95年前の過ちをたどる関東大震災での大虐殺 (ライター 室田 元美)
横浜駅から始まった
フィールドワーク
マグニチュード7・9の大地震は、1923年9月1日午前11時58分に起きた。相模湾北西沖80キロを震源に、関東地方を襲った揺れで多くの建物が倒壊し、お昼の仕度をしていた家々から火の手があがってたちまち周囲に燃え広がった。
関東一円の死者は10万人以上と言われる。そして自然の脅威である大災害のあとで起きたのが、民族をターゲットにした朝鮮人や中国人、官憲による社会主義者の虐殺などの人災だった。特に朝鮮人は「井戸に毒を入れた」「集団で攻めて来る」といったデマが市井をかけめぐり、6000人以上と言われる犠牲者が出ている。虐殺は神奈川、東京、千葉、埼玉、群馬など関東の広範囲で起きた。
なかでも虐殺された朝鮮人がもっとも多かったのは神奈川県だった。「在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班」の調査によると、神奈川鉄橋で500人、子安町から神奈川停車場までで150人、浅野造船所で48人、土方橋から八幡橋までで103人…など死体が発見された場所と人数が判明している。
関東大震災から90年を迎えた2013年、神奈川で行われたフィールドワークに参加した。集合場所は横浜駅西口。参加者は学生や若い世代を含め、総勢30人程度。フィールドワークの呼びかけ人、山本すみ子さんらの後について駅前から住宅地の続く登り坂を歩き、横浜の町を見おろす眺めのいい「高島台」(旧高島山)へ。いまは公園になっているその場所には、関東大震災直後は家を失った避難者たちも大勢集まってきたという。
横浜では、早くも9月1日の午後7時頃から「鮮人200名襲来し、放火、強姦、井戸に毒」というような流言が発生した。旧高島山の避難所でも9月2日に、「今夜此方面へ不逞鮮人が300名襲来することになって居るそうである。(略)十六歳以上六十歳以下の男子は武装に応じて警戒をしてください」との警官の呼びかけに、各町の青年団などが竹槍、猟銃、鉄の棒などを持って集合したとの地元住民の証言が残っている。警察が虚偽を広めたということ、その上で自警団が組織されたことは見逃せない。
関東大震災後の虐殺に関しては、「パニックで発生した流言飛語によって暴徒化した人びとや地域の自警団が行った」と聞かされることが多い。私自身も長年そのように思っていたのだが、実際は軍や警察が虐殺に関わっていたことが神奈川でも長年の調査によって明らかになっている。9月2日、横須賀鎮守府司令長官から海軍大臣に送った報告書のなかに「本牧方面の火災は全部鮮人の放火に依れるものなり」との一文がある。流言飛語をそのまま受けた電文が、内務省から地方長官宛にも打電された。また同日の深夜には、海軍陸戦隊が「不逞鮮人」取り締まりのためとの名目で、ラッパを高らかに吹きながら八幡橋(現・磯子区)に上陸。すると横浜市民は「自分たちを守ってくれる」軍隊がやってきたと歓迎し、万歳、万歳の声で出迎えたという。9月3日には習志野騎兵連隊も到着。根も葉もない噂は公権力の支持を得て「敵」を作り出し、とんでもない惨事を引き起こすことになる。
(P.180~P.183記事から抜粋)