④生協の政治的中立に関する国内外の変遷(公益財団法人生協総合研究所研究員 鈴木 岳)
日本における議論
(1)日本生活協同組合連合会の見解
当時の日本生活協同組合連合会(日協連、当時)も1966年の協同組合原則改訂について検討し、政治的中立の文言に着目していた。1966年の第23回大会に日協連の代表として出席した中林貞男氏によれば「私は、かねて日協連が検討していたとおり、『中立』という言葉がとかく消極的ないし抑制的に悪用される点を述べて『中立』を『自由』という言葉に修正して、この原則にもっと現代的な積極的意義を持たせて存続させることは、日本のような複雑な資本主義国では絶対に必要である」(中林、p23)と訴えている。
この原則改訂後に開催された生協の討議集会では、従来の中立原則を指示する見解も参加者から出された。それでも中林氏は、「生協が特定政党の強化に利用されるのはまずいが、生協が政治に対し意見を持つことは権利であり、義務だといっているといえよう。…その根拠がロッチデール原則にもとめられてきたが、ここでわれわれはこれを『自由』と『自主性』の問題としてはっきりさせなければならない」。「これまで『中立』の用語は企業のがわ、官庁のがわからいわれてきた。政治的に利用され、悪用されたのであり、組合の自主性をおさえるかたちになっていた」。「『中立』をはずし、『自由』とすることこそ大切」と主張した(『生協運動』1967年4月、p11)。このような見解が主流であったことに着目したい。
(2)生協法と法学者の見解について
こうして1966年にはICA原則から政治的中立が削除された。日本では今も消費生活協同組合法の第二条2項が残っているが、最近は、この点についての議論が低調である。しかし1995年に開催されたシンポジウム「生協と政治」では、専門家2氏の見解と論点が示されており、大いに参考になる。
まず、「生協と政治研究委員会」の座長を務めた憲法学者の中村睦男氏(北海道大学教授、北大生協理事長、当時)が中心にまとめた「提言」がある。このなかの「提言3」には「生協は、特定政治の代弁者としての政治活動(この場合党派活動)の一部を形成してならない」とある。「既存の党派の一部を形成するならば、生協が目指す理想を実現させないばかりか、その発展を著しく阻害し生協は自壊するでしょう。また、自前の党派を形成することにも反対です」(『生活協同組合研究』1995年12月、p46)という。しかしながら「提言5」では、生協法第2条2項を「妥当として解される」という立場を取りつつも、「生協における政治的中立の立場は生協自らが決定すべきものであり、法律によって強制されるべきではない」(同、p47)としている。
さらに実践例として生活クラブ生協も取り上げられ、以下検証づけている。「一般に生協の形成が先ず何らかの商品を有利に所得することを目的として行われるのに対し、生活クラブは逆にそれを手段として、日本においても成熟した市民社会を地域的に形成しようとしている生協です。従って生活クラブ生協は、もともと政治的目的を明確に掲げた生協であり、生活クラブとしての主張が前提として存在します。このため生活クラブ生協の「代理人」活動が、何か生協の〟政治的中立原則”からみて問題だとか、生協法第2条第2項に違反とする論はあてはまらないと考えます」(同、p48)。
ついで、生協法の指導的論客であった宮坂富之助氏(早稲田大学教授、当時)の見解である。
宮坂氏は「転換期の生協と法制度のあり方から考える」のなかで、より明晰な見解を示している。「結論から言いますと、2条の規定というのはおかしいのです。ご存じのとおり、同じ規定は、中小企業協同組合法5条にもあります。しかし、農協法にはありません。漁業協同組合法…にもない。…生協法が制定されたときの状況では、員外利用の規制の問題とか、あるいは、共済事業、とくに信用事業を認めるか否かで強い反対意見が、議会の中であった背景とも関係するのではないでしょうか。農協法なり漁協法、そして中小企業協同組合法なり生協法の立法過程を、とくに政党との関係で判断すると、当時の政治の力は消費者の運動とか、消費者の組織というものか、あるいは、中小企業組織というものを、農協や漁協とは区別する。かなり政治的な意味合いを持った現状への認識にその背景がある。端的に言いますと、農協や漁協は政治に利用できる。しかし、生協については消費組合など戦前の大きな運動の流れがあることがよくわかっている。だから、員外利用規制の問題も、そういう形で出てきました。つまり、特定の生協に対するものの見方と、それと法律のあり方と結びつけて考えていく。言うなれば、政治的な判断と政策発想とが結びついて、主体の性格に即して使いわけをした。そういう経緯があるのではないのか。…同じ協同組合法制の中に、あるものにはあって、あるものにはないというのはおかしいでしょう。いずれにしても、不必要だから取り除くべきだというのが、私の結論です」(同、p56-57)。けだし、卓見といえよう。
(p.143-P.146 記事抜粋)