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4.ヨーロッパの脱原発と国民投票(大芝健太郎 フリーライター)

季刊『社会運動』2018年1月【429号】特集:あれから7年、福島の現実

ヨーロッパの脱原発と国民投票 

大芝健太郎

 

 ヨーロッパでは脱原発の民意が政治を動かし、実現していく国が増えてきている。それらは直接的に国民投票にかけられることもあれば、選挙によって民意が示されることもある。原発をテーマにした国民投票は1957年にスイスで問われたのを皮切りに、2017年までに21回行われてきた。その中で特に重要な国民投票と住民投票を取り上げ、各国がどのような経緯で脱原発に舵を切っていったのか、その背景について触れながら振り返っていきたい。

 

辛うじて最低投票率を

上回ったイタリア

 

 EUではドイツ、フランス、イギリスに次ぐ第4位の経済規模を持つイタリアだが、天然資源は乏しく、長らくエネルギーを他国から輸入している状態だった。このエネルギー問題を解決するため、政府は戦後、原発中心のエネルギー政策を据え、国内で10基の原発を建設し、2000万キロワットを賄うという計画を立てた。しかし地元の合意が思うように得られず、建設に着手できずにいた。そこで、政府は原発建設を強行するため、1983年に「地元の承認を得なくても原発建設を認める」という法律を制定する。これには、自治権の侵害だとして全国で大きな反発があり、同年10月にローマで行われた反核平和集会には50万人が参加した。また自治体には法律上拒否権はなくなったが、いくつかの自治体では住民投票が実施され、圧倒的多数が反対を表明していた。

 その後86年にはチェルノブイリ原発事故があり、イタリア各地で水、牛乳、生鮮野菜などが汚染され、販売禁止になる事態に見舞われた。危機感を持った環境保護グループは政党の支援を受けて署名を集め始めた。イタリアには50万人(有権者数の約1%)の署名をもって、法律の全部、または一部廃止の是非を問う国民投票の制度(憲法75条)があり、無事に署名を集めきり、87年に原発に関して三つの国民投票が行われた。80%以上の圧倒的多数により、前出の法律と他の二つも否決された(表)。この国民投票で、原発建設に必要とされる三つの法律が無効とされたため、実質イタリアでは新しい原発が建てられなくなった。

 原発計画の穴埋めのため、大規模な石炭火力を新設する計画が立てられたが、それもまた地元住民の反対で建設は進まず、結局フランスやスイスなどから電力を輸入する状態が続いていた。そんな最中、2001年にベルルスコーニ政権が誕生し、猛暑や事故などで全国的な停電が重なり、原発計画が再浮上する。その後、一時は政権を離れたが、08年に政権を奪還し「原発再開法」を策定した。また09年にはフランス電力と共同出資して原発を4基建設することに合意し、経済界、マスコミなどとも手を組んで原発計画を押し進めていった。それに対して自治体と市民は反発し、再び国民投票に持ち込んだ。そこに福島第一原発事故が起こり、原発への不信感がさらに強まった。ベルルスコーニ首相は「建設が認められるべきではない場所に、建てられたことが問題だ」と火消しに躍起になったが、投票率が50%を下回れば不成立となるため、ベルルスコーニ首相は支持者に対して、反対票を投じるのではなくボイコットを呼びかけるという戦略に出た。そして11年6月に行われた国民投票は、投票率54・8%、そして有効投票数の94・1%という圧倒的多数の反対によって原発再開法が破棄され、原発建設が不可能になった。しかしこの圧倒的多数は世論を反映している数字ではない。幸いにも50%を超えたので、投票結果が生かされ、イタリアは現在、G8で唯一原発が稼働していない国になっているが、もしあと5%の有権者が棄権していたら、イタリアの原発はベルルスコーニ首相の手により再開していた可能性も否定できない。これは、民意を生かすためには最低投票率の設定には慎重になるべきと言えるのではないだろうか。

 

(P.144~P.146記事から抜粋)

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