人物紹介①池田恒紀(遊佐町共同開発米部会)
「庄内・遊佐太陽光発電所」で電力供給も担い始めた山形県遊佐町。生活クラブ生協と遊佐町のつながりは50年におよぶ。その長い歴史のなかで、持続的な生産と消費の関係を築くため、当時の遊佐町農協と米の提携が始まったのは1971年、「共同開発米事業」がスタートしたのは1988年。それが現在の遊佐町共同開発米部会につながっている。共同開発米部会の中心メンバーである池田恒紀さんにお話を聞いた。
2019年、遊佐町で「庄内・遊佐太陽光発電所」(46ページ地図⑤参照)が稼働を開始。㈱生活クラブエナジーや遊佐町役場の新庁舎に電気を供給、また売電利益の一部は「庄内・遊佐太陽光発電基金」を通じて酒田市に寄付されるなど、いまや遊佐町全体が「庄内FEC自給ネットワーク構想」(80ページ参照)の中軸を担う拠点となっている。
遊佐町共同開発米部会が発足したのは1992年。まもなく30年を迎える現在、同部会は生活クラブ生協組合員sと文字通りともに作る「庄内 遊YOU米」や「とことん共生米」の生産はもちろん、主食用米の生産調整と耕畜連携による海外肥料飼料依存の脱却を目指し、地域循環型農業の方向性を示した飼料用米取り組みの先駆者として生産者主体の活動を続けてきた。同部会の中心メンバーが池田恒紀さんだ。
普通のサラリーマンから実家の農家を継ぐ
「実は親父が亡くなるまでは、普通のサラリーマンだったんですよ」。真っ黒に日焼けし、ベテランの農業者にしか見えない池田さんだが、就農は33歳の時、比較的遅かったという。
「小規模な農業をやっていた親父が病気で突然亡くなって、手伝いもほとんどしなかった農業を、継承するのか委託廃業か、と親戚の会議の場で迫られまして。叔父や地域の仲間、先輩などに後押しされて農業を始めたんです」
池田さんの米作りは生活クラブ生協との共同開発米作りからスタートすることになった。
「周りの方々に教わりながらのスタートだったのですが、皆さん生活クラブ生協との共同開発米に携わっていた方なので、米作りについては、最初から部会のルールに則ったものだったんです」
偶然に偶然が重なるようにして始まった池田さんと生活クラブ生協とのかかわりはいまや財産だ。
「農業は土地に縛られますし、生き物相手なので時間も自由にならない部分もありますが、多くの人とのつながりがいまは自分の財産だと思います。台風が東北日本海側に向かっていると報道されると、テレビで見たけど大丈夫かと生活クラブ生協の組合員や職員、ワーカーズ・コレクティブの皆さんからいっぱい連絡が来るわけです。広大な田んぼで孤独に草取りをしていても、作る人・運ぶ人・食べる人みんなと共有しあっている。単にお米を出荷してお金に変えるだけの農業生産であれば、いままで続けていないと思います」
(p.62-P.63 記事抜粋)