電源ルポ②生活クラブSOLAR栃木発電所
畜産王国、酪農王国でもある栃木県は、生活クラブ生協にとって主産地の一つであり、ほうきね牛や平牧三元豚などの肉類、多種多様な野菜は組合員の人気が高い。
2008年、県内の提携生産者と生活クラブ生協は「まるごと栃木生活クラブ提携産地協議会」(以下、「まるごと栃木」)を結成。乳肉一貫生産や、家畜からの堆肥を循環させた米、野菜作りなどで、地域の活性化や国内自給力向上を目指してきた。
そんなまるごと栃木が、持続可能なエネルギーを地域で作り出したいと太陽光発電に力を入れるようになったきっかけは、東日本大震災後の福島第一原子力発電所の事故だった。
まるごと栃木のメンバーで栃木県開拓農協の代表理事専務でもある、加藤効示さんは「生産者が原発事故で深刻な被害を受け、初めて本気でエネルギーのことを考えるようになった」と話す。
被ばく地になって意識が変わった
栃木県北部は福島第一原子力発電所から約100キロメートルしか離れていない。原発事故当時は春先で北よりの風が強く、日光連山のふもとにあたる一帯は風の通り道になったため、放射性物質が運ばれ、降り注いだ。事故直後に国が定めた一般食品に含まれる放射性セシウムの暫定規制値は500ベクレル/㎏。まるごと栃木の生産者はいち早く計測機器を使い、食肉や牛乳を測定したところ、国の基準値以下だが那須の生産者の牛肉から117ベクレル/㎏が検出された。山菜を採ることもできない。農畜産物の出荷停止、牧草の一番草の使用禁止など、不安と絶望の日々が続いた。
「何を生産するにも放射能が壁になりました。自分たちがいかに原発に頼っていたかを思い知らされて、脱原発しないといけない、と。被ばく地になったことで、意識が変わりましたね」
加藤さんらまるごと栃木の有志は脱原発運動にもかかわり、東京・日比谷公園の集会や、栃木県内の「さよなら原発栃木アクション」のデモ行進にも参加した。
また「わかって食べよう」を合い言葉に、栃木開拓農協では独自に放射能測定器を購入し、積極的に放射能検査を続けた。放射能汚染によって被害を受けたからこそ、「被害者が加害者になってはいけない」という生産者の思いがとても重要だった。出荷する生産物を測定するだけではなく、田んぼや畑の土、牛や豚に与える飼料も寝床になるもみがらもすべて検査し、国の暫定基準値を下回るものだけを選ぶようにした。
原発事故後、栃木開拓農協に新しく加わった家族経営の農家もあった。それまで関西方面に有機野菜を出荷していたが「栃木の野菜は要りません」と言われてしまったのだ。それでもなんとか農業を継続していきたい、と参加したのだった。
「ある肉牛の生産者は、国の暫定規制値を下回っていても、『組合員さんにそんなものは食べさせられない』と言って自主的に出荷を取りやめたんです」と加藤さん。
栃木県開拓農協の生産者たちは戦後、この地域を開墾した長い歴史と実績を持つ。先祖が鍬一本で耕してきた田畑が原発事故によって汚染されたのは、耐え難い思いだっただろう。そのようななかで、原発ではなく再生可能エネルギーによって電気を生み出したいとみんなが考えるようになったのは自然なことだった。
「本格的に太陽光発電に取り組もうとしたとき、誰ひとり異論を唱える人はありませんでした」
(p.56-P.58 記事抜粋)