語り継がれる、尊厳をかけた闘い 花岡事件から75年(ライター 室田元美)
真冬にわらじ履きで川の付け替え工事
1945年6月30日深夜。秋田県の花岡(現・大館市)の鉱山町に突然、けたたましいサイレンが鳴り響いた。鹿島組花岡出張所で働かされていた中国人労働者、約800人が苛酷な労働に耐えかねて一斉蜂起し、日本人補導員4人と中国人1人を殺したあと、全員が逃走したのだった。
ただちに憲兵隊や在郷軍人などが集められ、大がかりな山狩りが行われた。中国人労働者たちは生き延びるためちりぢりに逃げたが、全員が捕まった。そして鉱山町の劇場があった「共楽館」前の広場に連れて行かれ、二人一組に背中合わせに縛られて水すら与えられず、炎天下に三日三晩放置された。屍はふくれあがり、ハエまみれになっていたという。共楽館の中では、一部の人びとが、手指を針金でくくられ天井から吊されてめった打ちにされる凄まじい拷問を受けた。蜂起のあとの拷問などで100人以上の中国人が死亡した。
のちに「花岡事件」と呼ばれるこの事件は、中国人労働者の一斉蜂起、鎮圧というセンセーショナルなもので死者が多かったためか、あるいは戦後の裁判などの経過が何度もメディアで報道されたためか、戦時の強制労働のなかでは比較的よく知られている。
なぜ、こんな事件が起きたのだろうか。
戦時中、戦地へ行かされた日本人男性の代わりに、新たな労働力を求めたのが財界であった。1942年11月、東条英機内閣は財界からの強い要望を受けて「華人労働者内地移入に関する件」を閣議決定した。当時の政府は中国で日本軍の捕虜となった人たちを日本に連行し、全国で働かせたのである。連れてこられた中には、捕虜になった兵士だけでなく、町や村で手当たり次第に捕えられる「労工狩り」で連行された農民や市民もいた。
このように強制連行された約4万人の中国人は、日本の35企業の全国135事業所で働かされ、6830人が亡くなった。
鉱山があり、良質の銅や鉛、亜鉛などを産出した花岡でも、鉱山の所有者である藤田組(のちの同和鉱業)やその下請けの鹿島組花岡出張所で中国人が働かされた。藤田組花岡鉱業所では298人連行・死者11人、鹿島組では986人連行・死者419人(花岡事件の犠牲者を含む)。鹿島組の死者が飛び抜けて多いことがわかる。
(P.173~P.174記事抜粋)