ドイツにおけるヘイ卜スピーチ・ヘイ卜クライム規制とデモクラシーの活性化 (早稲田大学名誉教授 坪郷 貫)
ドイツのヘイトスピーチ・ヘイトクライム規制は、どのような歴史的経緯で行われるようになったのか、みていこう。
第二次世界大戦後、分断国家として誕生した西ドイツにおける非ナチ化は、当初、表面的なものであり、1951年には「専門家の不足」を理由にして、ナチスの過去を理由に追放されていた公務員の復職や、司法分野での元ナチス党員の裁判官や検事が復職している。また連合国の影響下で行われたナチスの犯罪の処罰と解明は限定的なものであり、関係する禁止規定もナチスを象徴する制服や徽章の着用禁止などであった。
しかし、西ドイツにおける「過去の克服」は、1950年代から取り組みが始まり、大きくは政治教育、加害者の追求、迫害の被害者への補償という三つの柱がある。
第一の柱は、ナチスによる支配と戦争を再び繰り返さないために、デモクラシーの担い手を育てる政治教育(市民性教育)を行うことである。例えば、歴史教育では、教育の専門家や教員による活動をきっかけにして、学校教育や学校外の教育で、ナチスによる不法や迫害など加害の歴史を教え、ナチス時代の強制収容所の見学、記録映画の上映などが行われている。1970年代には、西ドイツとポーランドの間で、教科書を改善するための国際協力を行っている。
第二に、戦争犯罪の追及つまり加害者の追及が行われている。裁判所によって戦争犯罪者を裁くことが続けられ、1958年には「ナチス犯罪究明のための州司法行政中央センター」が設置されている。
第三に、暴行・迫害に対する被害者への謝罪と年金・一時金などによる補償であり、連邦補償法などが制定されている。
このような「過去の克服」の実質化が進展する中で、1960年の刑法改正により刑法第130条「民衆扇動罪」が導入される(民衆扇動罪については櫻庭、2012. を参照)。この規定は、直接にはドイツで繰り返されてきた反ユダヤ主義が1950年代以降に再び勢いを増したことをきっかけにしている。最初に草案が出されてから10年以上かけて成立した。
条文では、保護の対象はユダヤ人に限られず、広く「住民の一部」と表現されている。主な保護法益は「公共の平穏」であるが、最初の条文では「人間の尊厳」が挙げられている。この最初の民衆扇動罪は、「公共の平穏を乱すのに適した態様で」の次に、「他人の人間の尊厳」が入っており、「3カ月以上の懲役刑に処される。また罰金も併科されうる」の罰則規定であった。その後の改定により、「他人の人間の尊厳」は第1項の2に移動した。
現在の第1項は、「公共の平穏を乱すのに適した態様で、①国籍、民族、宗教ないしその民族性によって特定される集団に対して、上に掲げる集団若しくは住民の一部に属することを理由に住民の一部ないし個人に対して憎悪をかきたて、暴力的ないし恣意的な措置を誘発する者、又は②上記の集団、上記の集団や住民の一部に属することを理由に住民の一部若しくは個人を罵倒し、悪意で軽蔑し若しくは中傷することにより、他人の人間の尊厳を攻撃した者は、3カ月以上5年以下の自由刑に処される」となっている(dejure.org/gesetze/StGB/130.html)。
西ドイツ基本法(憲法に該当する)は、第1条で「人間の尊厳は不可侵である」と規定し、以下のようにデモクラシーを否定するものを禁止する「闘うデモクラシー」を規定しているといわれる。つまり、第18条で、意見表明の自由、結社の自由などの基本権を「自由で民主的な基本秩序に敵対するために濫用する者は、これらの基本権を喪失する」とし、これについて連邦憲法裁判所が決定する。また、第21条で、政党は「国民の政治的意思形成」において重要なものとした上で、「政党のうちで、その目的又はその支持者の行動からして、自由で民主的な基本秩序を侵害し若しくは除去し、又はドイツ連邦共和国の存立を危うくすることを目指すものは、違憲」であり、そのような政党は、連邦憲法裁判所の決定により違憲とし、禁止措置をとることができる。これは、ナチスの再来を阻止するためのものである。しかし、冷戦下で行われた政党禁止には、極右政党ばかりでなく、左翼の共産党(KPD)も該当していた。
(P.157~P.159記事から抜粋)