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介護派遣事業の闇、竹中平蔵と(株)パソナ(ノンフィクション作家 森 功)

季刊『社会運動』 2015年10月号【420号】特集:あなたが「下流老人」になる日

労働市場の自由化と人材ビジネスと竹中平蔵

 パソナの躍進には、日本の政治経済の環境変化が色濃く反映されている。グループ代表の南部靖之はそれをうまくとらえ、事業展開してきた。とりわけ現在の第2次安倍政権下で、南部を支えてきたのが、慶大教授の竹中平蔵なのは間違いない。「多様な働き方を実現する」というアベノミクスにおける労働の自由化政策の中心にいるのが竹中である。が、それは今に始まったことではない。
 竹中平蔵といえば、小泉規制改革の立役者というイメージが強いが、政治とのかかわりは小渕恵三政権時代が始まりだ。1998年7月、アサヒビールの樋口廣太郎が議長を務めた小渕内閣の経済戦略会議の委員に就任し、そこから森喜朗政権のIT戦略会議でも委員を務めてきた。2001年4月の第1次小泉内閣で経済財政政策担当大臣に抜擢され、やがて金融担当大臣も兼任した。竹中は経済財政諮問会議を取り仕切り、小泉規制緩和で采を振るった。
 2003年以降、内閣府特命担当大臣として金融・経済財政政策を担当し、翌2004年7月の参院選に自民党の比例代表候補として出馬し、70万票をとってトップ当選した。言うまでもなく、小泉規制改革の一環として労働の自由化を実現したのが、竹中平蔵である。2005年10月の第3次小泉改造内閣では、総務大臣と郵政民営化担当大臣という要職に就いた。ときの首相小泉純一郎は、積年の願いである郵政民営化を竹中に託し、竹中は小泉規制緩和の大看板として、その期待に応えてきたといえる。
 一方、労働の自由化では、1999年の法改正から5年後の2004年3月にもう一つ大きな出来事があった。最後の砦である製造業務の労働者派遣解禁に踏み切ったのである。単純作業の多い製造業の派遣を認めるという大きな舵を切った瞬間だ。これが派遣業界の強い追い風となり、ここから爆発的に派遣労働者が増える。

竹中平蔵と南部靖之との出会い

 竹中と南部、そもそも二人はどうやって知り合ったのか。
 〈竹中さんとの出逢いは、ずいぶん前のことになりますが、飛行機の席で隣り合わせになったのがきっかけです。話が弾んで、それからずっと長くお付き合いをさせていただいております。ボストンのハーバード大学で教えてらしたときは、私もアメリカにいましたので〉
 2006年11月25日付の南部自身のブログ「南部靖之の今日も頑張ろう」に、〈竹中平蔵さんにお越しいただきました〉と題してこう書いている。出会いが二人の米国時代となると、80年代末から90年ということになる。ずい分、古い付き合いのようだ。
 ただし、急接近したのは、やはり小泉規制改革のときからだろう。
 米国追従の規制改革批判が高まるなか、竹中は2006年9月、任期を4年近く残して政界の引退を表明する。唐突な退任に無責任だとも非難されたが、本人はいったん政界を去った。南部のブログに竹中が登場したのは、まさにその直後のことだ。南部は竹中をパソナのイベントの講師として招いた。11月25日付のブログ「南部靖之の今日も頑張ろう」にもこうある。
 〈 10月28日に、創業30周年を記念したパソナグループ「職博」を開催しました。テーマは「才能」を活かす! ~自分らしく輝くステージを創る~ です。才能を発見し活かすためのヒントになるセミナーや、才能を活かせる仕事のご提案、安心して就労していただくための福利厚生サービスのご紹介などをさせていただき、就労を希望する方々に少しでもお役に立ちたいというイベントです。そこに緊急特別講演として、前総務大臣竹中平蔵さんにお越し頂きました〉
 ブログで南部は竹中をこう持ち上げている。
 〈竹中さんといえば、小泉内閣の経済政策の参謀役として、構造改革の陣頭指揮をとっていらっしゃった方です。バブル経済崩壊後の2002年、日本中を金融不安がおおっていました。そのとき、大手銀行の不良債権比率の半減を目標とする金融再生プログラムを策定したのです。金融界はもとより、永田町でも周りすべてを敵にまわし、捨て身で不良債権を処理しました。そして日本の金融界を立て直したのです。もしまだ、負の遺産を先送りしていたらどうなっていたでしょうか。危機的な日本経済、いや日本を救ったと僕は思っています〉

 

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