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沖縄では不思議なことがたくさんあった(韓国語翻訳家・ライター 斎藤真理子)

季刊『社会運動』2019年1月【433号】特集:0円生活を楽しむ―シェアする社会

内地の赤ちゃんに何かを知らせようとしていた……

 

 沖縄は、苛烈な地上戦を体験した土地だ。「敵」という人々が同じ地面の上にいて間近にひそみ、いつ躍り出てくるかもわからないという恐ろしさ。経験したこともないし比べるようなことでもないけれど、それは空襲とは全く違う種類の恐怖だろうと思う。それを体験した土地だという意味では、韓国も同じだったが。
 沖縄のお墓は亀甲墓といって、亀の甲らのような形をして大きい。一家族が隠れられるぐらいの空間はあるから、沖縄戦のとき、お墓の中に避難した人たちもたくさんいた。そこで息を潜めていたところ、米軍が墓の上に陣取って飯盒で煮炊きを始めたとか、墓の天井に穴を開けて火炎放射器を使ったとか、すさまじい話がたくさんある。
 私は韓国に一年半住んだあとで沖縄に四年住んだのだが、沖縄では不思議なことがたくさんあった。
 ある日の夕方、家で、沖縄戦に関する本の校正をやっていた。亀甲墓に隠れていて米軍に包囲された体験談は、その本に出ていたのである。その記述を読んでいたまさにそのとき、戸外でずどーんという鈍い大きな音がして、窓枠がびりびり震えた。うろたえていると近所の、いつも一人で留守番している小学生の女の子から怯えた声で電話がかかってきた。
 「斎藤さん、今の、何ね」
 私は、何だかわからないけれどすぐわが家に来るようにと言い、彼女はあわてて避難してきた。二人でテレビのニュースを見たが、何も報道されていない。その後誰に聞いても、私たち以外にずどーんというその音を聞いた人はいなかった。あんなにはっきりと窓枠まで震えたのに。いったい何の衝撃だったのか、今でもわからない。
 もう一つの経験は、さらにわけがわからない。
 毎年、六月二十三日は沖縄戦慰霊の日ということで、学校や役所がお休みになる。沖縄に住みだして初めて迎えたその六月二十三日に、説明のつかないことが起きたのだ。
 私は首里の高台の、学生向けのトタン屋根の長屋に住んでいた。首里は最大の激戦地だった土地である。庭先から下は草ぼうぼう、木の枝がからみあったジャングルのような斜面だった。その夜、日付が変わって二十三日になり、家々のあかりも消えて真っ暗闇になったころから、その斜面の方角がなんとなくざわついてきて、「そこ、確実に、大勢の誰かが、いる」という状態になった。これ以上詳しく書いても多分わかっていただけないと思うので、書かない。
 だが、もっと不思議だったのは、眠っていた生後八ヶ月の息子がいつの間にか目覚めてはいはいをしてきて、窓にぴったりと顔をつけ、そちらの方向をじっと見ていたことだ。物音か気配のようなものに惹かれて起きてきたとしか思えなかった。その気配のようなものはずっと続き、空が白みはじめる前あたりにすうーっと、消えたようだった。いや、気づいたら何かが終わっていたのだ。「終わったな」と思ったとき、息子は横になって眠っていた。一度も泣かなかった。

(P.162-P.164記事抜粋)

 

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