北海道にいまも眠る強制動員の犠牲者たち (ライター 室田元美)
戦時中、北海道には約15万人の朝鮮人が強制動員された。苛酷な労働と栄養不足などによって事故や病気は絶えず、多くの死者を出した。ワークショップではこれまで朱鞠内をはじめ、オホーツク海に面した浅茅野(飛行場)、芦別(炭鉱)や東川(発電所)の跡地でも発掘を行った。
筆者が最初に参加したのは、2006年の浅茅野での発掘だった。浅茅野では1942年から44年にかけて、「宗谷海峡の防衛と対米作戦のために」旧陸軍飛行場の工事が行われた。集められた朝鮮人は300人とも、4000人はいたとも言われ、人数ははっきりしていない。そこでは明治時代から北海道開拓で行われていた囚人労働(タコつぼの逃げられない状態になぞらえて「タコ部屋労働」と呼ばれた)そのままに厳しい監視下で非人道的な労働が行われた。加えて冬は氷点下20度以下にもなる極寒の地である。猿仏村所蔵の埋火葬許可証によると、朝鮮人96人、日本人21人、不明1人、合計118人が亡くなっている。
遺骨発掘には、入念な準備が必要である。まず、地元の人たちの証言に基づいて調査を行う。浅茅野飛行場近くの猿払村では、村の人びとによって死者をやぶに埋めたことが語り継がれていた。試しに掘ってみると、やぶの中から完全な形で一体の遺骨が現れたのだ。地元の人たちの力を借り、周囲の下草を刈るなどして発掘準備が始まる。100人以上の参加者の食事を用意してくれるのは、地域の女性たちだ。猿払村の牧場から毎朝、搾りたての牛乳が届けられるなど、地元の人たちの応援もあった。
発掘に参加した韓国人、在日コリアン、日本人などの若者たちは、朝から夕方まで額に汗してスコップを握った。やみくもに発掘するわけではない。韓国で朝鮮戦争犠牲者の遺骨発掘にも携わっている専門家とそのチームが同行し、彼らの指導のもとに丁寧に上から土をはがしていく。土の色が急に変わるなど変化が現れたら、遺骨が埋まっている可能性がある。そこからは専門家たちの出番だ。浅茅野ではその後の数回のワークショップも合わせ、19体の遺骨を発掘した。頭蓋骨がそのまま現れたときには、みんなが息を呑んだ。
土の中から私たちの目の前に現れたのは、当時おそらく10代〜20代の、ワークショップに参加している若者たちと同世代の若者だ。生きていれば「ハラボジ」(おじいさん)と呼ばれる年齢になっているだろうが、若くして異国で人生を断たれてしまったその人たちを、ワークショップ参加者はどんな思いを抱いて発掘したのだろうか。
(P.192~P.193記事抜粋)