「あなたに」の「タニ」だけ残った歌謡曲のこと(韓国語翻訳家 斎藤真理子)
季刊『社会運動』2020年10月【440号】特集:コロナ下におけるマイノリティ -子ども、生活困窮者、障がい者、外国人-
「歌謡曲は人と一緒に聴くもんだ」
そんなことを言った人がいたなあ、と思い出した。わかる気がする言葉だ。でも、誰が言ったのか思い出せない。たぶん作詞家だったと思う。とても有名な人。
友だちに話してみたら「ああ、あの人なら絶対言ってそう」と言う。「私もその言葉、聞いたか、読んだ覚えがあるよ」とも言う。やっぱりはっきりはわからない。その作詞家の本を何冊か持っているのでひっくり返してみたが、それでもわからない。
私の理解では、「人と一緒に聴く」のニュアンスはライブなどではない。誰かに「ほら、ほら、聴いて」と言われてイヤホンを渡されるのとも違う。どっちかというとファミレスや喫茶店に流れる有線のイメージ。聴くともなく聴いてしまい、聴こえているけど聴き流している、隣の人も後ろの人もそう、という感じだ。
有象無象の人と混じりながら同じ歌を聴く。それで何となく歌詞を覚えてしまう。そういうのが好きだ。
言葉の断片が
足の運びのリズムにかぶさるように
六、七年前のことだ。今は閉店してしまったのだが、近所にチェーンのベーカリーがあった。二階がイートインカフェになっていて、そこへよくパソコンを持ち込んで、編集の仕事をしていた。いつ行っても適度な混み具合で、座れないことはまずなく、私一人ということもない。その塩梅がちょうどよかった。
そこではいつも有線がかかっていて、いつのまにか覚えてしまった歌がいくつかあった。
なかでもよく覚えているのは、中年男性がお母さんに向かってぼそぼそ謝ったり、ぼそぼそ決意表明しているようなフォーク調の歌。親孝行ができない息子でごめん─みたいな内容だ。たいそうロングセラーの曲らしく、歌っている人はこの曲で一度紅白にも出たというのだが、私は全然知らなかった。
それほど好きな歌ではない。というか、カラオケで誰かが歌ったらイラッとして、その人を嫌いになるかもしれない。だから曲名も書きません。なのに私は、カフェで何度も何度もこの歌を聴いた結果、歌詞が脳にはりついてしまった。具体的には、男性がお母さんに向かって呼びかける「あなたに謝りたくて」という歌詞。さらに正確に言うなら脳にはりついたのは、「あなたに」の「タニ」、というごく一部分なのだが。
「タニ」に妙なアクセントがついていて、それがいかにも、弱々しい男の人が弱々しく力をこめている感じなんですよね。「ああ、そんなにがんばってこれを言いたいのかあ」という感じ。
そのあげく、カフェの階段を登り降りするとき、「タニ」という箇所が再生されて、足の運びのリズムにかぶさるようになってきた。その階段は一段が中途半端に高くて、中高年にはちょっと要注意だったのだ。特に、重いバッグを肩にかけた上、コーヒーを載せたトレイを持っているときなど。一段一段を踏みしめるとき、「あなタニ」、「あなタニ」、という感じで「タニ」が足の着地を支えてくれた。
こういうのは音楽的経験ではなくて、あれを聴いたベーカリーの二階という「場」の経験、あの空間に何度も何度もいたという経験の一部なんだと思う。
そのカフェは、おしゃれさがゼロだった。汚くはない。でもインテリアにまるで手が回っていなかった。結果として、あんまりやる気のないカフェ、という感じだった。そこでかかっていた有線もあんまりやる気のあるチャンネルではなかった。たぶん、ごく普通の「最近のヒット」みたいなチャンネルだったのだと思う。知ってる曲は一切かからない。いいなと思う曲もかからない。でも、それが仕事の邪魔にならなくていい。
邪魔にならないからこそ、うっかりしていると歌が体の中に入ってきてしまうのだ。これはもうコップの水にコインを何枚入れたら水があふれるかというのと同じで、あるときに定着していて、それに気づいてちょっと驚くことになる。聴き流していたつもりなのに、流れてはいなかったんだな、と。何回めかで「あ、これ前にも聴いた」と思う。その次に聴くとなおさら「あ、これ」と思う。
例えば、景品でもらったお皿なんかに近い感じだ。気に入ったわけでもないが身近に置くのが嫌でもないので、何となく使っているうちにエピソードができていく。プレゼントでもない、「指名買い」で買ったわけでもない品物と縁ができるということの良さ。今は、すべてを指名買いすることができ、自分の生活を自分の趣味でがっちり固めることができる時代だから、なおさらそういうことが懐かしく思えるのかもしれない。
(p.152-P.156 記事抜粋)