排外主義がはびこる社会で「対話」を促す (慶應義塾大学教授 塩原 良和)
現代は「後期近代」、「高度近代」と呼ばれる時代です。日本では1960年代の高度経済成長期に一度固まった社会の様々な仕組みがどんどん壊れていく段階にあるといえます。制度にしろ、価値観にしろ、文化にしろ、これまで確かだと思えていたもの、よりどころになっていたものが液状化していく状況です。このような時代に生きる人びとは皆、不安定な状態に置かれやすくなります。『分断と対話の社会学』の中では、「ヴァルネラビリティ=傷つきやすさ/不安定さ」と表現しています。現代の私たちは、不安定な社会の中で傷つきやすさを抱えて生きているのです。
マイノリティの問題を教育の現場や、啓蒙活動で取り上げる際、私たち(=マジョリティ)を加害者、彼ら(=マイノリティ)を被害者と位置づけ、「私たちが彼らを傷つけている」というとらえ方をすることがあります。その上で、マジョリティの人びとにマイノリティの置かれた困難や悲しみを「共感」してもらおうという、教師や活動家が考えがちな試みです。このこと自体が間違っているわけではありませんが、忘れてはならないのは、マジョリティであるとされた人びともまた現代社会では、「不安定で傷つきやすい状況に置かれている」ということです。
例えば、マジョリティの立場にある学生に、「あなたは日本人だから、外国人に比べれば恵まれている」「あなたは健常者だから、ミドルクラスの家庭の出身だから、マイノリティや貧困層の人びとが抱える深刻さに比べたら、あなたの悩みなど大したことはない」という説得をしたらどうでしょうか。私の経験でいえば、それは反発や違和感を生みがちです。そう言われた学生の中には、就職活動で挫折しかけている人、心身に問題を抱えている人、家族関係がうまくいかず不安定な気持ちを抱えて育ってきた人などがいるはずです。客観的には、特に問題がないようにみえても、この見通しの悪い時代のなかで、自分の将来の見通しに不安を抱いている人は多いでしょう。
そのような若者のあいだで、「自分だって辛い目にあって不安なのに、なぜマイノリティの人びとだけに共感し、配慮しなければならないのだろう」という反応があります。それは、「自分自身の傷つきやすさ/不安定さがケアされていない」、「自分を否定された」ような気になるからだと思います。自分がケアされていないと感じた時、そこから「マイノリティへの反感」が生まれることにもなりかねません。マジョリティの人びとが「逆差別」を主張したがるこのような心理は、いまの日本でもしばしば見受けられます。
だからといってマイノリティの苦境に共感する、配慮する必要がないと言っているわけではありません。むしろ、マイノリティの人びとに対する特別な配慮は必要です。現代社会においては、マジョリティであろうがマイノリティであろうが、傷つきやすさ、不安定さを抱えてない人はいない、つまり「誰もがヴァルネラビリティを持って生きていること」に着目した上で、マイノリティの問題に取り組まなくてはならないということが言いたいのです。
(P.43~P.45記事から抜粋)