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市民セクター政策機構

市民セクター政策機構 市民セクター政策機構は、生活クラブグループのシンクタンクとして、市民を主体とする社会システムづくりに寄与します。

持続可能な畜産に向けて再生産可能な価格と安定した利用を
(北海道チクレン農業協同組合連合会 代表理事理事長 伊藤重敏)

【発売中です】季刊『社会運動』2023年10月発行【452号】特集:北海道で未来をさがす 国産牛肉が食卓から消える!?

日本の食料自給率は38パーセント(カロリーベース、2021年度)だが、
飼料の多くを輸入に頼る畜産の場合、実態はもっと低い。
後継者不足が続き、厳しい経営環境のもと、日本の肉牛生産は瀬戸際にある。
その一方で、輸入牛肉は世界的な穀物価格高騰の影響を受けて、価格が年々上昇。
成長ホルモン剤や遺伝子組み換え飼料など安全性にも不安がある。
牛肉をめぐる課題は大きい。
生活クラブ生協との提携を軸に、安全な赤身牛肉の生産を続けてきた
北海道チクレン農業協同組合連合会(北海道チクレン)。
伊藤重敏代表理事理事長に、ご自身の経験と重ねながら、畜産の現状について話を聞いた。

 

第1章 伊藤理事長の歩みと北海道チクレンの仕事

 

子どもの頃から、牛と歩んできた人生

 

 2019年から北海道チクレンの代表理事理事長を務める伊藤さんは、これまでの人生を牛とともに歩んできた。1957年、道内の上川郡剣淵町生まれ。祖父母は岩手県の花巻から入植し、畑や水田を持つ農家だった。両親の代になって乳牛としてホルスタインも飼うようになり、多いときには10頭ほど飼っていたと言う。4人きょうだいの末っ子で、姉が3人。
 「子どもの頃から手伝いはしていましたが、親に叱られ、姉たちに叱られ(笑)。小学校から帰ると、牛を近くの草地にロープでつないで草を食べさせ、暗くなると牛舎に連れ戻す。ホルスタインは温和な性格ですが、こっちが子どもだと思ってバカにしてね、引っ張っても押してもびくとも動かない。エサやりや搾乳の手伝いもしました。いまのように搾乳機がなく手搾りでした。牛にバケツを蹴られ、搾った乳をこぼしてまた叱られたり。水田の畔で牧草を刈って、子どもながら運びやすくまとめる工夫をしていました。鎌で草を刈るのは、いまでも誰にも負けない自信があります」
 そのころは現在では考えられないほど、近所に酪農家がたくさんいた。牛は、ともに暮らし、お金を稼いでくれる動物だった。野菜や稲の収穫は年1回で収入もその時期に限られる。けれども酪農ならば毎月、乳代が入ってくる。牛を売ることもできる。伊藤さんの家でも子どもたちにお金が必要になった時は、育てていた牛を一頭ずつ売って、洋服や学用品購入にあてていた。
 「大事な節目には牛が売られていなくなった。だから親に育ててもらい、牛にも育ててもらったと思います。それでも両親が働くのを見て、厳しい仕事だなと感じていました。暮らし向きが悪いわけではなかったけれど、朝から晩まで365日、休む日もない。なんだか苦労ばかりしているように見えましたよ」

(P.11-P.12記事抜粋)

 

家業は継がず、大学進学、そして「開拓農協」へ

 

 士別市の高校を卒業し、家業を継ぐことを期待された。しかし両親の苦労を見てきた伊藤さんは、他の可能性も考えて大学進学を目指した。母親は理解してくれたが、父親からは猛反対された。入学した岩手大学では第一志望の農学科への進学は叶わず、第二志望の畜産学科へ。飼養学を選び牛のエサについて専門知識を身につけた。牛乳からバターやチーズを作ったり、子牛をと畜してハムやソーセージにする実習などにも取り組んだ。それらが後の仕事の基礎になったのだろう。
 卒業後の就職先は大学の教員の勧めで、「全国開拓農業協同組合連合会(全開連)」に決めた。開拓農協とは、戦後の食料増産を目的とした国による開拓事業に基づき、各地に設立されてきた農協であり、全開連は、それら開拓農協の全国連合会だった。1980年、伊藤さんは、東京・赤坂に事務所のあった全開連に就職した。
 「故郷の町にも、私が小学校の頃までは開拓農協がありました。でも私の親が加入していたのはいまでいう総合農協だったので、開拓農協に関してはよく知らなかったですね」
 全開連では販売部に所属し、牛肉の販売に携わった。最初の2年は神奈川県川崎市の東扇島で、牛の部分肉を販売していた。かつては、と畜した牛を枝肉(頭や内臓、皮などを取り除いた骨付きの肉)のまま販売していたが、スーパーなどの流通網が広がったことで、カットした部分肉の販売が主流になっていく時代だった。

 

北海道チクレンへの転籍

 

 「その頃、『北海道チクレンはいろいろ面白いことをやっている』と聞いたんです。全く別のルートで生活クラブ生協を訪問したことがあり、担当の方々とお話ししたのを覚えていたので、生活クラブと取り引きをしている北海道チクレンに興味が湧きました。ちょうどその頃、農村出身の自分は東京には馴染めないと感じていたこともあり、北海道チクレンの先輩から『北海道に帰ってこないのか』と誘われ、『帰りたいです』と返答したんです。1986年に札幌の業務部に配属されました」
 「北海道チクレン農業協同組合連合会は、北海道内の開拓農協に由来するいくつかの農協を会員とする畜産専門の農協連合会として1974年に設立されました。現在は11農協が加盟しています。18の肉牛生産農家に、北海道チクレンが所有する子牛と飼料を預けて、肥育してもらいます。その牛を子会社である㈱北海道チクレンミートで、と畜、解体、整形、加工までを一貫して行い、肉や加工食品を生活クラブなどに販売するのがわれわれの仕事です」と伊藤さんは説明する。

(P.14ーP.15 記事抜粋)

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