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悼みの列島 日本を語り伝える 第7回

 

沖縄・伊江島から考える、戦争と基地

 

室田 元美

 

沖縄北部にある伊江島をご存じだろうか。

住民の4人に1人、20万人が亡くなったと言われる沖縄戦だが、

この島の住民の死者はじつに2人に1人にのぼる。

人びとが逃げ込んだガマと呼ばれる洞窟では、

強制集団死(集団自決)もあった。

そして戦後。伊江島の6割以上は米軍に接収されて軍用地となり、

さらに極東における核戦略の重要基地として使われた。

人びとは先祖代々からの土地を取り戻すために、立ち上がった。

しかし、いまでも伊江島の35パーセントは米軍軍用地である。

 

サトウキビ畑の島が戦場に

 

 沖縄本島北部の本部港から出た船は、伊江島へと近づいて行く。平らな島の真ん中あたりにぽっこりひとつ山があり、それ以外は平らな土地が広がっているのがわかる。桟橋を降りながらブルーの海をのぞくと、ウミガメが悠々と泳いでいた。

 伊江島を車で案内してくれたのは、反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」の若いスタッフである。「島全体が見渡せるから」と言われ、まずはその形からタッチュー(塔頭)と呼ばれる城山に登ることにした。

 海抜172メートルの頂上に立つと、海に囲まれた島の地形がよくわかる。ほとんど平地で占められていることが、戦争中も戦後もこの島を苦難に導いたのだろうか。戦争が始まる前は、一面のサトウキビ畑だったそうだ。日本軍は1944年、「東洋一」と言われた陸軍伊江島飛行場の建設に着工した。戦争のために大事な土地を奪われた島の人たち。ある住民の日記には、「墓まで軍に明け渡せと言われた」との記述も見られる。しかも完成間近になって、軍は米軍が上陸し飛行場が敵の手に落ちるのを恐れ、住民らに命じてせっかく作った滑走路などを爆破させた。

 日本軍の恐れは、まもなく現実となった。1945年3月23日、沖縄全域は米軍の激しい上陸前空襲に見舞われた。米軍はまず慶良間諸島に上陸。そして4月1日、沖縄本島中部の北谷、読谷に上陸し、そのまま南北に分かれて進軍して行った。沖縄では15歳〜45歳までの男女が「根こそぎ動員」され、日本軍は死に物狂いで応戦した。沖縄全島が住民を巻き込んだ地獄の戦場と化し、米軍の本土上陸を阻むための捨て石とされたのである。

 4月16日の早朝、米軍は北部の伊江島へ上陸した。約7000人の島の住民の多くは本島に避難していたため、伊江島に残っていたのは3000人ほどだったそうだ。城山の頂上に立って、海岸線を目でたどる。この海岸からおおぜいの武装した敵兵が島に上陸してきたとき、住民はどれだけ恐ろしかっただろうか。四方は海。どこにも逃げ場がないのだ。

 日本軍はこの城山に強固な基地を置き、住民を駆り出して応戦した。し烈な地上戦が始まったが、ろくな武器はない。爆薬箱を抱えて、穴に隠れて近づく米軍装甲車に飛び込んだり、米軍の陣地内に突入するなど、米兵を道連れに自爆しようとしたとの記録も残っている。その中には住民の女性たちも加わっていたという。しかし捨て身の自爆攻撃も、ほとんどは米軍の陣地に近づく前に、銃弾を浴びて倒れていった。

 4月21日、米軍は伊江島の攻略を宣言。米軍の指揮官をして「いまだかつて見たこともない激しい戦闘」と言わしめたほどの血みどろの闘いだった。住民たちが動員されて造り、破壊を命じられた飛行場を、米軍はたった2日で修復し、本土空襲などの足がかりとして利用したという。

 城山を降り、島の中を車で回る。当時のまま残されている公益質屋(自治体などが国の助成を受けて運営する質店。2000年廃止)の建物では、分厚いコンクリート壁に蜂の巣のように穿たれた弾痕跡が砲撃のすさまじさを物語っていた。

 追われた住民が身を潜めたガマは、島の中にいくつもある。島の東部の道路沿いにある「アハシャガマ」でも痛ましい強制集団死(集団自決)が起こった。アハシャガマには住民150人ほどに加えて防衛隊員(注)が避難していたが、4月22日ごろ米軍からの投降の呼びかけでパニック状態に陥り、防衛隊が持ち込んでいた地雷で一斉に自爆が始まった。「捕まったら女は慰みものにされ、男は虐殺されるから絶対に投降しないように」と日本軍からも仕向けられていたからである。ガマにいた人びとのほとんどが爆死した。沖縄が日本に復帰した後、アハシャガマからは百数十体の遺骨が発掘されている。入口に立ち、暗闇がひろがるガマの中をのぞきこむだけで、人びとの叫びや慟哭が聞こえてくるようで息が苦しくなる。また、島の人びとののどを潤した真水の出る泉=ワジー(湧出)があった海辺の断崖からは、追い詰められておおぜいの人が身を投げた。

 伊江島の戦争は沖縄戦の縮図だと言われる。米軍は6日間の戦闘で4706人の日本兵を殺害したとされるが、調べてみるとその大半が住民だったという。伊江島が血みどろの戦場になり住民のおよそ半分が犠牲になったことを、本土の人間は知っているだろうか。

 

注 防衛隊

 非常時に活動する予備役の在郷軍人などを集めて作った組織で、17〜45歳が対象となった。沖縄戦では兵力不足を補う補助戦闘部隊として戦場に駆り出され、召集された2万数千人のうち、約1万3000人が戦死したとされている。

 (P.211~P.215記事から抜粋)

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