戸山人骨が伝えること(ライター 室田 元美)
葵から菊へ軍都・新宿の歴史を歩く
発掘された骨は、戸山人骨と呼ばれた。「大都会の真ん中から突如現れた骨はいったい誰の骨なのだろう」と大騒ぎになった。しかも銃創(銃で撃たれたことによってできる傷痕)や開頭手術の跡が残るもの、頭蓋骨がL字型に切られたものもあった。旧満州のハルビンで七三一部隊(後述)を率いていた石井四郎中将による石井機関の中枢が陸軍軍医学校防疫研究所であったため、これらの人骨が七三一部隊と何らかの関係があるのではないかと疑いも持たれた。
その謎を解き明かすため、学者らによって研究が続けられてきた。同時に一般の人たちに向けて、新宿を歩き戦争を考えるフィールドワークも行われている。以前、私も「東京の戦争遺跡を歩く会」を主宰している長谷川順一さんの案内で、軍都新宿を訪ねたことがある。
集合場所は、都営大江戸線の「若松河田駅」だった。長谷川さんから、まずその界隈の歴史についての説明があった。
「江戸時代には、尾張徳川家の上・中・下屋敷が市ヶ谷からこの一帯までを拝領していました。明治になって上屋敷跡には陸軍士官学校が、中屋敷跡には陸軍経理学校が、下屋敷跡があった現在の戸山公園には『箱根山』と呼ばれた築山を含む陸軍戸山学校、そして東京陸軍幼年学校も設立されました」
さらに1929年には麹町にあった陸軍軍医学校が、現在、国立感染症研究所がある場所に移転してきた。陸軍軍医学校のそばには東京陸軍第一病院(現・国立国際医療研究センター)もあった。軍の主要な施設で固められたのだ。長谷川さんは、この地における徳川幕府から明治政府への権力の移譲を「葵から菊へ」と言い表している。
若松河田駅から歩き始めてほどなく、立ち止まったのはかつて七三一部隊の石井四郎中将の自宅があった場所だ。いまはマンションが建っている。
「ここにあった二階建てに彼は住んでいたんです。教官をしていた陸軍軍医学校までは歩いて数分でした。いまで言うところの職住近接ですね」と長谷川さんは説明する。
陸軍軍医だった石井四郎はノモンハン事件で関東軍防疫部長としてその手腕を評価され、その後、関東軍防疫給水部「石井部隊」を率いた。ハルビンの「満州第七三一部隊」で中国人、ロシア人などの捕虜に対して数多くの生体実験を行ったり、中国での細菌戦を試みたことで知られている。当時の国内最高レベルの医学が軍事作戦に利用され、そのネットワークの頂点にいたのが石井四郎だった。戦後、石井らは東京裁判で戦犯容疑を問われたが、実験の資料などをアメリカに提出することによって戦争犯罪を免責された。このアメリカとの裏取引が、日本政府も日本人も戦争の重大な加害責任に向き合う機会を失わせたと言えるだろう。
1989年7月、戦後40年以上を経て突然、人骨が建設現場から発見されたのは、石井四郎が教官をしていた陸軍軍医学校の八角講堂があったすぐ近くだった。
モンゴロイド系の複数の人種の骨を発掘
人骨はだれのものなのか。新宿区はすぐさま、土地管理者である厚生省(現・厚生労働省)に身元確認の要請書を出したが拒否された。新宿区は1991年、独自で人骨の鑑定を行うことを決めた。
鑑定した札幌学院大学の佐倉朔教授(元国立科学博物館人類研究部長)によると、土中での経過年数は数十年?100年以下であり、前頭骨62体、全体ではおそらく100体以上と見られる。モンゴロイド系の複数の人種の骨であり、全体の4分の1が女性であった。十数体に冒頭で述べたような人為的加工(銃創、切創、刺創、鋸断痕)があったという。鑑定結果は新宿区によって公表された。
多くの人骨が墓地ではなく陸軍軍医学校の敷地だった場所にひっそりと埋められ、その記録も残っていないとは常識では考えにくい。死者に対する敬意が少しでもあれば、せめて墓標を建てるなり、記録を残すなりするだろうが、むしろ隠蔽するような扱いに疑惑が募ったのも無理はないだろう。
当時、神奈川大学教授で「人骨の会」(後述)の代表でもあった常石敬一さんは、あくまでも推測だとしながら、人骨は七三一部隊をはじめ中国のあちこちで行われていた人体実験の標本などが、陸軍軍医学校の防疫研究室に送られた可能性があると述べた。
(p.129-P.132 記事抜粋)