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沈められた青函連絡船-津軽海峡をまたぐ戦争 (ライター 室田元美)

季刊『社会運動』2019年7月【435号】特集:医薬品の裏側 クスリの飲み方を考える

 函館港には加害の歴史も残る。朝鮮人、中国人、連合国軍捕虜などが戦時中、北海道の港湾や炭鉱で働かされたが、小樽などとともに函館もその玄関口になったのだ。北海道に連行された朝鮮人は約14万5000人、中国人は1万6282人、連合軍捕虜も1500人以上を数えた。
 『北海道と朝鮮人労働者』(1999年刊行)によると、1939年2月、国家総動員法により北海道でも北海道庁職業課が厚生省(当時)などと土木労働者不足に対処するため、土木労働者需給協議会を開く。5月には多くの炭鉱労働者を必要としていた石炭鉱業連合会から朝鮮人の集団移入を許可するよう申し入れがあった。
 10月3日、朝鮮の元山港を出港した船団が函館港に上陸。5日付けの函館新聞には「国防服も颯爽/ハリ切る半島の産業戦士/燈管下の函館へ上陸」との見出しが躍った。函館駅から三菱手稲炭鉱(現札幌市)、田中鉱業轟鉱山(現余市町)などへ列車で出発したとある。その先にはどんな苛酷な労働が待っていたのだろうか。労働者は次々と北海道、樺太にも送り込まれたが、1940年以降には炭鉱のガス爆発や落盤事故が相次ぎ、日本人とともに多くの朝鮮人も落命している。また粗末な食事や長すぎる労働時間、日常的な体罰など非人道的な扱いに対しては、ストライキや抗議行動もたびたび行われたという。これらを警察署が厳しく取り締まり、首謀者を検束するなどした。
 函館に着いた翌朝早く、街はずれにある外国人墓地まで散歩に出かけた。連合軍捕虜について調査研究を続けている「POW研究会」によると、外国人墓地の近くにある「旧函館検疫所」で、戦時中に連合軍捕虜が収容されていたとのことだ。港を見おろす眺めのいい丘の上には、ロシア人、中国人など、様々な国からやって来て、函館に骨を埋めた人びとの墓地が並んでいた。海のほうに少し坂を下りていくと、ピンク色に塗られた古めかしい木造の建物を見つけた。看板には「函館検疫所台町措置場」と書かれている。「明治29年(1896年)3月、函館検疫所と改称され業務をおこなってきましたが、昭和20年(1945年)には敗戦により樺太方面などからの引揚者の検疫にあたり、医療や援護にと活躍しました」。戦時中に「連合軍俘虜収容所」として使われていたことについての記述は見当たらなかった。
 この歴史的な建物は現在、夕日の見えるティーショップとしてちょっとした観光スポットになっている。収容されていた捕虜たちもここから夕日を眺めたのだろうか。
 戦後70年以上を経て考える。北海道へ連れて来られ、強制労働をさせられた人びとが故郷に帰ることもできず、多くの命を犠牲にしてまで掘り出した石炭。戦争を支える燃料を載せて津軽海峡を渡った船は、最後にことごとく沈められ、そこでもまた人びとの命が奪われた。日本が始めた戦争は、ただただ罪深く、愚かであったと言うしかない。

(P.144~P.145記事抜粋)

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