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書評②『仕事としての学問 仕事としての政治』マックス・ウェーバー 著/野口雅弘 訳(講談社学術文庫  2018)

季刊『社会運動』2022年1月発行【445号】特集:代理人運動と生活クラブ―民主主義を終わらせない

政治の本質と求められる政治家の資質


市民セクター政策機構理事 宮崎徹

2020年はマックス・ウェーバー没後100周年だった。ただ、いまの日本では彼への言及はまれである。若い人は名前を聞いたこともないかもしれない。しかし、第2次大戦が終わって、日本再生へのビジョンや政策の基礎である思想や学問の世界では、一方にマルクス主義者の大きな勢力があり、これに拮抗する形でウェーバリアンが屹立していた。
当時、日本の将来を考えるにはどうしてもヨーロッパが基準とならざるをえず、その歴史や精神を深く考察した知の巨人であるウェーバーから学ぶべきだと考えられた。一方のマルクス主義が、ややもすれば経済決定論に傾きがちなのに対して、ウェーバーの方法論は思想や宗教を重視し、それらと経済や社会との関係を問うこと、とりわけ人間主体のあり方を問うことに魅力があった。それはそれ、往事茫々…。
本書は、ウェーバーの2つの講演を翻訳したものであり、これまでは『職業としての学問』『職業としての政治』として刊行されていた。古典といえども「読み手の時代感覚が変わると、その本の現れ方も変わってくるという」という野口雅弘氏によって3年前に新訳が出た。この「職業」という言葉は原語ではBerufであり、これには生計を立てる「職業」という意味と、神からの「召命」ないし「天職」という両方の意味がある。野口氏によると、なにごとか「で(von)」生活するという意味と、なにごとか「のために(fur)」生きるという両方の意味を同時にとらえるためには、前者の意味が強すぎる「職業」よりも「仕事」という言葉の方が適切である。なるほど、「事」に「仕」える。たしかに、この方がぴったり感がある。
このうち政治に関する講演は、ドイツが第1次大戦後に過酷な賠償を迫られ、社会的混乱の只中にあり、さらにその後にはヒットラーが登場するという激動の時代に行われている。それだけに洞察が鋭く、物言いも厳しいものとなっているが、まことに事の本質をついている。とはいえ、ここでは1、2の論点を紹介できるだけである。

政治とは権力の分有と配分である


政治という概念は恐ろしく幅広く、「夫を上手に操ろうとする賢い妻の政治だって語ることができる」が、この講演では「政治的団体─つまるところ国家」をどう導くか、その導きにどう影響を与えるかに限定している。その政治が意味するのは、国家間であれ、国家内部の集団間であれ、「権力を分有しようとする、あるいは権力の配分に影響を及ぼそうとする努力」である。その最奥のところには物理的な暴力行使があるという。むろん、暴力行使は標準的な手段でも、唯一の手段でもない。「しかし、それでも暴力行使は国家に特有」のものであるという。この点は、最近の内外の事件をみれば明らかだろう。
そして、「国家(そこにおける政治)はレジティマシー(正統性)をもつ暴力行使という手段に依拠した、人間に対する人間の支配関係である」。支配のレジティマシーの根拠は、原理的には3つであるという。有名な「伝統的支配、カリスマ的支配、合法的支配」である。ここでは現代とのかかわりでカリスマ的支配にだけ触れておこう。すなわち、近代政治では組織政党化が進むが、同時に選挙権の拡大と「人民投票的(直接、国民から)デモクラシー」によって政治的リーダーの「パーソナル」な要素が強くなるとみていた。政治が流動化し、そこでは「理念」ではなく、ポストや利権によって動く「フォロワー」が決定的に重要になるともいう。まるで最近のトランプ現象、ポピュリズムを見抜いているようだ。

政治家に求められる資質について


政治的炯眼の人ウェーバーからみて、政治家のやりがいと醍醐味、また必要な資質とはどのようなものであろうか。前者は、端的に「権力感情」だという。「人に影響を与えているという意識、人に行使する権力に関与しているという意識、とりわけ歴史的に重要な出来事の神経繊維の一本を握っている感情」だいう。また、「歴史の車輪のスポークに手を突っ込むことが許される」自覚だという表現もしている。
権力感情というとおどろおどろしいが、むしろ権力とその行使へのセンス、感覚といったほうが良いかもしれない。そしていうまでもなく、たとえば議会での予算案の議論と採決も権力をめぐるせめぎ合いである。つまり、議員としての政治家は権力の磁場の只中にいるわけである。このようにおのおの政治家のポジションによって遠い近いはあるとしても、権力と直接かかわっているという緊張感を欠くことはできない。
そして、政治家に求められる資質とは、「情熱、責任感、目測能力」であるという。情熱とは「なにごとかに即していること(Sachlichkeit)」であり、「不毛な興奮」「知的に面白ければいいというロマン主義」とは対極的なものとされる。ここはやや分かりにくいが、真実、信条、責任感に基づく情熱ということだろう。政治へのコミットメントは情熱から生まれるが、本当の政治家と「不毛に興奮した政治的素人」を区別するのは、「魂の強い抑制」であり、それは目測能力─もの(物事)と人への距離感によってもたらされるという。「距離感を失う」ことはそれだけで政治家にとっては大罪であるとまでいっている。
結局のところ、「政治とは、硬い板に力強く、ゆっくり穴をあけていく作業」であり、情熱と目測能力を同時に持ちながら掘りつづけるのだ。この世界があまりに「愚かでゲス」だとしても、それで心が折れてしまうことなく、「それでも」ということができる人だけが、政治への「使命」を持っている(すなわち、政治家たりうる)、というのがウェーバーの結語である。
厳しい言葉だが、心に刻むべきであろう。

(p.108-P.110 記事全文)

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