道徳教育の歴史と「教科化」の危うさ(中央大学文学部教授 池田賢市)
修身と教育勅語
日本の学制が始まったのは1872(明治5)年です。その当初から戦前の道徳教育科目であった「修身」がありました。1880(明治13)年には教育令が改正されて「修身」が最重要科目となりました。そして、1889(明治22)年の大日本帝国憲法発布の翌年、第一回帝国議会の開催よりも前に「教育勅語」が発布されています。丸山眞男(注1)が教育勅語のあとに第一回の国会が開かれたことが象徴的だと書いていたと思いますが、私もそう思います。「教育勅語に書いてあることは悪いことばかりではない」と評価する人たちがいるけれども、最後には皇室・国家のために身を捧げよと書いてあるわけです。これが第一回の国会の前、まだ普通選挙ではなかったので現在とは違いますが、曲がりなりにも有権者に選ばれた議員が国会で議論する前に、人びとの生き方・価値の置き方が天皇から示されたわけです(次ページの表「教育勅語の11徳目」を参照)。
明治政府は教育勅語を国民の思想や価値観を統一していくために利用しました。そのときに学校教育のなかで一番大きく利用されたのは「儀式」だったと思います。卒業式や入学式、明治天皇の誕生日であった天長節などの儀式のたびに校長が教育勅語を読み上げるのを、子どもたちが姿勢を正して聞くわけです。こうした儀式の次第を定めた規定も明治時代にできています。まず校長の話があり、来賓が挨拶し、といった一連の流れが、教育勅語をいかに浸透させるかという目的のもとに作られたんです。
実はいまでもほぼそのひな型に沿って学校の儀式は行われています。戦後、学校での儀式的な行為は「特別活動」と言われる分野になりましたので、学校ごとに考えてよいことになっていますから、実は入学式や卒業式をやるかやらないか、また、どのようにやるのかといったことは自由です。しかし文科省も儀式を大事にしろと言っています。私の専門はフランスの教育制度ですけれども、フランスでは儀式としての入学式や卒業式は基本的にはありません。学校は授業をするところなので、先生もそれ以外のことは一切やりません。良し悪しは別としても、とてもはっきりしています。
昭和に入ると、御真影と呼ばれた天皇の写真や教育勅語を収める奉安殿が小学校に作られるようになって、子どもたちは毎日そこを通るたびにお辞儀をしないといけないことになりました。さらには儀式以外の普通の朝礼でも、教育勅語が読まれるようになります。
さらに最重要科目としての修身は教科でしたから、成績がつけられるわけです。修身の教材には、例えば学校が火事になった時に御真影を守って殉職した教員のことなどが美談として盛り込まれるようになっていきました。儀式と修身の授業とが一体になって精神的に国民を統一していくことが目指されたのです。
注1 丸山眞男(1914〜96年)は政治学者。専攻は日本政治思想史。
戦後の「修身」廃止・「教育勅語」失効から、道徳の復活
戦後となり1948年に、教育勅語は国会で失効が確認されました。しかし、そうすんなりいったわけではありません。終戦直後の45年9月に当時の文部大臣であった前田多門は「新日本建設ノ教育方針」という文書の中で、教育勅語が軍国主義によってゆがめられてしまったと解釈しています。GHQは45年12月の段階で、修身と歴史、地理などの軍国主義教育の温床になった授業を停止していますが、教育勅語の内容そのものの良し悪しについてはコメントしていません。文部省の学校教育局長であった田中耕太郎も、教育勅語が徹底されていなかったことを問題としていました。
国会での教育勅語の失効確認は新憲法と教育基本法が施行されたあとの48年ですから、その間にも実は教育勅語を生かそうとする人たちは相当いたのだろうと思います。ただ、さすがに新しい法体系では無理だと、いったんは諦めざるを得なかったのだと思います。
しかし、脈々と復活をねらう人たちや世論があったことも確かで、戦後わずか十数年の1958年に「道徳の時間」が設けられ、学習指導要領も改訂されてしまいます。さらに66年には中央教育審議会答申の別記というかたちで「期待される人間像」という文書が出されます。天皇への敬愛が国の敬愛の念に通ずるといった文言が入っていることで批判されることが多いのですが、ここでは違う面に注目したいと思います。それは、子どもたちのいわゆる問題行動のようなものと道徳教育のあり方に因果関係があるかのように語られる言説が、この文書によって確立していったという点です。しかし、そのような「関係」は誰も証明していませんし、証明できないでしょう。ただそういう「語り」は人びとに受け入れられやすいのです。
(P.73~P.76記事抜粋)