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軍艦島で強制労働の話を聞く


 2011年、軍艦島ツアーに参加するために長崎へ赴いた。
 長崎港から船に乗って約30分。遠くに端島が姿を現した。「軍艦島」と呼ばれるとおり、島というよりは海に浮かぶ大きな船のようだ。近づいて行くと、黒ずんだコンクリートの建物が林立しているのがわかる。
 幸い天候もよく、海が穏やかだったため、船は難なく桟橋に横づけされ上陸できた。風が強い日などは島に上がれないこともあるという。
 ガイドに案内され、島を歩く。目の前に次々と廃墟が現れるたびに、観光客は夢中でカメラを構える。もちろん私も。石炭の生産施設の跡、鉄筋アパートの跡……、島には病院や小中学校、映画館もあった。いまは住む人もないこの小さな島に、かつて多くの家族が暮らしていたのが信じられないほどだ。
 端島はもともと小さな岩礁だった。江戸時代に石炭が発見され、佐賀藩が細々と採炭を続けていたという。1890年(明治22年)にそこを買い取り、大規模な海底炭鉱開発を始めたのが、三菱鉱業だった。岩礁を埋め立てて島へと大きく広げ、早くも1916年には日本初の鉄筋コンクリート高層住宅が建てられたというから驚きだ。
 この島の最盛期は1960年代。炭鉱は豊かな暮らしをもたらした。周囲1200メートルの島に5000人が住み、当時の人口密度は世界一。東京の約9倍だったという。全国に先がけてテレビが各家庭に普及した。学校には児童の声が響き、立派なプールもあった。しかしその後のエネルギー政策の転換によって74年に閉山。すべての人が島を離れることとなった。
 廃墟ファンの間で人気だったこの島には、石炭で近代日本の発展を支えたとして華々しく光が当てられることになった。日本政府は端島と、同じく炭鉱で知られる隣りの高島などを、ユネスコの世界文化遺産に登録することを進めていた。
 私が訪れた2011年にはすでに世界文化遺産登録の噂は広がっていた。と同時に近隣国からは、「華々しい歴史を讃えるだけでなく、戦争中に軍艦島であったことを忘れてはならない」と警戒する声が高まっていた。実際、戦時中には、この島に500人以上の朝鮮人、204人の中国人が日本人とともに働かされていたのだ。過酷な労働のもと、敗戦直前の数年間で朝鮮人は30人以上が、中国人は15人が亡くなったと言われている。
 この時期に長崎へ来たかった理由はもう一つあった。戦時中に軍艦島で働かされていた崔璋燮さんが、市民の集まりに招かれ、証言をすると聞いたからだ。1943年、まだ14歳だった崔さんは、日本へ行かされそうになって逃げ回っていた兄の代わりに「徴用されて」端島に送られた。戦後70年経ったにもかかわらず、島での強制労働のことをよく覚えていた。
 「坑口からエレベーターまで地下数百メートルの海底炭鉱まで降りていくのだが、最初はもう恐ろしくて。牛のように働かされても、食事は豆かすの握り飯が1日3個。ひもじくて辛かった。泳ぎの達者な木浦(韓国・全羅南道西南部の都市)出身の若者たちが堪えかねて逃げ出したが、潮の流れが速くて捕まって連れ戻された。ひどく殴られていたよ。それを見て、逃げるのはムリだと思った」
 そして、通訳を介さず日本語でこう言った。
 「生きたくもなし、死にたくもなし、だ」

(P.176~P.178記事抜粋)

 

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