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市民セクター政策機構

市民セクター政策機構 市民セクター政策機構は、生活クラブグループのシンクタンクとして、市民を主体とする社会システムづくりに寄与します。

政府と放送メディアの関係


 日本政府と放送メディアの関係性の歴史を見てみますと、戦後から1965年くらいまでを私は「構築期」と呼んでいます。「放送法」ができるなど、様々な制度ができあがっていく時代です。
 その後1985年くらいまでが「躍動期」で、だいたい制度的には落ち着いて、それをどう運用するのかで政府と放送局がお互いにやりあった時代です。「政府批判の放送はけしからん」と政府が厳しく圧力をかけたりもしましたが、放送局の方も「うるさい、黙っておけ」と反発をして相当おおっぴらにやり合っています。ちょうどベトナム戦争があった時代です。それでも政府は、放送法とは自主的な基準を定めたもので、良し悪しは放送局自らが判断すべきこととしていました。
 しかし1985年くらいから状況は一変します。政府は、「放送法に反するかどうかを政府が判断せざるをえない場合もある」といったことを言い始めましたし、政府からの攻撃のみならず、市民からの攻撃も激しくなっていきます。ですから私は「挟撃の時代」と呼んでいます。この85年ごろというのは、小型カメラによる生中継が始まったり、いわゆる写真週刊誌が続々と創刊されて、事故や事件の現場、記者会見の場などにメディアが大挙して押し寄せるという事態も発生して、ワイドショーなどによるスキャンダル報道、覗き見趣味が広まった時期です。
 そこで「メディアはやり過ぎじゃないのか」という批判が市民社会から出てきました。ただ、ちょうどこのころ自民党は「機密保護法」というメディア規制法を国会に上程するのですが、メディアもひどいけれども、政府が報道の自由を否定するような法制度に対しては、市民社会も最終的にはメディアの側に付いて反対をしました。挟撃はされても、まだ市民社会はメディアの側に立っていた。
 それが2000年ごろから、「マスゴミ」という言葉に象徴されるように、市民社会の側からメディア否定、メディア不要論が高まりました。特に05年以降は「忖度の時代」と呼んでいいような状況になります。メディア規制の法律を政府が出してきても、市民社会からの批判はあまり大きくならず、次々と規制法ができてしまいました。「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律(盗聴法)」「特定秘密保護法」「安全保障関連法」「組織的犯罪処罰法(共謀罪)」など、メディア規制や表現の自由の規制を含む法律がこれほどできたのは、戦後70数年の中で、ここ15年ほどの稀有な特徴であることを私たちはもっと自覚したほうが良いと思います。
 こういう状況の中で、「放送法は視聴者への約束ではなく、国があるべき放送局の番組内容について定めた法律である」という解釈がまかり通るようになってしまいました。違法かどうかの判断は国がする、それに基づいて電波も止められるという高市総務大臣の発言に至るまでにはこういう経緯がありました。
 どの国でも放送局は免許制になっていますが、免許を出すか出さないかを直接政府が決めている国は日本と北朝鮮くらいしかありません(国会図書館調べ)。一般的には第三者的な行政機関、例えばアメリカでしたらFCC(連邦通信委員会)という組織ですが、そうした機関が政府とは独立するかたちで判断をして免許を与える仕組みになっています。政府が判断すれば、政府の意向に沿う放送局しか選ばなくなることはわかりきったことですので、表現の自由を重視するなら第三者機関に判断させるのが当然だと思います。しかし、不幸なことに日本は、総務省が番組の良し悪しを含めてチェックをして免許を与えるという仕組みなので、事実上、政府の意向によって番組内容がチェックされるという現実が生まれてしまっています。
(P.45~P.46記事抜粋)

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