日本軍「慰安婦」被害者たちの証言
宋 神道 さん
1922年忠清南道生まれ。数えで16歳のとき、母親が決めた結婚相手と式を挙げた夜に服を脱がされて怖くなって逃げ出す。実家にも帰れずに途方にくれていたとき、戦地に行けば結婚しなくても生きていける、と騙され、中国・武昌の慰安所に連れていかれた。
「帳場には殴られる。軍人たちには殴られる。本当に殴られ通しだよ。だから気持ちが荒くなるの無理もないの。足で蹴っ飛ばしたりね。あんな大きな手さ。釜の蓋みたな手で引っぱたかれてごらんなさい。だから耳が遠くなっちゃって、片一方聴こえないし。ほっぺたはたこが寄っちゃって、なんぼ殴っても痛くないの。太鼓と同じ。叩かれ慣れて、なんぼ叩いたって痛くない」
19歳で生理が始まったときは、それが何だか知らなかった。
「それからは、生きた子も、死んだ子も、三人、四人も産んだよ。腹がでっかくても、明日、明後日産むくらいの体でも、軍人の相手しなきゃ殴られる。お腹の子にも悪いから七カ月で腹の中の子どもが死んだの。それも自分でひっぱりだして、自分で始末したんだよ」
「つらかったこと? 弾が飛んで来る中で兵隊の相手させられたことが一番つらかったな。もうとにかく兵隊さんが上に乗っちゃってさ、これ決まらないうちは起きていかないんだもの」
戦争が終わったとき、日本軍軍曹と結婚して日本に行こうと言われてついていくが、日本に着いた途端に棄てられ、死のうと列車から飛び降りた。在日朝鮮人に助けられ、宮城県で暮らすようになる。1993年に提訴。
「人の心の一寸先は闇だから。人の心が信じられずに生きてきたんだよねえ。だまされてばかりいたからさ。でも、裁判かけて、体験を話してから、ちっとは安心した。みんな涙流して聞いてるんだもの。オレも少しは人間らしくなれたよ。オレも、すっかりあか抜けたババアになっちまったよ」
2003年に最高裁で敗訴が確定。「裁判負けても、オレの心は負けてねえ」と発言。2011年東日本大震災で津波に家を流される。2017年に永眠。
(P.92~P.93記事抜粋)
「帳場には殴られる。軍人たちには殴られる。本当に殴られ通しだよ。だから気持ちが荒くなるの無理もないの。足で蹴っ飛ばしたりね。あんな大きな手さ。釜の蓋みたな手で引っぱたかれてごらんなさい。だから耳が遠くなっちゃって、片一方聴こえないし。ほっぺたはたこが寄っちゃって、なんぼ殴っても痛くないの。太鼓と同じ。叩かれ慣れて、なんぼ叩いたって痛くない」
19歳で生理が始まったときは、それが何だか知らなかった。
「それからは、生きた子も、死んだ子も、三人、四人も産んだよ。腹がでっかくても、明日、明後日産むくらいの体でも、軍人の相手しなきゃ殴られる。お腹の子にも悪いから七カ月で腹の中の子どもが死んだの。それも自分でひっぱりだして、自分で始末したんだよ」
「つらかったこと? 弾が飛んで来る中で兵隊の相手させられたことが一番つらかったな。もうとにかく兵隊さんが上に乗っちゃってさ、これ決まらないうちは起きていかないんだもの」
戦争が終わったとき、日本軍軍曹と結婚して日本に行こうと言われてついていくが、日本に着いた途端に棄てられ、死のうと列車から飛び降りた。在日朝鮮人に助けられ、宮城県で暮らすようになる。1993年に提訴。
「人の心の一寸先は闇だから。人の心が信じられずに生きてきたんだよねえ。だまされてばかりいたからさ。でも、裁判かけて、体験を話してから、ちっとは安心した。みんな涙流して聞いてるんだもの。オレも少しは人間らしくなれたよ。オレも、すっかりあか抜けたババアになっちまったよ」
2003年に最高裁で敗訴が確定。「裁判負けても、オレの心は負けてねえ」と発言。2011年東日本大震災で津波に家を流される。2017年に永眠。
(P.92~P.93記事抜粋)