女たちだった。朝鮮半島では、地震はほとんど起こらない。地鳴りとともに大地が揺れる天変地異に、どんなに怖い思いをしただろうか。
戦時中に起きたこの地震のことは、多数の死傷者を出したにもかかわらず、当時の新聞などでも詳しくは取り上げられていない。地震によってたくさんの軍需工場がダメージを受けたことが知られると戦意が衰え、真珠湾攻撃の勝利から3年の祝賀を翌日に控えお祝いムードに水を差すことを嫌がったからではないか、とも言われている。
(P.139~P.141から記事抜粋)