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二十数万人の犠牲者を出した沖縄戦から、73年。米軍が上陸した読谷村を訪ねた。

戦争末期、米軍の本土上陸を少しでも遅らせるために、捨て石とされた沖縄。10代の少年少女から60代の男性までが「根こそぎ動員」で戦場へかり出され、軍民の「共生共死」が求められた。

壮絶な戦争だったと伝えられるが、過去のことなのか。

そこから学ぶべきことは何だろうか。

本土から沖縄を考えることはもちろんだが、

沖縄から今を見る、日本を見る、世界を見ることも必要ではないだろうか。

 

チビチリガマの強制集団死

 

 1945年4月1日の夜明け前。沖縄本島中部の読谷村の海岸をめがけ、米軍の艦砲射撃が始まった。読谷から嘉手納にかけての海岸沿いには、約1500隻の米軍艦。補給部隊の兵員を合わせ、数十万人の米兵が一斉に押し寄せ、午前8時30分に上陸を開始した。日本軍は米軍を内陸におびき寄せるため、あえて米軍の「無血上陸」を許した。そうして1日でも長く本土上陸を遅らせる……沖縄を捨て石にする作戦=地上戦はこうして始まった。

 読谷の海からそう離れていない波平地区に、昼なお暗い谷がある。石段を下りると谷底の岩の裂け目から、暗い闇がのぞいている。「チビチリ(尻切れ)ガマ」である。ガマは自然がつくりだした洞窟の壕で、沖縄戦では民間人、軍人も戦火を逃れてガマに身を潜めることが多かった。チビチリガマも入口は狭かったが、奥はひょうたん型になっていて広い部屋があったという。

 米軍上陸の翌日、4月2日にここですさまじい惨劇が起きた。米軍が外から投降を呼びかけたとき、ガマの中では「捕まるのは罪だ。潔く死のう」という声があがる。「生きて虜囚の辱めを受けず」と根強く教育されてきた人びとは、母親が娘の首を切る、看護婦(師)が毒薬注射を打つなどで阿鼻叫喚となった。ふとんを積み重ね、油をかけて火を放ち、ガマの奥にいた人たちは逃げられなかった。「生き延びたい」と振り切るようにガマから出て米軍に投降した人もいるが、ガマにいた139人のうち83人が亡くなった。非国民と呼ばれるよりも死を選んだ。むしろ選ばされたと言えよう。しかも痛ましいことに、死者の半数以上は子どもだった。

 沖縄国際大学名誉教授で沖縄戦に関する著書も多い石原昌家さんは、このように死を選ばされたことを、軍人を美化し殉国死を意味する「集団自決」ではなく「強制集団死」と呼んでいる。幼い子どもたちが自らの意志で自決をするはずもなく、親も子を殺したいはずはない。軍国主義による強制力がそうさせたからだという。

 チビチリガマの入口には「世代を結ぶ平和の像」があり、千羽鶴がかけられている。このガマの悲劇については、住民も長らく重い口を開くことができなかった。ようやくことの次第が明らかになり、像が作られたのは1987年のことだ。読谷に暮らす彫刻家、金城実さんとチビチリガマで亡くなった人びとの遺族たちが共同製作した。「ごめんね、ごめんね」と言いながら土をこねる遺族もいたという。今も遺品や遺骨のあるガマのなかに、一般の人たちが入ることは禁じられている。

 上陸した米軍の一部は北部へ、大半は日本軍の司令部があった首里方面に向かい、嘉数高地などでは血みどろの激戦となった。戦力の8割を失った日本軍は5月下旬、首里を放棄。ばらばらになった軍と多くの住民がともに南部へ逃げ、追い込まれていくことになる。

(P.143~P.146記事から抜粋)

 

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