4.「年功賃金と貯蓄による老後」モデルからの転換へ(都留文科大学名誉教授 後藤 道夫)
リビング・ウェイジと特別需要を一体的にカバーしてきた日本型雇用
福祉国家諸国は、「リビング・ウェイジの確保」、および「『ナショナル・ミニマム』(国家が国民に対して保障する生活の最低限度)水準での特別需要の充足」という社会原則を追求してきた。日本の旧来のシステムはこれと相当に違っている。
まず、特別需要はナショナル・ミニマムの「保障」になっていなかった。さらに、非正規労働者に対して、自分一人の生活もできない極度の低賃金が許容されているように、日本ではリビング・ウェイジは成立していない。非正規労働者の賃金は、「家計の補助」であり、一人分の生活ができる水準である必要はないものとみなされてきたからだ。
このような日本の旧来型システムは、リビング・ウェイジと特別需要の充足、という二つの条件を、勤労者一人ひとりに即して実現するものではなく、その両方を「世帯単位」で「込み」にして、男性世帯主の年功賃金と貯蓄・ローンでカバーする、という枠組を土台としたものであった。
このやり方だと、日本型雇用の枠組の外側に、リビング・ウェイジを満たさない人びとや、リビング・ウェイジと特別需要、両方を満たさない人びとが存在せざるをえず、日本型雇用が縮小・劣化すれば、その人数は増える。この20年間、実際にそうした変化が大規模に生じたのである。
旧来型システムでは、リビング・ウェイジと特別需要の充足が「込み」になっていたため、リビング・ウェイジで充足できない「特別需要」の概念そのものが成立しにくく、それを社会がナショナル・ミニマムとして保障する必要性も大きな問題にならなかった。日本の社会保障制度、教育保障制度等は、年功型賃金と貯蓄・ローンによる生活を「支援」する、というコンセプト以上のものを、全体として持ってこなかったのである。
近年の最低賃金を1500円に引き上げようという要求は、単身者のリビング・ウェイジの実現という内実をもった要求であり、日本で初めて、リビング・ウェイジとしての要求が社会的に大きな影響を与えたものとみなすことができる。
貯蓄・ローンに頼れない人びとはもはや「例外」ではない
日本銀行の外郭団体である「金融広報中央委員会」の調査では、金融資産を持っていない二人以上の世帯は、1980年代までが数%、1990年代半ばでも10%程度であったが、現在は31%である(図表7)(注3)。無貯蓄を例外として扱うことはもはや不可能であり、これらの人びとを切り捨てて「ナショナル・ミニマム」の廃棄を自覚的に選択するのでない限り、社会制度の大きな転換は必須である。
現在の日本社会は、高齢者の医療、介護、居住を保障するためにも、旧来の生活保障の基礎的なコンセプト全体を変える必要に迫られているのである。
きわめて大雑把な見通しだが、新たな福祉国家型の社会システムの形成に必要な、公的費用の増加分は数十兆円規模であろう。社会的合意があれば、GDPが540兆円を超える国に不可能な転換ではない。もとより、この社会的合意こそが大きな問題である。そこに到達するための多様で複合的な道筋が探求されなければならないだろう。
(P.50~P.52記事から抜粋)