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日本人は植民地とどう向き合ってきたのか (東京造形大学教授 前田 朗)

季刊『社会運動』2018年10月【432号】特集:ヘイトスピーチは止められる差別のない社会をつくろう

─前田さんも共著者として加わっておられる本に『ヘイト・クライムと植民地主義』(三一書房2018年)がありますが、植民地主義とヘイトクライム(憎悪犯罪)にはどんな関連性があるのでしょうか。

 植民地主義とヘイトクライムの関係を考えるにあたって、2001年、南アフリカのダーバンで開かれた国連人種差別反対世界会議が参考になると思います。そこで出された「ダーバン宣言」で、植民地主義とレイシズムについて「西洋による植民地主義がどのように人びとを非人間化していったかという批判」と、「それを克服しないと人種差別はなくならない」との記述が採択されました。日本では戦後、植民地の人びとの国籍を剥奪し、かつての植民地支配について反省や学習を怠って過去と向き合ってきませんでしたが、世界的には植民地から派生する問題は過去のことではありません。ダーバン宣言はアフリカ諸国やラテンアメリカ諸国が中心になって、約500年前の西欧の新大陸到達(「発見」)、大航海時代に始まる植民地主義を検証し、現在も続く人種差別を解消しようとしたものです。植民地主義的なもの=自分たちと異なる文化や生活様式を持つ人たちを征服、殲滅、あるいは啓蒙するやり方は、おそらくギリシャ・ローマ時代にも、どの時代にもあったでしょう。ただし遡るとキリがないので、近代の植民地主義を考える上で500年前の大航海時代をターニングポイントに据えているわけです。
 西欧が大航海時代に植民地政策を行っていた時、日本はどうだったか。日本にはアイヌ先住民族、大和民族、琉球民族が存在していますが、実は500年前のほぼ同時期に西欧と同じような動きをしていました。当時の日本人が日本列島を北へ進んでアイヌと遭遇し、南へ行って琉球民族、西へ行って朝鮮半島、というふうに。アイヌとの間では1458年に武田軍がコシャマイン軍を撃破、1669年には松前藩がシャクシャインの戦いでアイヌの人びとをだまし討ちしました。これによって和人(大和民族)がアイヌ民族を植民地化し、「土人」(注1)と蔑む端緒が開かれました。琉球との間では1609年の薩摩藩による琉球侵入があります。薩摩藩は3000人の兵を率いて首里城に迫り、尚寧王が和睦を申し入れて首里城を開城しました。李氏朝鮮に対しては豊臣秀吉が壬辰戦争(文禄・慶長の役。1592年、97年)で朝鮮に攻め入り、明をも巻き込んだ侵略戦争を起こしています。西欧と同時期に日本においてもこういった動きが─私は植民地化と呼びますが─行われたのは偶然だったかもしれないし、これを植民地化と見るのも一般的ではないかもしれませんが、私はこの前史がその後の植民地主義につながっていると考えます。江戸時代に幕府は海外への門戸を狭めましたが、アイヌや琉球、朝鮮に対してはこのような状態が明治政府にまで引き継がれました。
 ですから日本の植民地政策を考えるにあたって、ふつうは150年前の台湾や朝鮮を念頭に置くのですが(それすら念頭に置かない人もいますが)、まず500年前、そして150年前、それからあとで話しますが70年前の日本の戦後政策、この三つの枠組みで考える必要があります。
 植民地支配がなぜ差別を生み出すのか。植民地主義者は建前として「善意」で統治を行いますが、それが問題なのです。ヨーロッパも略奪をしながら、一方でキリスト教、文明、いろいろなことを啓蒙しました。力を持っている側が、自分たちのライフスタイルや文化が優れており相手のものは劣っていると決めつけるところから、差別は始まります。定住農耕文化の上に形成された工業文明が優れている、宗教でもキリスト教とヨーロッパ的な生産様式、生活様式が優れていて、そうではない遊牧や狩猟の民族は劣っている。だから啓蒙してわれわれと同様に扱ってあげようという善意。そういうメカニズムがヨーロッパでも日本でも見られ、差別をしている自覚がないどころか、善意と思い込んでいることが深刻な問題なのです。

(P.27~P.29記事から抜粋)

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