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市民セクター政策機構

市民セクター政策機構 市民セクター政策機構は、生活クラブグループのシンクタンクとして、市民を主体とする社会システムづくりに寄与します。

①社会運動という「わがまま」への抵抗感を解きほぐすヒント(立命館大学准教授 富永京子)

季刊『社会運動』2022年1月発行【445号】特集:代理人運動と生活クラブ―民主主義を終わらせない

デモや座り込みには批判的、署名やパブコメには寛容な日本


─社会運動に対する抵抗感や、ネガティブなイメージは、どこから来ているのでしょうか。

一つには、社会運動のマルチ化・パッケージ化が挙げられると思います。これはSEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)の運動に参加したような若い世代からよく聞く話なのですが、安保法制に反対と言っただけで、「護憲」で「男女平等」を支持、「自然保護」や「エネルギー政策」にもひと言あるといった具合に、ひとくくりにされてしまうと。
日本は社会運動のパイが非常に狭いので仕方のない面もあるのですが、運動に参加することで、大きい立場性に巻き込まれてしまうことへの恐れがある。俗な言い方をするなら、「左の社会運動家」というレッテルを貼られるのが怖いのです。若年層は「偏り」というものに非常に敏感ですが、この傾向は若い世代に限られた話ではないでしょう。
一方で、全共闘世代の大人が、社会運動に対して冷笑的になっている面もありますね。かつて熱心な社会運動家だった人たちが、ネガティブなラベルを付ける側にまわっている。「価値観の押しつけ」であるとか、「正しさにこだわり過ぎている」とか。当事者の反省みたいなものが、社会運動への拒否感につながっています。
また、1960年代後半からの学生運動、新左翼運動、連合赤軍などのイメージを引きずっている人も、いまだに多いですね。それらは社会運動とはまったく関係ないのに、勘違いしたまま、親世代から子どもたちに引き継がれている面もあるようです。

 

─デモへの風当たりも強く、気軽には参加できないムードがあります。

 

デモや座り込みといった、多くの人に見られる場所で行う行動に、厳しい目が向けられやすいのは確かですね。「迷惑」というイメージは、若い世代ほど顕著です。それは下の世代になるほど強くなっている。人に迷惑をかけてはいけないという強固な「自助」意識があって、公助に頼るのは努力不足、責任転嫁だと思ってしまう。新自由主義体制が始まる前から、そういう感覚は強くあるのだと思います。
例えば、「社会運動は迷惑だ」という設問に、「そう思う」「思わない」で答える調査では、60代で3割、20代・30代で5?6割の人が、「そう思う」と回答します。「迷惑」で「平和や秩序を乱す行動である」といった言い方は、日本や韓国で高い割合になりやすいことから、東アジア圏にそうした傾向があるのかなと思います。
ただ、平和や秩序を乱すといっても、それはあくまで「多数派にとっての平和」でしかありません。参政権のない在日外国人の方とか、結婚すら認められない性的マイノリティの方からすれば、すでに社会は壊れているのです。そこに思いが至らない、見ないふりをしたいから、「迷惑」という表現になるのでしょう。
学校のクラスのように小さな単位でさえ、ひとり親、LGBT、貧困、外国籍、障がいなど、多様な人がいるのに、「ふつうはこうだ」という何となくの標準があり、その「ふつう幻想」に沿わず、個人の不平や不満を表明すると、「わがまま」だと思われてしまう。
一方、署名やパブリックコメントなどに対しては、世代を問わず、日本はかなり寛容です。「提案」はいいけれど、「批判」はわがまま、という意識があるんですね。「代案を出せ」というのが常套句であることからも、それは明らかです。
社会運動の広がりを阻む「アクティビスト・アイデンティティ」
─ツイッターでの「#検察庁法改正案に抗議します」「#入管法改悪反対」「#わきまえない女」など、インターネットを介した運動が盛り上がっています。ただ、長年、社会運動に携わっている人たちの間では、いま一つピンとこないという意見もあります。

社会運動はこうあるべきという強固なイメージ、いわゆる「アクティビスト・アイデンティティ」は、実はどの国にもあり、概してマッチョになりがちです。それは、アクティビスト(活動家・運動家)が、男性主体であったことにも関係しているでしょう。対面で議論し、集会やデモに参加することによる〟有機的なつながり〟に、強いこだわりがあるのです。
一方、いまSNSなどオンラインの運動で盛り上がっているのは、若者や、それまでケア労働に忙しく集会にはなかなか参加できなかった女性たち、顔出しや路上に出ることがむずかしい人、障がい者の人たちもそうかもしれないです。
そういった人たちによる「Change.org」や「CAMPFIRE」といったプラットフォームでの署名や、クラウドファンディングで金銭支援をする活動に対し、「それは運動ではない」「一時的なスラクティビズム(自己顕示欲を満たすための無益で安易な偽善行為)だ」と言われてしまうと、運動を始めたばかりの若い世代や、マイノリティの人たちは、やはり引いてしまいます。運動の火を消さないためには、「運動らしさ」にこだわらないことも非常に重要だと思いますね。「われわれの思う運動以外は運動ではない」などと言っていたら、広がるものも広がりません。

(p.113-P.116 記事抜粋)

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