②北海道の自治に深く関わる 開拓事業の初期の混乱
(札幌大学名誉教授 桑原真人)
「北海道史150年」と
見ることの誤り
─はじめに、北海道の歴史の出発点を、明治維新後の開拓の始まりから見ることについて、どう考えますか。
北海道庁は、1918年の「開道50年」を筆頭に、1938年の「開道70年」、1948年の「開道80年」、1968年の「北海道百年」、最近では2018年の「北海道命名150年」という、それぞれ節目の年に盛大な記念行事を行いました。そして、本州から移住した和人(日本人)の努力によって北海道がいかに発展してきたかを確認するために『北海道史』や『新撰北海道史』、あるいは『新北海道史』といった歴史書を行政として編さんしています。
それぞれの節目に当たる年の起点は1869年です。明治政府はこの年、開拓使という主として辺境地方の開発を担当する役所を中央政府内に設け、また「蝦夷地」と呼ばれていたこの地域を「北海道」と改称して11カ国86郡を置きました。
この段階では、北海道南端部の函館と松前、そして江差を除いては、どの地域にも和人の定住者はほとんどいませんでしたが、政府はこの地域全体を日本の領土として組み込みました。そして、この地を開拓して現在に至っています。こうした開拓者としての意識が現在の道民にも無意識的に継承され、摺り込まれているのです。
ところで、この地域には「蝦夷地」という名称が付されていたように、先住の人びと、すなわちアイヌ民族が以前から定住しており、その歴史の始まりは、日本史の時代区分でいう古代末期から中世初頭といわれています。このように、アイヌ民族の足跡は前近代に遡ること数百年の歴史があり、100年や150年といったものではありません。
北海道にあった3つの県
─開拓はどのように始められたのですか。
明治政府は、1869年に開拓使を設置して北海道の開拓に着手しました。ちなみに「使」は、特定の目的を達成するための臨時的な組織に命名された用語であり、「省」は恒久的な組織に用いられました。つまり、ロシアの南下に備えるためという緊急の目的のために設置されたのが開拓使であり、明治政府がこの地方の開拓に本腰を入れて取り組もうとしていたのであれば、開拓省という名称が付されたかも知れません。
開拓使は「開拓使10年計画」を策定します。1872年から10年間に1000万円もの予算を投入しています。1000万円は、明治政府の1年間の予算額に匹敵するような金額です。
その後、開拓使官有物払い下げ事件(注)などがあり、開拓使は廃止されます。
開拓使の廃止後、北海道には、函館、札幌、根室の三県が置かれました。これまで、政界の実力者の一人である黒田清隆の意向を背景に、開拓使という巨大組織の担当者は、ある意味で自由に巨額の開発予算を支出してきましたが、そのような弊害の現れが開拓使官有物払い下げ事件であるという判断から、このような特別の行政的組織を解体して、本州と同様の府県を置くことにしたのです。
その際に、開拓使に配分が決まっていた予算は、中央政府の関係各省に振り分けられました。例えば屯田兵に関する予算は陸軍省に分配するという具合です。こうした措置は一時的とはいえ、非効率的で現場に混乱をもたらしました。このため、1883年1月、旧開拓使事業の連絡・継承機関として「農商務省北海道事業管理局」を新設しましたが、今度は、この事業管理局長と三県の県令(県の長官)との間の対立が始まり、激化していきました。
1885年7月、三県時代の北海道を3カ月間巡視した太政官大書記官・金子堅太郎は、これらの事実を「北海道三県巡視復命書」の中で指摘して、このままでは北海道の開拓は二重行政の弊害により遅々として進まないと批判しています。
1886年1月、北海道の三県と農商務省北海道事業管理局は廃止され、新たに北海道庁が新設されました。
それ以降、現在に至るまで、北海道庁及び北海道による全道一円の行政が続けられています。そして、開拓初期におけるこのような組織的混乱は、その後の北海道という地方自治体における組織と機構のあり方に深くかかわっているのです。
なお、戦前の「北海道庁」は庁舎の意味ではなく、それ自体が日本の道府県という行政機関の一角を形成し、戦後は、北海道庁から「北海道」に改称されました。したがって、現在の「道」は行政機関の意味であり、道庁は建築物としての庁舎を指しています。
(P.93-P.95 記事抜粋)