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日本のマスコミは、韓国報道に対してなぜ腰砕けになったのか (武蔵大学教授 永田 浩三)

季刊『社会運動』2019年10月号【436号】特集:「平和の少女像」が示す希望 韓国と日本の歴史を直視する

若手議員、安倍晋三からのNHKへの圧力

─近年の日韓関係に関するマスコミの報道を考えるとき、避けて通れないのが、NHKの番組改変事件です。永田さんは、当該番組「ETV2001」の編集長でしたが、まずは番組制作当時の状況についてお話しいただけますか。
 
 1990年代、私が在籍していたNHKの番組制作局(当時)では、後にwam(アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」)の館長になる池田恵理子さんたちを中心に、日本軍の「慰安婦」とされ被害にあった女性たちについて、いくつも核心に迫る番組を作っていました。91年に金学順さんが、「慰安婦」として実名で名乗り出てその体験を語られ、2年後に、「河野談話」(95ページ参照)が出された。日本の加害責任を明らかにし、きちっと向き合い、教育を通じて語り伝えていこうという気運が高まっていました。
 さらに言うならば、金学順さんが名乗り出る2年前の89年には、東欧の変動やベルリンの壁の崩壊があった。世の中が冷戦終結に向けて劇的に動いていく中で、朝鮮半島の統一に向かっても大きな動きがあるだろうと想像していました。そこで、必ず直面することになるのが、戦争における日本の加害責任です。河野談話を出した宮澤政権(92年〜93年)、細川政権(93年〜94年)でも、日本の加害責任について言及されていましたし、社会全体にもそうした空気があり、その中で、いろいろな番組も作られていったわけです。
 ところが、NHKの番組改変事件が起きる前、1997年から、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」「新しい歴史教科書をつくる会」「日本会議」などが次々と発足。下野していた自民党の中で、当選1回の安倍晋三氏が若手議員の会の事務局長になり、中学校の教科書から「慰安婦」についての記述が次々と消されていった。それでも当時の私は、まだ楽観的でした。こうした歴史修正の動きは、歴史を勉強していない一部の人たちがしていることだし、国連の人権条約機関でも、「慰安婦」問題についての勧告が立て続けになされており、今後は謝罪や補償といった話が進んでいくのだろうと思っていたのです。
 そうした状況の下、2000年12月、東京・九段会館で「女性国際戦犯法廷」(120ページ参照)が開かれました。「慰安婦」をはじめとする旧日本軍による性暴力について、国際法上どのような罪に当たるのかを明らかにし、日本軍や日本政府、昭和天皇の責任を追及しようとする民間法廷です。これを取材し、分析・検証しようとしたのが、当時私がプロデューサーを務めていた「ETV2001」の中のシリーズ第2回「問われる戦時性暴力」でした。
 NHKが「女性国際戦犯法廷」が開催されたことをニュースで報じ、番組でもしっかり取り上げることが世の中に知られると、右翼の街宣車がNHKの出入り口に横付けされ、大挙して乱入しました。私は10階の部屋で震えていましたけれど、NHKは右翼に屈しなかった。右翼の反応は、ある程度予想できたし、番組作りについて、その時点で上層部から横槍を入れられるといったことは一切ありませんでした。
 ところが番組放送の前日、NHKの複数の幹部が、当時官房副長官だった安倍晋三氏や中川昭一衆議院議員に番組の内容について説明に行ったのです。議員たちから意見を出され帰ってきたその足で、プロデューサーの私に番組の内容を根本的に変更するよう、こと細かな指示を出した。私は、そこで初めて事態の深刻さを実感しました。教科書に対する強い圧力と同じ嵐が、番組にも吹き荒れることへの認識が全く足りていなかったことに気づいたのです。放送当日にも再び改変が行われ、本来44分の番組は、40分番組に短くなって放送されました。ここまで露骨なNHKの幹部の介入、政治家の意向の反映は、放送史上例を見ない汚点と言わざるを得ません。
(P.110~P.112記事抜粋)
 
 

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