生活クラブグループ
市民セクター政策機構

市民セクター政策機構 市民セクター政策機構は、生活クラブグループのシンクタンクとして、市民を主体とする社会システムづくりに寄与します。

戦後はまだ訪れない
「黒い雨訴訟」

 

 1945年8月6日午前8時15分。せん光と爆音。すさまじい爆風、熱線。一瞬のうちに広島の街は壊滅し、数多の命あるものが息絶えた。その3日後には長崎にも同様に原子爆弾が落とされ、日本の敗戦を決定づけた。
 広島ではこの夏、原爆をめぐっていくつかの大きな動きがあった。
 一つは広島地裁での「黒い雨訴訟」判決である。原爆投下後に巨大なきのこ雲が広がったあと、誰も見たことがないねっとりと不気味な黒い雨が降った。原爆投下の20?30分後からだと言われる。井伏鱒二の名作『黒い雨』には、こんな記述がある。
 「雷鳴を轟かせる黒雲が市街の方から押し寄せて、降って来るのは万年筆ぐらいな太さの棒のような雨であった。真夏だというのに、ぞくぞくするほど寒かった」。さらに続く。
 「黒い雨のしみは石鹸でこすっても落ちなかった。皮膚にぴったり着いている。わけがわからない」。
 大量の放射性物質を含む雨を浴びた人びとは、その後、がんや白血病で亡くなったり、髪が抜ける、歯ぐきから出血する、疲れを訴えて働けなくなるなど、深刻な健康被害を被った。
 国は1976年、被爆者援護法に基づいて黒い雨の大雨地域(爆心地の東西約11キロメートル、南北約19キロメートル)を援護対象区域とし、この区域内で降雨に曝された住民たちを被爆者と認定。医療費の自己負担分を公費でまかない(一部を除く)、健康診断を受けられる被爆者健康手帳を交付した。しかしその後、より広範囲で黒い雨に降られた人たちも被爆者援護法の適用を求めるようになる。専門家の間からも、降雨地域や、どの程度の雨だったのかは、単純に爆心地からの距離で決められるものでないとの指摘があった。
 今年7月29日、援護対象区域外で黒い雨に曝され、被爆者健康手帳の交付を求めていた原告84人に対し、広島地裁判決は「黒い雨の降雨域はより広範囲で、原告らはいずれも暴露したと認められる。原爆との関連が想定される疾病にも罹患しており、被爆者援護法の対象に該当する」(時事通信)として全員を被爆者と認め、被爆者健康手帳を交付するよう命じた。5年前に提訴した原告の平均年齢は、いま82歳を超える。明るいニュースに世間は湧いた。
 ところが8月12日、加藤勝信厚生労働相は「十分な科学的知見に基づいたとは言えない判決」と述べ、国の要請を受けた県と市がともに控訴に踏み切るという予想外の事態になった。国は「援護区域の拡大も視野に、検証を行う」と弁明しているが、いつからどんな形で検証がなされるのかなどには触れていない。「時間稼ぎだ」「われわれが死ぬのを待っているのではないのか」。原告からはやりきれない怒りの声が聞こえてくる。闘い続け、待ち焦がれた、本当の戦後はいつになったら訪れるのだろうか。

(p.163-P.165 記事抜粋)

インターネット購入